別れ
そっと、白い布に手をかける。
震える指先は思うように力が入らなかった。
「冬美さん……。無理にとは言いません。」
町井さんの声が耳に入る。
でも、ここまで来て目を背ける訳にはいかなかった。
僕は小さく頷き、白い布をゆっくりと持ち上げた。
『…………。』
父親だった。
昨日の朝まで笑っていた父さんが、そこには眠るように横たわっていた。
「父さん…?」
返事はない。
当たり前だ。
返事が返ってくるはずなんてない。
それなのに僕は何度も声を掛けてしまう。
『父さん…。父さんってば…。』
肩に手を伸ばそうとしたその時だった。
「申し訳ありませんが、ご遺体にはお手を触れないようお願いします。」
町井さんの言葉で我に返る。
夢じゃない。
これは現実なんだ。
僕は震える手を下ろし、隣へ目を向けた。
二枚目の白い布。
嫌な汗が額を伝う。
心臓の音だけが部屋中に響いているようだった。
ゆっくりと布をめくる。
『……母さん。』
僕の紛れもない母親。
僕を産んでくれた母さん。
毎朝、「悠樹、遅刻するわよ。」
そう起こしてくれる母さん。
いつも優しく笑っていた母さん。
その笑顔はもうどこにもなかった。
『なんで……。』
涙が一滴、床へ落ちる。
まだ信じたくなかった。
受け入れたら全部終わってしまう気がした。
最後に残った一番小さな白い布。
見なくても分かっている。
だけど、見なければいけない。
ゆっくりと布を持ち上げる。
『っ想真…………。』
弟だった。
昨日の朝まで、「兄ちゃん、クリスマスプレゼント何?」
そう何度も聞いてきた僕の弟。
習い事から帰ってきたら、一緒にケーキを食べよう。
そう約束したのに。
『…………。』
言葉が出ない。
頭の中が真っ白になる。
父さんも。
母さんも。
想真も。
誰も動かない。
寝ているようだ。
『……違う。』
小さく首を振る。
『違うよ……。』
こんなの家族じゃない。
今日はクリスマスなんだ。
みんなで笑って、ケーキを食べて、プレゼントを開けて。
そのあと父さんが酔っぱらって、母さんに怒られて。
想真が横で笑って。
そんな夜になるはずだった。
『なのに……。』
『なんで、ここにいるんだよ。』
『ねぇ……。』
涙が止まらない。
『起きてよ……。』
声が震える。
『もう帰ろうよ……。』
膝から力が抜ける。
その場へ崩れ落ちた。
『クリスマスなんだよ……。』
床へ落ちた涙が地面を汚す。
『ケーキもあるんだよ……。』
昨日、急いで帰ったせいで少しだけ崩してしまった。
母さんに怒られると思って。
家族に気付かれないように。
箱についた生クリームを拭いたんだ。
『ちゃんと冷蔵庫に入れてあるんだよ……。』
『みんなで食べようよ、ケーキ。』
誰も返事をしない。
『父さん……母さん……想真……。』
『お願いだから……帰ってきてよ……。』
『クリスマス‥、まだ始まってないじゃん‥。』
それ以上、言葉にならなかった。
嗚咽だけが静かな部屋へ響く。
町井さんが僕の肩へ手を置いた気がした。
何かを話している。
でも、何も聞こえない。
視界が滲む。
呼吸が苦しい。
胸が締め付けられる。
もし。
もし、あの時。
ケーキなんて取りに行かなければ。
僕も一緒に車へ乗っていたら。
僕が父さんたちを止められていたら。
違う未来があったのだろうか。
嫌だ。
嫌だ……。
もう一度だけでいい。
もう一度だけ。
みんなに会いたい。
その瞬間だった。
視界が真っ白に染まる。
音が消える。
体がふわりと浮き上がるような感覚。
意識がゆっくりと遠ざかっていく。
「悠樹!」
どこか懐かしい声が聞こえた。
「ちょっと、悠樹ってば!」
優しくて、温かい声。
毎日聞いていたはずの声。
『…………。』
「何ぼーっとしてるの?」
『……え?』
「そんなところで立ち止まって、どうしたの?」
聞き覚えのあるその声に、ゆっくりと視線を向ける。
そこには、エプロン姿の母さんがいつもと変わらない笑顔で立っていた。




