鏡の国の妖精王子
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真夜中、ベッドに横になっていたヘレンは、むくりと起き上がった。連日の厳しい教育に身も心もくたくただったはずなのに、妙に目が冴えて眠れなかったのだ。
部屋に備え付けられた三面鏡を開くと、彼女は今日も秘密の友達に話しかける。
「こんばんは、カランコエ」
「やあ、ヘレン。今宵もいい月夜だね」
ミラ公国の姫君であるヘレンと、東の大国パルシー帝国の外交官であり、外務大臣の子息が婚約したのは二年前の事。元々国家間の外交で交流はあったものの、ヘレンに一目惚れをした、是非とも共に手を取り合い帝国と公国の懸け橋になろうと打診されたのだ。
政略結婚が務めだとは理解していたが、まだまだ恋愛に夢見る年頃だったヘレンは舞い上がり、婚約者は自分にとって王子様だと公言するまでになった。周囲もこの物語のような恋の行方を大々的に祝福していたのだが。
父である大公が亡くなり、跡継ぎの兄と自分に『教育』が施されるようになってからは、だんだんと違和感を覚えてくるようになった。歴史の授業は公国ではなく帝国史で、如何に帝国が偉大な存在であるか、帝国を支える事が如何に名誉である事かを覚え込まされる。そして一言でも指摘しようものなら、何時間でも拘束されて両国の外交の重要性を解かれるのだ。
疲れ果てたヘレンは反論も抵抗も飲み込み、いつしか流されるままに教育係の主張を受け入れるようになった。滅多に会えない兄もまた、最近すれ違った時などは死人のように虚ろな目をしていた。
カランコエと出会ったのは、そんな時だった。鏡の中から呼びかける不思議な友達は、半分妖精なのだと言う。そして彼は鏡を通じてヘレンを外に連れ出し、教育係が教えてくれないミラ公国の姿を見せてくれるのだった。
「カランコエ、今日はどこに連れてってくれるの? 私、またホイールケーキを食べに行きたい!」
「ホイールケーキは帰りに買って行こう。今日は……そうだなー、ギーマントンネルの近くにある村なんてどうだい? あそこで作られる布織物は、とても綺麗な紋様で有名なんだ」
そう言うとカランコエはヘレンの手を引き、鏡の中へと誘った。とても不思議な感覚だ……ヘレン一人の時はどんなに願っても鏡の中と外は通り抜けられないのに。
気が付けば、真っ暗なトンネルの中にいた。遠くに見える光は、外の月明かりだろう。それを道標に、二人は手を繋ぎながら歩き出す。
「このトンネルは、何のために掘られているのかしら?」
カランコエに手を引かれながら、ヘレンはぽつりと漏らす。ギーマントンネルが魔石の採掘のために造られた事は知っているが、それも昔の話で粗方掘り尽くされてしまっているはず。だが最近になってまた工事が始まったようで、こうしている間にもヘレンのナイトドレスに煤のような粉塵が纏わりついていた。
「それはね、鉱山を突き抜けて向こう側の道と一本に繋げるためさ」
「一本の道?」
「そう、帝国から真っ直ぐに伸びる……ちょうど戦車が通れるくらいのね」
戦車という物騒な言葉に、ヘレンはぎょっとする。
「パルシー帝国は、戦争をする気なの!?」
「この国とはしないよ。だってただの通り道と戦う必要なんてある?」
カランコエの意地悪な言い方に、嫌な気分になる。あの優しい婚約者が、侵略のためにミラ公国を、ヘレンを利用しているとは信じたくない。
ようやくトンネルを抜けて少し歩いた先には、彼が言っていた通り小さな村が見えた。昔、魔石鉱が行われていた頃の名残なのだろう。その方角から、幼い少女がこちらに向かって歩いてくる。
「布はいらんかねー。お姉さん、布買ってくれない? 綺麗な模様だよ、ホラ!」
「布だけ貰っても……確かに美しいけど」
鞄の中に折り畳まれていた布を広げられ、買ってくれと懇願されるけれど、姫君として傅かれていた自分には裁縫ができないので使いどころがない。何より、城を抜け出していた事がバレてしまう。
「あっ、その鞄いいわね。それなら買ってもいいわ」
少女の持っている鞄も、売り物と同じ布織物でできていた。デザインもいいし、どうせなら衣類や日用雑貨に加工して売ればいいのにと思う。
ヘレンの提案に、少女は驚いていた。
「ダメよ、これは一つしかないから……あの、布を買ってくれた帝国人が売ってくれたんです」
「帝国人が作ったの? 村の人には、作れないの?」
聞けば村人に仕立ての技術はなかった。帝国人は布織物を格安で買い取り、逆に加工品を公国民に買わせていたようだ。
何とも言えない気持ちになったヘレンに、カランコエが戻る時間だと促す。我に返ると目に前には少女ではなく、ギーマントンネルの入り口があった。来た時は気付かなかったけれど、トンネル上部には帝国語で【皇帝陛下万歳 ギーマントンネル】の文字が書かれた金属板が取り付けられていた。
(……?)
何となしに見た光景に、違和感を覚える。ここで言う皇帝とはパルシー帝国の皇帝で、つまりは「ああ、ミラ公国は属国だったのね」と今更な事実がぼんやり頭を過ったのだが、それだけではない。【ギーマントンネル】の文字部分が、異様にピカピカに磨かれているのだ。
今でも微量の粉塵が舞っているせいで、定期的に掃除をしないと凹凸のある金属板などはすぐに黒ずんでしまう。事実、【皇帝陛下万歳】の箇所は真っ黒になっていた。【ギーマントンネル】が鏡のように美しい事が余計に対比となって――
唐突に、悟った。
ミラ公国民の、物言えぬ心の声を。
ヘレンは今まで、自分が幸せなのだと信じていた。
愛を口にしてくれる婚約者、支援してくれる帝国、不満一つ言わない自国民……
けれど、それは表向きに用意された言葉ばかりで、本当の事など何も見えていなかった。向き合おうとしてこなかったのだ。
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