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UN4SEEN  作者: 橘 千逸
Phase2 黒埼 煌希 編
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【35話】残影

図書館から飛び出した煌希の視界は、瞬く間に紅く染まっていった。


つい数時間前まで穏やかな陽光に包まれていた街並みは、今や黒煙と怒号が支配する煉獄と化していた。


心臓の鼓動が、耳の奥で早鐘のように鳴り響く。



「母さん……燦斗……!」



掠れた声を振り絞り、煌希は坂道を駆け上がった。

角を曲がるたび、見慣れた景色が崩れ落ちていく。


親切だったパン屋の主人が呆然と瓦礫の前に座り込み、路地裏からは逃げ惑う人々の悲鳴が、鋭いナイフのように空気を切り裂いていた。


周囲の惨状に目を奪われ、何度も立ち止まりそうになるが、煌希はただひたすらに石畳を蹴り上げ走る。


丘の上の家が見えてきたとき、煌希の足が止まった。


 


「……あ、あぁ……」


絶望が、冷たい水のように背筋を伝い落ちる。


 色鮮やかな花々に彩られていた美しい石造りの家は、見る影もなく、すべてを焼き尽くさんとする紅蓮の炎に包まれていた。


 庭に植えたばかりの小さな花々は、何者かによって荒らされたのか、無残に散らばっている。


「母さん! 母さん!!」


煌希は火の粉が舞う中、躊躇なく燃え盛る家の中へと飛び込んだ。


 煙が視界を遮り、熱気が肌を容赦なく灼く。咳き込みながら視界を必死に凝らしたその時、居間の奥で、崩れ落ちた梁の向こう側に、母の姿を見つけた。


「母さん!!」


駆け寄ろうとする煌希だったが、その足は再び、氷りついたように止まった。


 母は、異様な雰囲気を漂わせる黒服の男達人数人取り囲まれ、朽ちかけた柱にその身を縛り付けられていた。


 かつて月光を宿したように輝いていたプラチナブロンドの髪は乱れ、煤と血に汚れながらも、その深い青色の瞳だけは、凛とした強さを失っていなかった。


 


「……いいわ。私を連れて行けば、満足でしょう?」


母の声は、驚くほど静かで、優しかった。


 男たちの一人が、低く濁った声で応じる。


 

「感謝するがいい、魔女よ。お前の死によって、新しい世界の礎が築かれるのだからな」


「私は……、あなたたちの道具になんてならない。この力は、愛する者たちを守るためにあるものよ」


母がそう言った瞬間、男の一人が苛立たしく手を上げた。乾いた音が響き、母の頬が赤く腫れる。


「やめろ!! 母さんに触るな!!」


煌希は叫び、床に転がっていた真鍮の置物を掴んで、男たちに突っ込んだ。


 だが、まだ幼い子供の突撃は、羽虫の羽ばたきに等しかった。男の一人が、見向きもせずに煌希の胸を蹴り飛ばす。


「ぐはっ……!」


吹き飛ばされた煌希の体が、燃えるソファの影に激突した。視界が火花を散らし、呼吸が止まる。


 その時、壁際に蹲って震えている小さな影が目に入った。


「燦斗……!」


三歳の弟は、煤にまみれた顔を涙でぐしゃぐしゃにし、声にならない叫びを上げながら、ガタガタと震えていた。その手には、母が焼いてくれたスコーンが、泥にまみれて握りしめられている。


「煌希……! 燦斗を、燦斗を連れて逃げなさい!」


母の叫びが、燃え盛る火の粉を抜けて響いた。


 初めて聞く、母の必死な叫び。


「嫌だ! 母さんも一緒だ! 一人になんてしない!!」


「いいから、早く行きなさい! 煌希、お願い……お願いだから!」


男たちが一人、母の首筋に冷たい注射器を突き立てた。


 母の体がビクンと跳ね、深い青の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。


「…………二人の未来を、繋いで……。」


それが、母が愛する息子に託した、最後の「魔法」だった。


「連れて行け。……子供は放っておいて構わん。どうせ生きてはおれまい」


リーダー格の男の冷淡な指示と共に、母の体は力なく引きずられていく。


 煌希は手を伸ばした。指先が、母の衣の裾を掠めた気がした。だが、崩れ落ちた天井が爆音と共に二人の間を隔てた。


「母さぁぁぁぁぁぁん!!!」



泣き叫ぶ煌希の背後で、燦斗が再び激しく咳き込んだ。


 もう、猶予はない。家は崩壊の限界を迎えようとしている。


 煌希は、朦朧とする意識の中で、母の最期の言葉を反芻した。


 

 ――燦斗を守れ。ここから逃げてどこか安全なところへ。



煌希は歯を食いしばり、震える手で燦斗の腕を掴んだ。


 


「燦斗、来るんだ! 走れ!!」


二人は炎の壁を突き破り、外へと飛び出した。


背後で、我が家が轟音を立てて完全に崩落したのが分かった。


振り返りたかった。母の名を、声が枯れるまで呼びたかった。


 


しかし、掌に伝わる燦斗の、小さくて今にも消えそうな脈拍が、煌希を前へと突き動かした。


 


空を裂く黒い煙の向こうに、かつて母と眺めた美しい夕焼けの残影が見える。


 


立ちこめる煙の中、ただひたすらに、母との約束を果たすべく、荒野を駆け抜けていった。



____




――熱い。 


 指先が、何かに焦がされるように熱い。


 視界は一面、煤けたオレンジ色に染まっている。耳の奥では、爆ぜるような音と、誰かの泣き声が絶え間なく響いていた。


 小さな手に握りしめられていたのは、泥にまみれたスコーンの欠片。喉を焼くような煙の匂いに咽せながら、自分はただ、強すぎる力で腕を引かれていた。


『走れ!!』


自分を必死に抱え上げ、炎の壁を突き破ろうとしているこの広い背中。


 その背越しに、一瞬だけ見えた。


 プラチナブロンドの髪が、紅蓮の炎の中で美しく舞っているのを。深い青色の瞳が、慈しむようにこちらを見ていたのを。


『……燦斗……』


誰かが自分を呼んだ。優しくて、切なくて、魔法のような響きを持った声。


 その声に手を伸ばそうとした瞬間、視界は急激に暗転し、すべてが冷たい闇へと溶け落ちていった――。


「……っは!」


燦斗は弾かれたように跳ね起き、ベッドの上で荒い息を吐いた。


 肌にまとわりつく汗がひどく冷たい。無意識に伸ばしていた右手を見つめるが、そこにあるのはいつもの自室の風景と、窓の隙間から差し込む青白い明け方の光だけだった。


「……なんだよ、今の……」


 あまりにも鮮明すぎて、現実の感覚がふわふわと浮ついている。


燦斗は乱暴に髪をかきむしると、ベッドから這い出した。


ドアを開け、リビングへ向かう。


昨夜煌希が使っていたであろうタオルがソファに投げ出されているだけで、本人の姿はどこにもなかった。キッチンのテーブルにも、朝食を用意した形跡はない。


「……まだ引きずってんのかよ、あのクソ兄貴」


燦斗は呆れたように息を吐いた。


 冷蔵庫を開け、適当なゼリー飲料を喉に流し込む。昨夜の夢に出てきた『スコーン』を思い出し、なんとなく甘いものが食べたくなったが、戸棚には何もなかった。


「ま、いいや!帰りにまた甘いもの買お。」


燦斗は制服に着替えると、スマホをポケットに放り込み、家を出た。



_________



舞ノ濱高校の正門は、朝の活気に満ちていた。


 坂道を登りきり、ネクタイを緩めながら歩く燦斗の姿を見つけるなり、遠くから野太い声が飛んでくる。


「よぉ、燦斗! 今日も顔色の悪りィモデルさんだな!」


長谷部聡悟が、坊主頭を陽光に反射させながら走ってきた。隣には、いつものように悠と、未来、澪蘭の姿もある。


「うっせーよ、ハセボー。その頭、反射板にして、顔のくすみをとばしてくれよ」


「なんだとコラ!またバカにしやがって!!」


「今日はお前から仕掛けてきたんだろ……」


いつもの、何でもない会話。燦斗の感覚を、少しずつ日常へと繋ぎ止めてくれる。


 五人で連れ立って校舎へ向かう途中、ふと燦斗の視界に、学園の掲示板が映った。


そこには、新学期早々に発生した『付近の道路陥没事故』への注意喚起が貼り出されていた。


「そういえばさ、あれ見た?謎の現象ってやつ」


未来が、不安げに首をかしげながら言った。


「……なんか眼みたいに見えたやつね。ニュースじゃ大気現象とか言ってたけど、絶対そんなんじゃないよね」


「……たしかに」


燦斗は凛々愛と一緒に見たあの異様な光景を思い出す。あの瞬間、自分の中に流れた不気味な悪寒――『視られている』という感覚。


「どうせ最新のプロジェクションマッピングか、何かだろ~?」


悠が根拠のない自信を口にするが、澪蘭は制服の袖をぎゅっと握りしめていた。


「でも、あの後から……街の空気が変。なんだか、ざわざわするの」


そのざわざわとした感覚は、燦斗も感じていた。


 教室に入り、窓際の席に座る。一限目の授業が始まったが、教師の声は右から左へと抜けていく。


 燦斗は無意識にスマホを机の下で触っていた。


(……アニキ、大丈夫かな)


そのときだった。


ポケットの中のスマホが、音もなく震える。


教師の目を盗み、画面を確認すると、再びあの壊れたメッセージが届いていた。


『■■られ■■る■■前に、□□を■■せ』


前回と同じ内容。だが、今回はその下に、新たな一行が追加されていた。


『お前の背後に、神は居ない。居るのは、ただの――』


燦斗の心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。


 メッセージを最後まで読もうとしたその瞬間。


「さて黒埼くん、そこ、読んでみてくれない?」


教壇から鋭い声が飛んだ。慌ててスマホを隠し、燦斗は顔を上げる。


 指名したのは国語の教師、荒木。タイトなスーツを着こなした女性教師だ。


 眼鏡の奥の瞳が、燦斗をじっと射抜いている。


「……黒埼燦斗くん。聞いてる?」


「あ……はい。ええと、……五ページの三行目……」


適当に直感で答えてごまかす。


「そう、その場所よ。……よく集中できているわね。」


何とか無事に読み終えると、燦斗は再び机の下でスマホを覗き込む。


 だが、そこにあったはずの奇妙なメッセージは、またしても消えていた。


またしても幻覚を視たのだろうか。


教師のチョークが黒板を叩く音や、隣の席のやつがノートをめくる音が、妙に遠く聞こえる。


液晶画面を見つめたまま、燦斗はただ、自分一人だけが別世界へ引きずり込まれていくような、奇妙な錯覚に囚われていた。

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