エピローグ
半年後。
亮太は、久しぶりに真之介と飲んでいた。
場所は、新宿の安い居酒屋。
亮太が焼き鳥を次々と口へ運ぶ向かいで、真之介はもずくを静かにすすっている。
「もう、顎は治ったの?」
亮太が尋ねる。
「うん。治ったんだけどさ」
真之介は顎をさする。
「なんか、噛み合わせが悪いんだよね」
「最近、女の子の方は?」
「それが、全然モテないんだよ」
「太ったせいかな」
真之介が笑う。
亮太はビールを飲みながら、その笑顔を見た。
あの日、志乃の彼氏に殴られてから、真之介の顎はわずかに歪んでいる。
普通にしていれば、ほとんど分からない。
けれど笑うと、片方の口元だけが不自然に引きつる。
昔のような人懐っこさはない。
どこか気味の悪い笑顔になっていた。
真之介自身は、それに気づいていないらしい。
「なんでだろうな」
亮太は何食わぬ顔で言う。
真之介も本気で首を傾げた。
「まあ、そろそろ彼女を大事にしろよ」
「そうだね。そうするよ」
そう言って真之介は、またその不気味な笑顔を亮太へ向ける。
◇
さらに半年後。
「誕生日おめでとう」
亮太の部屋で、二人はグラスを合わせた。
今日はエリナの誕生日。
二人が付き合い始めてから、ちょうど一年になる。
「もう一年経つんだね」
亮太が言う。
「こんなに安心して付き合える人、亮太くんが初めて」
エリナはケーキを食べながら笑った。
「本当に?」
「うん。今までの人といる時は、ずっと心配してたから」
フォークでケーキを小さく切り分ける。
「でも亮太くんの前なら、自然なままでいられる」
「そっか」
亮太は嬉しそうに笑う。
「俺も、エリナにはずっとそばにいてほしいなって思う」
ちらりとエリナを見る。
エリナはフォークをくわえたまま、恥ずかしそうに目をそらした。
◇
深夜。
エリナは亮太のベッドへ横になり、そのまま眠ってしまった。
亮太は隣に座り、寝顔をじっと見つめる。
顔の前で手を振ってみた。
反応はない。
亮太はそっとポケットへ手を入れ、小さな指輪の箱を取り出す。
エリナの左手を持ち上げ、薬指へゆっくり指輪を通していく。
ぎゅっ。
途中で止まった。
――あれ?
もう少し力を入れる。
ぎゅぎゅっ。
――なんだよ。サイズ、違うんじゃないか?
エリナの顔を見る。
目は閉じたまま。
亮太は慎重に、さらに指輪を押し込む。
すぽん。
ようやく薬指に収まった。
「よし。これで起きた時に指輪に気づくはずだ」
亮太が満足そうに呟く。
その時。
目を閉じているエリナの肩が、小刻みに震えていることに気づいた。
「……もしかして、起きてる?」
エリナはたまらず吹き出す。
目を開け、満面の笑みを浮かべた。
「やるなら、もっとスマートに決めてよ」
そう言って、薬指の指輪を嬉しそうに見つめる。
亮太は何度か口を開き、ようやく覚悟を決めた。
「俺と……」
エリナは言葉を最後まで聞かず、亮太に抱き着く。
「一緒に幸せになろう」
亮太が小さな声で言う。
エリナはその胸の中で、何度も頷いた。
その時だった。
テーブルに置かれたスマホが鳴る。
「こんな時間に誰だろう?」
時計は午前一時を過ぎていた。
亮太が画面を見る。
春香からの着信。
亮太とエリナは顔を見合わせる。
「……出てあげて」
エリナが言った。
亮太は頷き、電話に出る。
「もしもし」
「もしもし亮太?」
亮太はスピーカーへ切り替えた。
エリナは亮太の腕に抱き着く。
「どうしたの、こんな時間に」
『あ、あのね。新しい彼氏ができたんだけど』
「うん」
『その彼氏の家から、追い出されちゃって』
「どういうこと? もう夜中の一時だよ」
『なんか、怒らせちゃったみたいでさ』
亮太とエリナが顔を見合わせる。
「何て言ったの?」
『えーと……』
少し間が空く。
『エッチが早くて、時短でいいって』
『私は褒めたつもりなんだけど』
亮太とエリナは同時に額へ手を当てた。
「それは怒るよ」
『亜美にもお姉ちゃんにも電話したんだけど、誰も出なくて』
「そうか。とりあえず、タクシーで帰りな」
『うん。なんか、ごめんね』
春香の声が少し小さくなる。
『久しぶりに、亮太の優しい声を聞きたくなっちゃってさ』
「あのね、春香」
『何?』
「今、彼女にプロポーズしてOKもらえたんだ」
電話の向こうから、何も聞こえなくなる。
春香がどんな顔をしているのか、亮太には分からない。
長い沈黙のあと、細い声が返ってきた。
『……そっか』
「うん」
『おめでとう』
弱々しい声。
けれど、その言葉だけはちゃんと届いた。
亮太はエリナを見る。
エリナも、そっと微笑む。
「ありがとう、春香」
エリナもスピーカーへ顔を近づける。
「ありがとうございます」
短い沈黙。
『お幸せに』
『じゃあね』
通話が切れた。
◇
春香はスマホを下ろす。
夜の冷たい空気の中、一人で道路脇に立っていた。
その時、背後に誰かの気配を感じる。
春香は振り返った。
暗い道を見渡す。
しかし、そこには誰もいなかった。
『誰も追いかけない』
完




