第37話 二度目の引き金
空き缶を蹴ると、コンクリートの床で乾いた音がした。
高架下は昼でも薄暗い。頭上の道路が時おり低く震え、遠くに支線の《白帯》が白く走っている。手前には木箱とパレット、穴の開いたテントが寄せ集められ、人が溜まる場所があった。アキヒトの寝床もそこだ。
父を撃ったあと、しばらくUDFの保護施設に入れられた。質問は同じものが何度も返ってきて、紙だけが増えていく。怒鳴られはしない。手順が続き、いつの間にか「保護の枠には入らない年齢」として外に出された。行き先のない子どもが最後に流れ着くのが、この高架下だった。
腹が鳴る。市場裏の路地へ行けば、売れ残りの野菜くずと、値がつかないパンの端が箱にまとめて捨てられている。
手を伸ばした瞬間、横から細い腕が先にそれをさらった。
「それ、俺が先に見つけた」
反射で声が出る。相手は同じくらいか少し下の年齢で、痩せた顔に泥がついていた。
「先に手ぇ出したほうのもんだろ」
逃げようとした腕をつかむと、揉み合いになった。箱が倒れ、路地に中身が散らばる。向こうも必死だが、最近は自分のほうが力が強い。肩を押さえ、パンの端だけをもぎ取った。
子どもは舌打ちして手を離し、別のゴミ袋へ走っていった。
口に入れたパンは固く、少し酸っぱかった。それでも空腹は黙った。こういう小競り合いは珍しくないし、数日前まで見かけた子どもが翌週には消えていることもある。連れて行かれたのか、倒れたのか。噂だけが増える。
日雇いの荷運びで小銭が入る日もあるが、いつも仕事があるわけじゃない。拾えるものは拾う。それしかなかった。
その日も、拾えるものを探して歩いていた。
午後、白帯の支線の少し外側で妙な音がした。低い破裂音と高い金属音。集積地の騒がしさとは違う。人の流れがざわつき、何人かが「またか」と言いながら高架下の陰に潜る。遠くで煙が上がった。
ハブの外れで車列が攻撃されたのだと、すぐ分かった。灰膜の向こうの化け物じゃない。人同士の撃ち合いだ。
撃ち合いの最中には近づかない。流れ弾が飛んでくる。それでも終わったあとには、散った荷や置き去りの道具が残る。運がよければ武器だ。
日が傾き始めたころ、銃声が途切れた。短いサイレンが2度だけ鳴り、街の連中はそれで「ひとまず終わり」と判断する。アキヒトも様子を見に行った。
細い路地と倉庫の隙間を抜けると、焦げた匂いが鼻に入る。広い道路に出た先は、さっきまで車列が通っていた場所だった。UDFのマークの武装トラックが横倒しになり、タイヤが1つ外れて転がっている。RF輸送用のトレーラーも側面に穴を開けられ、煙を噴いていた。
道路には箱、袋、金属ケースが散らばり、中身が飛び出している。人も転がっていた。呻いている者と、動かない者。周りの大人たちは目を逸らしながら、まだ生きている者だけを引きずっていくが、手が足りない。封鎖線を張る余裕もない。
アキヒトはその間を縫うように歩いた。狙いは落ちている袋と、ひっくり返った箱の中身、倒れた人間の装備だ。怒鳴られても「何も取ってない」と言って走ればいい。そうやって生きてきた。
うつ伏せの兵士のそばに、黒い金属が落ちているのが見えた。見慣れた形。
拳銃だ。
周りを見回す。今この瞬間、ここをちゃんと見ている大人はいない。近づいて拾い上げると、まだ少し温かい。煤と擦り傷。手の中でずしりと沈み、握っただけで分かった。これはすぐ撃てる。安全が入っていない。
足元に弾倉も落ちていた。同じ型だ。拾ってズボンのポケットに押し込む。売れば金になる。食べ物にも替えられる。武器そのものを渡せば、仕事の口になるかもしれない。
うつ伏せの兵士のポケットへ手を伸ばした瞬間、手首をつかまれた。
肩が跳ねる。兵士はまだ息をしていた。顔半分が血で汚れ、片方の目だけがこちらを睨む。
「てめえ……」
かすれた声で、体を乱暴につかんで引き寄せる。
「敵か。てめえらか」
言葉は途切れ、痛みと混乱で半分はうわごとだ。それでも握る力だけが異様に強い。肩口に拳が飛び、視界が揺れた。
アスファルトに押しつけられる感覚が、古い記憶を引きずり出す。父の腕の重さ。母の喉に食い込んだ指の形。
息が詰まる。兵士の手が首のあたりまでずり上がり、力を込めようとする。
「やめろ」
声にならない。喉の奥がひりつき、視界の端が暗くなる。
手には拳銃が残っていた。離していなかったことに、そこで気づく。逃げ場も、殴り返す力もない。だから指が動いた。
撃った瞬間の音は覚えていない。手のひらに残った熱だけが、やけに鮮明だった。
すぐそばで何かがはじけ、兵士の体から力が抜ける。首を押さえていた手が外れ、重みだけがずるりと横へ崩れた。兵士の顔は、もう動かない。
自分の周りだけが切り取られたように感じた。あたりでは叫び声も、負傷者を呼ぶ声もまだ続いているのに、耳が勝手に遠ざける。
また撃った。父のときと同じように、指だけが先に動いた。
握った手が震え始める。離そうとしても指が固まり、うまく動かない。
横合いから荒い足音が一気に近づいた。泥で汚れた装甲ジャケットに重いブーツ。肩にはUDFの徽章、その下に見慣れない小さな部隊章。数人が散って動き、互いの間隔を崩さない。銃口の向け方も、声の出し方も、さっきまで道路にいた連中とは別の手つきだった。
「武装したガキだ!」
誰かが叫び、次の瞬間、数丁の銃口がこちらを向く。
「武器を捨てろ!」
身体が固まる。
「待て」
低い声が割り込んだ。道路の先から別の男が歩いてくる。深い色のコート、胸にUDFの徽章。内側の装備にも同じ部隊章が覗いていた。肩幅が広く、動きに無駄がない。目だけが周囲をよく見ている。
「大尉、こいつが発砲した可能性が高い。武装も――」
「見れば分かる」
大尉は足元の兵士と、アキヒトの手の拳銃を一度ずつ見た。顔色ひとつ変えず、銃口はまだこちらへ向けたまま言う。
「その武器を捨てろ」
命令なのか確認なのか、判断する余地はない。逆らえば終わる。
アキヒトは手の中を見下ろし、力を抜いて地面に置いた。それを確認すると、周囲の隊員がわずかに銃を下ろす。
「ここで死にたいか」
大尉の言葉は、そのままの意味だった。
答えは出ない。ただ今ここで撃たれて終わるか、まだ先があるか。選べと言われているのは分かった。
「立て」
大尉は続ける。
「立てないなら、ここで終わる」
乱暴な理屈なのに、この街のやり方に近い。パンを取り合い、倒れた人間の装備を探るのも、ここでは戦いだった。
アキヒトは足元を見る。血で濡れたアスファルト。さっきまでパンの欠片を拾っていた地面。ここで倒れて終わるか、知らない場所へ連れて行かれるか。
アキヒトは顔を上げた。
「行く」
大尉は軽く顎を動かす。
「手を見せろ。動くな」
近くの隊員が拳銃を素早く拾い上げ、手の届かない位置へ遠ざける。銃口はまだ下がり切らない。
「ここで余計な動きをしたら終わりだ」
大尉は低いまま言った。
「ついてこい。話はあとで聞く」
アキヒトは足を動かした。膝が笑う。それでも止まらない。車列の残骸の向こうに装甲車が見え、特務部隊の隊列が当たり前のようにそこにあった。
「名前は」
歩き出して少ししてから、大尉がふと尋ねた。
口を開こうとして止まる。名前が喉でひっかかり、出てこない。名乗っても、また失うだけだという感覚が先に立つ。
沈黙が続く。
大尉はそれ以上追及しなかった。
「いらないなら無理に思い出すな。ここで必要なのは名前じゃない。番号で足りる」
番号。その言葉だけが耳に残る。
そうしてアキヒトは、UDFの特務部隊の装甲車へ押し込まれていった。扉が閉まる音と一緒に外の叫びが遠のき、焦げた匂いだけが最後まで鼻の奥に残った。
――次回、
第八章 名前のない兵士(アキヒトオリジン)
第38話「番号だけが呼ばれる場所」へ続く




