35.妃殿下の職業体験、終了……のはずでした END
昨日で、妃殿下の騎士団での職業体験が終了した。私は執務室の椅子に深く腰を下ろし、机の上に積まれた報告書へ目を向ける。
思えば、前半は本当にいろいろあった。第六小隊への配属、その日のうちに中隊長代理。魔獣の群れを殲滅。騎士団長との手合わせ。そして、世界樹を狙った侵入者の捕縛と尋問。
特に最後の一件では、妃殿下が放った一言で間者が次々と口を割ったという報告まであった。あの時は、また何か起こるのではないかと身構えていたものだ。
ところが、後半は、驚くほど平穏だった。少なくとも、私の胃が痛くなるような大事件は起きなかった。
「……本当に、見落としていることはなかっただろうか」
私は侵入者騒動の後に届いた報告書を読み返した。
『本日、妃殿下は効率的な甲冑の磨き方を伝授されました。』
騎士団での職業体験なのだから、騎士たちの仕事を体験するのは当然だ。まあ、「伝授」と書かれている以上、妃殿下が騎士たちに何か効率のいい方法を教えた、ということなのだろう。
『追伸。お母様が、庭に咲いた花を見ながら、「オスカーが好きな花ね。一緒に見たかったわ」とおっしゃっていました』
この日の私は心の中で叫んだ。『妻よ、私は帰る。帰るから、もう少しだけ待っていてくれ』、と。
『本日、妃殿下は書類整理と備品チェックを行いました。単調な作業を苦手とする隊長たちの分まで、妃殿下が率先して処理しておりました』
書類整理と備品チェック……それは、ずいぶん助かっただろうな。妃殿下はこういう地味な仕事も嫌がらない。むしろ、効率を考えて作業そのものを改善してしまうだろう。隊長たちが喜んでいる姿が目に浮かぶ。
『追伸。明日お帰りになると聞きました。ついでに、シュクル洋菓子店のキャラメルサンドを手土産に買ってきてください』
追伸を見て、この日、私は手帳を開き、大きく『シュクル洋菓子店、キャラメルサンド』と書き込んだ。きっと、妻が欲しいと言っているのだ。絶対に買って帰ろう。これだけは絶対に忘れてはいけない。そう思った。
しかし、シュクル洋菓子店のキャラメルサンド。ものすごく並んだぞ! 王都の者の視線も痛かった。ついでで頼むようなものじゃないだろう。
結果、手土産を一番喜んでいたのはアリシアだった。欲しいのはお前だったか……とは思ったが、喜んでいる顔を久しぶりに見れたから良しとした。
『本日、妃殿下は王都を巡回いたしました。「逃げた子猫の捜索」「迷子の案内」「重い荷物を抱えた方のお手伝い」など、民に寄り添った仕事をこなされました』
思わず笑みが漏れた。魔獣を相手に戦ったかと思えば、今度は子猫を探している。騎士団の仕事というものを、ずいぶん幅広く体験されたようだ。
だが――。
『追伸。お父様が、お仕事に出かけられた後、「やっぱりたまに会うくらいがちょうどいいわね」とお母様が笑っておりました』
こっちは笑えない。
『最終日、騎士団長から「感謝状」と「中隊長代理の記念バッジ」を贈呈されました。送別会では、多くの騎士が涙を流しておりました』
中隊長代理の記念バッジ。作ったのか? 送別会まで開いてもらい、さらに別れを惜しまれるなど、騎士たちの心をつかんだという証拠だな。何よりだ。
『追伸。妃殿下が、次の職業体験は魔導具開発院か法務院がいいわね、とおっしゃっていました』
「…………」
私は報告書を持ったまま、天井を見上げた。魔導具開発院と法務院か。どちらも王宮にとって重要な機関だ。……いや、まだ決まったわけではない。ただの希望だ。
「追伸だけは、相変わらず胃に悪いな」
私は深々とため息を吐いた。
さて、時間だ。これから私は、国王陛下の執務室へ呼ばれている。おそらく、妃殿下の次の職業体験先について話し合うためだろう。報告書に書かれていた、魔導具開発院か法務院か。
国王陛下も王太子殿下も、こと妃殿下に関してはとことん甘い。おそらく今回も、妃殿下の希望がそのまま通ることになるのだろう。
そうなる覚悟だけはしておかなければならない。
◇
私は扉の前で一度だけ息を整えた。
「宰相オスカー、参りました」
「入れ」
許可の声を聞き、私は扉を開けた。中へ入ると、やはり思っていた通り、国王陛下、王太子殿下、そして王太子妃殿下がすでに揃っている。
だが、何やら様子がおかしい。
妃殿下は俯いているし、国王陛下は、なぜか視線をあちらこちらへ彷徨わせている。そして王太子殿下だけは、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべているが、目が、笑っていない。
……どういう状況だ?
私が席へ着くと、王太子殿下が口を開いた。
「オスカー。セレスティーナの職業体験は、今回で終わりにすることにしたよ」
「……え?」
終わりにする? 私は反射的に妃殿下を見た。
「ひどいわ、ギルバート……」
妃殿下の目尻は、わずかに赤くなっている。私は無言で二人を見比べた。一体、何があった。
「オスカー。実は昨日、セレスティーナが、夜間巡回を担当する騎士の代わりに、夜の巡回へ出たんだ」
「それは……」
王太子殿下の言葉を聞き、私は再度、妃殿下へ視線を向ける。
「送別会の時、その騎士の娘さんが誕生日だと聞いたの。それなら、少しでも早く帰ってあげたほうがいいでしょう? だから、私が代わってあげただけなの」
なるほど……事情は理解できた。いかにも妃殿下らしい。
「君がやる必要があったのかな? 朝、目が覚めたら隣に君がいなかった私の気持ちが分かるかい?」
王太子殿下の声は穏やかだった。だが、穏やかなだけに怖い。
確かに夜間巡回は危険を伴う。いくら妃殿下が強いとはいえ、夫として心配になる気持ちはよく分かる。
「一日の始まりと一日の終わりに見たいのは君だ、そういつも言っているだろう?」
ん?……どうやら、少し違うようだ。王太子は、寂しかったのか?
妃殿下がは再び押し黙る。国王陛下は、完全に気配を消している。
痴話喧嘩に、巻き込むのはやめてほしい。
「だから、セレスティーナ。職業体験は、ここで終わりにしよう」
妃殿下は俯いたままだ。そして王太子殿下は、私へ視線を向けた。
「オスカーも、セレスティーナの職業体験はここで終わりにしたほうがいいと思うだろう?」
ふと妃殿下を見ると、助けを求めるような目で、こちらを見ていた。
「そうですね、私もそう思います」
それが一番安全だ。何より、私の胃にとっても、そのほうがいい。だが、妃殿下の顔が、まるでこの世の終わりを迎えたかのように曇っている。
……ここで終わらせるのは、少し可哀想かもしれない。
気づけば、私は口を開いていた。
「その、もし可能であれば……実は、妃殿下の職業体験の成果というか……妃殿下に色々とやっていただいたおかげで、私の仕事が立て込んでおりまして」
私は自分が何を言っているのか分からなくなってきた。
「妃殿下。よかったら、私の補佐官の仕事を体験してみますか?」
「え?」
妃殿下の顔がぱっと明るくなる。
「各部署とのやり取りも多いですし、書類の整理や確認など、王宮内の様々な仕事について理解を深めることもできます」
せっかく職業体験を終わらせられる流れだったのに、なぜ私から新しい職業体験先を提案しているのだろう……。
「なるほど。それなら、宰相がセレスティーナを見ていることになるね。補佐官だったら許可してもいいかな?」
王太子殿下が少し考えたあとそう言い、国王陛下へ視線を向けた。
「うむ。それなら安心だな。オスカーがセレスティーナを見てくれるのなら、私も反対する理由はない」
陛下は、あっさり頷いた。
「オスカー、ありがとう! 私、きっと役に立つから!」
「……ええ、まあ」
私は乾いた笑みを浮かべる。
「ギルバートも、ありがとう!」
妃殿下が王太子殿下へ微笑む。先ほどまで険悪だった二人が、すっかり元通りになっている。……夫婦喧嘩が収まったのなら、それでいい。
「では、私は準備がありますので、これで失礼いたします」
「オスカー、明日からよろしくね!」
妃殿下は嬉しそうに手を振る。その顔には、先ほどまでの落ち込みなど欠片もない。私も、つくづく妃殿下に甘い。
「お父様」
「うわっ!」
廊下に出ると、突然、後ろから声がした。振り返ると、そこにはアリシアが立っていた。
「アリシアか。何だ?」
呼ばれる前に声をかけてくるとは珍しい。私は少し警戒しながら尋ねる。すると、アリシアは満面の笑みを浮かべた。
「妃殿下の味方をなさるとは、お父様を見直しましたわ!」
見直した? どういうことだ。
今まで私の評価が低かったような言い方ではないか。
シュクル洋菓子店のキャラメルサンドを並んでまで買ってきたやったのは、私だぞ。
「……アリシア、もちろん、お前も補佐官として手伝うのだぞ」
「喜んで! じゃあ、私は戻りますね」
これ以上ないほど嬉しそうな顔をして妃殿下のもとへ戻っていく。仕事が増えるというのに、なぜ本人たちはこんなにも嬉しそうなのだろう。私は思わずため息をつきかけた。
だが、明日から、妃殿下とアリシアが並んで仕事をしている姿を想像する。
妃殿下はきっと目を輝かせながら一つひとつの仕事を覚え、アリシアはそんな妃殿下を嬉しそうに手伝うのだろう。
「まあ、いいか」
ここ最近積み上がっていた仕事も、二人が手伝ってくれれば少しは片付くかもしれない。いや、二人が張り切りすぎて、かえって仕事が増える可能性も十分にあるのだが……。
そんなことを考えながらも、私は小さく笑っていた。
END
以下、おまけの宰相side です。
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「ティナ様が、財務諸表のミスをすべて修正しました!」
「ティナ様が、『効率的な徴税システム』を組み上げ、役人たちを全員論破しました!」
「ティナ様が、向こう十年分の予算案を完璧に組み上げてしまいました!」
「ティナ様が、不正を働いていた貴族たちを数学的に追い詰め、再起不能にしました!」
「ティナ様が、王宮の予算を一日で使い切り、その三倍の利益を出して戻ってこられました!」
「ティナ様が、隣国の外交官を論破して泣かせています!」
「…………」
疲れた……。
妃殿下が私の補佐官として職業体験を始めてからというもの、毎日のように補佐官たちの報告が飛び交っていた。
実際、妃殿下のおかげで助かっている。助かってはいるのだが――。
財務諸表の誤りを見つければ、ついでとばかりに帳簿の流れそのものを見直す。
税制に無駄があると気づけば、効率的な徴税方法を考え、それを説明するだけでなく、反対していた役人たちを数字で完全に納得させてしまう。
予算案を見れば、数年先の支出まで予測して組み直す。
不正の疑いがある貴族を見つければ、感情ではなく数字と証拠だけを積み上げ、逃げ道を一つずつ潰していく。
挙げ句の果てには、王宮の余剰予算を一度使い切ったと思ったら、それ以上の利益を生み出して戻ってきた。
……何に予算を使って、何をどうすれば、そんなことになるのだ。
あと他国の外交官は泣かせてはいけない。世界樹に関して無理を言う外交官であったとしても。
「お父様、妃殿下のおかげで、滞っていた仕事がほとんど片付きましたね!」
「……そうだな」
「長年の懸案だった案件まで解決しましたし、王宮内の不正もかなり整理されました」
「……そうだな」
「少しお暇になるのでは?」
「…………」
私は返事をせず、窓の外へ視線を向けた。夕暮れの王都が、茜色に染まっている。
「……アリシア」
「はい?」
「妃殿下の職業体験が終わったら、家族旅行にでも行くか」
「まあ! いいですわね! お母様もきっと喜びます。そうですわ。海に行きましょう! 海がいいです!」
「海か……いいな、海」
青い海を眺めながら、家族とゆっくり過ごす。
「……少し、心を癒やしてくるか」
旅行から戻ったあと、妃殿下がご自分の仕事だけしてくれることを、今は静かに願っておこう。
※ありがとうございました!




