狩猟パーティーは滞りなく進行する(後)
王都エレシス郊外 シルベスタ侯爵家の別荘
つややかな黒髪を複雑な形に結い上げた妾妃フィリナの手を取り、太陽神の神官であるデニスは大広間の中央に進んだ。その表情にはわずかの緊張感も見られない。
『虹の精霊の円舞』という難曲を失敗の許されぬ状況で踊らなければならないというのに、それも急遽決まった代役だというのに、デニスはそのことを楽しんですらいるようだ。
楽団の華麗な演奏にのせて堂々たる舞踏が始まった。変則的な調べに合わせて二人の動きは速さを増していく。一部の隙も無い足さばきには感嘆するしかなく、完璧に計算しつくされた手と指先の動きからは片時も目が離せない。フィリナの瞳が挑戦的にきらめけば、デニスはそれをこともなげに受け止めさらに挑戦的な微笑みを返している。
不意にミラの脳裏に十年前のある日の出来事がよみがえった。
『十年たって、あなたの気持ちが変わらなければまたおいでなさい』
あの日、意を決して愛の告白(と当時は思っていた)を行った幼いミラに対してデニスはそう言ったのだ。ただし、心の底からおかしそうに大笑いした後で。
思い込みの激しいミラが一縷の望みさえつなぐこともできない情け容赦のない振り方である。しかしながらそれは一種の祝福であったかもしれない。長じてミラはデニスに関するさまざまな醜聞を耳にするに至り、自分が幼すぎたことを神々に感謝しつつ苦い記憶を心の奥の棚に厳重にしまい込むことになったのだから。
今現在、十七歳になったミラの隣にはマカーリオがいる。その事実をはっきりと実感したくてミラは彼の手にそっと触れた。驚いたことにその手から震えが伝わってきた。
「まさかとは思うけど……マカーリオ様、あなた緊張していらっしゃるの?」
ミラの囁きにマカーリオは我に返った様子で「いえ、なんでもありません」と呟いた。笑顔を浮かべるのを忘れているところからしてかなり緊張あるいは動揺しているのは間違いない。
「大丈夫よ。私たちが踊るのはもっと簡単なダンスだし……たとえ私の足を踏んでしまっても黙っていれば誰にもわからないわ」
安心させるように言うミラをマカーリオは深い紺色の瞳でじっと見つめた。彼女の視線を受けて、マカーリオは心のまどいを振り払うように癖のない銀髪を雑にかき上げた。
「ついつい考えてしまったのですよ。もしかしたらあの方は……」
「あの方って、デニス?」
「ええ。あの方こそが『フィロ殿よりも聡明で、ペトラ殿より武勇に長け、オクセイン殿よりも優れた美貌を持ち、ヴィトス殿よりも柔軟に実務をこなす、エラト殿に勝る踊りの名手』でいらっしゃるのではないかと」
ミラは思わず咳き込みそうになった。結婚相手に対するミラの理想の高さを皮肉った噂好きの宮廷人たちの言い様をマカーリオもどこかで耳にしたのだろう。
表情を隠すべく扇をゆるやかに使いながら、ミラは視線を優雅に踊り続けているデニスに向けた。確かにデニスならばそれらの条件にそこそこ当てはまるのかもしれない、と冷静に考える。ただしそれを言うならマカーリオとて大して引けをとるものでもなさそうだ。結論としてミラの胸中をそれがどうしたという気分が占領する。
ミラは扇を閉じ、澄んだ青い瞳でマカーリオを見据えた。
「マカーリオ様、私が好きなのはあなたよ。あなたがどんな方だからというわけではなくて、あなただから好きなの。私のことが信じられない?」
真正面からの告白にマカーリオは気圧されたように見えた。が、やがて彼の表情は晴れ晴れとしたものに変わっていく。
「もちろん信じますとも。私にとってあなたは幸運の女神にほかならないのですから」
いつの間にか音楽が変わっていた。マカーリオは微笑みながらミラの手を取り、踊りの輪の中へと誘う。ミラはからかうような口調でマカーリオに囁きかけた。
「私はただの人間よ。でも、貢ぎ物がおありならいつでも喜んで受け取らせていただくわ」
「なるほど。ではこれを」
軽やかにステップを踏みつつ、マカーリオはどこからか取り出した指輪をミラの左手の薬指にはめる。指輪そのものよりも踊りながら一連の動作を流れるようにやってのけた彼の器用さの方にミラは驚かされた。
「母の形見です。大きめでしょうから、後ほど直しに出していただかねばなりませんが」
マカーリオの言う通りだった。大粒のサファイアが付いたその指輪はともすればミラの薬指から抜け出しそうになってしまう。そのことに気を取られたミラはうっかりステップを踏み間違えてしまった。あやうく隣で踊っていた伯爵夫人とぶつかるところだったが、マカーリオの素早いフォローで事なきを得た。
ごめんなさいと目線だけで謝ったミラに対して、彼は涼しげな表情のまま何も気づかなかったように踊り続けている。
(……本当にこの人は完璧な貴公子なんだわ。だからこそ神々の嫉妬を受けて、そこらの凡人より不運な目に合うことがはるかに多いのかもしれない……)
ゆったりとした曲調に変化したところでミラはこっそり思いを巡らせた。
(今回の計略だって……どこかで失敗する可能性がまったくないわけじゃないもの。カレドの神官たちが賄賂だけ受け取って知らん顔するとか、正義感ぶったラディ王家の誰だかが計画を台無しにするとか、スフェーラの最高神殿で神殿長が今さら唐突に良心に目覚めてしまうとか……そうなったら、平穏に事をおさめるのなんて夢物語になってしまう)
曲が再び速さを増した。マカーリオの腕から離れ、ミラはしばし一人で踊らねばならない。やや複雑な振り付けを見事にこなし、くるりと一回転して腕の中に戻って来た彼女にマカーリオは幸福そのものといった笑顔を見せた。
(でも……この人となら何とか乗り切っていけるに違いないわ。お父様だってお兄様たちだって全面的に協力してくださるだろうし、あんまり信用ならないけどデニスも一応頭数に入れておいてもよさそうだし……それに本当にどうしようもなくなった時には、今度こそ全てを捨てて二人で別の大陸にでも渡ればいいのよ)
この一か月余りで簡単な料理ならば作れるようになっていた。大きな獣を捌くのはやはり無理そうだが、よくよく考えてみればそんな機会はごくごく稀だろう。裁縫に関しても、縫い目が多少不揃いにはなるものの大体まっすぐに縫えるようになりつつある。お針子として生計を立てるにはほど遠いが服のほころびを繕うぐらいはなんとかなりそうだ。
あとは古典の勉強時間を減らしてその分を外国語の勉強にあて、護身術の訓練もこれまで以上に真剣に取り組まなければとミラは自身の今後の予定を熱心に組み立てる。
一つの曲が終わり、次の曲が始まるまでの間にミラはゆるぎない口調でマカーリオに告げた。
「大丈夫。あなたとなら必ず幸せになれるはず」
「物語の中の王子と王女のように、ですか?」
「ええそうよ、私たちは末永く幸せに暮らすの」
『たとえどこにいようとも』と心の中で誓いながらミラはマカーリオに笑いかけた。それだけでは物足りず、わずかに背伸びをして彼の頬に唇を寄せる。周囲にいた幾人かは王女の大胆な行動に気づいたが、意味ありげな目くばせを送るような者は一人もいなかった。
壁際に並んだ五人の兄王子たちはそれぞれに安堵と寂しさの入り交じった表情を浮かべて二人の様子を見守っている。一方、太陽神の神官であるデニスは美貌をうたわれる公爵未亡人とともに大広間から姿を消していた。
舞踏会の終わり近く、アストラフトの第一王子であり地母神神官でもあるフィロによってアストラフトの第一王女ペリファニア・ミラとラディの第三王子マカーリオの婚約内定が発表された。
両名の婚約はおよそ二か月後、アストラフト、ラディの両王家に正式に認められた。そしてその一年半後には、大陸諸国からの招待客を集めた大々的な婚礼の儀式がつつがなく執り行われたのだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。今作はこれで完結となります。
レビュー、感想を書いてくださった方、評価をくださった方、ブックマークしてくださった方、誠にありがとうございました。幾度かの休止をはさみつつ、どうにか結末までたどり着くことができたのは皆様の応援のおかげです。
またお目にかかる機会があれば幸いです。




