幕間劇 「藤色」 (後編)
琴音が退室したことで、今度は清音がただ一人、波瑠呼の傍に侍ることとなった。
思わぬ幸運がもたらした至福の時間。静寂のままに過ぎて行った。
波瑠呼は、清音から受けとったばかりの報告書、百枚ばかりのA4用紙の束を一枚一枚丁寧に読み込んでいる。清音はうっとりとその姿を見つめていた。
「琴音が戻ってくるまでの間は、私が側に控えさせていただきますね」
清音がようやく口を開くころには,そんな口上は今更に思えた。不用意な一言が、儚くもシャボンの玉を割くようにこの至福の時間を終わらせてしまわないかと恐れてのことだった。
波瑠呼は私なら大丈夫ですといったきりで、留まるようにとも立ち去るようにとも命じなかった。
ここから本題だ。
清音は、忠実なる下僕であるはずで、ただ黙って侍っていることが本来なのだろう。波風を立てずにただ二人だけの時間を堪能すればよかった。
しかし、この忠義者にとってさえ、このたびの動乱は衝撃的すぎたのだった。不安に掻き立てられ、どうしても尋ねずにはいられない疑問があった。今この瞬間を除いては問答が許されることはないのかもしれない。
清音は、意を決して胸中の疑問を投げかけた。
一つよろしいでしょうかという断りに続けて
「魔法少女同士が殺しあうだなんて、そんなこと許されるのでしょうか」
実に素朴で率直な疑問だが、波瑠呼は一瞬、質問の意味を理解できないでいた。
「神がそれを赦すかということですか」
波瑠呼は聞き返した。波瑠呼は、いわゆる神といった者の存在を信じていなかったが、一応のところ星降台女学園はミッション系の学園であったので、その名をあげて回答をしたのだ。
「いいえ、そういう難しい話ではなくて……つまり、夢の国の女王が黙っているのかってことですよ」
その言葉に波瑠呼はやや大げさに驚く仕草をした。
「ふふふ。夢の国の女王ですって。貴方たちの間ではそういうことになっているのね」
「ち、違うんですか」
清音は思わず声を張り上げてしまう。魔法少女たちの間でも、実のところその力の源である魔法についてはあまり多くを知らされていない。魔法とは夢の国の住人が使える力で、その国の女王が素質のある女の子にその力を分け与えているのだという話が、魔法少女たちの間では通説として流布していた。
「私たちに力を与えたのは、大天使ミカエル様よ。それは知っているわよね」
清音はうなずいた。彼女は、魔法少女となったその夜、ただの一度しか会ったことはなかったけれど。人の頭ほどの大きさで、青白くてぼんやりとした肌の色は魂の色だという。ちょっと間抜けな顔をした三頭身のマスコットキャラのような見ため。背中に生えた炎のように揺らめく大きな羽だけが神々しく随分と不似合だった。
候補者から本当の魔法少女になる決定的瞬間、それはあの珍妙な天使様と相対した、あの時だったのは間違いがない。
「彼にその名を与えたのは最初の魔法少女よ。彼女はきっと、信仰に篤かったのでしょうね。それに私なんかよりずっと純粋だったに違いない。だから、彼を天使と呼んだ。でもね、彼自身が自分の正体について話したことは一度もないそうよ。だから、その名前にも特別な意味はない」
夢の国の女王様というも、きっと純粋な少女の空想の産物なのでしょう、と波瑠呼。
「では、誰もお聞きにならないのですか」
「私は立場上、関わり合いを持つことが多かったけれど、彼はいつも意味のあるような、無いような下らない雑談しかしなかったしね。結局、彼は私たちとコミュニケートするつもりなんてないのでしょう。ただ、その場をやり過ごすための戯言」
そういいながら、両手の人差し指を突き合わせ、くるくると回した。コミュニケーションを意味するジェスチャーのつもりなのだ。そして、最後の二つの指を交叉してバッテンを作った。
清音は波瑠呼のこういうお茶目な部分が好きだった。
「彼はいつだって人類の友人のような振りをしているけれど、実際には、これっぽっちも人間を理解してなんかいない。『中国人の部屋』というのかしらね。こうすれば、人はこう動く。そういったことは熟知していても、ただ正解を知っているというだけ。人という箱の中身にまで興味はないの」
清音の知らない異世界への扉が開く音が聞こえた。
波瑠呼が、なぜそこまで大天使様を悪く言うのだろうかと、清音は波瑠呼とあのマスコットとの関係に興味を持った。
だがそんなことよりも、彼女の心の中には納得ができないモヤモヤが広がっていた。夢の国なんて存在しない。魔法の力のことなんて、まだ何もわかってはいない。ならば、私たちは、私たちはいったい……。
納得できない様子の清音を制して、波瑠呼は話を続けた。
「魔法がある。大天使様がいる。災夢がいる。それらについて私たちは何も知らない。でもね、魔法少女にはルールがある。私たちにはすべきことがある。なぜ、私たちは魔法少女であることを知られてはいけないの、なぜ私たちは私利私欲のために魔法を使ってはいけないの、なぜ私たちは災夢を倒さないといけないの、エトセトラ・エトセトラ。すべてを決めたのは、最初の魔法少女たちであり、歴代の十賢人たちよ。もちろん私もその中の一人。人間たちのルールを作ることができるのは人間だけよ。己を律することができるのは己のみ。人は定め、人は犯し、人は裁く。それは、当然のことでしょう。
波瑠呼は優しく語りかけ、満足したように笑顔を作る。彼女は伝えるべきことは伝わったと確信している。
「あの大天使様はこれっぽっちも人間社会のことは考えていないわ。災夢さえ滅びればそれで満足なの。私たちとあの大天使様の間には、契約さえ存在しない。私たちが、風力や水力を利用して電気を生み出すように、ただ人間という現象を利用しているにすぎないのよ。彼はもう十分に満足している。満足してしまった。現に、この2カ月ほとんど姿を現すこともなくなった……」
『最も古き龍』。数千年存在し続けた最強の災夢は、あの大天使にとって宿敵中の宿敵だったのだろう。
あの大天使様にとって魔法少女は、宝石を掘りだした後の廃坑のようなもの、波瑠呼はその言葉を飲み込んで、そこで話を終えた。
衝撃の事実にしばし呆然としていた清音だった。
清音の中に、殺戮者たちの蛮行を軽蔑する気持ちがあった。
また、彼らが悲惨な最期を迎える様にとの、怒りに満ちた願いもあった。
そして、自分たちもまたその蛮行の罪を負うべきではないかという恐怖があった。
しかし、そのすべては波瑠呼への忠誠の前では塵にも等しい。
「波瑠呼様。そのお話を皆にも伝えるべきではありませんか」
清音は、波瑠呼の言葉をかくのごとく理解した。すなわち、すべてのルールは人が作ったものでしかない。そして、この学園において、すべてのルールは波瑠呼そのものであると。
「真実は、それに向かって足を踏み出したものに与えられれば十分です。貴方のおかげで妹たちが何に怯えているのかが大隊把握できました。あとは私がそれとなく解消させてあげましょう」
波瑠呼は至極当然のようにそう告げた。彼女はこうして、この学園の全てを調律し続けているのだ。
蛮行は行われた。しかし、裁く者がいなければ、裁かれる者もまたいない。外の世界の戦いは更に混迷を深めていくだろう。しかし、この学園には偉大な女王がいる。自分たちは、この庇護者を信じて付き従っていればよいのだと清音は確信した。
波瑠呼は、立ち上がると真後ろを振り向いて、大きな窓から外を眺めた。彼女は学園全体を包む大きな魔力のうねりを感じていた。
強大な力は障壁となって、学園と外界を分け隔てたのだ。
「準備は万端です。数の不利は補えましょう」
波瑠呼はうなずいた。
丁度その時。
バタンと大きな音を立てて、理事長室の扉が開く。
それは和やかな時の流れを掻き乱す嵐の到来だった。
ノックも無しに、ずかずかと部屋に入ってくるその人物は、閉ざされた学園にいるはずがない来訪者。最後の来訪者だった。
黒いジャンパーを纏ったその服装は男性のものだが、体躯はいささか華奢に見える。
その顔つきは、某歌劇団出身の女優に似て『男前』という言葉がぴったりだ。
一直線に波瑠呼に向かう彼女に必死に噛り付き引き留めようとするのは、直ぐ後を追って部屋に入ってきた琴音だった。
「貴様、ここは許可もなく立ち入っていいような場所ではないのだ」
必死に忠義を見せる琴音を、彼女はすっかり無視して歩みを進める。
「俺とハルの仲だ。堅苦しいのは無しで頼むよ。どうかな」
男装の麗人はとうとう波瑠呼の机の前に辿り着く。
琴音もとうとう諦めて、彼女の横に並んで立つ。
「久しいわね。ナギ。勘違いして欲しくないのだけれど、この部屋の扉は常に開かれているのよ。私に会いたいという方を、私が拒むことはありません。この子たちは少々、堅苦しいところがあってね」
ナギと呼ばれた女性に目線を合わせるように立ち上がる波瑠呼。
不意の自分たちへの言及に双子は黙って下を向いてしまった。
やがて立ったままでいる波瑠呼に気付いた清音が、部屋の隅から一脚の椅子を用意する。
ナギは「ありがとう」と言いながら、足を組んで椅子に座った。
片手にぶら下げていた風呂敷は机の上に。
その中身は大きな箱のようだった。
「俺は、ハルが魔法少女になったころの指導係でね。あの頃は、可愛かったと言いたいところだけど、あの頃からずっとこんな感じだったから、驚きだよ。14歳のころから『夫人』とでも呼びたくなる風格の持ち主だった。もちろん、これは褒めてるんだよ」
「もちろん、承知してますよ。ナギ。でも私はもう見えてまだ20歳の乙女のだけれど。夫人と呼ばれて喜ぶわけがないことくらい、お分かりよね」
「そうそう、ハルは顔色を全く変えずに怒るから本当に怖いんだった」
「旧友がわざわざ訪れてきたくれたのだもの。軽口なんかで怒ったりはしません」
普段とはどこか違う波瑠呼の様子に琴音は嫉妬した。
「石灯籠凪。騎士団のナンバーツー……いや、今やナンバーワンかな。それがこの時期に単に昔を懐かしむためにここに来たわけではなかろう」
清音は精いっぱい虚勢を張って、ナギに対抗しようとした。琴音は6期生、それに対してナギは2期生。その間には埋めようがない圧倒的な実績と経験の差がある。それでも、琴音は波瑠呼の第一の下僕を自負していた。譲れないものはあるのだ。
『ナンバーワン』、その言葉が意味するところ、凪の心を抉る鋭利な刃となることはこの場の誰もが理解していた。
しかし、ナギは変わらずおどけた調子で。
「いやいや、俺は組織になじむような人間じゃない。騎士団は騎士団で、誰かが上手くやってくれるさ。俺はね、騎士団を抜けるつもりだ。この意味が分かるかな」
「円卓の騎士筆頭が、騎士団を裏切って我々の傘下に入りたいと、そういうつもりなのかな。だとすれば、とても信じられる話ではないよ。下手な企みが通用すると思うな」
そう言い終えると琴音は、自信なさげに波瑠呼の顔色を窺った。
波瑠呼は顔色を変えることなく、旧友を笑顔で見つめている。
「騎士団の人間は口下手が多くてね。俺だってそうさ。どんな言葉より真実を語るモノを用意した。中身を確認してもらいたい」
ナギは、机上の包みを指差した。異様な存在感を放っていたそれは、もはや彼女たちの視線を外すことを許さなかった。
「き……清音。包みを開けて……」
いつもは、いがみ合いながらも、ここぞという時は半身を頼ってしまう。琴音はそういう少女だった。
清音はおそるおそる包みを開ける。その中身は大きな桐の箱。
手を止めることなく、その蓋に手を掛ける。
開いた箱の中を覗き込むと、その中に収められていたのは人の頭ほどの巨大なダイアモンドの塊だった。
拍子抜けした琴音がハハハと声を上げて笑う。
「石灯籠凪。コードネームは『ダイアモンドの騎士』。なるほど貴様らしい。こんなものを手土産に我々の庇護を求めるというわけか。貴様は波瑠呼様という人間を、理解できていないようだな」
再び、波瑠呼の顔色を窺う琴音。
しかし、波瑠呼は表情を変えない。
「残念だけど、それは手土産ではないよ。双子ちゃん。それこそが俺の動機さ。さあさ、藤壺宮波瑠呼。『死せるモノたちの女王よ。これを見たからには言葉はいるまい。俺からの手土産は俺自身だ。今日から俺はお前に忠誠を誓おう。もったいぶった謙遜をするつもりはない。エースの札は何枚あっても困るものではないだろう。さしずめダイアのエースといったところか。お前が好きに使えばいい。俺は黙ってお前の剣でありつづけるよ」
ナギの言葉の調子は相変わらずだった。
だけれども、清音はナギに今まで見たことのない恐ろしい表情を見た。
それはもはや人として生きることを止めてしまったもののような。
清音はすがるような想いで波瑠呼を見やる。
そうしてようやく波瑠呼が口を開いた。
彼女だけがナギの真意を悟っていた。
ダイヤモンドの騎士。その名の所以は固有魔法である『金色夜叉』にある。手に触れたものをダイアモンドに変えてしまうという強力無比な力。
「ナギ、貴方の願いに私は共感できないし、私の力をもってしても、どうすることもできない。それは貴方も分かっていることでしょう。しかし同時に、私は貴方の願いは正当なものだと思います。ですから貴方の願いは私が預かります。私が貴方を解き放つその日まで、私の剣となりなさい」
それで結構とナギは低く唸った。
幕間劇 了




