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あたしはアヒル3  作者: るりまつ
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シークレットガーデン PM3:30



 ハナコは、ミネラルウォーターのたっぷり入った、白いホーローのコーヒーポットを火にかけた。

 スッキリとした、まるで岬の灯台のような形をした使い込まれたポット。

 そして哲郎が、カウンターテーブルの隅っこに固定された、鋳物いもののダイヤミルのハンドルを、縦にゆっくり回しながら、退屈そうにコーヒー豆を挽いている。

 小さな焦げ茶色の豆がすり潰される、小気味良い音をかき消すように、 強い突風が吹いて来て、ラウンジの大きな窓ガラスを震わせた。

 そして、窓に小石の当たるような音が立ち始める。



「雨だっ!」



 ホナミが叫び、ソファーから飛び上がるようにして窓に駆け寄ったので、井田も皿に残ったハグラ瓜の漬物をコリコリと噛みながら、つられて窓の外を見た。


 強い風に揺さぶられ、黒雲から一気にぶちまけられた雨粒は、ウッドデッキで激しく弾け、滑らかだった海面は、無数の雨の矢に刺されて傷だらけになった。


「やっと降って来たってカンジだけど……スゴイね……」


 ホナミは風に震える窓に手を付き、ここまで我慢した黒雲を呆れたように見上げて言った。


「ご馳走様でした」


 井田は瓜のかけらを飲み込んで、 きれいに平らげたイサキの刺身のトレーに、その辺にあったグラス類を乗せて、落さないよう慎重に立ち上がった。


 ハナコは壁に掛かった振り子時計を見て、それから窓の外に目をやった。

 左の岸から海へと伸びる堤防が、雨にけぶって薄い影のように見える。

 そしてショートパンツのポケットに手を突っ込むと、電話もメール着信の気配も無い、パールホワイトの携帯電話を取り出して眺めた。



  タケル、もう海から上がったかしら……



 哲郎は、ハナコの半ば伏せられた瞼の先で、 長い睫毛がそっと下を向くのを見ながら言った。


「終わったよ」

「えっ?」


 ぼんやりと携帯を眺めていたハナコは、その声にハッと顔を上げた。

 すると哲郎が、コーヒーミルの木の受け皿をそっと摘まみ出し、 中の粉をこぼさないよう、大きな手を添えながらハナコの方に差し出していた。


「あ……ありがとう、哲郎さん」


 ハナコは携帯を再びポケットに仕舞って、哲郎からそれを受け取った。

 そして計量スプーンで清潔なネルフィルターに粉を移し、そのフィルターをステンレス製のやぐらにはめ込んで、

5人用のコーヒーサーバーの上にセットする。

 火にかけられたポットの注ぎ口から、白い湯気が立ち始めた時、 井田がちょうどトレーに乗せた食器類を運んできた。


「井田さん、そのまま置いといて。これ淹れたら、後は私がやるから」

「いえ、気を使わないでください……ボクも手伝います」


 井田は少しうつむき加減で、長い前髪で腫れた目を隠しながら、シンクの中に皿とグラスを並べて、洗い物を始めようとした。


 ひとしきり泣いたせいで、心に詰まった汚泥が洗い流されたのか、 今朝とは比べものにならないくらい、気持ちは軽くなっていた。

 しかしそれは『スッキリした』と言うよりは、『どうにでもなれ』と言うような 、開き直りの心境に近い気がした。


「じゃあコーヒーをお願いしても良い?社長が言ってたわ。井田さんが毎朝淹れてくれたコーヒーは本当に美味しかったって。……あの、男3人の共同生活は、なかなか楽しかったって」


 ハナコはそう言って優しく微笑み、それから窓にへばりついたまま、じっと外を眺めているホナミにも声を掛けた。


「ホナミンもこっちに来て。井田さんがコーヒー淹れてくれるって!」


 ホナミは振り向くと、後ろに手を組んでつま先立ちになり、つつつーっと、アイススケートをするようにカウンターにやって来て、 井田のちょうど正面になるスツールに腰掛けると、満面の笑みを浮かべた。

 そしてハナコは、鉄色の食器戸棚から小さな青い花模様が入った、ベトナム製のコーヒーカップとソーサーを4客取り出し、井田の前に並べると、あとはもうキッチンから出て、ホナミの隣に長い脚を組んで座った。

 井田は小さくため息をついた。

 そして観念したように、コンロの上で湯気を噴く白いコーヒーポットを見つめ、黙って火を止めた。

 そのポットは、ブルーガーデンの二階の台所に置いてある、井田の私物と同じメーカーの物だ。


 ショップの開店当初、御園生とスバル君が店の二階に泊まり込んでいた頃は、井田がいつも湯を沸かして、二人のために目覚めのコーヒーを淹れていた。

 そしてそのうち、スバル君が真似をしたがるようになり、店がヒマになると台所に上がって、午後のコーヒー当番を務めるようになった。


 『どうっすかね?美味いですか??』


 自信たっぷりにビンテージのマグカップを差し出すスバル君に、『いや、まだまだだな』とか言いつつも、美味そうに飲んでやると、スバル君は嬉しそうに笑った。


 『でもやっぱ、井田店長のコーヒーが最高っす』


 ついこの前の事なのに、もう終わった事だと実感すると、とてつもなく遠い出来事のように思えて淋しくなった。


 手近にあった布巾を畳み、熱くなったポットの柄を包んで持ち上げ、4つのコーヒーカップに少量の湯を注いで温める。

 それから、ポットの中でふつふつと沸騰する泡が収まっていくのを感じ取ると、井田は三人の見守る前で、ネルフィルターの中の茶色い粉に湯をさし始めた。


 神経質な鳥のくちばしみたいな注ぎ口から丁寧に湯をまわし、全体を万遍なく湿らせた所で手を止める。

 すると粗挽きされた茶色の粉は、ふっくらと息を吹き返したように盛り上がり、ほろ苦い中に甘さを含んだ強い香りが、瞬く間にラウンジ中に広がる。

 スツールに座った三人は、カウンターに肘を付き、うっとりとその香を楽しんだ。


「素敵……」

「うん、ホント、すげーいい匂い」

「たまんねーなぁ」


 井田の口元が少しだけほころんだが、もうその顔に、作り笑いが浮かぶ事は無かった。


 コーヒー豆が充分に膨張してふやけたのを確認すると、もう一度ポットを傾け、細い線のように一定に保たれた湯を、フィルターの中心から外に向かって、ゆっくり円を描くように器用に注ぐ。

 するとサーバーに少しずつ、こげ茶色の水滴が、降り始めの雨のように落ちていく。


 チロチロとコーヒーの雫が滴る音と、窓を叩く雨と風の音が重なるのを聞きながら、こうして4人でカウンターを囲んでいると、まるで核戦争の後、たまたまちっぽけなシェルターに居合わせたてしまった、気の合わない生き残りのために、最期のコーヒーを淹れてやっているような、諦めと優しさの混じった、なんとも不思議な気持ちになった。



  わりと悪くないかもね……



「なんか、ここ、最高だね。アタシ、すっごい気に入った!こんなことならリョウさん、最初にここに連れて来てくれたら良かったのに」

「……そうだね、ボクもそう思うよ」


 勝手な事を言うホナミに、もう腹立たしさを感じることさえ無かった。


「あら、でもそしたら、へタレでササラ君には出会えなかったわよ?」


 いたずらっぽく言うハナコに、ホナミがまた脳天気に答える。


「そっか!あれはあれでスリルがあって楽しかったもんね、リョウさん」

「まあ今思えばね。でももう、二度とごめんだけど」


 井田は肩をすくめ、そしてその顔にようやく自然な笑みが浮かんだ。

 それを見て、他の三人も穏やかに笑った。


 散々な目に遭った気もするけれど、今となってはもうそれも終わった事の一つ。

 遠い出来事になっていく。あんな事もあったよね、と。

 

「あーあ、また来たいな。ねえ、ハナコさん、また来ても良いスかね?」

「もちろんよ、ホナミン。今度はお天気の良い時に、井田さんに連れてきてもらうといいわ。 今日はこんなになっちゃって本当に残念……」


 ハナコはそう言いながら、スツールを回転させて後ろを振り向き、また窓の外と時計に目をやった。

 時計の短針は3を過ぎ、長針は6の辺りを指していた。


「大丈夫かしら……」  


 思わず独り言が口をつく。


「何が?」


 哲郎はそれを聞き逃さず、片肘を突きながらハナコの方を見て訊いた。

 心の奥を見透かすような視線に晒され、ハナコは一瞬たじろいだ。

 そしてその視線から逃れる様に立ち上がると、再びキッチンに入って井田の横に並び、4つのカップに入った湯を一つ一つ捨てながら、取って付けたように答えた。


「明日になったら……海岸にきっと色んなモノが流れ着くから……イヤだわと思って。大したこと無ければ良いんだけど……」

「色んなモノって?」


 ホナミが好奇心に満ちた目で訊いてくる。


「うーんそうね、、、例えば大きな流木とか、根こそぎ千切れた長い海藻が、岸を埋めつくすほど流れ着くこともあるわ。あとはとにかくゴミとか……色々よ」

「へーそうなんだ。海のそばに住むってのも、それはそれで大変なんだね!」


 それを聞いて哲郎も、スツールを軋ませながら後ろを向くと、カウンターテーブルにもたれる様にしてポツリと呟いた。


「あと、たまに死体とかな」


 ホナミはギョッとして「うそっ!?」と短く叫んで哲郎の横顔を見た。

 井田も思わず手が止まった。


「本当だよ。台風の時に限らずだけどな。船の事故の後とか、釣り人が波にさらわれたりすると、入り江はそういうのが吸い寄せられて来る。仕方ねえんだ」

「へ~」

「この入り江は昔から、女の水死体がよく流れ着く。自殺のな」

「えっ?!ハナコさん、、、ま、マジですか?!」


 井田は手を止めたまま、すぐ横に立っているハナコに訊いた。

 そんな話は、御園生からも聞いた事が無かった。

 コーヒーの雫が、ポタポタと落ち切って止まる。


「ふふ。私がここに来てから、そういう事は一度も無いけど、昔は良くあったみたいよ」


 なぜそこで、ハナコが他人事のように笑えるのか、井田には不思議でならなかった。


「そしてそれをサメが食いに来る!ガオオオオオーーー!!!」

「ひえーーっ!! うそぉっ?!?!」


 つまらない事を言って、単純なホナミを脅かそうとする哲郎に、ハナコは呆れたように言った。


「哲郎さん、サメはガオーッなんて言わないでしょ。それじゃまるで猛獣じゃない」

「ん?そうか??でも鮫は海の猛獣みたいなもんだろ?ハハハ」

「この辺のネコブカは、そんな獰猛なサメじゃないわ」

「ネコブカ?」


 井田はコーヒーサーバーからネルフィルターのやぐらを外し、聞き慣れない言葉を繰り返した。


「そう。猫のフカ。フカって言うのはサメのことよ。猫ザメ。サザエとか貝を食べる大人しい鮫でね、この入り江の奥には割とたくさん住み着いてるのよ。それで夜中になるとね、胸ビレを肘みたいに使って貝を探すんだけど、それがまるで、人間が海底を這いずり回っているように見えるの」


「人間が海底を這いずりまわる……?」


「そう」


井田とホナミと哲郎は、それぞれ頭の中で、

 

『サメの顔をした人』

『猫の顔をした人』

『人の顔をしたサメ』


 が、海底をズルズルと匍匐ほふく前進する様を思い浮かべた。


「な、なんだか気味が悪いですね」

「そうかな、けっこうウケるかも」

「海でご対面したくはねぇな……」


 それを聞いてハナコは、どうってことないように笑って言った。


「そう?私なんて夜中に泳いで見に行ったことあるわよ。一人で。可愛いもんだったわ、口の辺がモヨモヨしてヒゲっぽくて、茶色いまだら模様で、本当に猫みたいな顔してるの」


 井田は思わず目を見開いた。


「えぇっ!?ハナコさん、夜中にここで泳ぐんですか?一人で?!」

「そう。月明かりのある夏の夜はね、裸で素潜りするの。すっごく気持ち良いわよ」


 そしてナイショね、と言うように、形の良い唇に人差し指を当てて見せた。

 するとホナミが、まるでクイズに答える回答者のように、張りきった声で叫んだ。


「あ、分かった!フカ女って、ハナコさんのことだ!!」


 そしてさらに続けた。


「ササラ君が言ってた。シークレットガーデンのフカ女って!」


 井田は、顔を引きつらせて、さっとハナコの顔色を伺った。

 哲郎はこちらに背中を向けたままで、特に反応を示さない。

 確かにへタレで、ササラは独り言のように呟いた。



『タケル?あんのやろ~、、、またフカ女のところに入り浸ってやがんのか』



 鮫女……



 それはどう考えても、好意を持つ相手に対して使う言葉ではないように思われる。

 そしてそれを聞いた時、井田自身も、それはきっとハナコの事だろうと思ったのだけれど。


 ハナコは井田に代わってコーヒーサーバーに手を伸ばし、 静かに目を伏せ、温められた花模様のカップにゆっくりとコーヒーを注ぎ始めた。


「ふふふ……ササラ君らしいわね。光栄だわ、フカ女なんて。私にピッタリ」


 黒雲が空を覆って渦を巻き、 激しい雨が、中に入りたいと言うように、たんたんと窓ガラスを叩き続ける。




「フカ女の話し、聞きたい?」




 時計の短針は限りなく4に近づいた。









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