99 葡萄畑のある別荘
「今年の夏は、暑いなぁ・・・」
独り暮らしが長くなると、つい独り言を声に出してしまうようだ。
三吾は薄っすらと汗を滲ませた額を拭いながら、帰宅の途についている。
気候が温暖なレーエフでも、四季はある。夏の長期休暇が明日から始まるという今日も、夏の括りに入るのだが、今年は例年より暑いと思う。
歳をとると、暑さが身に応えるというだけかもしれないが。
彼はそろそろ50代に手が届く年齢になっていた。
ガチャリ・・・
「おっと・・・」
自宅のドアの前で、鍵を取り落とした三吾は、やれやれと呟きながらそれを拾う。
「・・・明日から、また旅行だが・・・今回は、どっち方面に行くかな」
鍵を開け、手の中でジャラジャラと幾つかの鍵を付けたキーホルダーを弄びながら、家の中に入った。
「・・・ん?」
自宅の鍵や学院の研究室の鍵。それらの中に、今まで一度も使ったことがない鍵があるのに、ふと気づく。それは、三吾が所有する山の管理用家屋の鍵だった。
エルオリーセと2人で、また行こうと言っていたテクネ山の家は別荘としても使えそうなくらいにしてあった。けれど、その約束は果たされないままだ。
「ここに行ってみるか・・・」
長期休暇になると、三吾はいつも大陸中を旅をして回る。いった先々で、「大型犬を連れた碧の瞳の女性を知らないか?」と聞いて回っていた。
もう何年も続けていることだが、どれほど成果かが無くても止めるつもりはなかった。
テクネ山にほど近いサイドという町。
三吾は数年ぶりに、そこを訪れていた。
エルオリーセが消息を絶って直ぐの頃、真っ先にこの町に来てみたのだ。
彼女が幼少期を過ごした、故郷のような場所。テーブル山脈に暮らす山岳少数民族の集落に来ているのではないかと思ったからだ。
けれど山脈に入るルートの入り口であるサイドの町で、「大型犬を連れた碧の瞳の女性」について尋ねた三吾に、宿の主はこう答えた。
「アンタも『碧の瞳の精霊』を探しに来たのか?」と。
近頃、山岳民族から流れてきた噂話。
赤ん坊のころに拾われて育ててもらった恩を返しに、栗色の髪で碧の瞳を持つ精霊がやって来て、夫を亡くして苦しむ育ての母親を癒して帰った。成長して力を得たその精霊は、今もテーブル山脈に棲み恵みを与えている、と。
そんな話を聞いて、三吾は思ったのだ。
テーブル山脈に、彼女はいない、と。
うわさ話が広がっている場所で、碧の瞳をもつエルオリーセがウロウロすれば、当然ながら周囲の目を引くことは間違いないのだから。
多分、以前に2人でこの山岳地帯を旅した時、彼女の赤ん坊時代の出来事を知る事件に遭遇した。それがひと段落した時、この事が悪い噂にならないようにすると言ってくれた女性がいた。彼女の努力のお陰で、現在碧の瞳の精霊話が広まっているのかもしれなかった。
そしてそんな噂話を聞きつけて、興味本位でこの地を訪れる人間も多かったのだろう。そんな場所に彼女がいるはずはないと、三吾は結論付けて捜索の対象から外した。
あれから、また随分時が経っている。噂話はもう落ち着いていて、サイドの町でそれを聞くことは無い。北への交易路として人の出入りが激しい町では、噂話の新陳代謝が激しくもあるのだ。
けれど山岳民族の集落では、きっとまだ精霊の存在を信じる人々も多いだろう。噂話が定着し、そのまま受け継がれてゆくことも多いのだ。
エルオリーセは、多分それを知っている。だから彼女が、山岳地帯に入ることは無いだろう。
(ここに数日滞在して、それからチェア湖を通って、エレの方に行こう)
休暇中は時計回りに、時間が許す限り、大陸を回る予定の三吾だ。とりあえず今晩は、早めに夕食をとってテトラ山の家に向かおう。道は覚えているが、日が落ちる前に着きたいところだ。
適当な食堂に入ると、香しい花の匂いが出迎える。
ドアのすぐ傍に、大きな花瓶いっぱいに生けられた大輪の百合の花があった。
ここで情報が得られるとは思わないが、半ば習慣のように店の主に問いかける。
「大型犬を連れた碧の瞳の女性について、何か知らないか?」
すると、意外な答えが返ってきた。
「でっかい犬を連れた花売り娘が、確か碧の目をしてたな」
「・・・すみません、詳しく教えてください」
この程度の情報は、今までも何回かあった。ぬか喜びはしない方が良い。
「あそこにある百合の花も、そこで買ったんだよ。今年の春ごろから、広場の片隅に時々来てるんだ。でっかい茶色の犬に荷車引かせて、近くの山や庭の花を持ってきてるって言ってたな」
(・・・百合の花)
かつて2人であの荒れ果てた庭や家を見ながら、彼女は言っていなかったか?
『あの山には、薬草系の植物が多いです。百合や野薔薇なんかの、綺麗な花を咲かせるものも多いし・・・』と。
三吾は、嬉しそうに語るエルオリーセの声を思い出していた。
「その娘・・・どんな見かけですっ!」
もしかしたら、と勢い込んでしまう。
「えっ・・・ああ、碧の大きな目で、髪はブルネットかな。帽子を被ってるからはっきりとは解らないが・・・俺の印象だと、寂しげで綺麗な娘ってところかな」
髪を染めて帽子を被れれば、パッと見の印象は大きく変わる。もしまだあのバレッタを着けていたとしても、帽子に隠れてしまうだろう。
「いつ来るのかは、解りますか?」
「いや、特に決まってはいないみたいだな。昨日は来てたけど、次にいつ来るかは解らないよ」
もしその花売り娘がエルオリーセなら、あの家にいるのではないか。
鍵は、持っているはずなのだし。
三吾は大急ぎで夕食を腹に収めると、足早に店を出てテクネ山への道を歩き始めた。
覚えていた道筋に間違いはなく、山道とはいえ何度も人や荷車が通った形跡もある。けれど以前よりも身軽に歩けない三吾は、衰えに情けなさを感じながらも精一杯の速さで進んだ。
やがて見覚えのある脇道に入り、以前とはまるで違った綺麗に整備された門の前に着く。辺りは既に薄暮の空気が漂い、汗ばんだ肌を撫でてゆく風が心地よい。
庭の様子は良く見えないが、緑と花の香りが感じられて、ちゃんと世話をされているのが解る。
(・・・灯りが・・・・・・)
小さく小綺麗な建物の窓から、灯りが漏れていた。
その少し前、三吾が脇道に入った頃、室内で床に寝そべっていた茶色の大型犬がむっくりと起き上がった。
「ん?・・・アルバ、トイレ?」
玄関に向かった大きな茶色の塊に声を掛け、肩で切りそろえた黒い髪の娘は鍋をかき回す。
「もうすぐ出来るから、もう少し待ってね」
けれどアルバと呼ばれた犬は、玄関から直ぐに戻ってきた。もうすぐここにやってくる、来訪者を迎え入れるために鍵を開けに行ったのだ。
アルバは、彼を待っていた。
頑なに流離い続ける大事なパートナーの意思を尊重してはいたが、それでも彼女の苦しみやツラさを拭い去ることができるのは彼だけだと解っていた。
「あら、いいの?それじゃ、出来たから・・・」
そう言って、皿によそった具沢山の夏野菜スープを両手に持った彼女が振り返る。
カチャリ、ギィィ~~~
玄関のドアが開いた。
「・・・リーセ!」
ガシャンッ!
エルオリーセの手から、皿が落ちた。飛び散ったスープと割れた皿を気にも留めず、三吾は家の中に駆け込む。
「やっと、やっと・・・見つけた!」
驚愕に身を引いた彼女の手首をがっしりと掴み、三吾は絞り出すように叫ぶ。
「さ・・・・三吾・・・っ」
逃げそうな彼女の身体を力任せに引き寄せ、彼はしっかりとその腕の中に彼女を捕まえる。
「ずっと・・・ずっと、探して・・・・やっと、会えた」
彼にエルオリーセの気持ちを考える余裕はなかった。
短くなった黒い髪は、あのバレッタで纏められている。少し瘦せたように見える頬だが、碧の瞳と共に、それは紛れもない愛しい妻の顔だ。
「リーセだ・・・」
彼女の頬に掌を当てて見つめる三吾の目には、涙が浮かんでいた。
そんな夫の目を見た瞬間、彼女を支えていた頑なな想いが、すうっと消えてゆく。
(・・・やっぱり・・・愛してるんだ・・・私は彼を)
エルオリーセはゆっくりと瞼を閉じた。




