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王城の軍議室は、怒号と机を叩く音で振動していた。
「ありえん! 断じてありえんぞ! 敵の前で宴会を開くだと!? 戦場を何だと思っている!」
顔を真っ赤にして吠えているのは、古参のベルンハルト将軍だ。
彼の言い分はもっともだ。戦場とは血と鉄の匂いがする場所であり、焼きたてのパンやワインの匂いをさせる場所ではない。
だが、私は怯まない(フリをする)。
隣に座るアイローン殿下が、無言の圧力――「失敗したら、わかってるよね?」という氷の視線――を送ってきているからだ。借金地獄か、物理的な死か。ならば私は、全力でプレゼンするしかない。
「将軍。敵将ガストンは『鉄壁』の男。ただ遠くからパンの匂いを送る程度では、彼は『毒ガスだ』『幻覚だ』と叫んで部下を統率するでしょう」
「な、なら、どうする気だ」
「簡単です。『実証』を見せつければいいのです」
私は卓上の駒を動かした。
「人間が最も心を動かされるのは、不確定な『希望』ではありません。目の前にある『格差』です。……これから行うのは、ただの炊き出しではありません。市場原理に基づいた、残酷な精神破壊工作です」
◇
その夜。国境の最前線。
闇に沈む敵軍ガリアの陣営とは対照的に、我が軍の陣地は真昼のように輝いていた。
私が発動させた作戦名、『オペレーション・最後の晩餐(ただし食べるのはこっち)』。
敵の弓矢が届かないギリギリのラインに、白いクロスを敷いた長テーブルをズラリと並べる。
そして、光魔法の魔石を惜しげもなく使い、そこを劇場のステージのように照らし出したのだ。
「さあ、みんな! 今日はパンもシチューもおかわり自由よ! 遠慮はいらないわ、敵のガストン将軍に聞こえるように、盛大に味わいなさい!」
私の号令で、サクラ役……もとい、選抜された兵士たちが大げさにジョッキを掲げる。
「かんぱーい!!」
「うめぇ! このベーコン、最高だぜ!」
「おいおい、向こうの連中は泥水啜ってるってのに、悪いなぁ!」
高笑いと食器の触れ合う音。
その光景は、暗闇と泥、そして空腹に苦しむ敵陣からは、まばゆい天国のように見えたはずだ。
ベルンハルト将軍が双眼鏡を覗きながら、冷や汗を流している。
「悪趣味な……。見ろ、敵兵たちが身を乗り出している。だが、ガストンが必死に止めているぞ。『幻術だ、惑わされるな』と」
「ええ、想定通りです。名将ガストンなら、そうやって精神論で抑え込むでしょう。……だからこそ、次の手が刺さるのです」
私は指を鳴らした。
第二段階。『手土産作戦』の開始だ。
先に捕らえていた敵の斥候兵――名をピエールと言ったか――を、縄を解いて連れてくる。彼は恐怖で震えていたが、私が手渡したものを見て、目を丸くした。
山盛りのパン、ホールのままのハム、そしてワインボトル。
「ピエールさん。貴方を釈放します」
「は、はあ!? こ、殺すんじゃないのか……?」
「まさか。我が軍は食料が余りすぎて困っているのです。だから、それを『お土産』に持って帰って、仲間と分けてあげてください。……ああ、別に『こっちに来れば食べ放題だ』なんて宣伝しなくていいですよ? ただ、美味しく食べてくれれば」
ピエールは涙を流して感謝し、ハムを抱えて夜の闇へ消えていった。
――数十分後。
静寂を保っていた敵陣で、爆発のような騒ぎが起きた。
「おい、ピエールが戻ってきたぞ!」
「あいつ、殺されなかったのか!?」
「ま、待て、その手に持ってるのはなんだ!?」
「肉だ! 本物の肉だぞ!」
見えた。
双眼鏡越しでもわかる。ピエールが持ち帰った「現実」を、飢えた兵士たちが取り囲んでいる。
そこで、ガストン将軍が動いた。
「馬鹿者! それは敵の罠だ! 没収する!」
ガストンがピエールからハムを取り上げようとした、その瞬間。
空気が変わった。
「……ふざけるな」
誰かが呟いた。
それは「恐怖」が「殺意」に変わった瞬間だった。
「俺たちの仲間が、命がけで持ち帰った食い物だぞ!」
「てめぇだけ太りやがって、その上、俺たちの肉まで奪う気か!」
「ピエールは殺されなかった! 向こうに行けば、殺されるどころか、こんなに良いモンが食えるんだ!」
疑心暗鬼は、動かぬ証拠(食料)によって粉砕された。
あっちに行けば助かる。しかも、腹一杯食える。
その「確信」が生まれた瞬間、もはや軍律など紙切れ同然だった。
仕上げとばかりに、私は風魔法部隊に合図を送る。
ダメ押しの、とろけるようなコンソメスープの香り。
――カラン。
誰かが剣を捨てた。
それを合図に、堰を切ったように敵兵が雪崩を打ってこちらへ走り出した。
「おーい! 俺も混ぜてくれー!」
「降伏する! だからその肉をよこせぇぇ!」
将軍ガストンの制止の声など、誰の耳にも届かない。彼は自軍の兵士たちに突き飛ばされ、泥の中に無様に転がった。
もはや戦争ではない。
これは、より良い待遇を求めて労働者が移動する、ただの「転職活動」だ。
◇
一夜明けて。
我が軍の収容所(という名の食堂)は、満腹で眠る元・敵兵たちで溢れかえっていた。
誰も死なず、誰も傷つかず。ただ備蓄食料が減っただけ。
砦のバルコニーで、ベルンハルト将軍が青ざめた顔で私を見ていた。
「……貴様、何をした? 魔法で洗脳でもしたのか?」
「いいえ。ただの『情報の非対称性』の解消です」
私は淡々と答える。
「彼らは『降伏=死』だと思い込まされていた。だから、ピエールを使って『降伏=宴会』という真実を提供しただけです。人間は、目に見える利益には勝てませんから」
「……恐ろしい娘だ。剣で戦えば、彼らは英雄として死ねたものを」
将軍は震える手で剣の柄を握りしめた。
その目にあるのは、恐怖ではない。生理的な**「嫌悪」**だ。誇りも名誉も、パンとハムの前にひれ伏させた私という存在が、どうしても許せないのだろう。
「戦場を、ただの計算式に貶める……貴様こそ、本物の怪物だ」
最大限の侮蔑。
しかし、私が何か言う前に、背後から冷ややかな声が降ってきた。
「……合格だ、エスペリア」
アイローン殿下だ。
彼は泥まみれで連行されていくガストン将軍(彼も結局、空腹には勝てずに投降したらしい)を見下ろし、嗜虐的な笑みを浮かべていた。
「正直、あの堅物ガストン相手に、ここまで鮮やかにやるとはね。……もし君がただの『口だけの女』なら、あのガストンと一緒に処分しようかと思っていたんだが」
ヒヤリと、心臓が凍る音がした。
殿下の瞳は笑っていない。
この人は本気だ。私が無能なら、笑顔で切り捨てていただろう。
「溺愛」? とんでもない。これは「品定め」だ。
「君は有用だ。とても価値がある。……だから、錆びつかないでくれよ? 僕の大切な道具として」
頭を撫でられる。
甘い毒のような賞賛。背筋が震えるほどの緊張感。
なのに、私の壊れた脳内回路は、それを「最大の承認」として処理し、快楽物質を垂れ流してしまう。
(あ、やばい。認められた。……首の皮一枚繋がった……!)
「は、はいっ! もちろんです殿下! 次は何を潰しましょうか? 経済圏ですか? それとも宗教的権威ですか?」
怯えと喜びが入り混じった声で媚びる私を見て、殿下は満足げに目を細めた。
「……宗教的権威、か。良いね」
殿下の視線は、遠く敵国の首都の方角へと向けられた。
そこには、「清貧」と「愛」を説き、今回の戦争を裏で扇動したとされる「聖女マリアンヌ」がいる。
「金も食料も欲せず、ただ『祈り』のみで民を動かす聖女……。彼女の起こす『奇跡』すら、君の計算式で暴けるのかな? ……期待しているよ、僕の魔女」
試すような問いかけ。
これは、次のテストだ。失敗すれば、私は用済みになる。
その恐怖と快感が入り混じる中、私は震える声で答えた。
「もちろんです。神への愛もまた、一種の投資行動ですから」
その言葉が、次なる泥沼の宗教戦争の幕開けだとも知らずに。
エスペリアは、こうして引き返せない覇道を、また一歩進んでしまったのだった。




