第4話 ふすま1枚の距離
わたしは物心が付く頃には、母上と山奥で暮らしていました。
それまでどこにいたのか、聞いたことはありません。
ただ、成長して勉学に励むようになり、外の情報も取り入れるようになってから、おおよその見当は付きました。
無明家の屋敷があった土地が、売りに出されたと知ったからです。
恐らく母上は、そこで育ったのだろうと思いました。
昔はさぞかし裕福な暮らしをしていたでしょうに、わたしとの生活に不満を漏らしたことはありません。
それが母上の優しさだと考えたわたしは、ある日とうとう尋ねてしまいました。
今の生活が苦しくないのか……と。
すると母上は驚いたように目を丸くして、次いで苦笑を浮かべながら言ったのです。
「夜宵と一緒にいられるのよ? これ以上の幸せを望んだら、罰が当たるわ」
今度は、わたしが驚く番でした。
あらんばかりに目を見開いて、止めどなく涙を流したのを覚えています。
そんなわたしをあやしながら、母上は言葉を付け加えました。
「貴女の幸せが、わたしの願いよ。 だから、強くなりなさい。 わたしがいなくなっても、自分を守れるくらい強く」
当時のわたしは、母上がいなくなるだなんて想像したくないと、駄々をこねたと思います。
ですが、それと同時に、もっと強くなろうと誓いました。
それまでも真面目に訓練に取り組んでいましたが、より一層励むようになったと記憶しています。
相手はいつも母上で、結局最後まで勝てませんでしたね……。
それでも終盤は、拮抗した戦いが出来るようになっていて、これなら滅多なことでは負けない自信を持てました。
しかし……その自信は、驕りだったのかもしれません。
今日の試験を経て、痛感しています。
とは言え、お陰で良い目標が出来ました。
本気の彼に勝つ。
それが出来れば、わたしは今度こそ誰にも負けません。
確証はありませんが、確信はあります。
その為にも、まずは明日に備えて……あれ?
わたし、何をしていたんでしたっけ?
試験を受けて……学院長室で手続きをして……寮の部屋に――
「男女同室なんて、あり得ません……!」
ガバっと身を起こしました。
多少呼吸が乱れましたが、今は構っていられません。
迅速に周囲を確認すると、6畳ほどの部屋でした。
最低限の調度品は揃っていて、暗めに設定された電灯が照らしています
布団の上に寝かされていたようで、隅に荷物が置かれていました。
どうやら、気を失ってしまったようですね……。
情けないにもほどがありますが、ひとまず今は置いておきましょう。
なんとかして、男女同室と言う状況を打破しなければなりません。
だって……ま、万が一、間違いがあったら、どうするんですか……!
いえ、一色くんが嫌いとか、そう言うことじゃないのですけど……。
だ、だからと言って、このようなことが許されて良いはずがありません……!
意を決したわたしは、学院長に直談判することに決めました。
そのとき――
「まったく……男女同室だなんて、何を考えているんだ? 目の前で倒れられたときは、流石に焦ったぞ」
一色くんの声が聞こえて、心臓が跳ねる思いです。
いったい、誰と話しているんでしょう……?
音を立てないように移動したわたしは、悪いと思いながら聞き耳を立てました。
「お前は面白いのかもしれないが、こちらの身にもなってくれ。 ……確かに、その通りだ。 近くにいた方が、都合は良い。 だが、だからと言って同室はないだろう。 隣の部屋は無理なのか? 俺はともかく、あいつは納得しないと思うぞ。 ……もう埋まっているのか。 確かに、飛び入りで試験を受けたのだから、部屋を確保出来ないのも無理はない。 だったら、俺が部屋を出る。 適当な場所を提供してくれ。 雨風を凌げるなら、どこでも良い」
一色くんの声しか聞こえて来ないのは不思議ですが、大事なのはそこではありません。
近くにいた方が都合が良いと言う意味の謎も、取り敢えず棚上げします。
問題は、飛び入りで試験を受けさせてもらって、入学を認められたにもかかわらず、部屋割りに文句を言ったと言う恥知らずな自分。
そして、そんなわたしのわがままの為に、彼に無理を強いようとしていること。
到底、見過ごすことは出来ません。
立ち上がったわたしは、勢い良くふすまを開いて言い放ちました。
「それは駄目です……! どうしてもと言うなら、出て行くのはわたしです……!」
涙がこぼれないように我慢しつつ、必死に訴え掛けます。
ふすまに背を向けて座っていた一色くんが、驚きながら振り向いていました。
ところが、彼以外には誰もいません。
どう言うことでしょう……?
状況を飲み込めないわたしは困惑しましたが、いつの間にか立ち直っていた一色くんが、真っ直ぐな声音で言葉を紡ぎました。
「聞いていたのか?」
「え、えぇと……たぶん、途中からですけど……」
「そうか……。 念の為に断っておくが、変な薬はやっていないし、多重人格者でもない」
「そ、そのようなことは疑っていませんが……誰と話していたんですか?」
「独り言だ」
プイっと顔を背ける一色くん。
いえ、その態度で信じるのは難しいんですけど……。
しかし、彼からは絶対的な拒絶が感じられ、追及したところで無駄だと思います。
気になりますが、致し方ないですね……。
大人しく諦めたわたしは、丸テーブルを挟んで一色くんの正面に腰を下ろし、本題に取り掛かりました。
「部屋を出て行こうとしていたようですけど、そんなの駄目ですよ。 先ほども言いましたが、出て行くならわたしの方です」
「それはそれで、おかしな話だろう。 俺なら問題ないから、気にしなくて良い」
「嫌です。 気にします。 わたしのわがままに付き合わせるなんて、許されません」
「俺が良いと言っているんだ。 意固地になるな」
「一色くんが良くても、わたしが良くありません。 どうしても出て行くと言うなら、わたしも出て行きます」
「そんなことをして、何の意味があるんだ。 部屋が無駄になるだけだろう」
「だからと言って、許容は出来ないんです」
「頑固だな」
「そちらこそ」
真っ向から視線を絡ませて、火花を散らします。
どちらかと言うと押しに弱いわたしも、今回ばかりは譲れません。
無言の圧力にも負けず、むしろ飲み込むつもりで見つめました。
端正な顔が魅力的なのは……関係ないです、決して。
わたしの頬が、赤くなっているように見えたとしても、気のせいです。
そうして、雑念を振り払いながら退かずにいると、ようやく事態が進展しました。
盛大に息を吐き出した一色くんが目を逸らし、不本意そうに声を漏らします。
「条件がある」
「何ですか?」
「ふすまの向こうは、お前が1人で使え。 俺はこちら側だけで生活する」
「で、ですが、それでは不公平では……」
「男女が一緒に暮らす以上、多少の不公平が出るのは当然だろう。 どちらにせよ、俺が譲歩出来るのはここまでだ。 この条件を飲めないなら、お前がどうしようが俺は出て行く」
「……わかりました、その条件を受け入れます。 その代わり、わたしからも条件を出させて下さい」
「……言ってみろ」
「炊事と掃除は、わたしが担当します。 洗濯は自分でして下さい」
「なるほど……。 部屋を広く使う分、労力を支払うと言うことか?」
「そうなります」
「まったく、律儀と言うか何と言うか……。 わかった、お前がそれで納得するなら、それで構わない」
「有難うございます。 では、今後ともよろしくお願いします」
「あぁ」
可愛げの欠片もない返事でしたが、一色くんはわたしの主張を受け入れてくれました。
一時はどうなるかと思いましたけど、なんとか妥協点には持って行けたかと思います。
ホッと安心したわたしは立ち上がり、ふすまの奥に戻りました。
荷物の整理をする為ですが、その前に部屋着である浴衣に着替えます。
ふすまを隔てたところに異性がいると思うと、ドキドキしますね……。
一色くんなら覗いたりしないと思いますが、彼も年頃の男の子ですし……。
ま、まぁ、わたしの着替えなんて、見たくもないかもしれませんけど……。
と、とにかく急ぎましょう。
僅かに震える手を強引に動かして、着慣れているはずの浴衣を、いつもより時間を掛けて纏いました。
なんとか落ち着けましたけど、明日以降もこれが続くんですよね……。
今更ながら、男女同室の弊害を思い知りましたが、挫けません……!
深呼吸したわたしは気を取り直して、荷物の整理を終わらせました。
ふぅ、夕飯には少し早いですし、お茶でも淹れて休憩しましょう。
ついでに、一色くんの分も淹れてあげましょうか。
べ、別に深い意味はないですよ?
あくまでも、ついでです。
誰にともなく、内心で呟いたわたしは茶葉を手に、共有空間に足を踏み入れ――フリーズしました。
目に映っているのは、上半身裸の一色くん。
甚平に着替えている途中らしく、こちらに背中を向けています。
細身なのですが、鍛え抜かれた肉体を誇っており、非常に引き締まって見えました。
1種の芸術品にすら思えて、見惚れてしま……ってはいけません……!
「し、失礼しました……!」
ともすれば、過去最速かもしれない動きでふすまを閉じ、その場にへたり込みました。
な、何をしているんですか、わたしは……!
これでは、こちらが覗いてしまったようなものじゃないですか……!
どうして彼が着替えている可能性を、考えなかったんでしょう……!
後悔が溢れ出て来て、涙となって瞳に溜まってしまいます。
考えが纏まらず、またしても気を失いそうになりましたが、その前に声が聞こえました。
「開けても良いか?」
変わらず平坦な、一色くんの声。
や、やはり怒っているんでしょうか……。
恐れのあまり体が震えますが、黙り込む訳にも行きません。
「ど、どうぞ……」
わたしの返事を聞いて、ふすまがゆっくりと開かれました。
座り込んでいるわたしを、一色くんは無言で見下ろしています。
い、言うまでもなく、甚平に着替え終わっていました。
何を言われるのかと、わたしは戦々恐々としていましたが――
「茶葉を持っているのか?」
「……へ?」
「それは、茶葉じゃないのか?」
「あ……そ、そうです……」
「良ければ、俺にも淹れて欲しい。 代金なら払う」
「い、いえ……! お金は必要ありません……!」
「そうか? なら、お言葉に甘えよう。 ただし、食事に関しては別だ。 食費は必ず出す」
「わ、わかりました……」
「では、頼んだ」
それだけ言い残して、一色くんは踵を返しました。
わたしは呆然としていましたが、ハッと我に返って動き出します。
あれだけの失敗をしておいて、お咎めなしだなんて……。
正直、不気味に思ってしまいました……。
で、ですが、とにかく今はお茶を淹れるのが優先です。
台所に向かったわたしは、やかんでお湯を沸かし始めました。
それを待っている間、一色くんがどうしているか気になってこっそり視線を向けると、彼は壁を背にして座っています。
目を閉じていますが……寝ている訳ではないですよね?
思わずまじまじと見つめてしまい、そのことを自覚して咄嗟に顔を背けました。
ひ、人の顔をジッと見るだなんて、失礼です……。
反省したわたしが、意識的にやかんを凝視していると、抑揚のない声が耳朶を打ちました。
「共同生活は始まったばかりだ、最初はミスもあるだろう。 気に病む必要はない」
「……ッ! はい、すみません……」
「謝るな、俺にも非はある。 お互い、気を付けよう」
「……有難うございます」
「礼もいらない」
話は終わりだとばかりに、黙り込む一色くん。
もしかして……実は、優しい人なんでしょうか?
今日1日を振り返ってみれば、態度は別として、とても良くしてもらった気がします。
何を考えているのかは、良くわかりませんけど……。
ですが……妙に心が穏やかになりました。
部屋には沈黙が落ちていますけど、居心地は悪くないです。
その後、わたしたちは一緒にお茶を飲んで、夕食をともにしました。
やはり会話は少なかったものの、自然体で過ごすことが出来たと思います。
意外だったのは、わたしが作った夕食に対して――
「美味しい」
と、一言ではありますが、はっきりと褒めてくれたこと。
思わぬ言葉にびっくりして、何も言えませんでしたね……。
次があれば、きちんと返事したいと思います。
今回限りの可能性もありますが……。
こうしてこの日は終わりを迎え、明日に向けて早めに就寝することになりました。