【34話】宿昔
――遡る事十二年前。
眼前には、果てしなく続く緩やかな緑の丘陵が広がっていた。
山の頂を撫でるように流れる雲は、どこまでも白く、穏やか。
その下を歩く一人の女性。
遠くで羊の鳴き声が聞こえ、風が運んでくるのは湿った土と、咲き誇るヘザーの甘い香り。
歩調に合わせて、長い髪が揺れる。丘を渡る風は、時折、私にだけ理解できる「言葉」を運んでくるのだ。
「ふふ、今日は本当にいい天気」
腕に抱えた紙袋には、まだ温かい焼きたてのスコーンと、子供たちが大好きなリンゴと苺。
そして、夕食に使う新鮮なハーブ。
石造りの小道を歩くたび、柔らかな陽光が私の肩を包み込み、まるで世界全体が私たちを祝福してくれているような錯覚さえ覚える。
彼女はふと立ち止まり、長く伸びたプラチナブロンドの髪を指先で整えた。
この髪の色は、私の家系が代々守ってきた「理」の象徴でもある。
――「魔女」。
街の人々は敬意と、ほんの少しの恐れを込めてそう呼ぶけれど、不思議な力よりも、家に帰れば待っている子供の声を聞く方が、私にとってはよっぽど価値のある魔法だ。
「ただいま!」
石造りの小さな家のドアを開けると、いつものように賑やかな声が私を迎えてくれた。
「おかえりなさーい!」
トタトタと短い足音を立てて真っ先に駆け寄ってきたのは、まだ三歳の燦斗。
彼は私の膝にしがみつくと、すぐに袋の中を覗き込もうと手を伸ばした。
「おい、危ないだろ。母さん、荷物を持ってるんだから」
ソファで乗り物の図鑑を広げていた兄の煌希が、少しだけ怪訝な顔をしながら言った。
しかし燦斗は全く気にせず、袋をこじ開けて中身を確認する。
燦斗が頬張るスコーンの香ばしい匂いが風に乗って運ばれてくる。
煌希はソファから離れて窓から遠くの空を見上げた。
そこには、先ほどまで不穏な気配を漂わせていた淡い夕焼け色がゆっくりと広がり始めていた。
「兄ちゃん、何見てるの?」
燦斗が口元にスコーンのかけらをつけながら、煌希の視線の先を見つめる。
「お空、綺麗だね!」
煌希は小さく頷いた。「綺麗だなー。いつかあの山の先に行ってみたい!」
私も子どもたちの隣に座り、彼らと同じ空を見上げた。オレンジと紫が混じり合うグラデーションは、まるで絵画のようだ。この景色を見ていると、気持ちも安らいでいく。
「パパ、今日帰ってくるんだよね?この夕焼け、パパも見てるんじゃない?」燦斗が目を輝かせながら言った。
私は子どもたちに笑顔を見せたが、心の中では少し複雑な気持ちがよぎっていた。
実は、昼過ぎに夫から連絡があり、急な出張で今夜は帰れなくなったと伝えられており、
その事を子どもたちにはまだ伝えていなかったのだ。
「あれ?母さん、どうしたの?」
煌希が私の表情の変化に気づいた。
私は軽く息を吐き、正直に話すことにした。
「実はね、パパから連絡があったの。急なお仕事が入って、今夜は帰ってこられなくなったって。」
燦斗は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた後、すぐに不満げな顔になった。
「えー!そうなの?パパと一緒にご飯食べたかったのに!」
煌希も少し残念そうな顔をしている。
「仕方ないだろ、燦斗。父さんもお仕事だから。でも…残念だな。」
私は二人の頭を優しく撫でた。
「ごめんね。パパもきっと早く帰ってきたいと思ってるよ。だから、寂しい気持ちはわかるけど、もう少しだけ我慢してあげてくれる?」
「うーん…。」
燦斗はまだ納得がいかない様子で、口を尖らせている。しかし、煌希がそっと燦斗の背中を撫でてやった。
「パパも頑張ってるんだから、俺たちも頑張ろうよ。」
煌希の言葉に、燦斗は少しだけ元気を取り戻したようだった。やはり兄の存在は大きい。
「よし、それじゃあ、今日は特別に私がみんなの好きなものを作ってあげる!何がいい?」
私が提案すると、二人の顔がパッと明るくなった。
「ハンバーグ!」
「ミートボールパスタ!」
二人の声が重なる。どちらも肉料理だ。
「わかった、わかった。じゃあ、今日はハンバーグとミートボールパスタ、両方作っちゃおうかな!」私が冗談っぽく言うと、二人は歓声を上げた。
「やったー!」
燦斗は私の首に抱きつき、煌希も嬉しそうに笑っている。
「でも、その前に…みんなで一緒に帰り道にお花を摘んで、テーブルに飾ろうか。今度パパが帰ってきたら、きっと喜んでくれるよ。」
その言葉に、子どもたちは再び目を輝かせ、丘のあちこちに咲いている小さな花々を探し始めた。
煌希が丁寧に花を選び、燦斗は色とりどりの花をたくさん集める。二人でそうして遊んでいる姿を見ていると、日々の忙しさの中ですっかり忘れていた、ささやかな幸せが心を満たしていくようだった。
夕焼けの色がさらに濃くなり、風も少し肌寒く感じられるようになってきた。
私は子どもたちの手を取り、摘んだ花を抱えながら家路についた。
家に着くと、私は早速キッチンに立ち、約束通りハンバーグとミートボールパスタを作り始めた。
燦斗は私の足元で、摘んできた花を小さなグラスに挿そうと奮闘している。
煌希は再びリビングのテーブルで静かに乗り物図鑑を読んでいる。
ジュウジュウとハンバーグが焼ける音、パスタソースが煮詰まる香り、そして子どもたちの楽しそうな笑い声。
家の中は温かい光に包まれ、家族の穏やかな時間が流れていた。
夫が帰ってこれないのは残念だけど、この子たちがいるから私は大丈夫。この幸せな時間を大切にしよう。
そう思いながら、私はフライパンを揺らし、子どもたちの笑顔に目を細めた。
* * *
次の日の事。
天気が良かったので、煌希は一人で家の外へと飛び出し出かけることにした。
しばらく歩き、店や家がひしめき合う通りに差し掛かったところで、ある住人の話し声が風に乗って聞こえてきた。
「…ねぇ魔女の噂、知ってる?」
「ああ、知ってるわ。あの向こうの家に住んでる奥さんのことでしょ」
「まさか、あの一族の末裔が、この街にいるなんてねぇ…魔女なんてもうみんな居なくなったと思ったのに。」
煌希は足を止め、塀に張り付いた。
噂の矛先が自分たちの家を指していることが、幼い煌希にも理解できた。向こうの家といえば、一軒しかないからだ。
(このおばさんたち…なんの話をしてるんだ?)
煌希は息を潜め、会話を聞き続ける。
「あの人、最初見たときから怪しいと思ったのよ」
「魔女がいるとその土地や周辺で良くない事が起こるらしいわ」
「…触らぬ神に祟りなし、って言うでしょ。近寄らない方が身のためよ」
煌希の心臓がドクンと大きな音を立てる。
母が、魔女?
魔女がいると良くない事が起きる?そんなはずはない。
優しくて、暖かくて、自分と燦斗を誰よりも大切にしてくれる母が、そんな恐ろしい存在であるはずがない。
街で遊ぶ気力もなくなり、煌希は家へ帰ることにした。
自宅へ戻ると母が、心配そうな顔で煌希に尋ねてきた。
「煌希、どうしたの?さっき出たばかりなのに帰ってきて…どこか怪我でもした?」
煌希は慌てて返事する。
「う、うん。大丈夫。ちょっと…外が寒かっただけ」
母は首を傾げたが、それ以上は何も言わずに、昼ご飯の支度をし始めた。燦斗は椅子に座り、テレビを見ながら目を輝かせている。
(そんなこと、あるはずがない…)
煌希は食卓につきながらも、頭の中は先ほどの話でいっぱいだった。
食欲はどこかへ消え失せ、目の前の温かい料理が冷たい塊のように見えた。
夜、ベッドの冷たいシーツに潜り込むと、昼間から張り詰めていた緊張が、一気に疲労となって押し寄せてきた。
混濁していく意識の中で、ただ一つの思いが、消えない灯火のように残り続けていた。
母さんは、そんな悪い存在じゃない。
その証明を明日から始めよう―。
そう心に誓いながら、煌希はゆっくりと眠りに落ちていった。
―――――――――
翌日の朝、煌希は再び出かけると母へ言い残し、街の図書館へと向かった。
何回か絵本や図鑑を借りに来たことはあるが調べ物をするのは初めてだった。
歴史や伝承にまつわる本が置いてある棚をやっと見つけ何冊か手に取ると、
「ドラモンド家は、代々『理』を司る一族として、この地に根差してきた…」
「ドラモンドって何処かで聞いたことあるな…」
続けて、古文書は数百年前の「奇妙な病」について詳述していた。
それはただの疫病ではなく、人々の心を蝕み、互いを疑心暗鬼に陥れる精神的な病でもあったという。
村人が正気を失い、争いが絶えなかった頃、当時のドラモンド家の当主である「エレン」という女性が立ち上がったと記されていた。
エレンは、一族に伝わる「特別な力」を用いて聖なる儀式を執り行った。その儀式は、生命を司る「大地の恵み」と、人々の心を癒す「月の光」を結びつけ、穢れた気を浄化するものだったという。
儀式は成功し、病は終息した。
しかし、人々はこの奇跡を素直に受け入れず、エレンを「魔女」と呼び、恐れるようになった、と。
「彼女の髪は、月光を宿したプラチナブロンドであった…そして、その瞳は、宇宙の深淵を覗き込むような、深い青色をしていたという…」
煌希は思わず息を呑んだ。プラチナブロンドの髪は、母の髪の色と同じだ。そして深い青色の瞳。
その記述は、彼の家族が代々受け継いできた特徴と完全に一致していた。
(思い出した!!…母さんの旧姓はドラモンドだったはず…)
「ドラモンド家は、その『理』の力を、決して私利私欲のために用いることはなく、常に村の平安と調和のために捧げてきた。
しかし、彼らの力は、あまりにも強大であるため、人々は畏怖の念を抱き、理解することよりも、拒絶することを選んだのである。」
ここまで読んだところで煌希は本を閉じた。
ページをめくるたび、彼の頭の中は少しずつ混乱していった。
(もしも母さんが魔女なら、俺も…燦斗も…?)
彼は自分の手を見つめた。特に変わったところは何もない。
そして、この本には、もう一つの重要な真実が記されていた。
「ドラモンド家は、その力を秘匿し、人々の目から姿を隠すことを選んだ。しかし、彼らは決してこの地を離れることはなかった。なぜなら、彼らの『理』は、この地の自然と深く結びついており、この地を守り続けることが、彼らの宿命であったからである。」
煌希は、母がなぜ元いた地を離れこの丘での暮らしを選んだのか、この村の人がなぜ魔女を恐れているのか…少しだけ分かった気がした。
だが、同時に新たな疑問も湧き上がってきた。父は、この事実を知っているのだろうか。
煌希は本をテーブルに置き、深く考え込んだ。
(もし母さんがその…魔女だったとしても…皆が言うような悪い存在じゃ絶対にない)
強く、自分に言い聞かせるように拳を握りしめた、その時だった。
──ガラス窓を激しく震わせるような、地響きに似た轟音が、静まり返った図書館内に響き渡った。
「な、何事だ!?」
職員や利用者のうろたえる声が上がる。
窓際の席に座る人たちが、次々と立ち上がって外を指差した。
「おい、あれを見ろよ……!」
煌希も窓の外へ目を向けると、遠くの街並みから、黒い煙が立ち昇っていた。
──カン、カン、カン、と、街の中心にある時計塔から、激しく乱打される鐘の音が響き渡る。
定刻でもない時間に鳴り響く…それは明らかな「非常事態」を告げる警鐘だった。
「一体何が起きたんだ!?」
「街が、街が大変なことに……!」
受付の方から、飛び込んできた住民が叫ぶ。
鐘の音に追われるようにして、街のあちこちから人々の叫び声が重なっていく。
煌希は何が起きたのか分からなかったが、ここに居ては危ないと思い、図書館の出口方へと走り出す。
外に飛び出した瞬間、熱い爆風と共に、地を揺るがすような怒号と悲鳴が煌希の耳を突き刺した。
視界の先では、激しい炎に包まれた建物が、次々と火の粉を散らして崩落していく。
カン、カン、カン、と激しさを増していく警鐘の音は、まるでこの街の終わりを告げる葬送曲のようだった。
(母さん……! 燦斗……っ!!)
黒煙に染まりゆく空の下、煌希はただひたすらに、愛する家族が待つあの丘の家を目指して、駆け抜けていった。




