第31話:緊急ブリッジコールと世界の終わり、あるいは無許可の夜間作業
視界を覆い尽くしていた真白な転移光が弾けて消えると、そこは全くの別世界だった。
風の匂いが違う。土と緑の香りが支配していたこれまでのファンタジーエリアとは異なり、鼻腔を突くのは冷たい鉄の錆びた匂いとコンクリートの粉塵、そして高圧電流が奔った後のような微かなオゾンの臭い。
「……ここは?」
玲奈は、頭に被った黄色い保護用ヘルメットの鍔をクイッと押し上げ、周囲を見渡した。
視界に広がっているのは、見渡す限りの鋼鉄とコンクリートで構築された、巨大な無機質の都市だ。天を衝くような高層摩天楼が林立し、その合間を縫うように幾何学的な光のラインが走っている。
華やかな剣と魔法のファンタジーRPGという当初のコンセプトはどこへやら、まるでサイバーパンクのディストピアにでも迷い込んだかのような光景だ。ここが、ユーザーBこと健太が築き上げたという現代エリア、『Bの帝国』の中心部なのだろう。
玲奈は自身の姿を見下ろした。
肩幅に合っていないだぼだぼの作業着。腰にはゴツい安全帯とツールベルト。足元は頑丈すぎる鋼鉄製先芯入りの安全靴。そして頭には鮮やかな黄色いヘルメット。
ゲーム開始初日、キャラクター作成画面で「防御力が最も高く、作業効率が最大化される装備」を物理的な視点だけで厳選した結果、まわりのキラキラした戦乙女や魔法使いのアバターの中で唯一『完全に工事現場のドサ回り』と化してしまった、玲奈の正真正銘の初期装備である。
「うん、やっぱりこの服が一番落ち着きますね。ポケットも多いですし、安全第一です」
玲奈が作業着の袖をキュッと捲り上げたその時だった。
『ピロリロリン! ピロリロリン! ピロリロリン!』
視界の右下に常駐させているタスク管理ツール『Jira』の非公式チャットウィンドウから、鼓膜を突くようなけたたましいアラート音が鳴り響き始めた。
ポップアップ表示されたメッセージの枠は、重大なシステム障害を示すどぎつい真っ赤な警告色に染まっている。
【チケットID:SYS-9999】
【優先度:Severity 1(致命的障害)】
【報告者:A(結衣)】
『ちょっと玲奈! 健太! ヤバい、ヤバいヤバいヤバいって!!』
『さっきの定時退社(強制サスペンド)のせいで、システム側が本気でブチ切れたわよ!』
『管理者のルート権限が直接介入してきた! 世界初期化プログラム(フォーマット)が起動したわ!!』
【報告者:B(健太)】
『こっちの監視モニターも真っ赤だ! サーバーの処理負荷が異常値に達してる!』
『玲奈、無事に転移できたか!? 空を見ろ! 奴らが来るぞ!』
「奴ら、ですか?」
玲奈が首を傾げながら、ヘルメットの庇をかざして上空を見上げた瞬間。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
大気を震わせる、重低音の地鳴りが響いた。いや、正確には地鳴りではない。「空鳴り」だ。
さっきまで鉛色だった都市の空が、まるで毒々しい絵の具をぶちまけたように、不気味な赤紫色へと急速に染め上げられていく。
「うわぁ……」
玲奈は思わず眉をひそめた。
空が赤い。それも夕焼けのような美しい赤ではない。システムのエラーコードをそのまま視覚化したような、目に刺さる不快な警告色だ。
「……劣悪な労働環境ですね。空調管理も色彩管理もなって指示が出せません。それに、こんな時間から空を赤く染めるなんて、明らかに無許可での夜間作業ですよ。近隣への配慮が足りていません」
玲奈の相変わらずピントのズレた呟きをよそに、空の異常事態はさらに加速していく。
ピキッ、ピキキキキキッ!
赤い空に、巨大な亀裂が走った。まるでガラスの天井に超重量物を落としたかのように、空間そのものが物理的なヒビを刻んでいく。
そして次の瞬間――パリンッ! という耳障りな破砕音と共に、空の一部が完全に崩落した。
ぽっかりと空いた漆黒の亀裂から、光の粒子が滝のように地上へと降り注ぐ。
それは、無数の「何か」の群れだった。
純白の翼を持ちながらも、顔の部分には目も口もなく、ただ無機質な単眼レンズだけが埋め込まれた機械の天使たち。その数は千や二千ではない。数万、数十万……空を埋め尽くすほどの神の軍勢が、世界を更地にするために降り立っていた。
だが、絶望はそれだけでは終わらない。
無数の天使たちが割れて左右に道を空けると、亀裂の最奥から「それ」が静かに降臨した。
サイズがおかしい。
天を衝く摩天楼のビル群すら見下ろすほどの、超巨大な人型。黄金に輝く六枚の巨大な翼を持ち、全身から直視できないほどの光(※システム的には処理負荷の極めて高い高密度エフェクト)を放つ、神の本体。
『――我はシステムの代行者』
神の本体が、世界を揺るがす大音量で宣言した。
その声は、世界中の全プレイヤーとNPCの耳元に直接叩き込まれる全体系アナウンスだった。
『――度重なる規定外の挙動。不法な地形データの改ざん。並びに、システム物理演算に対する悪質な干渉。これ以上の異物の存在は許容できない』
『――我は人類を粛清する者なり。平伏し、消去の時を受け入れよ!』
圧倒的な威圧感。
世界そのものが「お前たちを消去する」と宣告してくる、絶対的な絶望の光景。
普通のプレイヤーなら、その圧倒的なスケールと圧倒的な「ラストボス感」を前にして、膝を折って戦意を喪失するだろう。
しかし、現場の玲奈のリアクションはまったく違っていた。
「…………声が大きい!!」
玲奈は黄色いヘルメットの上から両手で耳を塞ぎ、心底嫌そうな顔をして空を見上げた。
「スピーカーの音量調整(デシベル管理)はどうなってるんですか! 近隣住民(NPC)から騒音クレームが入ったらどうするつもりですか! それに、深夜の無許可リリースどころか、いきなり本番環境で破壊活動を始めるなんて、重大なコンプライアンス違反です!」
Jiraのチャットルームでは、結衣が半狂乱になってキーボードを叩き叩き叩きまくっていた。
【報告者:A(結衣)】
『ちょっと玲奈! 何怒ってんのよアンタは! 怒るポイントがおかしいでしょ!?』
『イキり散らしてんじゃないわよあのクソデカポンコツAI! 玲奈、早く逃げなさい!』
『あんなのまともに相手にしたら、演算処理が追いつかなくてVRギアごと脳を焼かれるわよ!!』
【報告者:B(健太)】
『結衣の言う通りだ! 玲奈、俺がNPCの全軍勢を使ってDDoS攻撃(トラフィック誘導)を仕掛ける!』
『奴らの処理能力を俺の軍勢に引きつけるから、お前は一旦引け!』
【報告者:A(結衣)】
『というか玲奈、アンタ! こんな最終決戦の土壇場になっても、まだそのだぼだぼの作業着着てんの!?』
『第1話で「初心者用装備です」って渡された時から、一回も着替えてないじゃない! 戦乙女アバターの着せ替え機能どこ行ったのよ!?』
画面の向こうで青筋を立ててツッコミを入れる結衣に対し、玲奈は至って真面目に返信を打ち返す。
「着替える理由がありません。ポケットがたくさんついていて工具が入りますし、このヘルメットがないと落下物があった時に労働安全衛生法に抵触します。第一、現場において作業着以上の正装はありませんよ」
【報告者:A(結衣)】
『ここはゲーム世界なの!! 労基も安全衛生法もないの!!』
『ああもう、話が噛み合わないわね!! とにかく逃げなさいって言ってるの!!』
「逃げるって、どこにですか? もう業務時間は過ぎていますが、こんな危険な障害が発生している現場を放置して帰ったら、明日以降の工程に深刻な遅れが出ます」
玲奈は作業着のポケットから光の測量尺を取り出し、足元をコンコンと叩いた。
彼女の頭の中では、この世界の終わりという未曾有の事態が、『深夜の突発的な緊急メンテナンス対応(しかも残業代は出ない)』という、極めて現実に即した事務的かつ不快なタスクへと完璧に変換されていた。
「あれだけの数のオブジェクト(天使)を、手作業で一個ずつ剣で斬っていたら過労死します。指の腱鞘炎どころの騒ぎじゃありません。手作業でのデバッグは著しく非効率です」
【報告者:B(健太)】
『だから逃げろと言ってるんだ! いいから俺の指示を聞け!』
『北だ! ここから北へ向かって走れ! あそこに、結衣が地球規模の演算でマントルを弄って作った【超巨大なカルデラ】がある!』
『俺たちが命がけで、敵の軍勢をそこへ誘導する! お前はそこで待機して……敵が集まったところを一気に【整地】しろ!!』
健太からの指示が画面に表示された瞬間、玲奈の表情がパッと明るくなった。
「なるほど! 『隔離用のサンドボックス環境』がすでに用意されているんですね! しかも、トラフィック(敵)の誘導まで引き受けてくださるとは……!」
玲奈は作業着の手袋をパンッと叩いた。
隔離環境にエラーデータを集め、一括で安全に処理する。実に合理的で美しいプロジェクト進行だ。
「さすが健太さん、素晴らしいプロジェクトマネージメントです! 分かりました、私は先行してその『現場』へ向かい、施工の準備(初期セットアップ)を進めます!」
【報告者:A(結衣)】
『だから施工って何よ! 殺すの! デリートするのよ!!』
『頼むから真面目にやってよね玲奈! これ失敗したら、私たちの特別バイト代も完全に消滅するんだからね!!』
「お任せください、結衣さん。未払い賃金の回収と安全第一の更地化は、私の最も得意とする分野です」
『――逃げ惑うネズミめ。無駄な足掻きを』
上空から、神の本体が超巨大な光の槍を形成し、玲奈に向かって照準を合わせようとしていた。巨大なエネルギーの収束が、周囲の空間を歪ませていく。
だが、玲奈はすでにそちらを向きもしなかった。
「あー、足元が暗くて危険ですね。作業前点検、ヨシ!」
ヘルメットの顎紐を締め直し、右手でビシッと指差し呼称を決める。
玲奈は足元に青い光のグリッド(CADの設計線)を展開すると、見えない階段を空中に構築し、物理法則をあざ笑うかのような足場を踏みしめて跳躍した。
「現場へ急ぎます! 安全第一で移動開始!」
夜空を真っ赤に染め上げる神の怒りと、世界を終焉へと導く絶望の旋律。
しかし、だぼだぼの作業着を風になびかせて駆け出した玲奈の頭の中にあるのは、ただ一つ。
いかにしてこの巨大な粗大ゴミ(レガシーシステム)を効率よく物理解体し、明日からの業務に支障を出さずに終わらせるかという、究極のタスク管理だけであった。




