第三章 賽は投げられたⅩⅩⅩⅧ
ガリア公国の北西部とアウソニア連邦の南東部を隔てる国境は見晴らしのいい広大な草原地帯に存在するが、それを超えることは物理的に困難であった。国境をなぞるのは有刺鉄線を張り巡らされた高さ十メートルを超えるコンクリート壁であるため、ライカンスロープの身体能力を以てしても生身で乗り越えることは不可能だ。一定間隔で置かれた見張り台にはガリア軍が二十四時間体制で監視をしており、不用意に近づく者、ましてそれがガリア公国に住む亜人ともなれば、容赦なく狙撃されることになる。
ゆえに、この国境付近一帯は閑散としていることが常であり、両国民は好んで立ち入ることがなかった。
しかし、今宵は違った。記録的な暴風雨に見舞われたこの日――夜の闇と横殴りの雨を隠れ蓑に、数えきれない亜人たちがそこに殺到していた。ガリア政府が掲げる反亜人主義の過熱化に伴い、国内の亜人奴隷たちにもはや安住の地はなく、集団亡命が決起されたのだ。国境に向かって奔流のように雪崩れ込む亜人たちは、いずれもペットや家畜以下の扱いを受けたがため、ただ己の生を守る一心で走った。
万を超える亜人たちが地を鳴らすなか、その後ろからさらなる地鳴りが無慈悲に響く。
「国境に向かう奴らは問答無用で撃て! 一匹たりとも逃がすな!」
亜人たちを追うのは、その数に匹敵するほどのガリア軍の兵士と戦車だ。
激しい雨風を真横から裂くように起こるのは、曳光弾が残す無数の弾道――発砲音から数秒遅れ、亜人たちから悲鳴が上がる。
「開けてくれ! 俺たちはアウソニア連邦への亡命を希望する! 誰か――」
有刺鉄線で体が血まみれになろうとも、亜人たちは地獄から這い上がるように国境の壁を登ろうとした。後ろから迫る弾丸にはヒトがヒトの盾になる状態であり、皮肉にもそれが積み上がることで登るための踏み台になっていく。
「子供が! 子供がいるの! お願い、子供だけでも助けて!」
「頼む! 開けてくれ! もうここを通るしかないんだ!」
「ここから出してくれ! 助けてくれ!」
エルフ、ドワーフ、ライカンスロープが、壁に備えられた分厚い鉄の扉を必死に叩く。喉が張り裂けようとも、叩いた手が潰れて血が飛び散ろうとも。
だが、扉が開くことはなく、誰一人として壁を乗り越えることがなかった。ガリア軍から放たれる弾丸と砲弾が、彼らの希望を悉く粉砕していった。
鳴りやまない悲鳴と断末魔、それに血飛沫の嵐――永遠に続くとも思われたこの地獄だったが、彼らの救いは突然に訪れた。
国境の壁の扉が、無理やり壊されるように、アウソニア連邦側から開けられた。
「走れ! とにかくこのまま北へ! ガリアから離れろ!」
開かれた扉に亜人たちが我先にと流れ込んでいくなか、扉の脇に立つ白い人影がそう叫んだ。
逃げ惑う亜人たちを背に、シオンがガリア軍の前に立ち塞がった。
「聖王騎士団円卓の騎士議席ⅩⅢ番、シオン・クルスを確認。想定通りだ」
「各隊、次の作戦行動を開始しろ!」
しかし、突如姿を現した騎士に怯むことなく、ガリア兵たちは淡々と軍事作戦を続行するだけだった。
その異様な段取りの良さと落ち着きぶりに、シオンは眉根を寄せる。
「俺が来ることを知っていた……?」
その一瞬の隙に、五台の戦車から一斉に砲弾が放たれた。砲弾はすべて散弾であり、狙いはすべて扉に向かって走る亜人たちだった。
シオンは瞬時に“帰天”を使い、“天使化”する。散弾の射線上に割り込み、斥力を全開に不可視の障壁を広範囲に張った。シオンの後方にいた亜人たちは散弾から免れることができたが、それ以外はすべて身体を肉塊に変えられてしまう。
守られた亜人たちが、無惨な姿になった同胞を見て戦慄し、絶叫した。
「足を止めるな、早くいけ!」
それをシオンが一喝すると、我に返った亜人たちは血肉を踏みしめながら、再び扉に走り出した。
「あ、ありがとうございます! 騎士様!」
阿鼻叫喚の中に混ざる感謝の言葉を一つ耳にしたあと、シオンは再度青い光となって疾駆した。
ガリア軍から容赦なく放たれる銃弾と砲弾は一向に止まず、国境の壁にどす黒い肉片をペンキのように塗り付けていく。
扉に集中砲火すれば効率よく亜人たちを始末できるはずなのに、ガリア軍は敢えて隊を国境に沿って広げ、遠くからの射撃を試みていた。
広範囲かつ遠方から攻撃されては、到底、シオン一人で守り切れるはずがない。戦車や兵士を居所的に直接叩いたところで、離れた場所に控えるそれらからの攻撃は止むはずもなく、ましてその間に亜人たちが殺されてしまっては本末転倒である。圧倒的な物量差に、シオンは堪らず歯噛みした。
「クソ、いったいどれだけの兵力を――」
言いかけて、シオンはその場から急いで離れた。
直後、先ほどまで立っていた大地が、細切れに爆散する。目を凝らして微かに見えるのは無数の銀閃――その元を辿ると、壁の上に騎士が一人立っていた。
「シオン卿! そこまでです!」
「カタリナ……」
それは、ユリウスの弟子――カタリナという女騎士だった。鋼糸という扱いの難しい武器の使い手は多くないため、シオンはその練度ですぐに特定できた。
カタリナは大きく跳躍し、シオンの行く手を阻むように降り立った。
それが何かの合図であったかのように、次々と壁の向こう側から他の騎士たちが姿を現し、カタリナの傍らに付く。
「今すぐ武器を捨て、投降してください!」
当然、騎士団が動くものだとシオンは予想していたが、想像以上に早かった。
この状況へのプランを何も思い付けていなかったシオンは、もはや彼女たちの良心に訴えるしか術がなかった。
「事が片付いたら投降する! 今は見逃してくれ!」
「できるわけがないでしょう! 教皇庁の了承なしにガリア軍に攻撃を仕掛けるなど、過剰な内政干渉として教会内外から捉えられます! 騎士団の立場が危うくなるだけです!」
カタリナの鋼糸がシオンの左腕を絡めとった。同時に、他の騎士たちも各々の武器を手に構える。
「それが罪なら後で好きなだけ罰しろ! とにかく、今はお前たちに構っている暇は――」
そんな押し問答をしている間に、ガリア軍から更なる一斉砲撃が行われた。
シオンは自ら左腕を引き千切り、砲弾の着弾点に移動する。障壁で数人を守ったあと、爆発の衝撃で蹲る亜人たちを無理やり立ち上がらせた。
「立ち止まるな! さっさと国境を越えろ!」
亜人たちが扉に向かって去ったあと、シオンは一度“天使化”を解いた。戦車の砲弾を止めるほどの出力で何度も斥力を操作したために体力を大きく削り、強烈な疲労感が襲ってきたのだ。
片膝を付き、乱れた息を整えていると――
「シオン卿、ここまでです。いくら貴方でも、この数の騎士を相手に無事で済むはずがありません」
カタリナたちが、周囲を囲むように立ち塞がった。
シオンは立ち上がり、カタリナを正面に据える。すると、彼女は沈痛な面持ちを返してきた。
「これ以上、プリシラを悲しませないでください」
だが、シオンの意識はそこに向けられてはいなかった。
視線の先――カタリナの後方で、ライカンスロープの男児が泣きながら立ち竦んでいた。その足元には両親と思われる男女の死体。周囲にはすぐ近くに弾丸と砲弾の射線が迫っている。
「そこを退け」
「できません」
カタリナはそう言ったが、明らかにシオンの目に映るものに気付いていた。
「頼む」
「できません!」
「ユリウスはお前に何を教えた? 子供を見殺しにしても、教会の決まり事を守れと言ったのか?」
ユリウスの名を耳にして、カタリナに確かな動揺が生まれる。
この状況で騎士がどう動くべきかなど、全員がわかり切っているはずだった。
「もう一度言う。用が済んだら投降する。だから、今は、今だけは見逃してくれ。政治的な問題は、すべて俺の罪にして構わない。議席持ちの首だ。騎士団の不祥事の一つや二つ、見せしめにして楽に帳消しにできるはず」
「しかし……」
「俺を見逃すにせよ、捕らえるにせよ、どちらも正解だ。だが、最後は自分の騎士の矜持に従え。少なくとも、師からはそう教えを受けたはずだ」
その直後、戦車の砲弾が男児に向かって放たれた。
シオンが“帰天”を使い――だが、それよりも早く、男児の身体が砲弾の射線上から飛び退いた。
カタリナが鋼糸を使って、男児を自身に引き寄せたのだ。
「この状況を切り抜ける算段はあるのですか?」
男児を抱えたカタリナが、シオンに訊いた。
シオンは、少しだけ安堵した顔で首を横に振る。
「あったらこんなザマになっていない」
「ここで死ぬおつもりですか? このあと、モルドレッド卿率いる騎士の本隊も到着しますよ」
「騎士になると決めた時点で、この命は自分以外のために消費するものだと割り切った。本望だ」
シオンの言葉を聞いたカタリナは、男児を解放し、扉に向かって逃げるよう促した。
それから、他の騎士と共に、シオンの前に整列する。
「シオン卿、指揮をお願いします」
「出せると思うか、この状況で?」
「では、指示を」
シオンは困ったように息を吐き、一瞬考えた。それから、徐に口を動かす。
「……この状況で避難民の保護はできない。とにかく今は、彼らをアウソニア側に逃がす。お前たちは絶対にガリア軍に手を出すな。直接手を出さなければ、全部俺のせいにできる。騎士の本隊が来たあとは、素知らぬ顔であちら側に付け。それがタイムリミットだ」
しかし、カタリナは腕を振り、鋼糸を遠くに控えるガリア兵に向けて伸ばした。ガリア兵たちが鋼糸に次々と身を斬られていくなか、他の騎士たちもそれに続く。
「お前たち――」
「半端なことはするなと、ユリウス卿に教えられたので」
面食らって驚いたシオンだが、その言葉を聞いて、この状況以上に困ったように眉根を寄せた。
「……勘弁してくれ。あいつに詫びを入れるのだけは嫌だったのに」
シオンたちは一斉に散開した。
それぞれが自分の得意分野を活かし、亜人の逃走を助ける側と、ガリア軍の攻撃を断つ側に向かった。
シオンとカタリナは共に攻勢に転じ、ガリア軍の兵士と戦車を潰しに赴く。
「この状況、いつまで続くんでしょうか!?」
戦いながらのカタリナの問いに、シオンは首を横に振った。
「わからない! だが、ガリア軍の増援はもう来ていない! 今いる兵力を叩き潰せば――」
「シオン卿!」
その悲鳴のようなカタリナの呼びかけが無ければ、シオンは首と胴体を両断されていた。
反射的に身体を反らした頭上を通ったのは一筋の剣閃――シオンの後方から音もなく忍び寄っていたのは、モルドレッドだった。離れた場所では、彼に付き従った騎士たちが、シオンを手伝う騎士たちに攻撃を仕掛けている。
体勢を整えて構えるシオンに、モルドレッドが長剣の切っ先を向けた。
「シオン・クルス、教皇からお前の討伐命令が正式に下された。ここで死んでもらうぞ」
異様なほどに鬼気迫る表情をしたモルドレットに、シオンは眉を顰めた。
「アンタ、ガイウスのこと毛嫌いしていたはずだろ。なのに騎士を何人も連れて大人しく従うなんて、弱みでも握られたか?」
疑念と煽りを孕んだシオンの質問に、モルドレッドは苛立ちを隠せていなかった。
「なんとでも言え。私の事情がどうであれ、お前のやったことは到底認められるものではない」
「目の前で避難民の死体が積み上がっていても教会を優先する――たいそうご立派な騎士だよ、アンタは」
シオンがそう吐き捨てた瞬間、モルドレッドが斬りかかってきた。
モルドレッドの一閃を刀で受け止めたシオンは、カタリナに視線を送る。
「もういい、カタリナ! お前たちは退け! こいつらが来た以上、今度こそ言い逃れができなくなる!」
だが、カタリナはすでにモルドレッドの騎士に追われており、シオンの指示を聞けていなかった。
「くそっ!」
シオンが悔やみながら、力任せにモルドレッドを弾き飛ばす。
モルドレッドは受け身を取り、彼もまた怒りの形相で目を剥いた。
「悪態を吐きたいのはこちらの方だ! どいつもこいつも、私の邪魔ばかりしやがって!」
何故か我を失ったように怒り狂っているモルドレッド――しかし、その感情は攻撃の苛烈さに乗ってシオンを追い詰めた。普段のシオンであれば、モルドレッドは単純戦闘の上では格下に相当する。だが、無茶な“帰天”を使い続けた結果、シオンの体力はすでに底をつきかけていた。
モルドレッドの剣は、そんな弱点を見透かしているかのように、シオンを追い詰めた。
「もう“帰天”を使う体力も残っていないのだろう! お前にはここで死んでもらわねば困るんだ! 抵抗せず、私に――」
シオンが疲労によろけ、受けた剣圧に耐えられず尻もちをついた時だった。
モルドレッドが、不意に驚愕する。
「な、なんだこれは!?」
見ると、彼の右足が、まるで闇に固められたかのように地面と一体化していたのだ。
突然の出来事に、本人のみならず、シオンも驚きに目を見開く。
しかし――
「パーシヴァ――」
モルドレッドがシオンの後方を見て何かを言いかけた刹那――シオンは立ち上がり、その勢いのまま、刀をモルドレッドの喉元に突き刺した。
驚愕した顔のまま鼻と口から血を吹き出すモルドレッド。シオンは、短い叫びと共に刀を振り抜き、首を刎ねた。
どうにか切り抜けられた危機に、シオンは肩を何度も大きく上下させる。
「まずい……今度こそ体力が……! 再生も……!」
モルドレッドとの戦闘で、もはやシオンは立ち上がることすらやっとの状態だった。自分の意に反して両膝に力が入らず、がくんと身体を地面に預けてしまう。
その時だった。
暴風雨の闇の中から、三つの白い人影が現れたのは。
「……次は、アンタらか」
半ば諦めの兆しが出たシオンの赤い双眸に映ったのは、アルバート、レティシア、セドリックの三人だった。
シオンは立ち上がり、彼らに背を向けた。
「煮るなり焼くなり好きにしろ。だが、今だけは――」
「もう、すべてが手遅れだ」
アルバートが低い声で放った言葉は、シオンが見た光景にそのまま反映された。
シオンを助けた騎士たちはモルドレッドの騎士たちに捕らえられ、あるいは殺され――ガリア軍に対抗する勢力がいなくなったことで、亜人たちはいよいよ狩られるだけの状態になっていた。
――どれだけの亜人が逃げ切れた?
――味方してくれた騎士は何人助かることができる?
圧しかかった現実にいくつもの不安と疑問が湧き上がり、同時に、抑制できない怒りが胸中を侵していく。
混濁する意識のなか、シオンは最後の力を振り絞り、“帰天”を使った。




