第35話 036だった頃のこと
レゾナンスコアの唸りが遠のき、耳を塞ぐようだったノイズが切れた。ホールに残ったのは薄暗さと血の匂いだけだ。
〈ノルン〉
『中枢区画、共振収束。アキヒト、ヒロ。生命兆候、両名とも安定域ぎりぎり』
『ヒロ:右膝、靱帯損傷の疑い。側頭部打撲。歩行は推奨されない』
『アキヒト:右肩〜右脇腹、深い切創。止血は仮処置。大きな動作は危険』
床に倒れたまま、アキヒトは目だけ動かす。身体が沈み、右肩から脇腹へ痛みがじわりと広がっていった。深く吸い込むだけで、傷が内側から開きそうになる。
「ヒロ。動けるか」
「無理だ」
少し離れた場所から返ってくる声は、今日は妙に遠い。
「足が死んでる。立とうとしたら、その場で倒れる」
「診断は聞きたくなかったな」
ヒロが小さく笑い、すぐに苦しそうな息へ変わった。アキヒトは首を動かすのをやめ、視界の端に横たわる脚だけを確認する。
「こっちも寝転んだままのほうが安全そうだ」
「好きで寝てるわけじゃない」
短く息が落ち、しばらくはノルンの機械的な監視音だけが間を埋めた。血の落ちる音と遠い機器の作動音。さっきまでこの場にいた人間の気配だけが、綺麗に抜けている。
「さっきの男、知り合いか」
沈黙を破ったのはヒロだった。
アキヒトは目を閉じる。嘘をつく理由はない。ただ、全部を一気に出すと、今ここで踏ん張っているものまで崩れそうだった。
「ヘルマーチの隊長だ。俺の昔の隊長。あっちでは036って呼ばれてた」
「ゼロ……サンロク」
ヒロが数字を反芻する。
「名前はいらなかった。全員、番号だけで呼ばれてた」
訓練場の声が耳の奥で蘇る。灰の中で「036」と呼ばれるたび、身体だけが反応していた頃の感覚。
「名前をくれたのはヴァイス艦長だ。036じゃなくて、“アキヒト”って呼んだのは、あの人が最初だ」
ヒロは床に視線を落としたまま黙り込む。さっき見た顔を頭の中で何度もなぞっているのが分かった。マスクの下から覗いた片側の頬、火傷痕、皺の深さ。昔の横顔と今の形が無理やり重なっていく。
「俺の父親だ」
低い声が落ちた。
「コンラート・ヴェルナー。白帯B3を割ったのもあいつだ」
アキヒトは一度だけ瞬きをした。
「そうか」
それ以上は続かない。自分の“昔の隊長”が、目の前の“今の隊長”の父親。整理できるはずがなかった。
ヒロの声が鋭くなる。
「黙ってるつもりか。悪いが、何も知らないまま同じ戦場に立ち続ける気はない」
少し間を置き、言葉を継ぐ。
「お前があっち側にいたときの話を聞かせろ。ヘルマーチにいた頃、お前が何を見てたのか。036だったお前が、どうして今こっち側にいるのか」
痛みで歪んだ顔のまま、言葉を押し出す。
「知らないままじゃ、コンラートが何を狙ってるのかも分からない。さっきの“戻ってこい”の意味もな」
アキヒトは天井を見る。崩れかけたコンクリートの隙間から、薄い灰色の光がのぞいていた。
「楽しい昔話じゃないぞ」
「楽しい話が聞きたいわけじゃない」
即答だった。
「だからだ。聞かせろ」
アキヒトは痛みをやり過ごしながら、短く頷く。
〈ノルン〉
『アキヒト。痛覚反応が上昇。今すぐ話さなくても――』
「いい。どうせすぐには動けない。だったら今のうちに済ませる」
目を閉じて一度だけ整え、ヒロのほうへ視線を向けた。
「分かった」
言葉を探す間にも、光景がいくつも浮かんでは消える。灰の街で拾われた日。名前の代わりに番号を与えられた日。036として初めて白帯を“踏み抜いた”日。
「じゃあ、最初からだ。灰の街で、初めてあいつに拾われた日の話から」
視界の端でレゾナンスコアの光がゆっくり明滅している。その光をぼんやり見ながら、言葉は過去へ沈んでいった。
――まだ「アキヒト」という名前を持つ前。
ただの子どもで、ただの036だった頃の話を。
――次回、
第八章 名前のない兵士(アキヒトオリジン)
第36話「化け物を見る目」へ続く




