↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰の傭兵と光の園 〈ロボットイラストあり〉  作者: 青羽 イオ
第八章 名前のない兵士

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/128

第36話 化け物を見る目

 皿が壁に叩きつけられ、白い破片が床に散った。


 乾いた音が狭い部屋に残る。酒の匂いと、安い惣菜の油の匂いが混じっていた。テーブルの上ではコップが倒れ、こぼれた酒がゆっくり広がっていく。


「誰のせいだと思ってる!」


 父の怒鳴り声が、薄い壁にぶつかって返ってきた。


 母が何か言おうとした。謝ろうとしたのか、なだめようとしたのか、今となっては分からない。けれど、その言葉が出るより先に、父の手が母の腕をつかんだ。


 母の背中が板壁にぶつかる。鈍い音がした。


「痛い、やめて」


「口答えするな!」


 振り上げられた手が、母の頬を打った。母の体が横へ傾き、椅子が倒れる。


 十二歳のアキヒトは、テーブルの陰からそれを見ていた。


 喉の奥が熱い。息はできているのに、胸の中だけが詰まっている。足の裏は床に貼りついたようで、前に出ようとしても動かなかった。


「やめろよ」


 自分の声だと、すぐには分からなかった。


 かすれた声が部屋に落ちた瞬間、父の視線がこちらへ向いた。赤く濁った目だった。


「ガキは黙ってろ!」


 襟首をつかまれ、床へ引きずり出される。次の瞬間、顔に重い衝撃が走った。床が近づき、頬が板にぶつかる。


 蹴られるたびに息が止まった。吸い込もうとすると、胸の奥で変な音が鳴る。痛いというより、体の使い方が分からなくなっていく感じだった。


 母の悲鳴が聞こえた。


「やめて! この子は関係ない!」


 アキヒトは顔を上げた。


 父の手が、母の喉をつかんでいた。床に倒れた母の首へ太い指が食い込み、母の体が小さく震えている。


「謝ればいいってもんじゃねえんだよ」


 父の顔は赤く、目の焦点が合っていなかった。母は両手でその指を剥がそうとしている。けれど力が足りない。声はもう言葉にならず、細い息だけが漏れていた。


 顔色が変わっていく。


 床に手をつき、立とうとした。膝が震えて、うまく力が入らない。それでも目だけは逸らせなかった。


 部屋の隅に、父のコートがかかっている。


 その下に、黒い金属が見えた。


 拳銃だった。


 父が外の仕事に行くとき、腰に下げていたものだ。酔った父が一度だけ、得意げに見せたことがある。冷たくて、重くて、握っただけで体が固まる道具だった。


「これがあれば黙らせられる」


 父はそう言って笑っていた。


 どうやってそこまで動いたのか覚えていない。気づいたときには、コートを引きはがし、その下にあった拳銃をつかんでいた。


 手のひらに、重さが沈む。


「やめろ」


 声が震えた。


 父は振り向かない。母の喉を締める指に、さらに力を込めている。


「やめろって言ってるだろ!」


 叫ぶと、喉が痛んだ。


 父の肩越しに、母の目が見えた。涙で濡れているのに、声は出ていない。助けを求めていたのか、止めようとしていたのか、それすら分からない。


 両手で拳銃を持ち上げた。


 腕が震える。狙いなんてなかった。父と母の体が重なって見えて、どこへ向ければいいのかも分からない。ただ、あの手を離させなければいけないと思った。


 指が引き金に触れていた。


 どの指だったのか、どれだけ力を入れたのかは覚えていない。全身で握り込んだ。それだけだった。


 音だけが、記憶から抜け落ちている。


 気づいたときには、父の体が母の上から崩れていた。


 床へ倒れ込む振動が足もとに伝わる。母の喉を締めていた手は力を失い、指がゆっくり開いていった。


 拳銃の先から、薄い煙が上がっていた。


 耳の奥が妙に静かだった。遅れて、白い耳鳴りのようなものが戻ってくる。


 手の中の重さと、指先の感覚だけが残っている。撃った。自分が撃った。そのことだけは分かった。


 母がこちらを見た。


 喉を押さえ、息を吸い込もうとしながら、何かを言おうとしている。けれど、言葉にはならなかった。


 助けてくれた。


 よくやった。


 そんな色は、どこにもなかった。


 母は、倒れた父ではなく、拳銃を持った自分を見ていた。


 怖れている。


 近づけてはいけないものを見る目だった。


 その視線が、胸の奥に刺さった。父の怒鳴り声よりも、拳銃の重さよりも、ずっと深く残った。


 そこから先の記憶は、途切れ途切れだ。


 ドアを叩く音。誰かの叫び声。廊下を走る足音。


 UDFの制服を着た大人たちが部屋に入り、父の体をどかして母に処置をしていた。拳銃はすぐに取り上げられ、透明な袋に入れられた。


 何を聞かれて、何と答えたのかは思い出せない。


 ただ、同じ質問が何度も繰り返され、自分も同じ説明を繰り返したことだけが残っている。


 しばらくして、知らない建物へ連れて行かれた。


 白い壁の部屋だった。簡単なベッドと机があり、窓の外には別のアパートの壁しか見えない。そこに入れられてから、外へ出ることはなかった。


 二週間ほど、同じような日が続いた。


 担当だという大人が入れ替わりで来る。紙を書かされ、話を聞かれる。誰も怒鳴らない。誰も殴らない。ただ、決められた手順を一つずつ進めているように見えた。


 父の葬式がどうなったのかは知らされなかった。


 母がどこにいるのかも、その間は教えてもらえなかった。


 ある日、担当の人に呼ばれて、小さな応接室へ通された。


 向かいの椅子には、いつもよりきちんとした服の大人が座っていた。机の上には封筒が一つ置かれている。


「落ち着いて聞いてほしい」


 その人は、先にそう言った。


 落ち着けるわけがない、と思った。けれど、口には出さなかった。


「お母さんは亡くなった。自分で命を絶った」


 言葉は耳に入った。


 けれど、意味にはならなかった。


 大人は少し間を置き、続けた。


「使われたのは、君のお父さんの拳銃だ。家の中に、もう一つ残っていたものが見つかった」


 父の拳銃。


 あの日、自分の手の中にあったもの。


 回収されたはずのそれとは別に、家のどこかにもう一つ残っていた。父が隠していたのか、置きっぱなしにしていたのか、大人たちは細かいことを言わなかった。ただ、父のものだった、とだけ説明した。


 そして母は、それを使った。


 父がいなくなったから。


 自分が撃ったから。


 あの日、あの場で、自分が引き金を引いたから。


 もし撃たなかったら。


 母の喉は潰れていたかもしれない。もっと殴られて、もっとひどいことになっていたかもしれない。


 それでも、撃たなければ、あんな目で見られなかったかもしれない。


 撃ったから、あの目で見られた。


 撃ったから、母は自分の前からいなくなった。


 誰もそうは言わなかった。


 担当の大人は、「君のせいではない」と繰り返した。「お母さんは追い詰められていた」とも言った。


 たぶん、それは間違っていない。


 でも、正しい言葉を並べられても、母は戻ってこなかった。


 頷けば、その場は終わる。頷かなければ、同じ説明が続くだけだ。大人たちは、責めない。責めない代わりに、中に残ったものも取り上げてはくれなかった。


 父の腕の太さ。


 倒れたときの振動。


 拳銃の重さ。


 そして、あの一瞬だけこちらをまっすぐ見た母の目。


 それだけが、何度も浮かんで消えなかった。


 あれは、自分を見ていた。


 父を止めた息子としてではない。


 男を撃った子どもとして。


 もう元には戻らないものとして。


 自分の指を見つめた。何も持っていないのに、まだ冷たい重さが手の中に残っている気がした。


 自分が引き金を引いた。


 そのあとで、母は自分の世界を壊した。


 だからこれは全部、自分のせいだ。


 そう決めつけるしか、残された形がなかった。


 全部、俺のせいだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。