75話 星環の祭壇
75話 星環の祭壇
王都西門の内側には、すでに選抜された近衛騎士たちが整列していた。
夜明け前の空はまだ薄青く、東の地平だけが白み始めている。冷えた朝の空気の中、馬たちの吐く息が淡く揺れた。
四枚の石板を納めた運搬箱は、それぞれ専用の荷馬車へ固定されている。革と毛織物で幾重にも保護された箱には王家の封蝋が施され、周囲を近衛騎士が固めていた。
先頭には近衛騎士団長ダリウス。少し後ろにレオンハルト王が乗る馬車と、その左右を守る副団長ガレスとクラウディア。
オーウェンとリアナは出発前から隊列の外側を巡り、周辺に異常がないかを確かめている。エリオットは物資と伝令の配置を最後に確認し、アルヴィンは古い調査記録と筆記具を革鞄へ収めていた。
そしてエレノアはシリルの馬へ乗り、夜明け前の冷気を避けるため厚手の外套を纏っていた。
背後に跨るシリルは、エレノアの両側から腕を伸ばして手綱を取り、揺れた時にはすぐ支えられる距離を保っている。
「出発する」
ダリウスの声が静かに響く。西門がゆっくりと開かれた。重い扉の向こうには、朝靄に包まれた街道が伸びている。
一行は静かに王都を発った。
◇
王都西方の街道は、まだ人通りが少なかった。
朝露を帯びた草原の向こうで、緩やかな丘が幾つも連なっている。振り返れば、白亜の王城が朝日を受け、運河の水面とともに淡く輝いていた。
整備された街道を外れたのは、出発から半刻ほど経った頃だった。
オーウェンが馬を止め、地図と周囲を見比べる。
「ここから旧道へ入ります」
道と呼ぶには細すぎる獣道が、低木の間へ伸びていた。かつて街道だった面影はほとんどない。草に覆われ、ところどころで地面が崩れている。
ダリウスが周囲を確認する。
「荷馬車と陛下の馬車はここまでだ」
石板の運搬を担当する騎士たちが、すぐに馬から降りた。箱の固定具が外され、左右についた持ち手へ二人ずつ手を掛ける。
重い木箱が、慎重に荷台から下ろされた。
レオンハルトも馬車を降り、ガレスとクラウディアがすぐにその左右へつく。
「ここより先は徒歩で進む」
ダリウスの指示に従い、隊列が組み直される。そして森へ入る前に、一度だけ全員を見渡す。
「ここから先、単独行動は禁止だ。異変を見つけても、勝手に近づくな。必ず報告しろ」
「はっ」
低く揃った返事が、朝の森へ吸い込まれていく。
エレノアは足元へ視線を落とした。
湿った土には露に濡れた草や折れた枝が散らばっているだけで、人が通った形跡はなかった。
調査記録が残されたのは、千三百年ほど前。リーヴェル王国が建国されて間もない頃だ。それから長い年月、ここを訪れた者はいなかったのかもしれない。
「足元を見ろ」
前からシリルの声が届く。
「はい」
エレノアが返事をすると、彼は一度だけ歩調を緩めた。道はまだ平坦だったが、森へ近づくにつれて木の根が地表へ露出し始めている。
エレノアが無理なくついていける速さへ、自然に歩調を合わせているのだろう。本人は何も言わない。エレノアも何も口にはしなかった。ただ、その背中から離れないよう足を進めた。
しばらく歩くと、木々の隙間から三つの丘が見えてきた。どれも高くはない。丸みを帯びた丘陵が、ほぼ等間隔に並んでいる。
「調査記録の地形と一致します」
アルヴィンが革鞄から写しを取り出した。
粗い線で描かれた三つの丘。現実の景色と見比べれば、その形は驚くほど近い。
エリオットも現在の地図を開く。
「地図に残っているのは、中央の丘だけですね」
「左右は森林の一部として扱われたのでしょう」
アルヴィンが答える。
樹木が成長し、地表を覆ったことで、遠くからは一つの森にしか見えなくなっていた。
オーウェンが先へ進み、地面を確かめる。
「こちらに水の跡があります」
全員が視線を向けると、三つの丘の手前を、一筋の小川が流れていた。水量は多くない。それでも透明な水が朝日を反射し、静かな音を立てている。
記録によれば、この流れは森の中で二つに分かれ、丘の裾を巡ったあと再び一つになるはずだった。だが、今そこにあるのは一本だけだ。
リアナが川の左側へ進み、草を掻き分ける。
「こちらです」
地面が緩やかに窪んでいた。細長い窪地が、森の奥へ続いている。底には水がない。代わりに湿った土と、厚く積もった落ち葉があるのみだ。
「昔はこちらにも川が流れていたのでしょう」
エレノアが呟く。
レオンハルトは、水の失われた窪地を黙って見つめた。各地から届いた、井戸の水位低下を告げる報告が脳裏をよぎったのだろう。
「急ごう」
穏やかな声だったが、そこには王としての焦りが滲んでいた。
アルヴィンはしゃがみ込み、窪地の縁へ露出した石を確かめる。
「水に削られた跡があります。記録にある二本目の流れで間違いなさそうです」
古い調査記録。石板の文様。星鏡庭園の星図。そこに記された特徴が、一つずつ現実の景色と重なっていく。
胸の鼓動が速くなる。
星環の祭壇は近い。
そう感じたのは、エレノアだけではなかったのだろう。騎士たちの空気も、先ほどまで以上に引き締まっていた。
ダリウスが三つの丘を見渡す。
「記録では、ここから南へ折れる」
オーウェンが頷いた。
「先行します」
「リアナも行け。互いの姿が見える距離を保て」
「はい」
二人は木々の間へ消えていった。残された一行は、その場で周囲を警戒する。
森には鳥の声と、風に揺れる葉擦れ、小川の流れる音だけが響いていた。それ以外に、不審な気配はない。
しばらくして、前方から白い煙が細く立ち上った。信号筒だ。白は、異常なし、進行可能を示す合図だ。
「進むぞ」
ダリウスの指示で、一行は再び歩き始めた。
森の中は、外から見た以上に深かった。
高く伸びた樹木が枝を重ね、朝だというのに薄暗い。木漏れ日が地面へ斑に落ち、苔むした岩や絡み合う根を照らしている。
古い道の痕跡は、ほとんど残っていない。ところどころ不自然に平らな石が並んでいるものの、土と落ち葉へ埋もれ、その全体像は分からなかった。
「調査記録では、三つの丘の中央付近に平地があるはずです」
アルヴィンが周囲を見回す。
「円形遺構は、その中心に描かれていました」
だが、森の中に開けた場所は見当たらない。
進んでも、方角を変えても、目に入るのは幾重にも連なる木々と、背丈ほどある深い草ばかりだった。
オーウェンとリアナも探索範囲を広げたが、遺構らしきものは見つからない。
「位置がずれているのか?」
ガレスが調査記録へ目を向ける。
アルヴィンは三つの丘の形と方角を確認した。
「大きくは違わないはずです」
「記録が残された当時と、森の姿が変わっている可能性は?」
クラウディアの問いに、アルヴィンは頷く。
「十分にあります。木々が広がり、祭壇そのものを覆っているのかもしれません」
エレノアは周囲へ視線を巡らせた。
星の環を思わせる石柱と中央の祭壇。それほどの遺構が、本当にこの森へ埋もれているのだろうか。
けれど、これまで辿ってきた遺構も、容易に人目へ触れる場所には残されていなかった。地上からは何も見えず、幾重もの仕掛けの奥に隠されていた。
「もう一度、川の分岐点を基準に位置を取り直しましょう」
エレノアの提案に、アルヴィンが記録を開く。
「調査記録の細かな書き込みには、“三つの丘が一つに重なる地点より南東へ”とあります」
「三つの丘が重なって見える……」
エレノアは来た方向を振り返った。
森へ入ってからは、丘そのものが木々に隠れて見えない。だが、地面の傾斜から位置を推測することはできるかもしれない。
ダリウスがすぐに指示を出す。
「オーウェンは来た道を戻り、丘の位置を確認。リアナはここから南側を調べろ」
「了解」
二人が動き出そうとした、その時だった。
足元を見たシリルが何かを見つけた。
「石がある」
全員の視線が集まる。
彼が剣の鞘で、深い草の根元を押し分けると、そこには、苔に覆われた平らな石があった。
先ほどまで見えていた自然石とは違う。表面が不自然なほど滑らかで、端は直線に切り揃えられている。
リアナが周囲の草をさらに掻き分けた。
同じ大きさの石が、一定の間隔で並んでいる。
「道……?」
エレノアが息を呑む。
アルヴィンが膝をつき、苔を傷つけないよう布で表面を拭う。
「人の手で加工されています」
石の並びは、森の奥へ緩やかな弧を描いて続いていた。
道というより、円の一部。
エレノアは顔を上げる。
「この曲線……。」
星図に描かれていた環。四枚の石板を並べた時に現れた、中央を巡る線。
胸の奥に、確かな予感が生まれる。
「この先です」
深い草、倒木、長い年月をかけて絡みついた蔦。それらを騎士たちが慎重に退けていく。
石の並びを追うにつれ、弧は少しずつ大きくなっていった。
草木を退けるたび、灰白色の石が一枚、また一枚と姿を現す。偶然そこへ並んだものではない。
やがて先を進むオーウェンが、蔦の垂れ下がる木々の前で足を止めた。
「……見つけた」
短い声だった。
エレノアもシリルの背後から、前方を覗き込む。
最初は、ただ巨大な倒木が横たわっているように見えた。だが違う。苔と蔦に覆われた、長い石柱だった。
根元から折れ、半ば土へ沈んでいる。表面へ絡みついた植物の隙間から、均一に削られた灰白色の石が覗いていた。
その向こうにも、さらに奥にも。同じ石柱が幾つも立っている。
あるものは直立し、あるものは斜めへ傾き、またあるものは完全に倒れて草木の下へ埋もれていた。
円を描くように、森の中へ、巨大な石柱の環が広がっていた。
風が木々を揺らす。落ち葉の擦れる音の向こうで、遠く鳥が鳴いた。まるで森そのものが、長い眠りから目を覚ましたようだった。
「……星環の祭壇」
アルヴィンの呟きが、静けさへ溶けていく。
調査記録に描かれていた円形遺構、星の位置を模した石柱。
そのすべてが、目の前にある。
ダリウスは片手を上げ、一行の足を止めた。
「まだ入るな」
即座に騎士たちが周囲へ展開する。
オーウェンとリアナが左右へ分かれ、遺構の外縁を確認する。ガレスとクラウディアはレオンハルト王の前後へ立った。シリルもエレノアの半歩前へ位置を取る。
「魔物の気配はありません」
ほどなく、リアナの声が届く。
「外周にも足跡なし。最近、何かが入った形跡もありません」
オーウェンも反対側から戻る。
「大きく崩れている場所はありますが、中央まで進めそうです」
ダリウスが頷いた。
「前衛から入る。足元へ注意しろ」
リアナとオーウェンが先へ進む。その後ろをダリウス。レオンハルト王と護衛のガレス、クラウディア。エレノアとシリル、アルヴィンと騎士たちが続く。
遺構の内部へ一歩踏み入れた瞬間、周囲の空気が変わったように感じられた。
外の森と、温度は変わらない。風もある。それでも、音だけが遠くなった。
石柱が円を描いているせいだろうか。木々のざわめきが薄れ、足音だけが不自然にはっきりと響く。
エレノアは石柱を見上げた。
高さは人の三倍以上。長い年月の中で表面は風化し、植物に覆われている。
だが配置には明確な規則性があった。大きな柱、小さな柱。互いの距離や向き。それはどれも無作為ではない。
星鏡庭園の星図と同じ。
夜空へ散らばる星を、そのまま地上へ置き換えたかのようだ。
「記録と一致しています」
アルヴィンが写生と見比べ、感嘆の息を漏らす。
「石柱の数も、配置も……。」
「これほどの規模だったとは」
レオンハルトも静かに辺りを見渡した。
円形遺構の中央近くには、一本の巨木が立っていた。
その根に抱かれるように、低い円形の祭壇が半ば土へ埋もれている。
騎士たちが深い草を払い積もった落ち葉を除いていくと、少しずつその全貌が現れる。
低い円形の祭壇。
表面には、四方向へ伸びる溝が刻まれている。
祭壇は、これまで四つの遺跡で目にした黒曜石のような黒石ではない。灰白色を帯びた滑らかな石で造られていた。
そして中央には――
四つの四角い窪みがあった。
エレノアの胸が強く打つ。
窪みの大きさ、厚み、四隅の形。
見間違えるはずがない。
「……ここです」
声が自然と震えた。
「四枚の石板を納める場所です」
星が示した場所。千年以上前の調査官が残した記録。そして、目の前にある四つの窪み。長い探索のすべてが、今、この一点へ繋がった。
すべてが、この祭壇こそ『在るべき処』であると告げている。
だが、祭壇へ近づこうとしたエレノアの前へ、シリルの腕が伸びた。触れる寸前で止まり、行く手だけを静かに遮る。
「待て。先に周囲を確認する」
「はい」
シリルは祭壇の周りを一周する。
床の継ぎ目。樹木の根。四方へ伸びる溝。何かが作動する可能性を考え、一つずつ確認していく。
ガレスも反対側から地面を調べる。やがて、二人はほぼ同時に立ち上がった。
「罠らしきものはない」
「だが、祭壇に触れれば何が起きるかは分からん」
ガレスが全員へ告げる。
「エレノア嬢は、まず外側から文字の確認を」
「はい」
エレノアは祭壇へ近づいた。
シリルがすぐ隣へ立つ。エレノアの半歩前。何かが起きれば、迷わず間へ入れる位置だった。
エレノアは四つの窪みへ目を向ける。その周囲に、細かな線が刻まれている。
最初は、風化した傷に見えた。だが、よく見ると規則的だ。短い線、曲線、点。それら幾つもの形が連なり、祭壇の中央から外側へ広がっている。
「文字……?」
アルヴィンも隣から覗き込む。
古代ヴァレシア文字ではない。これまで石板や遺跡で見てきたどの文字体系とも、明らかに異なっていた。角を持つヴァレシア文字に対し、目の前の線は曲線と円、点が多く、流れるように連なっている。
いや――そもそも、これを文字と呼んでよいのかさえ分からない。
エレノアはしばらく目を凝らしたあと、ようやく小さく口を開いた。
「……読めません」
その言葉を口にした瞬間、エレノアの胸の内へ冷たいものが落ちた。
これまで、どれほど難解な碑文であっても、時間をかければ糸口を見つけることができた。けれど、文字としての規則すら読み取れなかった。
これまで、皆が先へ進むための手掛かりを与えてくれた古代の言葉が、今は何一つ意味を返してくれない。
アルヴィンが驚いたように顔を上げる。
「一文字も、ですか?」
「はい」
エレノアは別の箇所へ視線を移す。
どこを見ても同じだった。似た形を知っている気がしない。音も、意味も、文字の区切りさえ分からない。
「ヴァレシア文字より古い書体でしょうか」
アルヴィンが尋ねる。
エレノアはすぐには答えなかった。
父の資料、旧学術院で見た論文、王城資料室に残された古い写本。これまで目にしたあらゆる文字を思い返す。だが、一致するものはない。
「……分かりません」
正直に答えた。
「ただ、私がこれまで見てきた古代ヴァレシア文字とは、明らかに体系が違います」
「では、この遺構は……」
アルヴィンの言葉が途切れる。
ヴァレシア文明より、さらに古いものなのか。それとも、同じ時代に使われていた別の体系なのか。あるいは、文字そのものではないのか。
今の彼らには、判断する材料がなかった。エレノアも答えることができない。
ヴァレシアは、現在知られている限り、この地で最古の文明とされている。それ以前に、これほど巨大で精巧な石造遺構を築いた人々がいたという記録など、どこにも残されていない。
ならば、この祭壇を造ったのは、いったい誰なのか。なぜ、四枚の石板を納める場所がここにあるのか。
新たな疑問が、静かに広がっていく。
レオンハルト王が石柱を見上げる。
「我々の知るヴァレシアの歴史だけでは説明できぬものが、ここにはあるようだな」
誰も答えなかった。
答えられる者はいない。
ただ、森の奥に眠っていた石柱の環だけが、遥かな時間を越えて彼らを見下ろしていた。
ダリウスは祭壇と、その周囲を改めて確認する。
「ここが目的地であることに、異論はあるか」
アルヴィンが首を横へ振る。
「ありません」
エレノアも四つの窪みを見つめたまま答えた。
「私も、間違いないと思います」
「よし」
ダリウスは石板運搬の騎士たちへ向き直る。
「箱を運び入れろ」
「はっ」
円形遺構の外で待機していた騎士たちが、四つの運搬箱を慎重に運び込む。一つ、また一つと、王家の封印を施された箱が、祭壇の周囲へ置かれていく。
最後の箱が所定の位置へ下ろされると、森に再び静けさが戻った。
祭壇の周囲には、四枚の石板と、それぞれの意味を担う者たちが揃っていた。
資格を担うレオンハルト。知恵を担うエレノア。勇気を託されたシリル。そして、六人の信頼を預かるガレス。
それが本当に正しい答えなのかは、まだ誰にも分からない。決めるのは、これから四枚の鍵を受け取るこの祭壇なのだ。
エレノアは祭壇を見つめながら、無意識に胸元へ手を置いた。
ここから何が始まるのか、まだ分からない。
けれど、数千年という時を越え、星が示し続けてきた道の先へ、自分たちは確かに辿り着いたのだ。
風が吹き樹木の枝葉が揺れ、降り注いだ木漏れ日が祭壇の上を流れていく。
ダリウスが低く告げる。
「開封する」
騎士たちが四つの箱の前へ膝をつき、封へ手を伸ばした。
長い旅の果てに集められた四枚の石板が、今――
星環の祭壇へ還されようとしていた。




