第2話 残量二パーセント
※縦読み推奨
戦場に出てすぐ、灰の流れが折り返した。
遠景の輪郭が薄く二重にずれ、地面の起伏が一瞬だけ別の形に見える。灰霧の密度が急変すると、LSL越しの感覚がこうなる。
〈リフロー強度上昇。視覚層ずれを確認〉
次の瞬間、別の表示が割り込んだ。
[感覚ノイズ増大]
[LSL出力を七パーセント低下推奨]
アキヒトは無視して前へ出る。脚を止めれば、距離を食われる。
まただ。
ベヒモスが落ちてから、灰霧が濃くなるとこれが来る。計器だけじゃない。首の後ろから繋いだ感覚まで濁る。ベヒモスのコアへ触れて、MEMと繋いで戻ってきてから、ずれは前より近くなった。
踏み込んだはずの脚が、半拍だけ遅れる。
見えている地形と、足裏へ返る硬さが合わない。
嫌な感覚だが、切ればもっと足りない。白帯の外でこの密度を捌くには、LSLを使うしかない。
〈同期維持よりパイロット保護を優先推奨〉
その文言に、意識が半拍だけ引かれた。
ノルンの言い方が変わっている。
前なら状態を読むだけだった。今は止める向きが混じる。
だが、隊は乱れない。
ヒロの指示は速い。迷いがない。誰がどこに立ち、何を受け、どこを空けるかを、全員がもう分かっている。リフローが来ても、VOLKは崩れない。LSLの同期がなくても、戦える隊だ。
この隊だから続く。
「維持しろ」ノルンに告げる。
〈了解。維持します〉
返答は従来通り平坦だった。
だが、その平坦さの奥に、押し切らなかった何かが残った。
*
その後の戦闘は、引き際を探す形にならなかった。
キーテラは散っても退かない。脚を飛ばされても、胴を裂かれても、白帯へ届く形が残るかぎり前へ来る。リフローで距離と輪郭が揺れるたびに、群れは見えている位置と別の場所から噛みついてきた。
前へ出すぎないまま、白帯へ向く頭だけを潰し続けた。ゴーシュが厚いところを砕き、リュウが奥で流れを作る個体を抜く。削っても終わらない。倒した殻の上へ次が乗り、止まったところへまた別の脚が出る。届く形を一つずつ切り落としていく。
最後の一体が白帯の向きを失って崩れたときには、視界の端で残量警告が何度も点いていた。
追えばまだ動ける。だが、それは帰投を削る動きだった。アキヒトはようやく機体を返した。もう遅いと分かっていても、そこで切るしかなかった。
*
後部着艦ハッチの内側で、ストレイ・カスタムの動きが鈍った。
脚部の駆動は生きている。だが、踏み込みに余裕がない。足裏が床に乗るたびに、機体全体がわずかに遅れてついてくる。
ヒロのバッファローが右に寄った。肩と前腕をストレイの側面に当て、崩れを止める。バッファローが先に踏み出し、ストレイの重心が傾く前に支える位置を変える。体重の半分を預けるように、二機の足音が重なった。
無線は荒れない。短い報告が一度入り、あとは足音と油圧の低い音だけが続いた。
『VOLK6帰投。VOLK1の残量が薄い。ハンガー側、受けを頼む』
『了解。停止線まで誘導する。甲板、通路を空けろ』
格納庫に入った瞬間、声が上から落ちた。怒鳴りに近いが、手は止まっていない。
「止めるな、その速度で入れ。板橋の端で渋らせると倒すぞ」
「またストレイか。なにやってる、残量計を見ろ!」
誘導員が腕を伸ばし、停止線を指で示す。ストレイ・カスタムが歩幅を詰め、バッファローが半歩遅れて支える。
停止線の左右で受けの手が割れた。脚まわりに粉塵ミストを当てる班がホースを引き、床に落ちる灰をすぐに掻き寄せる者がいる。冷却ラインを持った者が接続口の前で待ち、別の者が端末を抱えたまま機体の温度と残量を追い、指差しで合図を回す。
バッファローが位置を外すと同時に、ストレイの足元へ固定員が潜り込む。
「冷却を先に入れる。主電は落とすな、熱が残ってる」
『VOLK1、停止線でホールド。固定班、進行』
ストレイが停止位置に収まると、固定班が一気に入った。胸の固定が掛かり、腰が締まり、足元のロックが噛む。指差しの確認が続き、最後にチェックの声が重なった。
「固定完了。次、冷却ライン。数値回せ」
白い噴霧が脚まわりを洗い、灰が床に落ちた。落ちる量が多い。短い舌打ちが聞こえ、声が続く。
「次は、戻る分を残して帰れ。機体を削ると、最後にお前が削れるんだぞ」
アキヒトはコクピットの中で、外の声を聞いていた。受け流さない。ヘッドセット越しでも、怒鳴りの鋭さと、手が止まらない気配が分かる。視線を正面に置き、指先を外さず、表示の揺れだけを追った。
〈戦闘ログを報告します。交戦時間、二十五分二十秒。被弾、外装四。致命的損傷なし。推進の最大出力、制限域に到達。帰投時の残量、二パーセント。姿勢補正の介入、三十七回〉
〈パイロット状態。心拍、上昇傾向。反応時間、低下。視線固定時間、延長。手の震え、検出。休息を推奨します〉
返事をしない。画面を閉じる前に、補助ログの別ウィンドウが残った。
[操縦者入力なし/感覚負荷緩和フィルタ 一時展開/〇・一八秒]
[操縦者入力なし/同期深度 上限抑制/〇・一二秒]
その下に、見覚えのない記録があった。
脅威回避動作 予約
実行時刻 14:22:08.442
操縦者入力 14:22:08.447
音声断片/分類不能
『大丈夫』
発話主体推定:NORN
一致率:七十一パーセント
アキヒトはその行を、もう一度見た。
ノルンは音声を発しない。状態を読み、数値で返す。それがノルンだ。だが記録はある。分類不能のまま、ログに残っている。
HUDの端に監視が流れる。
心拍‐118
呼吸‐18
酸素 97
体温 36.8
反応遅延 +0‐12
手の震え 低
視線固定 高
外では冷却の声が続き、工具が床を滑らないように置き直され、次の機体へ向かう足音が重なる。外部カメラの端を、バッファローの黒い影が横切ってゆっくり離れた。アキヒトはそれを追わない。文字列が途切れず、淡々と次の行へ移っていく。
*
キーテラは灰から出る。観測記録でもそうなっているし、現場で見ていてもそうとしか言いようがない。灰の深い窪み、流れの沈む地形、崩れた建物の根元。何もなかった場所から脚が出て、殻が持ち上がり、数が揃う。規則はある。だが、規則が分かったところで、次の一群を止められるわけじゃない。
キーテラは一種ではない。蟻型、蜘蛛型、甲殻類型がいる。形も違えば、白帯へ触りに来る手順も違う。それぞれが別々のことをしているようで、結果は同じだ。白帯の流れを鈍らせ、止める。
以前は、まだ単純だった。数で来る。脚を落としても寄ってくる。面倒だが、読めた。
今は違う。蜘蛛型の種類が増えた。高く跳ぶ個体がいる。RFの頭を越える高さまで一気に来る。酸の糸を吐く個体もいる。最近は大型も混じる。一回り大きいだけの話じゃない。混じった瞬間、群れの向きが揃う。散っていたものが急に一点へ寄り、白帯のどこを噛めば崩れるか、最初から知っているような寄り方をする。
それを現場で見るたびに、照準を一拍遅らせる。優先順位を組み直す。その一拍が積み重なって、いつか取り返せない遅れになる気がする。
知性がある、とは思わない。そう呼ぶには雑すぎる。知性があるなら、退くべき場面で退くだろう。損耗を見て向きを変えるだろう。キーテラは違う。脚が半分なくても、胴を引きずってでも来る。考えた末の動きじゃない。
だが、知性がないで済ませるには、群れの動きが整いすぎている。
そこが薄気味悪い。
なぜ白帯を狙うのか。
答えはまだ出ていない。熱源、振動、導光機材、人流。仮説はいくつもある。だが、どれかひとつで片づくなら、もっと単純な当たり方をする。人が多いから来る、では足りない。それなら都市そのものが毎回狙われるはずだった。だがそうはならない。キーテラは白帯へ来る。面ではなく線へ寄る。広く散ったものではなく、細く続く流れへ集まる。
理由は分からない。分からないものが、前より手際よく白帯を狙う。それだけで十分に厄介だった。
*
死ぬこと自体には、もう驚かない。
死体の形にも、潰れ方にも、声の途切れ方にも、いちいち意味を求めなくなった。続けるために切ったものはいくつもある。切ったままで戻していない。
だが、勘定は見る。弾は減る。機体は削れる。整備の手も時間も要る。白帯は一本守って終わりじゃない。次がある。その次もある。キーテラは減っているように見えて、別の場所でまた揃う。こっちは一戦ごとに摩耗していくのに、向こうは形を変えて戻ってくる。
RFが戦い続ければ、いつか押し切れるのか。
そうは見えない。
現場で対処はできる。今日の一群を止めることはできる。だが、対処できることと、追いついていることは違う。こっちが一つ覚えれば、向こうは別の形を持ってくる。そのたびに現場は手順を増やす。持ちこたえているだけで、勝っている感じはしない。
いつか、追いつけなくなる時が来るのかもしれない。
弾が尽きるとか、機体が足りないとか、そういう分かりやすい終わり方じゃない。理解する速さより、向こうが形を変える速さが上回る。そういう崩れ方だ。もしそうなったら、白帯はどこまで持つのか。人間はいつまでこの世界で生きていられるのか。
答えが出る前に、今日の白帯は切れるかもしれない。
それがいちばん現実に近い。
遠い疑問は残る。残るが、目の前の損耗の方が先に来る。子どもが一人、白の外へ足を出す。列が詰まる。搬送が止まる。その間に、次の群れが寄る。そういう順番で壊れる。世界の終わりも、たぶんそういう壊れ方をするんだろうと思う。大きな答えが出る前に、守れない区画が一つずつ増えていく。
自分にできることは限られている。
足りるのかは知らない。知らないが、足りないかもしれないと知ったまま撃つしかない。
結論の出ない問いを抱えたまま、照準を戻す。今日の一群を落とす。自分の番は、そこまでだ。
To the Next Sortie.




