浮き上がる足
この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば
菅原道真公を左遷し、死に追いやった「藤原」氏。
「彼」を直接左遷した4兄弟は復讐されたが、その子孫である彼はその出生順や外祖父の立場から、期待されてなかったにも関わらず、欠けることのない権利を手に入れて、その子孫は50年近くの栄華を極めた。
翳りのある薄雲が、強い風により滑らかに月のうえを滑っていく。光り輝く月は欠けることなく、しかし雲のベールで透けて見える様は妖艶のひとことにふさわしい。
同じ表情がひとつとしてない、冷え冷えとした霜月は自分に向けて延ばされている無数のコンクリートの手を照らしていた。
藤原道長はその最期、熱病に冒され死んだ。その骸は「五条河原」に捨てられた。「生物」が停止した「死体」は「モノ」でしかない。
誰かれの「死体」に意味を見いだすのは日本人固有の考え方。史跡発掘で死体が出て、体調を崩すのは日本人だけなんだそうだ。
キリスト教やイスラム教などの「アブラハム」の宗教において「死体」は入れ物。「死体」そのものに意味はない。終末の時に蘇るようの器。従って、他宗教者はそもそも蘇れないから単なる「モノ」になる。
解釈にもよるが、魂が地上に戻ったときにまた新たな器が作られるという考えもあり「死体」は「ビジネス」になった。
共産圏に「来世」はない。現世主義の拝金主義。神はいない。「来世」がないから、その分「理性」と「良心」により「ありたい姿」で生きることになるが、「欲望」の赴くままに生きることが「ありたい姿」になってしまっている。「家畜に神はいない」。「死体」だろうと「金目」だ。
しからば、仏教かといえばそうでもない。現にお釈迦様のお墓はない。墓を作り出したのは中国に伝播してからだ。
中華圏における「家系」の理論であれば、赤の他人の死体に対して畏れを抱いて体調を崩すのはナンセンス。現に中国人はそうならないのだから。
神道において「死」は「穢れ」。だから藤原道長公は野晒しにされた。
確かに、類似する事例はいくつかはあるだろう。しかし「日本人」は無宗教を自認している。もしくは「仏教」か「神道」なのに、どちらともそれを否定している。
本来なら最も「死体」をモノとしてみてもおかしくないのに、日本人だけが体調を崩してしまう。例え、他宗教、他国人、遠い過去の人だろうと「モノ」としてみれなくなった。
日本各地に「慰霊碑」がある我が国。
石に刻まれた「そこ」を宗教施設だと思う日本人はいないだろう。だが、諸外国ならそこは「教会」や「モスク」になる。
日本においては「記念碑」が近いだろうか。だが、凱旋門のように戦勝を記念した訳でもない。過去、大量に人が死んだ。それだけ。日本人が死んだだけではない。他国民が死んだ「慰霊碑」もある。
だけど、多くの「日本人」が「手を合わす」。次にそんなことが起こらないように、願いながら。宗教に関係なく、「祈る」。
日本には「死体を使った衝突実験」ができる施設はない。自動車メーカーはアメリカなどで大金払って試験している。
交通事故時の障害値を正確に測るには必要だと思うが、死体を「ビジネス」として見れないこの国でこの設備は作られることはないだろう。
日本人は無宗教にも関わらず「死体」を「モノ」として見れない。
世界的には「死体」、「死」はビジネス。
まばゆいばかりにくらむような月あかりは、自身に届けと伸ばされる墓石のように灰色に染まった「手」を柔らかく、煌々と照らしている。
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藤原道長公は「貴種ではあったが期待された位置にはいなかった」。だけど「藤原氏」を盤石にした。
「死」はビジネスであり、死体は金になる。
この世界に人間は増えすぎた。地球が「継続可能な人口は1978年」。「1/3ぐらいでちょうどいい」。
いま、この世界のプレーヤーで該当するのは「だーれだ?」
まあ、どれだけ栄華を誇っても「死」からは免れない。50年、いや今に至るまで盤石にしたとしても、人の時間なんて、どこまでも「儚い」。
貯めた「水」を齧り取って壊してしまう「ビーバーの月」は誰の味方かな。
どうでもいいけど。
まあ、おやすみなさい。よい夢を。




