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 そんな幸せな日々も、高校2年生になり環境が変わったことで小さな亀裂が入るようになった。俺はゆかりと同じクラスになり、当然仲良く過ごしたいと願った。けれど、美術部と教室では俺の性格は全く異なっていて、その乖離をどうすべきか悩んだ。ゆかりだけに優しくしていれば、俺の自称ファンだという女たちが面倒なことを起こしそうだったし、だからといって全員に優しくするのもためらわれた。中学生の時のように品行方正にしていれば周囲の人間を思い通りに動かしやすいことはわかっていたが、俺たちの楽園も無事では済まなくなるだろうということがなんとなく想像できたから。


 美術室だけではない。もしゆかりになんらかの被害が出たら、それこそどうすればいいのだろう。彼女が苛められでもしたら、それを苦に退学でもしてしまったなら、俺は正気を保っていられる自信がなかった。単に俺を認めてくれた人間が消えて寂しいという理由だけではない。ゆかりがこの高校を無事に卒業すれば、一つの大きな意味が生じるということを、この時の俺はすでに気付いていたのだ。


 俺には目算があった。ゆかりとずっと一緒にいられる方法の目算が。


 俺たちの通っている高校は、地元の人間なら誰もが知っている名門高校だ。生徒の大半が名のある家の子供で、選択の自由を掲げているこの時代には信じがたいことだが、高校を卒業してすぐに嫁ぐ女生徒もいると聞く。沼野ゆかりがそれほど名の通った学校を卒業したとすれば、世間の評価は――ひいては俺の親戚連中の評価も、中学の時とは全く違ったものになるだろう。


 どこの馬の骨ともしれぬ小娘から、私立の有名校卒の御嬢さんへと。


 例え家計が火の車だったとしても、奨学金に頼っていたとしても、この高校の卒業生になりさえすればゆかりと共に生きていくという望みにも一筋の光が見えてくる。それほどまでに名門高校の肩書は世間的に認められていた。中学の時のどうしようもない状況よりはずっといい。


 だから、ゆかりが学校を中退するなんていう不名誉な事態は、何があっても避けなければならなかった。例え楽しく教室で触れ合えなくても、仲良く話すことができなくても、ここで我慢さえすれば輝かしい未来が待っているのだから。


 少し冷たく接したとして、それがなんだというのだろう。今まで通り、いや、それ以上に美術室で仲良くすれば、何も説明しなくたってきっとゆかりはわかってくれるはずだ。




「藤堂君って、いつもあんな感じなんですか。あの、不機嫌そうな」


 俺は、思い違いをしていたのだ。


 沼野ゆかりはそれほど藤堂明良の気持ちを理解できるわけではなく、二人の間に言葉を介さない信頼なんて成立していなかった。後々考えればただの鼻持ちならない自尊心と、それを躍起になって隠そうとするせせこましい利己心に拠るものだったのだろう。


 けれどこの時の俺は、自分の計画を直接口に出すのはゆかりの何か自然な部分を打ち壊してしまうように感じていた。馬鹿馬鹿しいことこの上ないが。


 結局のところ何があったのかというと、俺が何の説明もなく教室での通常通りの態度を取ったせいで、そして無理にそれを誤魔化そうとしてせいで、ゆかりは混乱しギクシャクとした空気が流れるようになった。去年の和やかさは霧散し、美術室は居心地の悪い空間へと変貌した。


 勿論、そんな予定ではなかった。俺はゆかりに楽しく学校生活を過ごしてもらいたかっただけで、別に彼女を嫌いになったわけでも、気を遣わせたかったわけでもない。


 むしろ、俺の方がゆかりと同じクラスだということに喜びを感じていたのだ。本当はもっともっと話したかったし、いつでも彼女の姿を見ていたかった。同じ委員会になって放課後作業をしたり、休み時間にノートの貸し借りをしたり、授業でわからなかったところを質問し合ったり。昼休みには一緒に弁当を広げて他愛ない話題で盛り上がりたかったし、教室移動の時は一緒に移動してゆかりの横顔を眺めていたかったし、二人で学校生活の時間を共有したかった。


「ゆかり、数学は○○先生だったね、習ったことある?」

「ゆかり、明日は委員会とクラス係決めだって。なにをやる?」

「ゆかり、選択授業は何にした?」

「ゆかり」

「ゆかり」


 この一年の彼女の隣には俺がいるはずだった。いるのが当然だった。


 俺たちの未来を考えれば、たった一年二年の我慢なんて本当は大したことじゃない。理性ではきちんとわかっている。それでも俺はゆかりと同じくらい、いや、むしろそれ以上に辛くて不安だったということは気付いてほしかった。同じ部屋にいるはずなのに、どんどんゆかりが離れて行ってしまう。放課後の美術室で、彼女が今日あった出来事を話せば話すほど、本来なら手に入れていたであろう状況に――共に体験していたであろう生活に置かれていないという事実に苛立ち、歯噛みした。何度かゆかりに当ってしまったことも、ないとは言えない。


 そのうちに俺を「機嫌がコロコロと変わる情緒不安定な人間」だと認識した彼女は、何をするにも俺の顔色を窺うようになってしまった。急に怒り出さないか、拗ねないか。


 まるで捕食される小動物のようなゆかりの態度に、しかし一方で愉悦を感じていたのも確かだ。


 ゆかりは俺の態度を気にしている。ゆかりの目に俺が映っている。ゆかりの心が俺に向いている。すべての優しさをゆかりに向けないことで、むしろ藤堂明良は彼女の中で存在を大きくしていく。これ以上に幸せなことがあるだろうか。




「新入生の歓迎ポスター、作る?」


 数日もすると、聡いゆかりは俺の意図をだんだんと理解してくれるようになった。教室では何の接点もないただの同級生。挨拶すらしないし、目も合わせない。会釈なんてもってのほかだ。そう考えると、俺の中学の時の望みは潰えたような気がしないでもなかったが、これはもう仕方がない。その分美術室ではたくさん話して、可能な限り触れられるように努めた。


 けれど、その聖域によそ者が入りでもしたら、俺は間違いなく壊してしまうだろう。誰を、そいつを。あるいは。


「もともと部員なんて欲しくなかったから、勧誘しなくてもいいよ。二人で十分だろう」


 俺の世界にはゆかりさえいれば満足で、他者の介入なんて死んでも御免だった。その気持ちを彼女が汲み取ったのかどうかは知らないが、少しだけ残念そうな顔をした後にゆかりはこくりと頷いた。


「そっか」

「俺たちだけじゃ不十分?」

「そんなことない、けど」


 ゆかりは、愛着の湧き始めたこの美術部が、俺たちの代で廃部になることを危惧しているのだろう。確かに、俺も悲しくないかと問われれば否定はしない。できれば存続し続けてほしいと思う。だが、だからといって俺たち二人だけの世界を壊すつもりは毛頭なく、よって他人が入ってくることを承諾できるわけがなかった。


「来たい人だけ来ればいいよ。無理に勧誘する必要なんてない」


 すべてをうやむやにする言い方で、俺はゆかりの言葉を殺した。


 今が重要な期間なのだ。ここをどうにか乗り越えれば、俺たちは一生寄り添いあいながら生きていけるかもしれない。学校の一部活にしか過ぎない美術部の存続と俺たちの未来とでは、どちらがより重要なのか火を見るよりも明らかだった。


 そのために俺は全力を尽くす。例え変な噂が流されていたとしても、興味のない女から声をかけられていたとしても、そいつと付き合っていると陰で言われていたとしても。ゆかりとは教室では話さず、二人だけの楽園は誰も寄せ付けない。




 なのに。


「ゆかり、今日は何の絵を描いてるの?」


 ある日の美術室で、俺はゆかりにそう問うた。彼女の絵に関心を寄せていたわけではなく、単に顔が見たかっただけのこと。絵を描いているときのゆかりはとても真剣で、これこそ自分の役目だと言わんばかりにひたすら俯きながらペンを走らせている。それがおもしろくなかったのだ。


「今日は紫陽花が咲いてるのを見つけたから、記憶を頼りにそれを」


 彼女は微笑んでそう告げると、再び下を向いて自分の世界への扉を叩く。さらりと揺れる艶やかな黒髪。その合間から覗く白磁の首は、まっさらなキャンバスを彷彿とさせた。ここを俺だけの色で満たせたなら、どんなにか素晴らしいことだろう。そんな下賤な想像をする自分が嫌で、俺は再び彼女に聞いた。


 この問いかけが俺たちの関係を変えるとも知らないで。


「知ってる? 紫陽花の花言葉。『あなたは美しいが冷淡だ』だって」

「初めて知った。どうして明良はそんなことを知ってるの?」

「たまたまだよ」


 自分でもよくわからなかった。なぜ俺はこんなことを知っていたんだろう。くだらないことを言ったと思ったが、思いの外ゆかりは興味を持ったようだった。俺をじっと見つめて眉根を寄せる。


 そして、無邪気な顔をして言い放ったのだ。


「明良みたいだね」


 俺が、冷たいと。


 確かに俺の本質はゆかりの言う通りなのだろう。何の個性もない空っぽな人間。美しさだけが取り柄の男。それを他人に指摘されても、今更何とも思わなかった。でも、彼女には、彼女にだけは。


「中学生の時と変わったな、とは思う」


 俺は、誰の言葉で救われたのか。


「あっちの時の方が、優しかった」


 俺は、誰との未来を夢見ていたのか。


「もっと話しやすかったし、私はあの頃の方が良かったかな」


 彼女にだけは、否定してほしくなかった。




 頭の中で、誰かが否定する。馬鹿馬鹿しい。ゆかりがそんなこと言うはずがない、と。


 きっとゆかりは教室で何か言われたに違いない。俺に対する不当な評価、あるいは噂。それを気にしているのだろう。だって、あのゆかりが俺を冷たいだなんて、そんな。


 頭の中で、甲高い音がする。警報のような、悲鳴のような、天啓のような。


 ああ、愚かなゆかり。無知なゆかり。けれど愛しいゆかり。


 お前が気を病む必要なんてどこにもないのに、生来の優しさで心痛めて。俺のことなんて放っておいたって構いやしないのに、濃やかな心遣いを持って接してくれる。そんな彼女が望むなら、俺はまた品行方正な学生に戻ってもいい。美しく優秀な藤堂医院の息子として振る舞おう。俺の大切な人はゆかりだけなのだから。


 でも。


 俺を否定した報いは、受けてもらおうか。


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