18.
同窓会のお誘いのはがきがある日突然やってきた。高校時代の連中で集まってわいわいと当時を懐かしもうというイベントだと思われる。なんとなく出席に丸をした。なんとなく投函しようとした。でも、ポストに半分飲み込ませたところで「あっ」と声が漏れた。常に非日常の道を歩む今の自分がそんなおちゃらけ催し事に参加してもいいのかと疑問が湧いた。そこで上司の後藤さんに相談してみた。すると、「行ってきなよ」と笑顔で言われたのだった。
”バンカク”の海老せんべいを土産に、栃木の実家に一泊二日の予定で帰省した。母ちゃんはえらく歓迎してくれた。息子は立派に仕事をしている。しかも公務員だ。そういった要素だけで、鼻も高々で胸を撫で下ろしもするのである。それはそれでいいと思っている。俺っちは母親にとって誇らしい息子でいたい。常にそう考えていることは事実だから。
かつての自室、いや、今でもそうなのかもしれないけれど、とにかく二階の六畳間でボストンバッグを放り出し、仰向けになって和風の電灯がぶら下がっている天井を眺めた。
正直、高校時代にいい思い出なんてないのだ。一年生の頃は冗談ばかり飛ばす愉快な奴というポジションを得ることができ、それなりに人気者だった。だけど、二年になったところで、なぜだかわからないけれど疎ましがられるようになり、いよいよ三年生を迎えた頃には、自分のクラスからも隣のクラスからも、無視されたり軽んじるようなセリフを浴びせられたりして、時には身に覚えのない罵声を浴びせられたりもして、果ては物理的なダメージを食らわせられるほどにまで嫌われた。
なんにも悪いことはしていないのに……。
内心でそう思っていても、思っているだけでは相手に伝わるはずもない。俺っちはどうしてイジメ、そうイジメだ、イジメに遭っているのかもわからないまま、高校生活を終えた。母ちゃんには当然、イジメられてるっぽいなんて言えなかった。シングルマザーで育ててくれているのだから、心配をかけるわけにはいかなかったのだ。だけど、そういった不純物的な気持ちを抱えていたせいだろう、肉体にも変化が生じて、口の周りに棘が立った黄色いニキビがいくつもできて、それをぐちゅぐちゅと潰していた。本当にむなしい記憶だ。切なくはないけれど悲しくはある。
それでもはがきの出席のほうに丸をつけたのは、どうしてだろう、自分でもその理由について確実なことを述べることはできない。だけど、少なくとも言えるのは、今の自分であれば同級生の誰が相手でも気後れするようなことはないだろうということだ。イジメられていた時分とは違う。あるいは俺っちはおまえ達よりもっと尊く崇高な仕事をしているのだぞと強気に出られる予感すら覚えたのだった。
夜になって、会場を訪れた。なにせ地元は田舎なので割安なチェーン店の居酒屋すら珍しい。地域密着型の飲み屋の座敷。そこが開催地だった。訪れた時、出入り口に立っていた小男がこちらのことを目ざとく見つけた。そしてそいつは言ったのだ。
「おまえ……まさかネズミか?」
そう。高校時代の末期における俺っちのあだ名はネズミだった。明らかに蔑んでいるニックネームだけれど、ネズミって可愛いじゃんと自らを慰めていたのを思い出す。
「そうだよ。ネズミだよ」
語気が強く感じられたからだろう。小男は「お、お、悪い。ミユキだよな?」と気圧されたような口調で言った。
中に入ると、店員の若者にアテンドされて一番奥の部屋に至った。若者に部屋のふすまを開けてもらい、姿を晒すと、わいわいがやがやしていたのが一斉にやんだ。だけど、俺っちは気にすることなく、最も下座についた。両手を下から上に、下から上にと煽るように動かして、気にすることなく談笑を続けろと促す。
「ネ、ネズミ、だよな……?」
当時、率先してイジメてくれていた村上が上座のほうで言った。思わず苦笑が漏れた。
「俺っちがネズミなら、今のおまえは豚だ」
「ぶ、豚?」
「ホント、おまえら軒並み太ったな。カッコ悪いったらありゃしないんだぜ」
みんなをヒかせるにはじゅうぶんなセリフだったらしい。場はしんと静まり返った。別になにか復讐じみたことがしたくてここに来たわけではない。俺っちをイジメて、けなしてくれた急先鋒だった村上、藤田、佐藤の顔を見ると、腹立たしさではない、むしろ一気に空虚さが込み上げてきた。ホント、腹が出たな、お三方。醜いんだぜ。本当に醜いんだぜ。
「いいよ。飲めよ。俺っちのことなんて気にすんな」
そう言ってやると、談笑が再開された。無論、ぎこちない笑い合いだ。みんな俺っちのことを気にしている。ヒトを蔑む、虐げる。そんなふざけた真似をしてくれた村上達だ。精々、悔いればいいと思う。あるいは俺っちの態度にキレて誰か突っ掛かってきてくれたっていい。いつでも相手になってやる。
馬鹿みたいな話だ。
本当に、馬鹿みたいな話。
俺っちは当時、どうしてこんなつまらない奴らのせいでみじめな思いをしていたのだろう、苦しんでいたのだろう。だけど、今、連中が取るに足らない存在だと確認して胸のすく思いはした。
ジョッキのビールを飲み干し、もういいや、帰ろうかと思う。腰を上げようとする。そんな時だった。頭の上から「ミユキ君っ」と弾んだ声で呼ばれた。見上げる。大きな瞳。目鼻立ちの整った顔。高校生だった当時から、まるで年を食った感がない。可愛らしいお嬢さんだ。
「樹里ちゃんなのか……?」
「よかった。覚えててくれたんだね」
その樹里ちゃんは狭い下座についている俺っちの隣に、細い体を捻じ込むようにして座った。「はい、どーぞぉ」と言って、焼酎のお湯割りを振る舞ってくれる。
樹里ちゃん、中島樹里ちゃん。
俺っちがイジメられるようになってからも、「おはよう」と声を掛けると、「おはよう!」と元気よく返してくれる女のコだった。校内一の美少女だと俺っちは思っていて、周りのニンゲンもそう評価していたように記憶している。
「ミユキ君、スゴいね。まるで太ってないし、むしろ研ぎ澄まされた感じ」
「い、いや、そんなこと、ないと思うけど……」
「自衛軍に入ったんだよね?」
「よく知ってるね」
「好きなヒトの行き先くらいチェックするよ」
「す、好きなヒト?」
「そうだよ? 私、ミユキ君のことがずっと好きだったんだよ? 大好きだったんだよ?」
俺っちはメチャクチャ驚き、目を大きくした。
次に漏れ出てきたのは、苦笑だった。
「で、今の樹里ちゃんは、どうしてるんだ? もう中島じゃあなくなった?」
「うん。岡部になった」
「岡部? って、あれ? ひょっとして、あの岡部?」
「そう。傍若無人な振る舞い方しか知らない馬鹿な岡部君」
「どうして、また……?」
「泣きつかれたの。おまえがいなくちゃ生きていけない、って」
「でも、高校時代は、そんな感じじゃあ……」
「うん。大学に入ってからの話だから」
「子供は?」
「少し前に赤ちゃんを産んだんだぁ」
「そりゃ驚きだ」
俺っちは「あっはっは」と笑った。
「で、岡部はどうしていないんだい? 赤ん坊の世話で忙しいってわけでもないんだろ?」
「動ける状態じゃないの」
「えっ」
「膵臓ガンなの。ステージワン」
「ガン? でも、ステージワンなら――」
「膵臓はダメなの。見つかった時点で余命宣告。さすがは沈黙の臓器」
「お、岡部はいつまで生きられるんだい?」
「もうひと月もないんだって」
「そうなのか……」
「その岡部君なんだけど」
「う、うん?」
「ミユキ君に会いたいんだって。どうしても会いたいんだって」
「なんで? どうしてだ?」
「それはね? わからないの。だけど、少しだけでもいいから、話をしたいって」
「そんなの、ホントにわかんないんだぜ……」
「休みはいつまで?」
「明日までだ。とっとと引き揚げるつもりなんだ」
「でも、会ってあげてくれない?」
「だから、なんでだよ。今さら話すことなんて、なにもないんだぜ?」
「中央病院って言ったらわかるよね?」
「わからないわけないぜ。だけど……」
「明日、玄関で待ってる。ずっとずっと、待ってるから」
「だから、どうしてそこまで――」
「とにかく来て? お願いだから」
その願いに対してはっきりとした返答をしないまま、俺っちは立ち上がった。「本当にシュッとしたね。カッコ良くなったね。凛々しくなったね」と樹里ちゃんはぱちぱちと手を叩いて称えてくれた。彼女は涙ぐんですらいる。だからといって、病院に出向いてやる義理なんて……。だってアイツは本当に、岡部は本当に、高校時代、一番、一番、俺っちのことを……。
結局、樹里ちゃんのお願いを無下にすることはできなかった。翌日の雨中、中央病院を訪れた。本当に彼女は玄関で待っていた。白いワンピースにカーキ色のジャケット姿。可愛いなと思う。そういった好意は高校の時からなにも変わっていない。
病棟に入り、階段をのぼる。三階に至った。個室らしい。病室の前に立つと、樹里ちゃんは胸に右手をやり、大きく息をついた。なぜかはわからない。でも緊張しているらしい。
「いつもはダメなの。とにかく疼痛が酷くて、だから精神状態も不安定で……。だけど、今日はしっかりしてるから。岡部君、しっかりしてるから」
「入っても?」
「うん。会ってあげて?」
病室へ。入ってすぐ、ベッドで横になっている岡部が映った。あんなにゴツい奴だったのに、痩せさらばえて、弱っちそうで、情けなくて……。鼻には吸入器。脇には赤ん坊の姿。青いおべべを着せられているのだから、恐らく、男のコだろう。なんの心配もないような様子ですやすやと眠っている。
「よぉ、ネズミ、久しぶり」
そうか。コイツはまだきちんと俺っちのことをネズミと呼ぶのか。疎ましく思う反面、なんとなく感心し、安心したりもした。
ベッドのそばに置かれているパイプ椅子に腰掛けた。こっちも、「よぉ、岡部」と偉そうに挨拶してやった。
「黒いスーツなんて着込んで、どうしたよ。誰かの葬式か?」
「今はこれがユニフォームなのさ」
「なんの仕事、やってんだ?」
「おまえには想像もつかない仕事なんだぜ」
「なんか、スゴいんだな、おまえって」
「スゴくはない。だけど、スゴくなりたいと思って頑張ってるんだぜ」
「……悪かった」
「うん?」
「おまえのこと、イジメてやれって言ったのは俺だ。だから、悪かった」
「もういいよ、そんなこと。昨日、同窓会に出てわかったんだ。俺っちより強い意志を持って今を生きてる奴なんていないんだってな。ホント、それだけは自信を持って言える」
「なんの悪さもしてないおまえを、俺はどうして、イジメたいと思ったんだろうなあ」
「いろいろとあるのが思春期なんだと思うぜ」
「なあ、ネズミ……いや、ミユキ」
「なんだい?」
「俺はもう死ぬんだ」
「知ってる」
「もう時間がないんだ」
「そいつも見ればわかるんだぜ」
「お願いだ。俺の子供と樹里のこと、おまえが引き受けちゃあくれないか?」
「どうしてそうなるんだ?」
「高校時代のことを樹里に聞かされたからさ。実はおまえのことが好きだったってな」
隣に立っている樹里ちゃんを、俺っちはパイプ椅子から見上げた。ぽろぽろぽろぽろ泣いている。嗚咽を漏らしてしまいそうなのだろう。口元に両手を当てている。
「樹里が好きになったニンゲンは、俺とおまえしかいないらしい」
「そうか……。だけど、馬鹿なんだぜ、岡部。おまえさんは」
「どうしてだ?」
「見りゃわかるだろ? 樹里ちゃんはずっと、おまえの女房でいたいんだ」
「でも……」
「あんまり樹里ちゃんを舐めるなって言ってるんだ。樹里ちゃんならしっかりとシングルマザーをやるはずなんだぜ」
「そんなの、樹里に悪いじゃんかよ……」
「神様のなにかの気まぐれで樹里ちゃんに新しい旦那ができる可能性はある。だけど、その旦那は絶対に俺じゃないんだぜ」
「どうして言い切れるんだ?」
「俺っちは今、忙しいのさ。仕事でな」
「だけど、おまえになら任せられると、俺は思って……」
「岡部、おまえは、俺っちをイジメてたことを謝りたかったのか、それとも樹里ちゃんの話をしたかったのか、どっちなんだい?」
「両方だ」
「イジメの話はもうどうだっていい。だけど樹里ちゃんのことは最期の瞬間まで手放すな」
「……樹里が言ってた通りだ」
「うん?」
「ネズミが獣に、虎に化けたってな」
「今の俺っちはそこまで強くはないんだぜ。で、だ、岡部」
「なんだ?」
「おまえんとこの子供が樹里ちゃん似でよかったんだぜ」
「ははっ」
岡部は明るく笑ったのだった。「そうだよな、そうだよな」と言い、腹の底から笑ったように見えたのだった。
帰省からひと月ほどが経過した。仕事を終え、家に着き、今日もスナイパーライフルの入った黒いケースをフロアにごとりと置き、ネクタイを取り払おうとしたところで、スマホが鳴った。プライベートのほうだ。
メールの差出人は樹里ちゃん。
内容は、こう。
<先ほど、岡部君が亡くなりました。彼からの伝言です。ありがとうとのことでした。>
「なにがありがとう、だよ……」
そう呟いた瞬間、両の瞳から涙があふれ出てきて、止まらなくなった。口元を右手で押さえて、叫びたくなるのをこらえた。
最悪だよ、岡部。おまえは最期まで悪役でよかったのに……。
仕事用のスマホを操作。伊織の姐御に連絡した。誰かに連絡したくてたまらなかった。一緒に飲みたい旨を、実に情けない声で伝えた。
「アンタ、なんで泣いてるの?」
「泣いちゃいねーよ、なんだぜ」
「嘘。泣いてるでしょ」
「嘘はつけないな」
「真面目に聞いたほうがいい?」
「そうしてくれよ」
「人生、いろいろあるよね」
「そんなふうにきちんと割り切れる姐御のことが、やっぱ好きだ。だからこそ、ちょいとばかし、付き合ってくれないか?」
「ちょっと待って。代われ代われって、うるさい奴がいるから」
そこで通話相手が変更された。
「本庄君かい?」
「そうッスよ。つーかハジメ先輩、マジなにグスグス言ってんスか」
「つらいことがあったんだぜ」
「心配になるッスよ」
「君は本当に素晴らしい後輩なんだぜ」
「伊織に運転させて、すぐ行くッス」
「君達はなんでそこまで優しいんだ、ベイベ……」
電話が切られた。本当に、すぐ来てくれるのだろう。
伊織さん、本庄君、君達は本当にカッコいいよ。
イケてるにも、ほどがあるんだぜ、ベイベ……。
岡部、バイバイ。
樹里ちゃんも、なんだかバイバイ。
俺っちはこれからも頑張って生きてやるから。
それくらい約束してやるさ。
「岡部の馬鹿野郎……っ」
俺っちの目からは、やっぱり涙がこぼれ落ちた。




