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周介たちは与えられた個室に荷物を置いた後、小さな会議室のような場所にやってきていた。
そこに用意されていたのは周介用の同意書だ。今回の検査の内容に関して記されているのだろうが、残念ながらそこには周介の知らない言語で書かれていることが多いために理解できなかった。
「あの……さすがに読めないんでサインもできないんですけど」
「あぁ大丈夫です。そちらは原本です。同じもので日本語訳と英語訳したものがそれぞれあるので確認してください」
日本語版があるのはありがたいのだが、それなら日本語分だけにしてほしかったと思う反面、周介たちのような日本人でなければこの文章を読むこともできないのだ。この場所が既に日本ではないということを思い出し少しだけ肩身が狭くなる。
「じゃあ僕はこっちを読もうか。安形君達は英語訳の方を読んでくれるかな?」
「中身が同じなら大丈夫なんじゃないですか?」
「そうとも限らないだろう?僕らを騙すだけのメリットがあるとも思えないけど、こういう同意書とか契約書関係はしっかり目を通しておかないとあとで痛い目を見るんだ」
大人ならではの警戒心にその場にいる子供三人はなるほど確かにと納得する。
もしこの契約書、というか同意書に自分の臓器などを無償提供するなどの内容が入っていた場合、周介がこの場で体の一部を取られても何も文句が言えなくなってしまう。
尤も文句くらいは言うだろう。それにドクの言うように周介たちを騙すだけのメリットがあるとも思えない。
ただこういうことは確認しておいて損はない。
周介がよくよく同意書の中身を読んでいくと、そこには一つ一つ検査の内容などが記載されているように見える。
ただ専門用語や機材、検査用の機械の名称だろうか、そう言ったものが多いために何をどうするのかという具体的なイメージが全く沸いてこない。
絵や写真など、こういうものを使うという一例が一つでもあればもしかしたらピンときたかもしれないが、こういった医学的なものに関しては完全な門外漢である周介には書いてあることが大事なことであるとわかっても何がどうなっているのかはさっぱり理解できなかった。
「……ドク、これ具体的に何するんですか?」
「え?書いてあるじゃないか。やっぱり日本語の文章とじゃ違ってるのかな?」
「いや、固有名詞が多すぎてよくわかりません。なんですかこれ?」
周介が日本語の文章をドクに見せる。ドクは自分の持っている周介の読むことができない言語で書かれている書類と見比べて同じ場所を探すと、なるほどとうなずきながら笑う。
「そうかそうか、ごめん。こういう専門用語とか、機材の名前までは教えていなかったね。まぁ要するに、この項目にはいろいろな機械を使って調べるうえでいくつかの薬剤を飲んでもらいますよって感じかな」
「薬剤。それって危なくないですか?」
「大丈夫。それは僕が保証する。少なくとも世界中で使われているし、人体に無害だってことは証明されてるから。美味しくはないけどね」
薬に美味しさなど求めてはいないが、少なくとも人体に害がないということを理解して周介は安心する。
その後もドクにわからないところや心配な部分を教えてもらうが、少なくとも現時点で怪しい内容は確認できなかった。
「これなら大丈夫そうかな。多少神経質に消毒とかをしなきゃいけないみたいだけど、それ以外は気にしなくても良さそうだ」
「消毒?」
「うん。やっぱりこういう場所だからね、特定の区画に入るにはばっちり消毒をしなきゃいけないみたいだ。二人はどうする?その場所に入るなら消毒必須だけども」
一緒に英語の文章を眺めていた瞳と白部の答えはもう決まっていた。
「ついていきます。そのために来たんですから」
「同じく。そっちの方が重要な機材がありそうですし」
「……本当に連れてくるんじゃなかったかなぁ……いやでも仕方がないか。それじゃ周介君、同意書にサインをしてくれるかい?もうさっきから早く検査したいってそわそわしている人がいるんでね」
ドクが視線を向けると、会議室の入り口部分に何人かの外国人、この研究所の職員だろうか、が待機していた。
ドクの言うように早く検査したいと考えているからなのか、ドアの隙間から周介の方をまじまじと観察している。
機械や装備を眺めている時のドクと同じような目をしている。おそらくはドクと同類のタイプなのだろうと周介は半ば怖くなっていた。
ドクもブレーキをかけないと非常に危険なことを簡単にやる人間だ。あの場にいる人間も同じようなことを考えているとなると少々恐ろしさが勝る。
とはいえそもそも検査のためにやってきたのだからサインをしないわけにもいかなかった。
「えぇい……ままよ!」
周介は半ば自棄になりながら同意書にサインする。後は野となれ山となれ。どうなったとしても自己責任の範疇だ。せめて体がバラバラにされないように祈るほかない。
周介がサインすると同時に、扉の前で待機していた研究者風の男たちがやってきて満面の笑みを浮かべる。そして周介に何かを話しかけるが周介は彼が何を言っているのかはわからなかった。
「これから検査を始めるにあたって簡単な健康診断をさせてもらいます。まずは体を綺麗にしてもらいますのでそのつもりで。引率の皆さんも同様に。消毒だけで済みますので大丈夫ですよ」
とっさに新垣が通訳してくれるが、これからずっと通訳をしてもらわなければいけないとなると厄介だった。
外国語を少しでも喋れるようにしておいたほうがいいのかもしれないと、周介は今更ながら勉強の大切さを知っていた。
とはいえ、少なくとも高校生で習うような言語で話しているのではないということくらいは何となくわかっていたが。
周介たちは研究所の奥に足を踏み入れる為に消毒をさせられていた。
着てきている衣服を全て脱ぎ、白衣、というか入院患者が着るような病衣を用意され、全身にシャワー、というより高圧で水を叩きつけられるような工程を何度か繰り返し、最後にはスチームで蒸されるような工程を経た後ようやく自由になっていた。
ここまで体を水で流されたのはいつぶりだろうか。風呂でもここまで水浴びなどしない。そして体の一部からは僅かにアルコールなのか、独特なにおいがする。おそらくは先ほどの消毒の時に何かしらの薬剤でも使われたのだろう。
全身から匂う独特の匂いを携えながら周介たちは研究者の案内に従って移動していた。
「ここからは被験者だけでお願いします。この中で検査などを行っていくので指示に従ってください」
目の前にそびえたつ堅牢で重苦しい扉がゆっくりと開く。新垣の通訳によって何を言っているのはわかるのだが、この中に一人で入れというのはなかなか度胸が必要になる。
「周介君、何かあったらこの施設の機材全部壊してもいいから、それでも君が生き残るんだよ?」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ。あと通訳されてるってわかってますよね?」
一応先程の言葉はさすがに新垣としても通訳する気にはなれなかったのか、苦笑しながら周介たちの方を見ている。とはいえ確かに危ない目に遭ったら周介もこの施設内にある機材全てを暴走させてでも逃げることを決意する。
そんな検査がないことを祈るが。
周介が入った部屋は他の部屋から確認することができるようになっているようだった。ガラス張りの部分もあれば、カメラで監視しているような部分もあるようだった。
その先には扉があり、さらに検査用の機材があるようで、向こう側ではいくつかの機械が稼働している音が聞こえていた。
『それではこれより検査を始めます。まずはこれらをお願いします』
どうやらガラスの向こう側、あるいは監視を行っている場所から指示を飛ばせるのだろう。部屋のどこかに取り付けられているであろうスピーカーから新垣の声が聞こえてくる。
壁の一部が開き、そこからトレーのような物体が出てくる。そしてそこには化学の授業で使ったことのあるシャーレと、小さなガラス瓶に入った綿棒、そして試験管がいくつか乗っていた。
「なんですこれ?なにすればいいんです?」
こちらの声が届いてるかどうかは不明だが、とりあえず試験管の一つを手に取って中を覗き見る。
小さなガラス瓶もシャーレも試験管にも何も入っていない。ただそれらすべてに専用の蓋が用意されており、何かを入れるのだということは理解できた。
『これからそれぞれの容器にいろいろと入れていただきたいです。まずは綿棒。こちらは口の内側を擦り付けて細胞をこそぎ取ってください』
「あぁ、昔授業でやった奴だ。懐かしいなぁ」
中学の頃の化学の授業でやったことがある。自分の口の細胞を採取して顕微鏡でその様子を見るのだ。
周介は中学の授業を思い出しながら綿棒で口の内側をこする。
どれくらいの強さでこすればよかったのだろうかと思い出しながら、とりあえず綿棒を口の中から抜き取ると、綿棒が入っていた小鬢の中に戻しふたを閉める。
『次には試験管の中に唾液を入れてください。なるべくたくさん入れてほしいとのことです』
「なるべくって……まぁ、口開けてればいいか」
周介は口を開けて唾液の分泌を促す。そして自分の頭の中で酸っぱいものを食べることを想像してさらに口の中から唾液を出していく。
試験管の中に溜まるように舌から唾液を伝わせて試験管の中に唾液を入れていく。
どれだけ入れればいいのかもわからなかったため、とりあえず試験管の半分程度入れてから試験管の蓋を閉める。
「んで次。この……ガラスの……これには何を入れればいいんです?」
シャーレという単語が思い出せなかった周介はガラスでできた容器を手に取ってかざす。
細胞と唾液と来て次は何を入れればいいのだろうかと周介が迷っていると、スピーカーの向こう側から何やら逡巡するような声が漏れ聞こえてくる。
一体どうしたのだろうかと首をかしげていると、その内容を聞いたのだろう、ちょうど向こう側にいたであろうドクの声がスピーカーから聞こえてくる。
『あー、周介君、聞こえているね?』
「はい、聞こえますドク。これには何を入れればいいんです?」
『えぇとだね。冷静に聞いてほしい。その中にはね、君の精液を入れてほしいんだそうだ』
「……………………」
一瞬だが、周介はシャーレを持っている状態で固まってしまっていた。
空気が凍るというのはこういうことを言うのだろう。スピーカーの向こう側からは瞳らしきものの声も聞こえてきている。おそらく彼女もこの検査の内容を見ていることだろう。そんな状態でまさか入れる物体、体液が男の象徴たるものだなどと想像できただろうか。
いや、想像できたとしても実行できるだけの胆力は周介にはない。
「ちょ!待ってくださいドク!俺高校生!思春期真っ盛り!そんな人間に!こんな誰もが見てる状態で致せと!?」
『えーとちょっと待って。そっちの部屋があるだろう?今扉の上のランプがついた部屋。そっちには監視カメラとかは付けてないし、それっぽい道具やら本やらも用意してあるから大丈夫だろうって』
「大丈夫であってたまるかぁ!これからやるなんてこと堂々と言えるか!っていうかそこに瞳たちいるんですよね!?」
『大丈夫。やってるところは僕らにも見えないようになってるから。安心してよ』
「安心できるかぁ!どういう神経してたら高校一年生にちょっと出してくれって頼む研究者がいるんですか!?これ何の検査!?セクハラで訴えるぞ!」
周介の激昂はドクとしても理解できるところだった。近くにいる瞳は顔を真っ赤にして顔をしかめている。時折ガラスの向こう側にいる周介をチラチラ見ているのだが。白部は周介のことよりも機材のことの方が気がかりなのか、機材に触れたり眺めたりしている。
一応内容は同意書にも書いてあったために断ることも難しいことは周介もドクも理解していたが、不満を口に出さずにはいられないのも理解できた。




