14. 赤い井戸
シニクさんの家の事件が解決してから、数日が経った。
あの大騒動を経て、私とイトの距離は、客観的に見れば仲良くなった部類に入るのだろう。
リビングのソファで、イトはツールさんから出されたという分厚い歴史の課題図書を膝に広げ、熱心にペンを走らせている。
物の言い方や、男の子のようなサバサバした態度は相変わらずだけれど、私の存在を頭から否定するような棘はもうなかった。
……でも、やっぱりなんか違うんだよなー。
私は、テーブルの上で空中にに杖を向け、魔力を通しながら心の中でこっそり呟いた。
私は基本的に目立ちたくないし、本を読んだりお客さんの話を聞いたりして得た、自分の興味のある知識だけしか持ってない。
イトとは今までの生き方も経験も違うから、できることもできないこともあって当たり前。
私にできないことはできないままでいいから、魔法が使えることがバレないで静かに生きていたい。
でも、シニクさんのあの安心したような笑顔を思い出すと、人助けもいいなと思ってしまう。
私の対してイトは、学校で習うような、歴史や国の制度といった正統派の知識をしっかり叩き込まれているエリートらしい。
考え方の根底からして、私とはまるで違う。 まあ、世の中にはそういう生き方をする人もいるか、と最近は認め始めてはいるけれど。
「ほらネロル、手元がおろそかになってるよ。妖精さんがくすぐったがってる」
キッチンで紅茶を淹れていたウルエさんが、クスクスと笑いながら声をかけてきた。
ハッとして手元を見ると、空中の水蒸気を集めて作った水の塊の表面から、昨日より少しだけはっきりと、光の粒のような妖精の羽が見え隠れしている。まだ私には輪郭しか見えないけれど。
おじいさんの杖の一件以来、私はこうして日常の中で魔法の練習をするようになっていた。
「集中、集中……」
「ふん、相変わらずネロルの魔法は感覚的だね。ボクならもっと魔導式の構造からアプローチするよ」
魔法を使えないのによく言えるな。
イトが本から目を離さずに、ふっと鼻を鳴らした。
「イトはツールさんに小さい頃からちゃんとした勉強を教えてもらえるんでしょ。ツールさんって、イトの家庭教師なの?」
私の素朴な疑問に、イトは少しだけペンの動きを止めた。それから、少し自嘲気味に笑って肩をすくめる。
「まあね。ツール様はボクの家庭教師兼、教育係さ。……ボクの実家、兄さんが二人と、姉さんが一人、下に妹が一人いるんだ。上の兄さんたちはみんな優秀で、家を継ぐのも、役人として上に行くのも決まってる。ボクは三男坊だからさ、ぶっちゃけ家にいてもいなくても同じっていうか、居場所がなくてね。だから親も『ツールに任せるから、好きに学べ』って放り出されたわけ」
イトの実家の事情を初めて聞いて、私は少し言葉に詰まった。
あの自信満々な態度の裏には、大家族の真ん中で自分だけの何かを見つけようともがいてきた背景があったのだ。
そこへ、大きな書類の束を抱えたツールさんが、リビングへ入ってきた。
「イト。家の都合を言い訳にするなと言ったはずだ。私が君を街へ連れ出しているのは、実家のお荷物だからではない。上に立つ者が、一般市民の暮らしや現場の現実を知らなければ、ただの机上の空論を振りかざす無能な役人になるからだ」
ツールさんの淡々とした、けれど重みのある言葉に、イトは「わかってるよ」と少し照れくさそうに本に視線を戻した。
ツールさんの教育方針は、イトを突き放しているようでいて、誰よりもイトの将来を真剣に考えている。
やっぱり、この二人の師弟関係も素敵だな、と私は思った。
「ツールさん。ツールさんが持ってきたその書類、なんだか変わった匂いがしますね」
私が鼻をくんくんと鳴らすと、ツールさんは手元の書類を見つめた。
「……気づいたか。これは街の南側にある、染物職人たちから届いた報告書だ。最近、井戸に血が入っているようでね」
「血、ですか?」
「ああ。実害はないようだが、白い布を染める職人たちにとっては死活問題らしい。まあ、役所の管轄だから私たちが首を突っ込むことではない」
ツールさんはそう言って、書類を机に置いた。
その時、それまで優雅に紅茶を飲んでいたウルエさんが、ポンと手を叩いて顔を輝かせた。
「あ、そうだ! ツール、僕たちもみんなで一緒にその件を見に行こうよ!」
「……は?」
ツールさんが本気で嫌そうな顔で眉間を寄せたが、ウルエさんは気にせず楽しそうに話を続ける。
「いいじゃないか。イトにとっては、色んな職業の現場に触れられる良い機会だし、都市のインフラの知識もつく。それにネロルちゃんにとっても、魔法を使う実践の練習になるでしょ? ほら、ネロルちゃんはトロノーメからこっちに来たばかりだから、こういう都会の仕組みに慣れるためのいいお勉強になるしね」
ウルエさんの言葉に、私はお茶を飲み込みながら小さく身をすくめた。
私の故郷であるトロノーメは、のどかで閉鎖的な田舎街だった。人と人との距離が近くて、困った人がいればすぐに助け合える。それに何より、国が進めている魔法使いの排除の動きも、そこまで強く及んでいなかった。
けれど、いま私たちがいるこの街は違う。
多くの人間が行き交い、魔法の気配は徹底的に削ぎ落とされ、代わりに魔女の道具や新しい技術がひしめく都会だ。
「……ボクは賛成だな。職人街の構造や水脈の管理方法なんて、書物で読むより現物を見た方が早い」
イトが早くも本を閉じ、道具袋を引き寄せている。魔法の才能を持たない一般人である彼女にとって、こうして現実の社会の仕組みを学ぶことは、何よりの武器になるのだろう。
「やれやれ……。お前が言い出すと聞かないからな」
ツールさんは大きな溜め息をつきつつも、どこか諦めたような、それでいて愛弟子たちの成長を促す機会として受け入れたような、複雑な苦笑いを浮かべた。
「よし、決まり! じゃあ明日、みんなでその『赤く染まる井戸』の調査に行こうか」
ウルエさんは勝ち誇ったように笑い、自分の分の紅茶をおかわりした。
都会の冷たさと、そこに隠された奇妙な謎。
私の中に潜む好奇心と、慣れない場所への少しの不安が、冬の空気の中で静かに混ざり合っていくのを感じていた。




