77 山の麓の鉱山町
翌日朝陽が昇る前に、エルオリーセとアルバはレニの宿屋を出た。
誰にも気づかれないよう、栗色の髪と碧の瞳を隠すように、すっぽりとショールを被って。
三吾とは前の晩に打ち合わせをしていた。
「レニを出たら、どこに行こうか?」
「う~~ん、そろそろレーエフに帰らない?一応これでも私たちは学院の研究者なんだから、少しは仕事もしておかないといけないかなぁって思うんだけど。特に三吾は、自分の研究を進めないと不都合があるんじゃない?」
今回の旅行も、三吾の専門である分析薬学とは全く関係が無い。結婚してこの方、三吾は理想的な夫として妻と家庭を大事にしているが、客観的に見て科学者としては研究に割く時間が減っているだろうと思う。
「そんな事ないよ。休み前に論文は書き上げたし、今は次のテーマを探してるところなんだ。そういう時こそ、発想の転換やインスピレーションは大事だろう?それに、研究に対するモチベーションもね。だから、この旅行は僕にとってもとても有益なんだ」
そんな優しい夫の言葉に、エルオリーセは穏やかに微笑んだ。
「私はもう、知りたい事は全て知ったし、もう山を下りてもイイかなって思うの。だから、レニから南に下って平地に降りたらどうかな?そこからまた旅行をつつけても良いし、家に帰っても良いと思う」
そして2人は、取り敢えず南に向かって山を下り、テーブル山脈に別れを告げることにした。
ゼッタの事があるので、エルオリーセは誰にも知られずレニを離れる必要があった。
そこで、一旦三吾と別行動をとり、アルバと一緒に先に宿を出たのだった。夜明け前の山道でも、慣れているエルオリーセにとっては特に問題はない。
それに彼女は、メタモルファルとして覚醒している。変身獣としては先輩のアルバも一緒なら、危険も不安も無かった。
三吾は朝一番でレニから山を下る隊商と話を着けて、荷車に乗せて貰った。宿屋にはゼッタの事情を話し、こちらの行動を納得してもらっている。
何やら逃亡者のような旅立ちだが、きちんと後始末が出来たのだから良しとしよう。
山道をガタガタと揺られながら、丸1日かけて小さな集落に辿り着く。三吾はそこで、少し先に到着していたエルオリーセと落ち合った。
そして翌日、今度は馬を借りて山を下る。麓までの道のりは長かったが、特に問題も無く目的地に到着した。切り立った崖に三方を囲まれたそこは、コークスという名の小さな町だった。
コークスは、元々炭鉱として栄えた町だった。
けれど長い年月の間に、周辺の鉱脈は採掘されつくし、今は廃坑となっている場所が殆どだ。採掘場所は離れて行ったが、コークスから大きな都市への交通網が整っていたこともあり、現在は様々な鉱山資源が集められている。
コークスは多くの炭鉱夫や商人たちが集う、そこそこ大きな町だった。
コークスに向かう途中から、三吾は口数が少なくなり、顔色が悪くなっていた。
おそらく疲労が溜まっているのだろう。
エルオリーセはコークスに入ると、先に立って宿を探し部屋を取った。
三吾を休ませて、借りていた馬を帰し、医者を連れて来る。医者の診断は、思った通り疲労が原因だった。
「情けないな、この程度でダウンするなんて」
微熱と頭痛に悩まされながらも、三吾は悔しそうに呟く。
「三吾は生粋の平地の民で、高地での行動に慣れていないんだから仕方がないわ。寧ろ、今まで何とも無かったのが不思議なくらいよ」
濡れタオルを彼の額に当てながら、エルオリーセは優しく慰めた。
「これでも、大分体力は付いたつもりだったんだが・・・」
溜息をつく三吾に、エルオリーセは頷く。
「うん、学者にしては体力があると思う。でも、やっぱり無理は禁物ね。山を下りて良かったわ」
そして彼の妻は、その晩、甲斐甲斐しく夫の看病をした。
三吾の夕食を宿に頼んで用意してもらう間に、エルオリーセは宿の主に彼の体調を伝え、暫く滞在する旨を伝える。不愛想だが根は親切そうな主は、あっさりと了解してくれた。
「ああ、解った。良くなるまで滞在してくれ。ここには大した店はないが、出来るだけ便宜を図る。ああ、あとたまに山崩れの音がするかもしれねぇが、町は安全だから心配はない」
コークスの周囲にある廃坑で、近頃落盤したような音が響くことがあるのだという。住民は慣れているが、旅人は不安に感じるだろうという気遣いだ。
「食事はこっちで用意した方がいいな。それなりに荒くれ者もいるから、奥さん1人で食いに行くのはやめておいた方がいい。旦那も心配するだろうしな」
見かけによらず細やかな配慮をしてくれる主にお礼を言って、エルオリーセはパンとスープをトレイに乗せて部屋に戻った。
(ふふ・・・奥さんだって。それに、旦那さん・・・)
何だか、くすぐったい気分になったエルオリーセだった。
「気分はどう?食欲はある?」
エルオリーセはサイドテーブルにトレイを置いて、三吾に声を掛けた。
「うん、頭痛と怠さはまだあるけど、お腹は空いたよ」
起き上がった三吾は、持ってきて貰った夕食を摂り始めた。
「良かった。やっぱり食べないと、疲労回復しないもの。もし食欲が無かったら、少しでも食べさせようと思ってたわ」
三吾はパンをちぎって、モグモグと咀嚼しながら肯く。
(ああ、でも食べさせて貰うというのも、良かったかも・・・)
パンをちぎって口元に運んでもらう。スープをすくったスプーンをふぅふぅと息を掛けて冷まし、口の中に入れて貰う。
そんな甘々でラブラブな事をするチャンスだったのに。
いかにも残念そうな彼の表情を見て取って、エルオリーセは笑った。
「元気な時でも、あ~~んって食べさせることは出来るでしょ」
揶揄うような妻の声に、いつかそんなシチュエーションを作ろうと思う夫だった。
「今晩は、アルバを貸してあげる。頭痛や怠さが気にならなくなって、ぐっすり眠れると思うから」
寝る支度をしながら、エルオリーセが言うと、アルバは素直に三吾のベッドに乗った。けれど彼は手を伸ばし、彼女の手首をそっと掴む。
「それはありがたいけど・・・僕としてはアルバよりリーセの方が良いな」
そんな彼の言葉に、彼女は申し訳なさそうに答えた。
「ごめんね、私はまだメタモルファルとしては未熟で、アルバみたいに出来ないの」
引かれた腕に導かれるように、エルオリーセは彼に覆いかぶさった。
「だから・・・これで、我慢して」
彼の唇に押し付けるだけの、優しいキス。
「些細なことでも、体力は使わない方がいいでしょ」
だから、ハグも無し。
エルオリーセの瞳には、惜しみない慈しみの光があった。
深い慈愛に満ちた、母のような女神のような微笑み。
(ああ、やっぱり君はメタモルファルだ・・・・僕だけの、癒しと慈しみの存在・・・)
三吾は、静かに眠りに落ちていった。
翌日、エルオリーセはアルバを置いて外出すると言い出した。
「コークスの薬屋を覗いたんだけど、疲労と体力を回復するようないい薬が無いの。二日酔いの薬や怪しげな精力増強剤ばかり多くて」
この町の娯楽は、酒と女くらいしか無いのだ。
「だから、材料を用意して自分で作ることにする。祖母に教わった『巫女の秘薬』ね」
必要な材料は色々あるが、赤草とクミの実は薬屋にあった。
それ以外の必要素材は、山岳地方で採集できるものだが、この辺りでも揃うのではないかと思う。
「採集してその場で作っちゃうから、少し時間が掛かるけど、出来るだけ早く帰ってくるわ。アルバが居れば、細々とした用事はやってくれるし寂しくないでしょ?」
「でも、1人で大丈夫なの?」
「これでも私はメタモルファルなのよ。以前よりずっと、体力も感覚もレベルアップしてるから」
覚醒して以来、特に開花した能力はまだ無いが、タフになったし回復速度も上がった。視覚や聴覚、臭覚などの感覚も鋭くなっている。
「それに、何かあったら、離れていてもアルバには解るから」
メタモルファル同士の繋がりなのだろう。それまでよりもずっと互いの存在を強く感じるようになっている。お互いが今どこで何をしているか、距離的な問題はあるが、かなり詳しく知ることが出来る。
「だから三吾は、安心して体調回復に努めていてね」
エルオリーセはニッコリ笑うと、採集装備に身を包んで宿を出て行った。




