幕間劇 「藤色」 (前編)
学生にとって、学校は当たり前の空間なのだろうけど、そこから離れて久しい大人にとっては、何もかもが曖昧な妖精境のような神秘的な場所に思えてならない。都会に突如として現れる豊かな自然という環境もまた、そんな憧憬を呼び起こす小道具として機能しているのだろう。
星降台女学園の敷地には、至る所に美しい西洋式庭園が設けられている。その整備は生徒たちの日課であり、誇りでもあった。中でも、学園の中心に位置する薔薇園は国内屈指の壮麗さを誇り知る人ぞ知る名所なのだった。
その薔薇園を望む南校舎の3階に理事長室はあった。理事長室の窓が、この学園の最も美しい景色を切り取っているのだという者もいるが、理事長は、自らが育てた薔薇園を見守るためにその場所を選んだのだと答えたそうだ。
その部屋は窓から入口までの距離がおよそ20メートルほど。教室二つ分の広さがあって、その半分くらいはガランとした何もない空間という贅沢すぎる間取りである。
窓のすぐ近くには大きな執務机が一つ。木目の美しさを活かした年代物で、歳経た物だけが持つ色気を漂わせている。壁際に並ぶ書類棚や本棚もまた同様の年代物で、荘厳な雰囲気を生み出している。
美しい中庭の風景に背を向けて、一人の女性が黙々と書類に目を通している。彼女こそが星降台女学園の理事長にして、”死せるモノたちの女王”と呼ばれる魔法少女、藤壺宮波瑠呼である。
彼女は、背中まで伸びた髪を三つ編みのハーフアップに結んでいる。際立った美貌の持ち主という訳ではないが端正な顔立ちで、表情は常に自信に満ち溢れている。二〇歳になる彼女が学園の制服を着ているのは、彼女が理事長であると同時に学園の大学に籍を置く学生でもあるからだ。
彼女の脇には、もう一人制服姿の女生徒が両手を背中に回し、直立不動で待機していた。名を小鳥遊琴音といい、波瑠呼よりも二つほど若い。琴音の吊り上った細い目は、しばしば書類棚のガラスに映る波瑠呼の姿を見やった。
できれば直接見つめていたいと思うのだが、それが非礼であることは弁えてい る。盗み見のような真似もとても褒められたものではことも判っているのだが。
コンコン
重厚な木星の扉を叩く音。
「どうぞ。お入りなさい」
波瑠呼が答える。
扉が開くと、そこに現れたのは波瑠呼の脇に控えているはずの琴音と瓜二つの顔をした女生徒の姿だった。これは決して魔法のようなものではなく、ただ二人が双子の姉妹というだけのことである。
女生徒は部屋に一歩足を踏み入ると一礼し、一度立ち止まる。扉から執務机までは敷き詰められた絨毯以外何一つ存在しない。
その様子から謁見の間とも呼ばれているこの部屋だが、常に冷静沈着で、決して口を開けて笑うことがないと言われる波瑠呼のキャラクタと相まって、訪問者を萎縮させる装置の役割を演じてしまっていた。何のことはない、実はつい先日まで大きな会議机がその空間を占有していたのだが、今は改修された会議室に移されたというだけのことなのだが。
波瑠呼は面倒くさそうに、
「報告があるのなら、近くに寄りなさい。その方が互いの利益になりましょう」
と告げた。正直、礼儀作法は大事だけれど、最近の生徒たちの振る舞いは仰々しさに度を越しているように思う。いくら止めるように言ったところで周囲は態度を変えないので最近はすっかり諦めている。理事長という立場はその程度のものなのだと彼女は言いたかった。
歩くでなく、走るでなく。速やかに執務机までの距離を詰めた女生徒は、まず自分の片割れの顔を覗きこんだ。
光栄なる波瑠呼の秘書役は二人が交互に勤めているのだが、その役割を独占したいという想いは、琴音もこの少女、すなわち小鳥遊清音も同じだった。二人は半歩でも波瑠呼からの高い評価を得ようと熾烈な争いを繰り広げているのだった。だけれど、周囲のものから見れば、波瑠呼の秘書といえば双子のどちらかという程度の認識でしかないので、その仕事ぶりの差が意識されることはない。それでも波瑠呼様だけは、きっと公平に二人の働きぶりを評価してくれているはずだという点で、双子の意見は一致していた。
清音は、波瑠呼の方に視線を戻すと、背筋を伸ばした。少しでも、通りのいい声で報告をしようという心意気からだ。
「今しがた”王国”と”騎士団”の戦闘が終了しました。”騎士団”は新宿の本部を放棄し、都内から総員を退却させると北に向かい、埼玉支部に拠点を移す模様です……」
そこまで報告すると、清音はいったん間を置く。少女の表情は険しく、ここからが本題だと無言のままに語っていた。
「……本部にいた”騎士団”のメンバーはほぼ全員が生存。ただ、騎士王が討たれました」
清音の報告に割って入ったのは、琴音だった。
「討たれただと……騎士王は死んだのか。きちんと生死の確認はできているのだろうな」
琴音が声を荒げるのも無理はない大事件である。しかし、怒鳴りつけられた清音にしてみれば、双子の片割れに偉そうに言われる筋合いはない。細い目を見開くと睨みつける。
「あの騎士王らしく味方を守ることを優先したみたいね。1人で12人を相手に戦い抜いたというのだから、その名に恥じない大活躍よ。最後は、部下の退路を確保したうえで”死告天使”と一騎打ちに臨み、首を刎ねられたそうよ。ここまでは間違いのない情報。フェイクは無し。二重三重に確認はしているわよ」
姉妹を相手に思わず普段の砕けた物言いが出てしまう。慌てて波瑠呼に向かって取り繕う。
「申し訳ありません。波瑠呼様。ええっと、そういう訳で騎士団はリーダーを失い、混乱の真っ只中というわけです。あ、これが報告書です」
清音は抱えていた書類一式を波瑠呼に手渡す。
それまで目を瞑って報告を聞いていた波瑠呼が初めて口を開いた。
「騎士王の遺体はどうなったのかしら」
「あ、はい。それが”王国”の方も、遺体の確保には失敗したようで、その行方は分からないとのことです」
「そうなると当然、生存説が出て来るだろうな」
琴音が清音に向かって言い放つと、清音は不服そうに睨む返す。
「情報に間違いはない。その点について疑うつもりはありません。皆様、良く働いてくれていることでしょうから。”騎士団”が大きくな被害を出すことなく拠点へと撤退できたというのであれば、今後はしばらく膠着状態が続くことでしょう。勢いを失ってしまえば、これから苦しいのはむしろ”王国”のほう。”騎士団” の幹部もここで敢えて打って出るほど愚かでは……いえ、愚かさという意味ではその可能性もあるかもしれないけれど、しばらくはあそこは合議制で動かざるを得ない。無謀な攻勢に出るだけのリーダーシップを取れる突出した人材はいないはず」
“騎士団”の連中は、正義に燃える武断派が多い。下手をすれば”騎士王”に殉じると言う掛声の下、無謀な攻勢に出る可能性もある。しかし、殉死などは”騎士王”が最も嫌う概念だ。彼女のことだ。十分な歯止めは用意していることだろう。
波瑠呼は、あの”騎士王”がいないことを考えると、素直に悲しい気持ちになった。
“騎士王”は波瑠呼のことを酷く嫌ってはいたけれど、波瑠呼はそうではなかった。
波瑠呼は”騎士王”の理念に共感する部分もあったし、その愚直さは美しいとさえ思っていた。
しかし、波瑠呼は決して”騎士王”が優れたリーダーだとは思っていなかった。
王に必要なものは、正しさでもなければ、美しさでもない。
「我々までが茶番劇に付き合う必要はありません。直ちに学園を封鎖します。今後、私の許可なく学園の外に出ることも、学園の中に人を招き入れることも禁止します。学園外での戦闘行為は一切禁止。普段通りの学園生活を順守するよう全員に伝達しなさい。琴音、お願いできるかしら」
波瑠呼は今日の秘書役にそう告げた。
「は、はい。直ちに全学園生に通達いたします」
琴音は、慌てて部屋を出て行こうとするが、あることを思い出し波瑠呼の方を振り返る。
「波瑠呼様。南月お嬢様が学園外におられます。私めにご命令いただければ、すぐにお連れ致しますが、よろしいでしょうか」
波瑠呼の前に残っていた清音が慌てて割って入る。
「いいえ、波瑠呼様。そのような任務であればむしろ私が適任です。すぐにでも私が南月お嬢様を助けに参ります」
双子が真剣な眼差しで主人の顔を覗きこんでいる。
しかし、波瑠呼は表情を変えることなく静かに答えた。
「それには及ばない。南月には南月の考えがあります。あの子は今”騎士王”の派閥にある。お前たちが行ったところで、本人が納得しないでしょう」
「しかし、波瑠呼様。南月お嬢様は、波瑠呼様の実の妹君です。もし何かあれば、あくまでも、もしですよ。そうなると大変なことです」
「清音、琴音。私は常々言っていますでしょう。学園生は皆、私の妹たちであると。実の妹も何もありません。もちろん南月もこの学園の生徒である以上は、私の妹であることは違いないけれど、それだけのことです。特別扱いをするつもりはありません」
双子と南月は同級生だった。しかし、双子にとって南月は常に波瑠呼の妹だった。
波瑠呼を前に、二人は反論する言葉を持たなかった。
「他の学園生も同様、他の派閥に属する者であっても学園に保護を求める者は受け入れます。そのような申し入れがあった場合は、すべて私の判断を仰ぐこと。よろしいですね」
琴音は黙ってうなずいた。
藤壺宮南月。波瑠呼様の妹でありながら、ことあるごとに反発し、忠誠を誓うことを拒み、挙句の果てに騎士王になびいた異端者。それでも、何かあれば波瑠呼様が悲しむことは待ちがない。馬鹿な妹でも、おや、馬鹿な妹だからこそ波瑠呼様は可愛いと思てらっしゃるに違いないのだ。
もちろん琴音が、独断で波瑠呼の命令に背くことなどできようはずがない。
琴音には一つのアイデアがあった。
細やかではあるが、命令に反することのない範囲で講じうる策がある。
ただ命令を待つだけが優れた下僕でないことを、小鳥遊琴音は知っていた。




