01話 運命の訪問者
1話 運命の訪問者
リーヴェル国王都の南地区。
白い石造りの屋敷が並ぶ閑静な街並みの一角で、エレノア・アシュフォードは静かに本を閉じた。
「では、今日の内容はここまでです。」
向かいに座る少年が、ぱっと表情を明るくする。
「ありがとうございました、エレノア先生!」
「よく頑張りましたね。次は今日覚えた歴史年表を、忘れずに復習してください。」
「はい!」
少年は元気よく返事をすると、机の上の本を抱えて部屋を出ていった。
その姿を見送りながら、エレノアはふっと微笑む。
「本当に飲み込みが早くなられましたね。」
「先生のおかげですわ。」
そう言って部屋に入ってきたベイル伯爵夫人が、優雅に微笑む。
その傍らに控えていた侍女が、銀の盆に載せた一通の封筒をエレノアへ差し出した。
「こちらをお納めくださいませ。」
「ありがとうございます。」
両手で受け取り、丁寧に頭を下げる。
決して少なくない報酬だ。
けれどエレノアは中を確かめることなく、大切そうに鞄へしまった。
このお金があれば、心労で体調を悪くした母や、最近目の病を抱えてしまった父の薬を買える。
傷みの目立ちはじめた屋敷の修繕費にも、少しは回せるだろう。
そう思うだけで胸が温かくなった。
「また来週もよろしくお願いいたします。」
「またお待ちしておりますわ。」
エレノアは夫人に深々と礼をし、屋敷を後にする。
◇
夕暮れの王都は美しかった。
白い建物を茜色が染め、小さな運河には光が揺れている。
橋を渡る人々の笑い声。
行き交う小舟。
水の都と呼ばれるリーヴェル国の都は、今日も穏やかな時間が流れていた。
エレノアはそんな景色を眺めながら歩く。
馬車ではない。
没落した今のアシュフォード家には、それを維持する余裕はなかった。
けれど、不思議と惨めだとは思わない。
(歩くと季節の花が見られますもの。)
小さく咲く青い花を見つけて足を止める。
この花の名前は――リベルナ。
(古い文献には、確か薬効についても記されていたはず……)
そんなことを考えている自分に、思わず笑みがこぼれる。
本当に、本が好きなのだ。
幼い頃からずっと。
◇◇◇
アシュフォード伯爵家は、代々学問を重んじる家だった。
広大な屋敷には王国屈指の蔵書が並び、幼いエレノアは毎日のように書庫や父の書斎に入り浸っていた。
「お父様、この文字は何と読むのですか?」
蜂蜜色の髪を揺らしながら尋ねる幼い娘に、父ローレンスは優しく笑う。
「それは古代王国で使われていた文字だよ。」
「こだい……?」
「そう。知識は宝だ、エレノア。」
父は娘の頭をそっと撫でた。
「たとえ財産を失うことになったとしても、自分の知識だけは誰にも奪われない。」
その言葉は、幼いエレノアの胸に深く刻まれた。
そんな幸せだった時は残酷にも過ぎ去り、
やがて、
アシュフォード家は没落した。
誠実すぎる父は、誰よりも信頼していた親友の頼みを断れず、事業の保証人となった。
そのうえ、領民との約束を守るために私財を投じ続けたのだ。
その優しさを利用され、多くの財産を失った。
蔵書もほとんどが手放された。
それでも父は最後まで守り抜いた。
歴史書。
王国史。
古代文字の蔵書。
――知識だけは、未来へ残さなければならない。
そう言って。
だから今もエレノアは学び続けている。
そして、その知識を家庭教師として生かし、家族を支えていた。
◇◇◇
一方その頃――。
王城の近衛騎士団本部では、机いっぱいに羊皮紙が広げられ、室内には重苦しい空気が漂っていた。
「……読めないな。」
団長ダリウス・クロフォードが腕を組む。
羊皮紙には誰も見たことのない古い文字がびっしりと並んでいた。
情報収集担当の騎士が肩を落とす。
「学者先生を五人呼びましたけど、全員途中までしか読めませんでした。」
「ここだけ分かっても意味が繋がらん。」
別の騎士も眉をひそめ、静かに資料を閉じた。
「期限はあと何日ある?」
補佐官であるエリオットが答える。
「十日後です。」
部屋が静まり返る。
王命で進められている調査。
しかし肝心の資料が読めない。
このままでは手詰まりだった。
その時だった。
「……調べさせた情報の中に、古代文字を学んでいたという人物がおります。」
補佐官エリオットが一枚の資料を机に置いた。
皆が視線を向ける。
「誰だ。」
「没落したアシュフォード元伯爵家の令嬢です。貴族名鑑によれば、令嬢はお二人。姉君のエレノア嬢と、妹君のフローリア嬢がおられます。」
「アシュフォード……あの蔵書の家か。」
ダリウスの眉がわずかに動く。
「そのうち、古代文字を学んでいたというのは?」
「姉君のエレノア嬢です。」
エリオットは静かに続けた。
「その令嬢は父君とともに幼い頃から古代文字を学んでいた可能性があります。……不確かですが。」
一人が呟く。
「その方が読めることに賭けるしかありませんね。」
団長であるダリウスは少し考え、二人の近衛騎士を見た。
「シリル、リアナ。その女性を探せ。」
「「はっ。」」
二人の返事が重なる。
シリルは迷いなく剣を腰に差し直した。
「必ず見つけます。」
それから数日。
二人は王都中を歩き回った。
古書店。王立図書館。学者の屋敷。没落以前にアシュフォード家に仕えていた使用人。
誰もがアシュフォード家の名は知っていた。
だが、広大な王都の中で、一家がどこに暮らしているのかは分からない。
ようやく、一人の老司書が思い出したように言う。
「そういえば……南地区で、若い女性が家庭教師をしているという話を聞いたことがあります。」
「蜂蜜色の髪をした、気品のある美しい方だとか。もしかすると、その方かもしれません」
◇◇◇
その日の夕暮れ。
王都内にある小さな邸の門が、静かに開いた。
一人の若い女性が、ゆっくりと外へ姿を現す。
腰まで流れる蜂蜜色の髪は、夕陽を受けて柔らかく輝いていた。
澄んだ翡翠色の瞳には、穏やかな光が宿っている。
身にまとっているのは質素なワンピースだった。
それでも、その立ち居振る舞いには、長年貴族として育まれた品格が自然とにじんでいた。
女性は、使い込まれた革鞄を大切そうに抱えている。
その姿を見たリアナが、一歩前へ出た
「失礼いたします。」
その女性は驚いて足を止める。
「エレノア・アシュフォード嬢でいらっしゃいますか」
「……確かに私ですが……、あなた方はどなたでしょうか……?」
リアナは丁寧に一礼した。
「私は近衛騎士、リアナ・フェルディスと申します。本日は、あるお願いがあって参りました。」
そう告げると、リアナは隣に立つ青年へ静かに視線を向ける。
「今回の任を預かっておりますのは、こちらです。」
その言葉を受け、王家の封蝋が押された書状を手にした青年が、一歩前へ出る。
その青年の漆黒の髪は、
夕暮れの光を受けてもなお深い艶を帯び、
澄んだサファイアブルーの瞳は真っ直ぐにエレノアを見つめていた。
紺を基調とした近衛騎士の隊服は一分の隙もなく着こなされ、
胸元には王家を守る者だけが身につける白と紺の紋章が静かに輝いている。
無駄のない所作からは、厳しい鍛錬を積み重ねてきたことが自然と伝わってきた。
青年は胸に手を添え、騎士らしく端正に一礼した。
「私は近衛騎士、シリル・ヴァルモント。」
低く落ち着いた声が夕暮れの静寂に溶ける。
「王命により、あなたのお力をお借りしたく参りました。」
青年は携えていた書状を、エレノアへ見えるよう静かに掲げた。
エレノアは思わず息を呑んだ。
「……私、ですか?」
エレノアはまだ知らない。
この突然の訪問が、静かだった日々を一変させ――
やがて、自らの運命を大きく動かしていくことを。




