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後編

 十二月に入った昼下がり、玲士は食堂で隼とのんびり昼食をとっていた。隼は大盛りのカレーを、玲士はうどんをそれぞれ頼んでいる。やっぱりうどんは何回食べても飽きないものだ。

あれから瑞希と放課後のスイーツ巡りは続いている。藤沢の働いているプレリーにも足を運んではいるが、どこから情報を得ているのかそれ以外の店にも瑞希は詳しく、彼女に付いて行くような形になっている。

 玲士の方から瑞希を誘いたいが、普段から必要以上に寄り道をしていなかった分店選びには苦労している。

 瑞希が毎回選んでくる店はどれもグレードが高く、その分玲士の方も店選びのハードルは高くなっている。瑞希の方は玲士のそんな悩みを知らないため仕方のないことではあるが、せめて一回ぐらいは玲士から案内したい。

 「なぁ隼。一つ聞いてもいいか?」

 「うん?どうした」

 隼は口に運びかけていたスプーンを止め、一旦下ろした。

 「この近くで甘いものが食べられるおすすめの店ってお前知っているか?」

 「甘いものぉ?俺がそんなの知っているわけないだろ。そんなのは女子の方が詳しいんじゃないか?玲士お前いきなりどうしたよ」

 玲士の質問に隼は呆れたように返し、そのあと興味を持ったのか話に食いついてきた。

 「いや。ちょっと友達が甘いものを食べたいみたいなんだが、そんな店って俺知らないからさ、誰か知っているかなと思ったんだよ」

 「尚更俺に聞いている時点でチョイスミスだろ。なんで女子に聞かないんだよ」

 「あ~。……それはだな……」

 確かに隼の言う通りこの類の質問はクラスの女子に聞いた方が的確な答えが返ってくるだろう。返って来るがその後が問題だ。玲士はどう答えたものか悩んだ。

 (絶対理由を聞いてくるから聞きづらいんだよなぁ)

 普段関心を持っていなかった玲士がいきなり店を教えてくれと言えば絶対にその理由に興味を持ってくる。玲士一人で行くとは思えないから必ず誰かと一緒に行くのだと気づくだろう。

 別に瑞希と放課後に行動していることは秘密にしているわけではないが、追及されると説明が面倒だし、変に噂が広がって瑞希に迷惑がかかるのは避けたい。

 「まぁ、誰に聞くかは玲士の自由だけど俺ではないのは確かだな。頑張りたまえ」

 口ごもっていた玲士から興味を失ったのか隼は下ろしたままだったスプーンを口に運んだ。

 これは地道に探すしかないかなと仕方ないような表情になりながら食事を再開した。再開した矢先、

 「そういえばさ、俺も聞きたいと思っていたことがあるんだよ」

 「聞きたいこと?なんだよ」

 ちらりと隼の方に目を向けた後、玲士はそう言いながら器を持ち上げ出汁を飲み始めたところで爆弾は投下された。

 「玲士ってさ、あの会長と付き合っているのか?」

 玲士は器に口をつけたままの状態で固まった。この時思わずむせ返らなかった自分を褒めてやりたい気分だ。

 口に含んだままの出汁をゆっくり飲み込む。そのままゆっくりと器を顔から離していく。器が顔から離れていくとその向こう側から隼がこちらを見ている。

 机に器を置いた玲士はようやく口を開いた。できる限り表情には出さないようにしているがどうだろうか。

 「いきなり何を言い出すんだ?」

 「いや、だから玲士は会長と付き合っているのかって聞いてるんだよ」

 「そもそもどうして俺が会長と付き合っているってなっているんだ?そう言うからには何か理由があるんだろ?」

 玲士はすぐには返事を返さずに逆に聞き返した。この質問が出た時点で相手側にはそう判断するだけの何かを聞いたか見たのだろう。

 「先週だったかな。駅前まで買い出しに行った時にお前と会長が仲良く店から出てくるのを見たんだよ。その様子じゃ俺には気づいてなかったようだな」

 隼からの言葉に玲士はとうとう見られてしまったかという思いだ。

 そもそも週に一回放課後とはいえ比較的近い場所で一緒に行動しているのだ。学内の生徒に見られる可能性は十分あったし、これまでその話題が挙がらなかったのが逆に不思議なくらいだ。

 「で、どうなんだ。やっぱり付き合っているのか?」

 隼はニヤニヤとしながらこちらを見ている。完全に面白がっているし、こちらをからかいたいのだという意図が見え見えだ。

 玲士は溜息をついた後短く「付き合っていない」と答えた。しかし、隼は納得していない。

 「嘘つくなよ。あの生徒会長が放課後にわざわざ玲士と一緒にいるなんてどう考えても付き合っているとしか思えないだろ」

 「期待しているところ悪いが、放課後に会長と一緒にいることはこれまでもあったぞ。生徒会の備品の買い出しもしたことあるし、今は受験勉強で大変な会長の気分転換を兼ねて週に一回だけ甘いものを食べに行っているだけだ」

 「甘いものを食べに?」

 「おう」

 「会長と二人でか?」

 訝し気に聞いてくる隼。

 「そうだな」

 玲士は正直に答えた。梨恵もこれまで何度か誘ってはいるが、やはり受験勉強で余裕が無いのだろう。毎回「ごめんね~。ちょっと私は行けないや」と言って断ってしまうので、玲士と瑞希の二人だけで食べに行くことになってしまう。毎回断ることになってしまうのでとりあえず梨恵には行ける日があれば言って欲しいと伝えてはいるが、未だ一度も参加したことは無い。

 そんな玲士の返答になぜか隼は黙り込んでしまった。いったいどうしたのだろうか。

 「玲士」

 「なんだよ」

 「お前分かっているのか?」

 「だから何がだよ?」

 曖昧な表現で隼が何を言いたいのかいまいちわからない。玲士も何を言われているのかわからず首を傾げるばかりだ。隼もどうやら言い悩んでいる様子でしばらく考えた末に、

 「あ~。玲士、それは普通デートって言うんだぞ」

 「デっ!」

 思わず声を上げそうになったのを寸前で堪えた。少し離れた場所で昼食をとっている生徒が振り返ってこちらを見てくるが、一瞥しただけですぐに背中を向けてしまった。

 デート。玲士にとっては全く関わりのない言葉だ。

 「ちょっと待ってくれ!会長とは気分転換のために一緒に食べに行っているだけだぞ⁉」

 玲士は慌てて隼に改めて目的を話した。ただ一緒に食べに行っただけでどうしてデート扱いになってしまうんだ。

 「生徒会の全員で食べに行っているわけじゃないんだろ?」

 「それは笹苗先輩の都合がつかないからだ。宮川先輩は元々甘いものがあまり好きじゃないから行かないだけだぞ」

 「じゃあデートじゃん」

 隼は半ば呆れたように玲士を見ている。こいつは何を言っているんだと言いたげな表情だ。

 「確かに二人では一緒に放課後行動しているが、さっきも言った通り生徒会の備品補充の手伝いでも一緒に行っているぞ。会長だけに全部丸投げするのは流石に申し訳ないからな」

 「じゃあ聞くが、生徒会の用事と玲士の言う気分転換を兼ねた食事。どっちが多いんだ?」

 「そ、それは……」

 隼の指摘に玲士は口ごもった。生徒会の備品補充と言っても、文化祭という一大イベントが終わり、来年に向けての引継ぎや仕事内容を覚えることが多いのであまり備品を消耗することが無い。せいぜい休憩の時にみんなで食べる菓子の補充程度だろう。それも最後にしたのはいつだっただろうか。

 そうなると質問の答えは一つしかない。

 「……食事の方が多いな」

 そう言う玲士に隼は「そらみろ」と自分の言ったことが正しかったのだと分かったようにしている。

 「話を戻すが付き合っていないのか?」

 「しつこいな。会長とはそんな関係じゃない」

 「付き合う予定もないのか?」

 「なんでそんなに付き合うことに拘るんだよ」

 珍しく隼がこの話からなかなか引き下がらない。若干しつこいなと感じ始めてきていた玲士は少しムッとした表情で言い返した。

 「そりゃ、いつも本ばかり読んで色恋沙汰に興味なさそうな玲士にようやく春が来るかもしれないんだぞ?気になるのは当然じゃないか」

 「季節は冬で春からほど遠いけどな」と言って笑う隼。

 「言っておくが会長は俺も甘いものが好きだと知って誘ってくれているんだぞ。そんな感情があるわけないじゃないか。そもそも俺じゃなくても笹苗先輩の都合がついていたら俺じゃなくて笹苗先輩と行っていると思うぞ」

 瑞希が玲士を誘ったのはあくまでも身近な範囲で一緒に食べに行けるのが玲士だったからだ。そこに恋愛感情なんてあるわけもないし、ありもしないことで瑞希の気持ちを決めつけることは失礼だ。

 そういった忠告も兼ねて言ったつもりだったのだが、なぜか隼の反応がおかしい。盛大に溜息をつき、「そうくるか~」と呟いている。

 何かおかしいことを言っただろうか?思い返してみても特に変なことは言っていないはずだ。玲士は何故隼がここまで溜息をつくのかわからない。

 「あのな玲士。なんとも思っていない奴と何度も二人きりで食べに行くわけないだろ。俺だってそんな奴と一緒に飯を食べに行ったりしないぞ。行くなら一緒に行って楽しいと思える奴だろ?玲士もそうだろ」

 呆れたように言う隼に玲士は頷くしかできない。

 「そもそも都合がつかないならお互いの予定を合わせるか、どうしても無理なら一人で行くだろ?一人で行きたくないにしても、なんでそこまで親しくない奴と行こうなんて思えるんだよ」

 流石にこれに玲士は何も言い返せない。隼の言っていることは至極まともで玲士が逆の立場でもそう行動するからだ。

 それでも、と玲士は隼の言葉に納得しながらも思う。瑞希が玲士に対してそういう感情を持っているのかは別問題だ。

 隼が言っているのはあくまでも想像の話でしかなく、瑞希の本心だという確証はない。相手にそんなつもりが無いのに、こちらが変に解釈して「そうなのだ」と決めつけたくない。

 「そもそも、玲士は会長のことどう思っているんだよ」

 「俺?」

 お前以外に誰がいるんだよと頷く隼。突然話を振られた玲士は質問内容に戸惑ってすぐに返答できなかった。

 「少なくとも放課後にわざわざ一緒に食べに行くんだから、少なくとも何かしら思うことはあるだろ?」

 玲士は黙ったまま隼に言われたことを考えていた。

 (俺は会長のことをどう思っているんだろう)

 少なくともこれまで生徒会で一緒にいたので全く気にならないと言えば嘘になる。しかし、そこまで瑞希のことをどう思っているかなんて考えたこともなかった。

 一旦落ち着こうと器に残ったままの出汁を玲士は一気に飲み干した。熱かった出汁はすっかり冷めてしまっていた。



 その日の夜、玲士はベッドの上で仰向けになって物思いに耽っていた。いつからこの状態になっているかはもう覚えていない。玲士の頭の中では昼間隼に言われたことがずっと気になっていた。

 「そもそも、玲士は会長のことどう思っているんだよ」

 隼にデートだと言われるまで一度もそんなことを考えたこともなかった。一緒に出掛けることが当たり前だと思っていたし、そのことに対して何の疑問も持たなかった。

 それでも指摘されて改めて考えてみると確かに隼にそう思われても仕方ないことだと思う。

 (俺が会長をどう思っているか……か)

 正直自分は瑞希のことをどう思っているのだろうか。これまでのことを振り返りながら自問自答してみる。

 生徒会に入ったばかりの頃、放課後に一人で作業をしている瑞希を見つけた時は一人だと大変だと思って毎日参加できない梨恵達の代わりに瑞希の無茶に付き合った。

 結局は日頃の無茶がたたり体調を崩してしまって動けなくなったことで、より心配になって監視の意味合いも含めてできる限りは傍にいるようになった。

 文化祭が終わってこれで終わりだと思っていたが、結局は一人になってしまう瑞希のことが放っておけなくて正式に生徒会に入ることになってしまった。

 それから、それから……

 (……違うな。そうじゃない)

 玲士はこれまでのことを思い出していたが、すぐに自分の考えを否定した。確かにこれまでの行動は瑞希の為ではあるがそれはきっかけであり、今玲士が求めている答えではない。

 そもそも、玲士はあくまでも文化祭が終わるまでの一時的な補助要員として生徒会を手伝うことになったのだ。



 何故、必要以上に瑞希と関わり必要以上に手伝おうとしたのだ。

 何故、文化祭が終わった後も生徒会に残り続けようと思ったのだ

 何故、瑞希からの誘いをこうも楽しみにしているのだろう。

 何故、何故、何故……



 いくつもの何故が浮かんできてはそれに答えていくことをしばらく繰り返していた玲士だったが、ある時一つの結論に辿り着いた。それは全ての何故に答えることができるだけの意味がある。言葉にすればとても短いが、それでもとても大切な答えだ。

 あぁ、なんて簡単なことだったのだろう。こんなことに今まで気がつかなかったなんて。玲士は自分自身の気持ちの鈍さに呆れてしまい思わず苦笑した。

 玲士は首だけ動かしテーブルに置いてある写真立てを見た。

 ペチュニアの写真立ての中では少し意地になっていながらも右手を差し出すドレス姿の瑞希と、その手を取る笑顔の自分が映っている。

 「俺は会長のことが好きなんだな」

 小さく呟いた言葉を心の中で反芻する。好き。その言葉に自分の鼓動が早くなっていき顔が少し熱くなるように感じた。それでもその言葉は玲士の心の中で大切な言葉として残っている。

 生徒会での出来事は玲士の中では大切な思い出だ。梨恵が騒ぎ、玲士や真司が抑えようとしているのを瑞希が見ている。それが生徒会での日常。

 そんな中、瑞希と二人きりでいる時に見せる微笑みは普段は滅多に周りに見せない表情だ。文化祭の最中に玲士が淹れた紅茶を嬉しそうに飲んでいる時のあの微笑みは思わず引き込まれそうになるほどに優しげだった。

 梨恵のように騒ぐことは無く取り留めないことしか話さなかったが、穏やかな時間を二人で過ごしたあの空間は玲士にとってはとても心地よかった。

 そうだ。いつの間にか俺は彼女のあの笑顔に惹かれていたんだ。もしかしたら瑞希の家を訪れた時に見せた彼女の笑顔が始まりなのかもしれない。

 玲士が読んでいる小説の中にはもちろん恋愛小説もあった。その中には鈍感な主人公も存在しており、読んでいる時玲士は「どうしてこんな簡単なことに気がつかないんだ」と思わずにはいられなかったが、これでは自分も物語の主人公と変わらないではないか。

 彼女の笑顔を近くで見ていたい。瑞希を追いかけるだけでなく、無茶をしがちな彼女をこれからも支えていきたい。一度意識してしまうと瑞希の笑顔が脳裏から離れない。

 恥ずかしさも相まって玲士はベッドの上を右へ左へとゴロゴロと転がる。それで恥ずかしさが消えるわけではないが、そうせずにはいられなかった。

 (明日から会長の顔をちゃんと見れるのかな)

 そんなことを考えていたが、その答えは明日にならないと分かるはずがない。自分の気持ちが落ち着くまで玲士はベッドの上から起き上がることは無かった。



  あっという間に日は過ぎ、クリスマス当日の昼下がり。雲に覆われた空の下、玲士は近くの商店街の入り口で瑞希を待っていた。玲士はダウンシャツにジーパン、さらにロングコートを着込んだ格好だ。

 (別におかしい所は無いよな?なんだか緊張するな)

 自宅で何度もチェックしていたがどうしても気になってしまう。玲士はそわそわしながら瑞希を待つ。これまで放課後に歩き回っていた為いつもは制服姿だったが今日は違う。私服姿の瑞希と初めて歩き回るから楽しみだという思いでいっぱいだ。

 「田宮君お待たせ。思っていたより準備に時間がかかってしまったわ」

 突然右から瑞希に声をかけられた玲士は驚いて声がした方を見た。人が行き交う中、瑞希を探しながら待っていたはずなのに全く気がつかなかった。

 「いえ。俺も来たばかりですしそんなに待っていません……よ」

 玲士の言葉は尻窄みになり最後まで言えたかどうかわからない。それよりも目の前の光景に目を奪われていた。

 瑞希はブラウスにジャケット・ロングスカートといった姿でその場にいた。落ち着いた色合いで合わせている私服姿の瑞希は大人っぽさが強調されており、まるでモデルのようだ。

 黙ってしまっている玲士が気になったのか瑞希が首を傾げた。

 「田宮君?」

 「っと、すみませんなんでもないです。私服姿の会長を見るのは初めてでしたし大人っぽくて綺麗だなと思っちゃいました」

 怪訝そうにしている瑞希に声をかけられた玲士はハッとして慌てて理由を話した。話した後になって玲士は自分がどれだけ恥ずかしいことを言ったのか遅れて気づいた。

 (何を言っているんだ俺は!いきなりそんなことを言ったら会長のことをじろじろと見ていたと思われるじゃないか)

 現に瑞希は「そ、そうなの」と言いながらくるりと玲士に背を向けてしまった。いきなりやってしまった。普段見ることのない彼女の姿に見惚れてしまい、おもわず心の声がそのまま声に出てしまった。

 瑞希はこちらに背を向けているので、その表情を窺うことはできない。

 「あ~、とりあえず行きましょうか」

 「え、ええ。いつまでもここにいても仕方ないわね。行きましょうか」

 今の雰囲気を振り払うように瑞希に声をかける玲士。こちらに背を向けたまま毛先をいじっていた瑞希だったが、振り返って視線を彷徨わせながらも玲士の提案に乗ってくれた。見たところ機嫌が悪くなっていないようなのでひとまずほっとした。

 少しぎこちなさがあったが二人は一緒に歩きだした。

 「そういえば会長。行きたい所があると言ってましたけど、どこに行くつもりなんですか?」

 「ふふっ。そういえば言ってなかったわね。そんなに遠くないからすぐにわかるわよ」

 二人が向かっているのは玲士が行こうとしている洋菓子店ではない。その前に行きたい場所があるということでまず先に瑞希の行きたい場所に行くことになっているが、行先は瑞希から教えられてもらっていない。その為玲士は瑞希に付いて行く形となっている。

 「今から行くお店で買いたいものがあるのよ。私一人でも買えるのだけど、できれば田宮君の意見も聞きたいから今日一緒に行こうと思っていたのよ」

 「俺にですか?まぁ、意見を言うぐらいなら俺は構いませんけど、いったい何を買うつもりなんですか?」

 「着いたらわかるわ。貴重な意見だから期待しているわよ」

 「何を期待されているのか気になるし、不安なんですけど……」

 玲士の反応を見ながらおかしそうに笑う瑞希に玲士は変にプレッシャーを感じた。瑞希は何を買うつもりなのだろうか。そしてどんな意見を求められるのだろう。

 (まぁ、会長一人でも買えるものらしいから大したものじゃないだろうな。以前のような写真立てみたいな小物だといいな)

 そう思いながら瑞希の隣を歩き続けた。



 ——大したものではない。その言葉を真に受けてしまった玲士は今店の前で大きく後悔していた。そもそも大したものでないなら瑞希がわざわざ買うものを隠す必要性などない。言わないということは何か隠す理由があるということ。

 瑞希に限って——と思っていた玲士だったから完全に油断した。油断していたから今目の前にある店の前で立ち尽くしていた。

 「いつまでそうしているつもりなの?着いたのだから早く入りましょうよ」

 「会長。買いたいものがある店って本当にここなんですか?」

 「そうよ。だから言ったでしょ?そんなに遠くないって」

 入口の前で瑞希が早く来いというように手招きしている。しかし、玲士は動けない。まさかこの店に入るとは完全に予想外だ。

 玲士は少し震える声で瑞希に声をかけた。

 「これって絶対俺は必要ないですよね?」

 「何を言っているの。さっきも言った通り田宮君の意見も聞かないとここに来た意味が無いでしょう」

 「そうですね。確かに会長はそう言っていました。ですが!だからって、どうして会長の服選びに俺の意見が必要なんですか!」

 そう。瑞希が行きたがっていたのはなんと女性服の専門店だった。店内には何人か客はいるが店員を含めて全員が女性であり、入ろうと促されている玲士以外に男性は誰もいない。

 そんな店内に彼氏でもない自分が入る?絶対に周りから見られるし、その視線が辛い。できることなら回避したいところだ。

 「そもそも女性の服なんて男の俺が分かるわけないじゃないですか。俺に聞くより会長が欲しいと思った服を選ぶ方がいいですよ」

 「そんなことは無いわよ。田宮君が選んでくれることが大切なのよ」

 「えっ?」

 俺が選ぶことが大切とはどういう意味だろう。瑞希に詳しく聞こうと思って聞き返そうとして気がついた。瑞希の様子がなんだかおかしい。

 「あの……ええっと……これは」

 瑞希は何故かそわそわしており、何か言おうとしているが言葉にならず先が続かない。自分から言ったのに何をそわそわしているのだろう。

 「ほ、ほら、私が選ぶと選ぶ服のデザインも偏っちゃうじゃない。男性の田宮君から見て私に似合う服を選んでもらいたいのよ。私が今まで選んでいなかった服に出会えるかもしれないでしょ」

 「ま、まぁ、言いたいことはわかりますけど……」

 顔を赤くしながら捲し立てるように言う瑞希に若干戸惑いながらも玲士は瑞希の言いたいことは分かった。玲士自身も持っている服のデザインはかなり似通っている。似たデザインで色違いな服も数着は持っているし、あまり違うデザインを選んだりはしていない。

 玲士が選ぶことが大切だと言ったのはそういう意味だろう。瑞希がそわそわし始めたのは、いきなりそんなことを言って相手が変に解釈してしまうと思ったからだろう。

 (ちょっと期待したんだけどな……)

 もしかしたら玲士に気があるんじゃないかと少し期待したが、どうやら違うようだ。このまま店の前でごねているわけにもいかないので、半ば諦めたように玲士は瑞希と一緒に店の中に入った。



 「田宮君、これとこっちの服だったらどっちがいいかしら?」

 「……そうですね。俺だったら右手に持っている服の方が似合っていると思いますよ。ただ、色が少し明るすぎるような気がしますね。違う色は無いんですか?」

 「ちょっと待ってね。見てみるわ」

 両手に持っていた服をラックに戻し色違いを探している間、玲士は近くにある柱に寄りかかっていた。周りから玲士たち二人に視線を向けているのが嫌でもわかってしまってなんだか落ち着かない。

 瑞希に合う服を選べと言われた玲士だったが、流石にわからないままいきなり選べというのは酷だったので、今は瑞希が選んだ服の感想を言う程度になっている。しかし、最終的には選ばなくてはいけないので、楽観視はできない。

 (選べって言われてもなぁ。種類があり過ぎて全然わからないんだよな)

 玲士からすれば当然だが女性服の専門店に入るのはこれが初めて。誰かの服をこれまで選んだことも無ければそんな機会も無かった。瑞希が選んでいる傍ら服の種類を見ていたが何が何やらさっぱりだ。細かな違いが判らない。

 さらに、玲士はさり気なく視界に入らないようにしているが、通路の先を進んだ先の一角に見てはいけないものが陳列されている。鮮やかな色に染められたレースと見間違うほどの薄い生地。女性だけが身に着けることを想定したアレは……。

 「田宮君、この中ならどの色がいいかしら?」 

 瑞希は先程玲士が選んだ服―たしかカットソーと書いてあったはず—の色違いをいくつか抱えてきた。緑や黒、ベージュなど種類が多く、すべてハンガーに掛けられている為瑞希の両手がふさがってしまっている。玲士は瑞希の持っていた服の一部を受け取り瑞希の前で交互に入れ替えながら合いそうな色を探していく。

 瑞希も自分の持っている服を交互に服を体に当てて玲士に見せている。

挿絵(By みてみん)

 「う~ん。俺ならこの淡い青がいいかなと思いますね。会長は気になっている色はありますか?」

 「そうね。私はそっちの青もいいけど、ベージュも気になっていたわ。田宮君はベージュは選ばなかったの?」

 玲士は瑞希の持っている青を選び、瑞希は玲士の持っているベージュを選ぶというお互いの持っている服を選ぶ形になってしまったが、玲士自身特に気にしなかった。たまたま気になった色がお互い持っていたからなので、偶然だろう。

 「ベージュもいいと思うんですけど、俺はこっちの青の方が爽やかさがあっていいなと思ったんですよ」

 「そうなの。ならちょっと田宮君の選んだ方を試着してみようかしら」

 「いや。会長が選んだ方でも構わないんですよ。わざわざ俺が選んだ方に合わせなくても……」

 「何を言ってるの?田宮君の意見を参考にしたいから今日この店に来たんじゃない。せっかく選んでくれたのだから田宮君の意見を優先するわ」

 「それなら他の服は俺にください。流石に全部持って行くわけにはいかないので俺が戻しておきますよ」

 試着室に行こうとする瑞希を引き留め玲士は残りの服を受け取った。瑞希は「ありがとう」と言った後、ウキウキしながら試着室の部屋の中に入っていった。

 玲士はハンガーラックに服を戻しながら先ほどのやり取りを振り返っていた。玲士はあくまでも正直な感想を言っただけだ。それでも瑞希は嬉しそうに玲士が選んだ服を抱えていた。ただ服を選んだだけだったが、瑞希の姿に玲士は嬉しく感じたし心地好かった。小さなことでもこれほど喜んでもらえるとは玲士にとって初めてだ。

 そんなことを考えているとカーテンが開く音がした。試着室の方を見ると瑞希が玲士の選んだカットソーを着て立っていた。

 「どうかしら。私が選んだわけじゃないから似合っているか少し心配だわ」

 瑞希は試着室の中に備え付けられている鏡の前で体を動かしていろんな角度から自分の姿を確認している。

 「心配しなくても大丈夫ですよ。誰かの服を選んだことはこれまで無いですけど、その色は会長によく似合っていますよ」

 玲士は思ったことを素直に伝えた。服自体を選んだのは瑞希だが、似合っていることに変わりはない。

 「そ、そうなの。嬉しいけどこんな風に褒めてもらうなんてこれまでなかったから、少し照れるわね」

 そう言いながら瑞希は頬を染めながら目を伏せた。その姿に玲士はどう声をかけていいか分からなかったが、照れている瑞希を見ているとこっちまで落ち着かなってくる。玲士だって誰かの服を褒めることに慣れていないから気恥しい。

 そのあとすぐにカーテンを閉めて元の服に着替え終わった瑞希が出てきた。

 「こほん。それじゃあ今度は田宮君が私の服を選んでくれるかしら。私は後ろから見ているから何かわからないことがあったら聞いてちょうだい」

 とうとうこの時が来てしまった。玲士は改めて気を引き締めた。選ぶからには中途半端な気持ちで選ぶわけにはいかない。瑞希にぴったりな服を選ばなくては。そう考えながら玲士はゆっくりと店内を歩き始めた。これまで瑞希の後ろをついて行きながら周りを見ていたからある程度何があるのかはわかる。

 しばらくの間、玲士は唸りながらいくつか服を手にしてまた戻すこと繰り返している。

 (会長にはあまりパーカーみたいなダボっとした服は似合わないな。選ぶなら全身がすっきりと見えるような服がいいな。それでいて暖かい服にしたいな)

 まだ雪は降ってはいないが十二月だ。暖かい服を選んだ方が使ってくれそうな気がする。せっかく選ぶなら何度も着てくれた方が玲士としても嬉しい。

 一着ぐらいはそんな服があってもいいのではと考えはしたが、瑞希には合わないと玲士自身が納得しきれなかったので却下されている。

 「うん?これはセーターか?」

 玲士は仕切りがされて、サイズごとに置かれている棚の中にあった服を手に取った。

 見たところセーターのように見えるが棚に貼られているプレートには「リブタートルニット」と書かれているが、違うのだろうか。

 手に取った服を広げた玲士はそのまま後ろで眺めている瑞希と見比べてみた。

 (この服ならあまりゴワゴワしていなさそうだし、すっきりした印象に見えそうだな)

 文化祭で来たドレスの時も思ったが、瑞希は上半身をキュッと引き締めて逆にスカートで緩めるようなコーディネートが似合う気がする。

 今の瑞希はロングスカートだから合うと思う。

 「俺はこの服がいいと思うんですけど、会長この服だったらどの色がいいですか?」

 「田宮君が選んでくれて構わないわ。色選びも含めて田宮君の意見を尊重するわ」

 (完全に丸投げされているのは気のせいだろうか……)

 選ぶのは玲士なのだからその辺りも含まれているのはわかってはいるが、それでいいのだろうか。玲士は瑞希から信頼されていることに戸惑いはあるが悪い気はしない。むしろそれほどまで玲士を信頼してくれて任せてもらっていることに対して嬉しさが込み上げてくる。

 玲士は数ある色の中から二つの色を選んだ。一つは白でもう一つはベージュだ。白は玲士が一番似合いそうだと思っていた色で、ベージュは瑞希が先程の服選びで気になっていた色だ。

 玲士はそれぞれを両手に持ってどちらがいいか悩んだ。個人的には白の方が良いと思うがベージュも悪いわけではない。あまり濃い色ではなく少し薄めの色なので、他の服とも合わせやすいだろう。

 (ここは俺が選んだ方を選ぶべきなのだろうか。でも会長はベージュも気にしていたしなぁ)

 玲士だけの意見を通すならこの場合は白一択だろう。しかし、先ほどのカットソーで瑞希は自分が気になっていたベージュを選ばず玲士の選んだ青を選んだ。ならば、立場が逆転している今はベージュを選んだ方が瑞希も喜ぶのではないだろうか。でもそれだと純粋に玲士が選んだものとは言えなくなってしまう。

 どうするべきかと眉を寄せて考えていた玲士だったが、隣から瑞希が顔をのぞかせた。

 そして玲士が持っている二つの色を見て瑞希は納得した表情をした後くすりと笑った。

 「田宮君もしかしたら私に気を使っているのかしら。さっきはこの色を選ばなかったから今回はこの色の方が良いんじゃないかって」

 「ええっと……まぁ、そうですね」

 玲士は狼狽えながらも頷いた。やっぱりこの色を持っていると分かってしまったか。

 「さっきも言ったけどあくまで私は田宮君の選択が気になるの。勿論明らかに合わないと思った時は素直に納得はしないけれど、この色でも私は構わないと思っているわ。だから田宮君は私に変な気を遣わずに選んでくれた方が嬉しいわ。それがこの店で田宮君が必死に悩んで選んでくれた結果なんだから」

 瑞希にそう言われれば玲士の選ぶ方は決まっている。玲士は白を選んで瑞希に向き直り「これにします」と言った。瑞希に似合う服を玲士なりに真剣に考えた結果だ。ここは自分自身の判断を信じよう。



 「いや~緊張したなぁ」

 店を出た玲士はその場で伸びをした。ようやく瑞希からのお願いを叶えることができて肩の荷が下りた感じだ。あとは周りの視線からようやく解放されたのも大きい。

 「ふふ。私のお願いに付き合ってくれてありがとう。……でも、いいのかしら?」

 そう言いながら瑞希は玲士が持っている紙袋に視線を移した。その中には先ほど玲士が選んだ服がラッピングされた状態で入っている。

 あれから玲士と瑞希は会計に向かったのだが、その時にお互いの意見が衝突した。玲士としては瑞希に贈るつもりで選んでいたので代金は玲士が払うと考えていたが、瑞希はどうやら自分で買うつもりだったようで玲士から服を受け取ろうとした。

 お互いに自分が払うと譲らなかったが、ここは玲士が自分の意見を押し通すような形でそそくさと会計に移動したために瑞希は受け取ることができなくなってしまった。

 会計を済ませた後も服は玲士が持ったままだ。

 「いいんですよ。せっかく俺が選んだんですからプレゼントさせてください。ちょうど今日はクリスマスですしタイミングもぴったりじゃないですか」

 「田宮君には選んでもらうだけのつもりだったのだけど、なんだか買わせたみたいになってしまって申し訳ないわね。でも、そう言ってくれるなら嬉しいわ。ありがとう」

 瑞希は少し落ち込んだような表情をしたが、すぐに嬉しそうに笑みを浮かべた。玲士もその笑顔を見て自然と笑みがこぼれる。

 「どういたしまして。プレゼントは最後に渡しますので、それまで俺が持っていますね。……それじゃあ、行きましょうか」

 腕時計に目をやれば時間は三時を過ぎた頃だ。ここから店まではそれほど遠くはないため、着いて休憩するにはちょうどいい時間になるだろう。

 さっきとは違い今度は玲士が瑞希を案内するように店に向かって歩き始めた。



 目的の洋菓子店の前、玲士が一人で来た時と同じ場所で二人は店を眺めていた。

 「……田宮君、本当にこの場所で合っているのかしら?看板も何もないように見えるのだけど……」

 「会長もやっぱりそう思いますよね。俺も以前来た時は同じ感想でしたよ」

 半信半疑な瑞希の反応には玲士も内心「ですよね~」と思わずにはいられなかったし、同意するしかない。確かに何も知らなければここが洋菓子店とは思わないだろう。まるで初めてこの店に訪れた自分自身を見ているようだ。

 この店を見つけたのは本当に偶然だ。たまたまスマホでこの店の存在を知ったので、それが無ければ今も知らないままだったはずだ。

 「ここからだと想像できないと思いますけど、中はちゃんと洋菓子店ですよ。あまり店っぽくないのは副業でこの店を開けているからなのと、店長があまり騒がしくなりたくないからだそうです」

 「副業で?だったらいつも開いているわけじゃないのかしら?」

 「そうですね。店長の話だと不定期に開けているそうですよ。店長に確認したら今日は開けているみたいなので、会長を誘おうと思ったんですよ。——さぁ。とにかく入りましょう」

 「え、ええ」

 服を買いに行った時と立場が逆だ。困惑したままの瑞希を促しながら玲士は店の扉を開けて中に入った。店内は以前来た時と同じで玲士達以外には客の姿は無く、静かな空間の中にピアノの演奏がわずかに聞こえてくるだけだ。

 「……驚いたわ。外とは違って中は物凄く拘っているのね。こんな素敵な店が不定期でしか開けていないなんて勿体ないぐらいね」

 「そう言ってもらえるとおじさんは嬉しいよ。内装を整えるのに色々と苦労したからね」

 瑞希が店内を見回していると男性の声が奥から聞こえてきた。玲士が声のする方を覗き込むと、入り口から死角になっている場所で男性が椅子に座って本を読んでいた。

 (傍から見るとただの一般客にしか見えないなこの人)

 男性は椅子に深く腰掛けテーブルにカップとポットを用意しているあたり、ずっとこの場所で本を読んでいたのだろう。店長としての雰囲気が全く感じられない。それでいいのか?

 「こんにちは。お久しぶりって程ではないかもしれませんが、言っていたように友人と一緒に来ました」

 玲士は軽く挨拶を済ませるとそのやり取りを見ていた瑞希も軽く会釈した。

 「はじめまして。今回田宮君に誘われて来ました」

 「やぁ。よく来てくれたね。お嬢さんとは初対面だね。一応おじさんがこの店の店長をしているけどよろしくね。さぁ、こちらにどうぞ」

 男性は奥にある窓際のテーブルに二人を案内してくれた。テーブルの上には「予約席」と書かれたプレートが置いてある。しかし、玲士は席を予約した覚えはない。

 「もしかして、わざわざ席を確保してくれたんですか?ありがとうございます」

 「なに。大したことじゃないよ。せっかく友達を連れて来てくれるんだからこれぐらいは当然さ」

 プレートを手にしながら男性は礼を言う玲士に笑って応えた。

 それでも男性の気遣いは玲士にとってありがたいものだ。本当なら以前訪れた際に席の確保も頼むべきだったが、瑞希を誘うことばかり気にして他のことに気が回らなかった。

 この店が最後ではなくこの後もまだ行く所があるので、万が一持ち帰りになってしまうと中身を気にして予定を変えざるをえなかったかもしれない。

 自分の不甲斐なさを恥じながらも二人は勧められた席に腰を下ろした。

 「そういえば、このお店で何が食べられるのかしら?周りばかり見ていたからすっかり肝心なところを見逃してしまったわ」

 「なんでもこのお店は本業の果樹園で採れた果物を使ったタルトがあるみたいでよ。タルトだけでなくてフルーツサンドもあるみたいですけど、俺は是非会長にタルトを食べてもらいたいですね。見た目も綺麗ですし絶対に美味しいと思いますよ」

 玲士は少し興奮したように早口で瑞希に説明した。玲士もまだ食べたことは無いが、美味しいことは間違いないと思っている。

 「いやぁそんな風に言われるとおじさん照れるなぁ。ハードルが上がっちゃうとその期待に応えられるか心配になってきちゃうよ」

 傍で聞いていた男性は気恥しそうに頬をかいた。

 「そんなことはありませんよ!副業にもかかわらずあれだけ美味しそうなタルトを作れるなんてすごいと思います」

 「ははは。なら二人に食べてもらって感想をもらわないといけないね。メニューと言えるかわからないけど、とりあえずこの中に書かれている物なら大丈夫だよ」

 男性はテーブルの隅に立てかけられているリストを二人にそれぞれ渡した。リストには品名と一緒に写真が添えられている。種類は多くないがどれも美味しそうでどれにしようか悩んでしまう。

 メニューを見ていた玲士はふとある場所に目を止めた。他の店のメニュー表で見たことはあるが、おおよそこの類の店で見ることが無いと思っていた記載があった。

 「すみません。この店長お任せメニューって何ですか?」

 玲士が指さしたのはリストの一番下、他とは少し離れた位置に「店長お任せセット」と書かれている。レストランでは目にすることはあるだろうが、洋菓子店でお任せとは少なくとも玲士の知る限りでは聞いたことが無い。

 「あぁ。それはね、初めて食べに来た人が選ぶことが多いんだけど、どれを食べるか選べない人におじさんが是非食べてもらいたいものを選んで提供することだね。収穫量次第で提供できる数に限りはあるけどね」

 「それは素敵ね。すみませんがこのセットはまだ残っているのですか?」

 瑞希は興味深そうに男性に聞き、男性も笑顔で頷き返した。男性の反応に瑞希は目を輝かせている。玲士もそのセットは気になる。

 「俺もそのセットが気になりますね。せっかくだからこのセットを二つお願いしてもいいですか?」

 「わかりました。ちょっとお待ちくださいね」

 そう言って男性は奥の作業スペースの中に入ってしまった。しばらく瑞希と雑談をしていると男性が戻ってきてそれぞれの前に注文していたタルトセットの皿を静かに置いた。瑞希がぽつりと「美味しそう」と言ったのが小さく聞こえた。

 これで終わりと思っていた玲士だったが、男性はタルトとは別にもう一皿、二人の前にそれぞれ置いた。皿の上には小さめのケーキが載せられている。このケーキは何だろうか。注文した覚えはないし瑞希も困惑した表情で目の前のケーキと男性を交互に見ている。

 「あの、このケーキはいったい……」

 玲士はとりあえず男性に尋ねた。このケーキは以前この店に来た際にも無かったと思うし、そもそもこの店はタルトとフルーツサンドの店だ。ケーキは取り扱っていなかった筈。

 「せっかく来てくれたお礼におじさんからのサービスだよ。タルト作りの延長で作ってみたから是非食べて欲しいな。もちろん本職の人と比べると見劣りすると思うけどね」

 (いやいや。そこは誇ってもいいんじゃないか⁉)

 玲士は男性の言葉に驚きを隠せなかった。果樹園をしながらタルト作りを学び、今度はケーキを作ってしまう。どれだけスキルを増やすつもりなのか。

 それでもせっかくの厚意なのでありがたく頂こう。二人は男性にお礼を言うと「ごゆっくり」と言ってその場から離れて行った。

 「それじゃあ。せっかくなので食べましょうか」

 玲士がそう言うと瑞希も「そうね」と言ってフォークを手に取った。お互い初めて食べるタルトを味わいながら穏やかな時間が過ぎていった。



 「ごちそうさまでした。タルトも美味しかったですし、ケーキも同じくらい美味しかったですよ」

 玲士は正直な感想を男性に伝えた。タルトを食べながら二人で感想を言い合ったり雑談を交わした楽しい時間はあっという間に過ぎていき、玲士達はレジ前で男性と向かい合っていた。

 「そうかい?君達の期待に応えられて嬉しいよ。まぁ、ケーキは今回特別に作ったから商品として並べる予定はないんだけどね」

 「それは残念ですね。私も田宮君の感想と同じでどちらもとても美味しかったです。十分商品として置いていても不思議じゃないくらいでしたよ」

 玲士も同意するように頷いた。ケーキも十分満足できるほどの美味しさだったし問題は無いと思う。ただ、あくまでもこちらは副業なので男性の負担を考えるとそこまで手が回らないのかもしれない。

 今日みたいなクリスマスなどの限定的な期間に作っていたら人気はあると思う。

 「そうだね。まぁ、余裕ができたら考えてみるよ。御覧の通りおじさん一人だから時間はかかるかもしれないね。内装に拘ってこの店を開くのも時間がかかったからね」

 「もしかして店長がすべて作られたのですか⁉」

 瑞希は驚きのあまり目を見開いた。

 「いやいや。流石に全部一人で作ったわけじゃないよ⁉あくまでも内装の一部と外にあるテラスを作ったぐらいだよ。知り合いにだいぶ助けてもらったけどね。暖かい季節はやっぱり外で食べた方が気持ちいいかなって思ったからそこだけは譲れなかったんだよ」

 「あ~。いいですね。春や秋ぐらいは外で食べるのもいいかもしれないですね」

 玲士は男性の拘り具合に舌を巻いた。内装だけでなく外まで手を加えるのはなかなかに苦労しただろう。

 「今の時期は寒過ぎるからね。今は開放していないけど、暖かくなったら利用できるようになっているよ。また来てくれるなら暖かい時期がおすすめだね」

 「そうですね。せっかくなので暖かくなったら田宮君とまた来たいと思います」

 「えっ⁉」

 玲士はぎょっとした表情で瑞希を見るが当の本人はどこ吹く風とまったく気にしていない。……会長、約束覚えていますか?

 その後瑞希は店の外に出てしまい玲士も慌てて追いかけるように店の外に出た。去り際に「頑張ってね」と男性の声が聞こえてきたので、どうやら彼にはもうすべてお見通しらしい。

 「ありがとう田宮君。こんな素敵なお店があるなんて今まで知らなかったわ」

 微笑みを浮かべる瑞希から改めてお礼を言われるとなんだか照れくさい。

 「この店を見つけることができたのは本当に偶然ですよ。それでも喜んでもらえてよかったです。……それよりも来年も来るみたいなこと言ってましたけど、初耳ですよ?」

 「あら、別に受験期間中に行くわけじゃないわ。受験が終われば別に行っても構わないのだからその時に行くつもりよ」

 「もしかして初めから受験が終わったらまた行くつもりだったんですか?」

 「もちろんよ!田宮君は嫌かしら?」

 ジト目になっていた玲士だったが、そこで溜息をついた。可愛らしく首を傾げながらその言い方はズルい。

 「嫌じゃありませんよ。会長が良ければ俺も一緒に行きますよ」

 「ありがとう。田宮君なら来てくれると思っていたわ。来年も楽しみだわ」

 「言っておきますけど受験が終わってからですからね。流石に終わっていないのに行くのは俺も気になって楽しめませんから」

 「わかっているわ。安心して受験が終わるまで待っていてくれて問題無いわ」

 一応瑞希に釘は刺しておいたから大丈夫だと玲士は思っているが、少し不安だ。ここは瑞希の言葉を信じて待つとしよう。

 さて、ここからの予定は瑞希にも詳しくは教えていない。もともとの予定では先程の洋菓子店で食べたら終わりになっていた。瑞希が既に知っているかはわからないが行くだけ行っておこう。

 「ここから駅前まで歩くことになるんですが会長はこの後大丈夫ですか?」

 「ええ、私は大丈夫よ。駅前に何かあるのかしら?」

 「実は駅前に大きなクリスマスツリーが設置されているみたいなのでそれを見に行くのはどうかなと思うんですけど」

 玲士はそう言いながら鞄の中から一枚のチラシを取り出した。チラシにはクリスマスイベント企画としてクリスマスツリーが設置されることが大きく書かれている。

 店を出た後にたまたま目についた掲示板に張り出されていたのが玲士の持つチラシだった。瑞希の予定に付き合った後にタルトを食べながら休憩し、最後に駅前のクリスマスツリーを見に行く。ここまでが玲士の考えた今日の予定だ。

 「いいわね。さっそく行きましょう」

 「ちょっと⁉待ってくださいよ」

 案内するはずの玲士よりも先に歩き出した瑞希を追いかけるように玲士も歩き出した。



 一旦大通りに出るために歩き出した二人だったが、歩き始めてすぐに瑞希が立ち止まった。瑞希の視線の先を目で追うと先程の洋菓子店のウッドテラスに向けられている。

 生垣を挟んだ先のテラスを見ながら瑞希はぽつりと呟いた。

 「いいお店だったわね」

 先程の様子とは打って変わり瑞希の言葉は少し寂しそうだ。また来ると言っておきながら、今の瑞希を見るともう来られないといったような雰囲気を感じた。

 「また来れますよ。その時はあのテラスで一緒に食べましょう」

 「田宮君……」

 玲士の言葉に瑞希はハッとしたようにこちらを見た。もしかしたらさっきの言葉は独り言だったのかもしれない。それでも玲士は声をかける以外思いつかなかった。あんな寂しそうな表情は彼女には似合わない。

 「そうね、また一緒に来れるものね。ごめんなさい。変に気を使わせてしまったわね。さぁ!行きましょう。早く行かないと人でいっぱいになってしまうわ」

 玲士の言葉で吹っ切れたのだろうか、さっきまでの寂しげな表情は無くなり瑞希に笑顔が戻った。

 「……ええ」

 一方で玲士の方は逆に緊張で表情を強張らせていた。この後に自分がしようとすることでどうしても頭がいっぱいになってしまう。どんどんその時が近づいてきているとどうしても実感してしまう。

 玲士の少し前を瑞希が歩いている。クリスマスツリーを見に行くことが楽しみなのか今この時が楽しいのかわからないが後ろ手に組みながら歩く瑞希の体はリズム良く跳ねている。

 「どうしたの田宮君?」

 歩みが遅くなっている玲士に気がついたのだろう。瑞希がこちらに振り返りきょとんとした顔になっている。

 「ほら、早く」

 当たり前のように瑞希が笑顔でこちらに手を伸ばしている。手を繋いでということなのだろう。今の彼女の姿を見ると、出会ったころと比べると驚くほど変わったし互いの距離もかなり近くなったと思う。

 笑顔を見せることが多くなった瑞希もそうだが、玲士自身も同じくらい変わったと思う。最低限の関りで終わるはずが今は目の前の瑞希を意識するようになり、こうしてクリスマスに二人で買い物をしたり食事をしたりと一緒に過ごしている。

 もしかしたら瑞希は友人として接しているのかもしれない。もしかしたらこの気持ちは玲士しか抱いていないのかもしれない。それでも玲士は今よりもさらに距離を縮めたい。

 あとはその勇気を出すだけだ。玲士達の側を走っていた車も今は途切れており、静かになっている。見れば瑞希の背後でこちらに向かってくる車が右折するために停車して、反対車線を走っている車の流れが途切れるのを待っている。

 歩みが遅くなっていた玲士はその場に立ち止まり大きく深呼吸した。瑞希の笑顔で決心がついた。もしかしたら駅前のクリスマスツリーを見るまで待っていた方が良いのかもしれない。その方がきっとシチュエーションとしてはいいだろう。それでも瑞希の笑顔を見るとこの想いが抑えきれなくなった。

 心の中で気合を入れ直し、真っすぐ瑞希を見つめる

 「会長」

 「うん?」

 緊張で声が震えそうになるが必死に抑える。握った両手の中は汗がにじんでいるが気にしない。

 これから何を言われるのか分からないのだろう。瑞希は不思議そうに首を傾げている。

 あとは言うだけだ。

 「会長に伝えたいことがあります」

 この気持ちを

 「俺は、」

 想いを込めて

 「会長のことが」

 瑞希に

 「す、……っ⁉」

 言おうとしていた言葉はそれ以上続けることができなかった。逆に玲士は目を見開き表情が凍り付いた。

 玲士の視線の先にいる瑞希——の後ろ。先程右折のために一旦停車していた車の後ろからやって来た後続のワゴン車が突如車道から外れ、玲士達が歩いている歩道にスピードを緩めることなく突っ込んできた。

 縁石にタイヤが乗り上げ、バウンドしながらこちらに突っ込んで来る車。背後の異変を感じたのだろう。瑞希が振り返ろうとするが間に合わない!

 「会長‼」

 咄嗟に玲士は手に持っていた紙袋を手放し、こちらに差し出されたままだった瑞希の腕を掴んでこちらに引き寄せた。突然腕を引かれた瑞希は抵抗できずにそのままこちら側に向かってよろけてきた。

 玲士はそのまま瑞希と自分の立ち位置を入れ替えたあと車に背を向け庇うように瑞希を抱きしめた。

 「がっ‼」

 抱きしめた瞬間、背中にこれまで感じたことのない衝撃を感じそのまま玲士は跳ね飛ばされた。

 蹴り飛ばされた石のように撥ねられた玲士は近くの生け垣まで飛ばされ、生垣を突き破り先程まで玲士達が食事を楽しんでいた店のウッドテラスに突っ込んだ。玲士は近くにあったテーブルや椅子をいくつかなぎ倒したところでようやく止まった。



 ……すべての音がいつもより遠く感じる。

 うっすら目を開けた玲士が最初に感じたのはそれだった。

 倒れた玲士の視界には椅子や壊れたテーブルの一部が見えている。体を動かそうとするが何故だろう上手く力が入らない。

 そんな中、玲士の腕の中でシタバタと何かが動くのを感じた。玲士の体が大きく動き、視界に映るのが残骸から灰色の空に切り替わった。視界いっぱいに広がる灰色の空から小さな白い粒がゆっくりと降り始めいくつかが玲士の頬に当たり小さな水滴に変わった。

 そんな玲士の視界に瑞希の顔が横から入り込んだ。


 ……良かった。会長は無事だ。


 「―――っ‼―――っ‼」

 瑞希が必死の形相でこちらに何か叫んでいるが、彼女が何を言っているのかよく聞き取れない。

 瑞希の言葉を聞き取ろうとしていた玲士だったが、次第に彼女の顔の輪郭がぼやけてきた。視界の右半分が赤く染まってきたのは何故だろう。

挿絵(By みてみん)

 (大丈夫ですよ会長)

 瑞希を安心させるために必死に伝えようとするがうまく声が出てこない。色が滲んでいくかのようにどんどん見えるものがぼやけてくる。

 せめて瑞希を安心させたい。それが今の自分がするべきことだ。

 もう何が見えているのかもわからないような視界の中、瑞希がいる辺りに視線を向け、

 (……俺……は)

 今できる精一杯の笑顔を作り、

 (大……丈夫……で……)

 玲士は意識を手放した。



 広い室内は静けさに包まれていた。誰もいないというわけでは無く、室内には二人の学生が黙々とそれぞれの作業に没頭していた。室内に響くのは紙をめくる音とペンを走らせる音のみ。お互いに会話は一切無い。

 そんな中、一人の学生が座ったまま大きく伸びをした。

 「後輩く~ん。何か甘いもの頂戴」

 しかし、その言葉に返事は無かった。少し間が空いたところでようやく返事が返ってきた。

 「生憎だが俺は甘いものは苦手だ。欲しかったらいつもの棚にあるんじゃないか」

 淡々とした言葉にようやく伸びをしていた学生——梨恵はこの生徒会室に声をかけた人物がいないことに気がついた。梨恵は今しがた自分の言った言葉を思い出して、しまったといったように悲しげな表情になる。

 「……ごめん」

 「どうして謝る必要があるんだ?」

 「いや、だって……」

 しどろもどろになっている梨恵に真司は小さく溜息をついた。あの日から目の前の友人はずっとこうだ。笑顔が少なくなりこうして落ち込むことが多くなった。仕方ないことだと分かってはいるがどうも調子が狂う。

 「やっぱり二人だけだと静かだね」

 そう言いながら梨恵は隣を見た。普段は視線の先にある椅子に座りながら黙々と作業する彼女とそれを支える彼がいるはず。それが今この部屋の中にはいない。今日は不在の二人の代わりに仕事を処理するために集まったのだ。

静かな日はこれまで何度かあったが今日はいつもと違う。まるでぽっかりと何かが欠けてしまった、そんな気がしてしまうのだ。

 「……甘いものが欲しいなら買ってきて欲しいものがある」

 「えっ?」

 唐突に真司から声をかけられて梨恵は思わず聞き返した。真司は相変わらず手元の書類に目を落としたままだ。

 「教員棟の一階にある自販機まで買い出しだ」

 「一階に?何が売ってるのよ?」

 「しるこだな」

 「しるこ?そんなの教員棟で売っていたんだ」

 真司の言葉に梨恵は少し驚いた。あまり自販機を利用する頻度は多くない梨恵だが、これまで何度か利用していたが見たことが無い。そもそも需要があるのかも疑わしい。

 「冬の時期限定での販売だ。開始時期は忘れたが一部の者から入れて欲しいと要望があったから教員棟だけで販売しているらしい」

 それは梨恵も初耳だ。要望が受け入れられたということは一定数希望者がいたのだろう。意外にも甘党の学生が多いのかもしれない。

 「ちょっと待ってよ。教員棟って一旦外に出ないといけないじゃない。なんでそんな遠くまで行かないといけないのよ」

 教員棟に行くとなると一旦外に出なければならない。せっかく生徒会室で温かくしていたのに寒い外に出なければならないなんて嫌すぎる。梨恵の抗議に真司は取り合わず「さっさと行ってこい」としか返さない。

 反論を許さない真司の態度にため息をつきながら梨恵は鞄から財布だけ取り出して生徒会室を出た。


 学生棟を出て教員棟を目指していた梨恵はちらりと背後の学生棟を振り返った。

 「気を使われたかな」

 わざわざ学生棟から遠い教員棟の自販機を指定し、あの真司が好きでもない甘い物を買ってきて欲しいと頼んだのだ。どう考えても気を使われたとしか思えない。とりあえず真司の気遣いに感謝しながら教員棟へ再び歩き始めた。

 学生棟と教員棟の間、中庭に入ったところで梨恵は近くのベンチに腰掛けた。十二月下旬の外は風が冷たいが今はこの冷たさが欲しかった。

 暗く沈みかけている今の気分をすっきりさせるのに丁度いい。冷たい風に当たりながら梨恵はあの日のことを思い出していた。



 クリスマス当日。梨恵は自室で受験勉強をしていたが、一旦休憩ということでベッドに横になりながらお気に入りの漫画を読みながらごろごろしていたのを覚えている。そんな中、梨恵のスマホに突然電話がかかってきたのだ。

 電話の相手は梨恵のクラスメイトで、何の用かと尋ねてみれば電話の向こうから衝撃的なことを聞かされたのだった。——瑞希が救急車で運ばれて行ったのだと。

 初めは何かの冗談だと思った。あの瑞希が救急車で運ばれるなんて想像できない。冗談だと笑い飛ばしていた梨恵だったが友人の真剣な口調でようやくそれが事実なのだと理解してしまった。

 顔から血の気が引くとはまさにこの事なのだろう。電話越しに何があったのか問い詰めるが友人も詳しいことは知らないようで、何があったのか知ることができなかった。

 友人に協力してもらい瑞希が運ばれた病院が分かった瞬間慌てて家を飛び出した。

 病院に到着し受付で瑞希の居場所を確認した梨恵は走りたい気持ちを必死で抑えながら急いで目的の部屋に向かった。部屋に到着し扉を開け放った梨恵が見たのは備え付けられたベッドに寝かされた大切な友人の姿だった。

 「瑞希‼」

 慌てて駆け寄って瑞希の体を揺するが一向に起きる気配が無かった時はぞっとした。見れば瑞希の服はあちこちが汚れ、肌にも傷があった。いったいどうしてこんなことになってしまったのだ。

 そんな時、背後から声をかけられ振り返ると一人の女性看護師が立っていた。彼女から話を聞きようやく事故の詳細が分かった。一台の車が瑞希のいる歩道に突っ込んできて近くにいた瑞希が巻き込まれたのだと。原因は運転中のスマホ操作。前の車が右折するために停車しているのに気がつくのが遅れてしまい、咄嗟にハンドルを切って衝突を避けることはできたが、代わりに歩行者を撥ねることになってしまった。

 後輩くんは瑞希を庇って意識不明だと聞かされた時は「どうして‼」と叫びそうになった。どうして、どうして後輩くんや瑞希がこんな目に合わなければならない!

 瑞希は病院に到着した時意識はあったらしい。しかし後輩くんにしがみつきパニック状態だったらしく周りが引き離そうとしたが、信じられないほどの力で頑なに拒んでいたらしい。

 後輩くんの治療に支障が出る為やむをえず何人ものスタッフが瑞希を押さえて鎮静剤を打つことでその場は落ち着いたらしい。眠っているのは鎮静剤の影響だと聞かされて梨恵はひとまずは安心した。

 しばらくすると瑞希は目を覚ました。また暴れるのでは危惧していた病院のスタッフと梨恵だったが、瑞希は暴れることはせず糸の切れた人形のように呆然とした状態で動こうとはしなかった。

 梨恵が声をかけても心ここにあらずといった感じでまともな会話ができなかった。



 事故からすでに二日。まだ後輩くんは目覚めない。そして瑞希もあの日から学校に顔を出していない。

 初めて彼に会った時長続きしないと思っていた。多数決で選ばれた結果仕方なく生徒会に来たのだと事前に聞かされていたし、生徒会の仕事は膨大だ。毎日紙の山と目の前のパソコンモニターとにらめっこしながら作業を進めていると気が滅入ってくる。

 梨恵はもう慣れたが新人にはなかなかに辛い仕事だと思う。これまで生徒会に入ってきて辞めていった学生の大半はこの辛さに耐えられなかった。だから今回もこれまでと同じように、しばらくしたら辞めてしまうと梨恵だけでなく瑞希や真司も思っていた。

 そんな梨恵達の考えに反して彼はいつまでも辞めることは無かった。

 「後輩く~ん。そろそろ甘いものが欲しいよ~」

 「わかりました。それじゃあ用意しますけど、笹苗先輩は今日何を飲みたいか希望はありますか?」

 逆に彼はお菓子や紅茶を用意してくれて、生徒会内にリラックスできる時間を作ってくれた。休憩時間中は他愛もない雑談で盛り上がり、必要以外のことは話さないピリピリとした生徒会を和ませてくれた彼には感謝している。

 そして一番彼に感謝しているのは心に蓋をしていた瑞希の心を救ってくれたことだった。

 あの子は誰かに頼ることはしない。すべてを一人で背負ってしまって自分一人で解決しようとしてしまう。

 付き合いの長い真司も何とかしようと努力したが結果的に瑞希の負担をわずかに軽くすることしかできなかった。それ以上を梨恵達が望んでも瑞希がそれを拒んでしまった。

 いつかは背負っているものに押し潰されてしまう。分かってはいてもどうすればいいのか梨恵達は分からなかった。そんな状態のまま問題を先延ばししていた時に彼がやって来た。

 彼は瑞希が背負っているものを率先して肩代わりするのではなく、瑞希が立ち止まりそうになったらその手を引き彼女を支えてくれた。さり気ない行動の積み重ねが瑞希の心を動かしたのだと思う。

 瑞希が後輩くんの為に料理を作ってきたと聞いた時は本当に驚いた。瑞希が誰かのために料理を作るなんて今まで無かったのだから。

 その時から二人の関係が少しずつ変わり始めていたのには気がついていた。ふとしたことで瑞希が後輩くんを頼り、彼はそれを引き受ける。

 頼り頼られる関係の中、瑞希が時折笑顔を見せる頻度が多くなっていることが何より嬉しかった。梨恵や真司はあまり瑞希の笑顔を見ているわけではないが、後輩くんは瑞希の笑顔を見慣れているのか特に気にした様子でもない。

 お互いに相手を意識し始め、生徒会長とその補佐だけの関係でなくなり始めているのにも梨恵は気づいていた。瑞希は自分の気持ちが一体何なのか理解できていないみたいだったけれど梨恵は何も言わなかった。

 彼女達は彼女達なりのペースでお互い近づいていけばいい。いずれ瑞希も後輩くんへの気持ちがはっきりと自覚する日が来るだろうと思っていたから。



 ——確かにその日はやって来た。それは梨恵の想像を裏切る最悪の形で。



 瑞希の側に彼がいるのは当たり前。そんな風に思っているのは梨恵達も同じだ。

 ベンチで俯いていた梨恵は顔を上げて空を見上げた。今の梨恵の気持ちを表すような曇り空が広がっている。

 「早く起きなさいよ後輩くん。あなたが見たいのはあの子の笑顔でしょう」

 そう呟きながら梨恵は立ち上がった。あまり真司を待たせるのも悪い。せめてもの感謝として、しるこ以外を買って帰ろう。そう思いながら自販機に向かって歩き始めた。



 ——周りで悲鳴が上がっている。

 近くにある物は倒れているか一部が壊れて同じように周辺に転がっている。おおよそこれまで経験したことも無いことが目の前で起こっており、その中心に私はいた。ウッドテラスの上で服が汚れるのも構わずその場に座り込んでいる。

 いや。既に着ている服はあちこち汚れていたり破れていたりしていて、腕や足にはいくつもの傷があり血が滲んでいる。

 一体どうしてこんなことになっているのだろう。呼吸が浅くなって息が苦しい。

 理由はある。だけど私はそれを知りたくないのか頭の中でそれを拒否している。恐怖でガタガタと体が震えているがその震えている理由も知りたくはない。

 私はその場で座り込んではいるが誰かを抱きかかえていて、腕にはしっかりとした重みがあるのが分かる。

 そんな中、私の目は固まったように前だけを見ていた。下を見れば一体何を抱きかかえているのかわかるにもかかわらずだ。

 それでも私は下を見ない。いや、見たくなかった。見れば、知ればもう受け止めるしかできないから。認めなければならないから。

 だから私は決して下を見ない。見なければそうじゃないと信じ続けられるのだから。

 それでも、と心の隅では思わずにいられないことがある。


 ——もしかしたら私の勘違いなのではないか?


 この重みは「誰か」ではなくて別の「何か」なのではないかと。

 ゆっくりと顔が下がりそれと同時に視線も下を向いていく。そう。これはただの確認。勘違いだったと自分自身を笑う為に必要なことだ。

 意を決して腕に抱えていたものを見た私の表情は———絶望に染まった。

 視線の先には見知った人物がいた。何度も一緒に出掛け一緒に美味しいものを食べたりして、ついさっきまで私のすぐ傍を歩いていたはず。

 そのはずなのに今は私の腕の中でぐったりとしている。

 (嘘よ。嘘よ嘘よ‼そんなはずない‼何かの間違いよ‼)

 頭の中で必死に否定しようとしても、目の前の光景は私に現実を突き付けてくる。

 必死に否定しようとしていた私はあることに気がついた。私の手、正確には彼の肌に触れている部分が徐々に冷たくなってきている。このままだと……。

 「い、嫌っ‼」

 頭に浮かんだ考えが理解できた私はまるで冷水を浴びたかのように一気に血の気が引いていく。私は抱きかかえていた彼の体をより強く抱きしめる。こんなにも強く抱きしめているのに彼はピクリとも動く気配が無い。

 それでも私は彼の体を抱きしめ続けた。体を離せば本当に「終わり」になってしまいそうだから。

 (彼は私の!私にとって……私にとって彼は?)

 ふとある疑問が浮かんだ。私にとって彼の存在はいったい……。

 「……っ!」

 そんな時変化が起きた。今彼の体が動いた!私の願いが届いたんだ。さっき何か考えようとしていた気がするけど、今はそんなことどうでもいい。

 彼の顔がよく見えるように抱きしめていた力を緩め、体を少し離すと彼がゆっくり瞼を開いて私を見返してきた。私と目が合うといつものように優しげな表情でニコリと笑いかけてくれる。

 (良かった。本当に良かった)

 全身から力が抜け私は安堵して目を閉じながら大きく息を吐いた。息を吐きながら私は自分自身を内心笑った。

 ほら、彼は無事だ。私はいったい何を心配していたんだろう。彼が少し眠っていただけでこんなにも取り乱すなんて私らしくない。

 それにしても今回はイタズラが過ぎる。これはみっちり説教をしなければならない。

 慌てた表情ですぐに謝ってくる彼の顔が目に浮かぶ。どれだけ誤っても今日の私は許さないんだから。


 クスリと笑いそうになった時、腕の中の彼が少し重くなった気がした。


 「えっ?」

 小さな違和感に気がつき目を開けると彼は目を閉じていた。さっきまでの笑顔が幻だと思ってしまいそうなぐらい元のぐったりとした状態に戻っていた。

 ……嘘よ。

 さっきまでとは違い、頭から血が流れ落ちていき彼の右目を伝っていく。

 嘘よ。

 鼓動が自然と早くなり呼吸も荒くなっていく。全身の血が冷やされたかのように徐々に冷たいものが全身を駆け巡っていく。

 彼の肌は氷のように冷たくなっているのが私の手のひらから伝わってくる。

 嫌よ。

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ‼

 頭の中がぐちゃぐちゃで目の前のことが理解できない。いえ。理解したくない。だってそれは、それはつまり……。

 ずるりと私の腕の中から彼の体が離れていく。知らない内に彼を抱きかかえていた力を手放してしまったようだ。それでも私は動くことができなかった。徐々に離れていく彼を私は目を見開いて見ていることしかできない。

 どさりと床に投げ出された彼は今度こそ動かなくなった。頭から血を流し、床に投げ出されている彼の目はいくら待ち続けても開かれることは無い。

 これ以上見たくないと私は両手で顔を覆った。それでも指の隙間からとめどなく雫が零れていく。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ‼

 目の前の現実が受け止めきれず、心に限界が来た私はその場で言葉にならない悲鳴を上げた。



 「いやあぁぁぁぁぁ‼」

 自分の悲鳴が部屋に響き渡り瑞希は目覚めた。目を開けると見慣れた景色———自分のの部屋の天井がそこにはある。ウッドテラスも壊れたテーブルや椅子もすべて消え去っている。

 それでも気分は最悪だ。下着やパジャマは汗でぐっしょりと濡れて肌に張り付いているし、吐き気もある。

 (またこの夢だわ)

 荒くなった息を整えながら瑞希は前髪をかきあげた。夢とわかっていても辛いことには変わりはない。見たくないと思っていても瑞希には夢を選ぶことはできないのだから。

 ベッドサイドにある時計を見て体を起こした。そろそろ起きないと遅れてしまう。

 まずはこの汗びっしょりの体を何とかしなくてはいけない。このままの姿ではとても会いには行けないのだから。



 浴室内で頭からシャワーを浴びている瑞希は、顔を上げて目の前にある鏡に映った自分自身を見た。改めて見ると酷い顔だ。目の下には隈がうっすらと出始め、無気力そうな顔が目の前にある。化粧で多少は誤魔化せるがそれでも限界があるだろう。

 (彼以外に会うつもりはないから別にいいわよね)

 いつもの瑞希なら信じられないことだし放置することは絶対にしないだろう。それでも今は別だ。今は気にすることでもないし、そんなことを気にする資格は今の瑞希にはない。

 頭から流れ落ちる温水は体を伝い、足を伝って床に流れていく。温水は汗だけでなく僅かに残っていた眠気も洗い流していく。

 頭の中がクリアになると自然と考えたくもないことも考えられるようになってしまう。

 (今日で三日)

 あの日からすでに三日も経ってしまっている。その間の瑞希はまさに生き地獄だった。

 事故当日の夜は恐怖で一睡もできなかった。翌日からは眠る度に先程まで見ていた悪夢を繰り返して見てしまい、悲鳴を上げながら起きるを繰り返す。

 眠るのが怖くて起き続けようとするが、ふと気が緩んだ際に意識を失うように眠ってしまって悪夢でまた起きる。多少の睡眠不足はこれまでも何度か経験しているが、これまでと大きく違うのは精神的な負担が影響していた。同じ睡眠不足でも今回はいつも以上に疲れやすくなっている。

 一体いつまでこれは続くのだろうか。明日には終わるのだろうか。それとも一週間?もしかしたらこれから先ずっと……。

 そこまで考えたところで瑞希はハッとなって頭を振り、先程までの考えを振り払った。濡れた黒髪が左右に振られて水滴が周りに飛び散る。

 (私はなんてことを考えているの)

 その考えが出てくるなどあってはならない。いや。一番考えてはいけないことだ。

 それなのに考えてしまった自分自身に嫌気がさしてしまう。もし、体がもう一つあったなら今の情けない自分の頬を全力で引っ叩くのに。

 そんな瑞希の頭に今もシャワーヘッドから出る温水が当たり続けている。せっかくだから今の嫌な気持ちも洗い流してしまおう。

 「……田宮君」

 震えた声で呟いた情けない自分自身の声も、それと同時に瞼から溢れ出てきた雫もすべて。

 浴室内はしばらくシャワーの音のみが響き続けていた



 「すみません。面会の希望をしたいのですが」

 「……わかりました。それではこちらに必要事項を記入してください」

 病院の受付。抑揚が無い瑞希の声に受付の女性は痛ましそうな表情をするが、すぐに引っ込め何事もなかったかのように手続きを始めてくれた。

 慣れてしまった申請用紙を書き終え、覚えてしまった道を進みながら彼の元へ向かう。俯きながら歩く瑞希の足取りは重い。近づくにつれて自分の背中に何かが圧し掛かってくるみたいだ。

 それでも歩みを止めない。彼の元へ行かないといけないのだから。

 目的の部屋の扉の前で瑞希は立ち止った。壁に掛けられたプレートには「303 田宮 玲士」と書かれている。

 扉の前で深呼吸した瑞希は意を決して扉に手をかけ部屋に入った。部屋は個室で彼以外はいない。狭い通路を抜けた先にある空間に彼はいた。

 「おはよう田宮君」

 彼に声をかけながら窓際に近づいていく。締め切ったままのカーテンを開けて薄暗かった部屋の中が明るくなる。

 「今日は良く晴れているけれど、少し風が冷たいからいつもより少し寒く感じるわ。今日は部屋の中で暖かくしているのが一番かもしれないわね」

 瑞希は真っ直ぐベッドまで行き備え付けられている椅子に腰かけた。できる限りいつも通りの私を心がけて彼に話しかける。

 そんな瑞希の視線の先には頭に包帯を巻き、ベッドで今も眠り続ける玲士がいた。眠り続けている彼の右手をそっと持ち上げ、両手で包み込むように握った。瑞希がこの部屋に来た時は欠かさずにしていることだ。

 彼は全身に打撲や擦過傷があるが、幸いにも骨は折れていないそうだ。それでも車に撥ねられたのだ。そのダメージは決して小さくは無い。

頭部に大きなダメージを負ったことによる昏睡状態だと彼の担当をしていた医師が言っていたような気がする。こちらも幸いなことに脳へ致命的なダメージを負っているわけではない。突き破ってはいるがテラスの周りを囲んでいた生垣がクッションとなり、ある程度勢いを殺したことで最悪の事態は免れたらしい。

 本来なら自己防衛のために身体が自然を自分の身を守ろうとするはずだったが、彼はしなかった。……いや。出来なかった。理由なんて分かりきっている。

 (私のせいだ)

 そうだ。玲士は迫ってくる車から守るために瑞希を抱きしめていた。離れないように力いっぱい抱きしめられたときの感触は今でもしっかり覚えている。そのおかげで瑞希は軽傷で済んだが、代わりに彼は昏睡という大きな怪我を負ってしまった。



 あの日、何人ものスタッフによって彼から無理やり引き剥がされ薬剤を打ち込まれたところで瑞希の記憶は一旦途切れている。

 無理矢理意識を落とされ、再び目覚めると何も考えられなくなった。まるで自分の中にある何かがぽっかりとなくなってしまったような気分だった。

そんな状態でも周りのスタッフに玲士の居場所を聞き、真っ直ぐ彼の病室に向かって誰よりも先に彼が目覚めるのを待ち始めた。

 そしてその日出会ってしまったのだ。彼の両親に……



 事故当日病院内———

 個室に移されて眠り続ける玲士の側で瑞希は彼の手を両手で握りしめながら必死に祈っていた。

(私はどんな罰でも受けます、どんなことでも嫌とは言いません。……だから早く目を覚ましてください)

 一体いつまで祈り続けたのかわからない。梨恵がいたと思うが「一人にさせて欲しい」と言ってから姿が見えない。窓から差し込む光が少し赤くなり始めたころ外の様子が騒がしくなってきた。次第に音が近づいてきて、とうとう部屋の扉が勢いよく開け放たれた。

 開け放たれた扉を抜け早足で近寄ってきた足音は瑞希の背後まで来たところで唐突に止まった。背後の存在が気になった瑞希はようやくこの時後ろを振り返った。振り返った視線の先にいたのは医師でも看護師でもなく、一組の男女だった。

 入ってきた二人に自分の姿はどう映っていたのだろうか。事故に遭いボロボロな姿で玲士の手を握りしめている瑞希は二人を困惑させるには十分だったと思う。

 ここに来るまで走ってきたのか二人とも息が上がっている。それでも瑞希はそんなことよりも二人の顔を見ていた。二人の顔に今自分が握りしめている彼の顔が重なる。もしかして二人は。

 「失礼ですが息子——玲士のお知り合いでしょうか?」

 男性は優しげな声で尋ねてきた。彼のことを息子と言うことはやっぱり。

 「はい。玲士さんと同じ学校に通っています白峰です。もしかするとお二人は玲士さんの……」

 もう確証に近い状態だったが聞かずにはいられなかった。いや、聞かなければならない。

 「はい。玲士の父親の祐司です」

 「母親の静恵です」

 二人とも瑞希に向かって軽くお辞儀をして挨拶をしてきた。

 「っ!」

 二人が彼の両親だと分かった瞬間、瑞希は椅子から立ち上がりその場で土下座した。額を床に擦り付けるほど頭を下げ、今の私にできる最大限の謝罪をする。

 突然土下座をした瑞希に二人は大いに慌て、「突然どうされたのです⁉」「そんなことはなさらず頭を上げてください!」と言いながら駆け寄ってきて瑞希を起こそうとした。

 それでも瑞希は決して動こうとはしなかった。二人はまだ事故の詳細を知らないのだろう。本来なら自分はこの場にいることも、二人の前に顔を出すことすら許されない存在なのだ。

 「玲士さんの怪我は私が、私のせいなんです‼」

 血を吐くように瑞希は事実を伝える。

 「私が原因なんです‼私が、私が余計なことをしなければ玲士さんはこんなことにはならなかったんです‼」

 そうだ。私がすべての原因だ。私が毎週甘いものを食べに行こうと言い出さなければこんなことにはならなかった。言い出さなければ終業式が終わった後真っ直ぐ家に帰っていたはず。

 肩を震わせながらすべてを言いきると病室内には静寂が訪れた。しばらくすると祐司の落ち着いた声が聞こえてきた。

 「今回の事故のことですが詳しく話してもらえないでしょうか?なぜあなたが原因なのか私達はどうやら聞かなければならないようなので」

 名乗った時と同じく優しげな声で聞いてくるが、今の瑞希はその落ち着きようが恐ろしかった。

 優しげな声に聞こえていても、実は頭を上げた先には怒りに染まった二人の顔があるのではないだろうか。今の瑞希は二人と目が合った時どんな顔をすればいいのか分からない。


 それでも瑞希は起こった事をありのまま二人に話した。


 たまたま玲士がスイーツに夢中になっていることを知ったこと。そんな彼に影響され私自身もスーツに興味を持ち、週末の放課後に二人で食べ回っていたこと。

 今日も彼に誘われる形で買い物を楽しんだり、玲士が見つけた店で美味しいタルトを食べたりもした。そして玲士の紹介で駅前へ向かおうとした矢先の事故だった。事故の瞬間彼が身を挺して私を庇い、その結果今の状態になってしまった。

 きっかけからすべてが変わってしまったその瞬間までの事を瑞希は正直に話した。普段生徒会の関係で人前では話すことに慣れている瑞希だったが、今回は話す順序がめちゃくちゃになったり言葉に詰まったりしてしまう。それでも最後まで言いたいことを話した。

 「私が週末に食べに行こうと言い出さなければこんなことにはなりませんでした。本来なら私がこの場にいることも、お二人に直接会うことすら許されない立場なのは理解しております。それでも直接お会いして謝りたかったんです。本当にすみませんでした!」

 言い切った。これ以上言えることもできることも無い。病室内は再び静寂が満たしている。


 頭を下げ続ける瑞希の正面で祐司が大きく息を吐き出したのが分かった。これから二人の怒りを受け止めることになるだろう。

 「あなたのせいで!」「なぜ息子が!」言われるであろう内容は考えだしたらきりがない。二人にとって大切な存在を傷つけることになってしまったんだ。もしかしたら頬を張られるかもしれないが覚悟の上だ。

 宣告を待つ罪人のように震えながら頭を下げ続ける瑞希に「事情は分かりました」と祐司から声が掛けられた。

 「白峰さんのおかげで息子の玲士が何故こんなことになったのか知ることができました。そのうえで言わせてもらいますが、何故白峰さんが謝るのか私達にはわからないのですけれど……」

 「……えっ?」

 祐司の言葉を頭で理解するのに少し時間がかかってしまった。責められたわけでもなく、手を出されたわけでもない。言われたことが予想外過ぎて瑞希は間抜けな声を出し思わず顔を上げてしまった。見上げた先では二人が困ったように顔を見合わせていた。

 「な、なん……で。だって私は」

 「いや。話していただいたことはちゃんと私達は理解していますよ?でも聞いた限りだと白峰さんが責任を感じる必要は無いと思うのですよ」

 祐司は隣にいる静恵に「どう思う?」と意見を求めた。静恵は右手を頬に当てながら、

 「そうね。私もそう思うわ。別に白峰さんが玲士を傷つけたわけでもないですしね~」

 「やっぱりそう思うよな?」

 「ええ。それよりも玲士ったらいつの間にそんな積極的になったのかしら~。言ってくれたら色々とアドバイスしてあげたのに~」

 「それは私も同じだよ。こんな素晴らしいシチュエーションを言ってくれないなんて勿体ない!青春の一ページたる二人のやりとりをぜひ記録したかった!」

 「ま、待ってください!」

 「「はい?」」

 互いに頷き合い、二人で勝手に盛り上がろうとしていたところを瑞希は慌てて待ったをかけた。不思議そうにこちらを見ている二人が瑞希には理解できなかった。どうして、どうしてそうしてそんな反応になるの⁉

 二人の会話を遮りはしたが、何を言えばいいのか考えていた瑞希にそれまで祐司の隣で成り行きを見守っていた静恵がおもむろに口を開いた。

 「白峰さん。私から貴女にいくつか質問をしますので答えてもらってもいいですか?」

 「えっ?は、はい」

 考えがまとまっていなかった瑞希は素直に静恵に返事をした。いったい何を聞かれるのだろう。

 「白峰さんは週末に玲士と美味しいものを食べに行っていたのですよね?」

 「はい」

 「今日は玲士に誘われる形で出かけていたんですよね?」

 「はい」

 「そしてたまたま歩いていたらお二人は事故に巻き込まれたのですね?」

 「……はい」

 事故の瞬間のことを聞かれた時、ずきりと胸が痛んだが瑞希は構わず答えた。

 質問に答えながらも瑞希は疑問しか残らない。静恵の意図が何なのかが全く分からない。彼女の質問はこれまで瑞希が話した内容を再確認するようなものばかりだ。

 「私からも一つだけいいでしょうか」

 意図を掴みかねている瑞希に今度は祐司からも声が上がった。

 祐司と目を合わせた瞬間彼の表情が一変した。これまでの優しげな表情は消え去り、鋭い視線が容赦なく突き刺さった。

 「貴女は意図的に玲士を傷つけようとしたのですか?」

 祐司の言葉を最初は理解できなかった。理解できた瞬間湧き上がってきたのは怒りだ。私が田宮君を傷つける?冗談ではない。いくら彼の両親であってもそれだけは聞き流せるものではない。

 「そんなことはしません‼……あっ」

 気がつけば大声で叫んでしまった。叫んだ後になってようやく瑞希は我に返った。いったい何を大声で叫んでいるのだ。相手は質問をしてきただけだというのに。

 慌てて謝ろうとした瑞希を祐司が手で待ったをかけた。先程までの鋭い視線は嘘のように消え去り元の優しげな表情に戻っている。

 「最後に失礼な質問をしてすみませんでした。やはり白峰さんは責任を感じる必要はありません」

 「どうして。だって私のせいで」

 いくら二人の言葉でもこれには納得できない。どう考えても瑞希に責任があるのは当然のはずだ。

 「貴女は玲士と共に過ごしてたまたま歩いていたら事故に遭っただけ。それなら貴女はただ巻き込まれただけに過ぎない被害者じゃないですか。そこを私達は間違えたりしません」

 凛とした表情で祐司は真っ直ぐ瑞希を見ている。そして祐司は「それでも」と言葉を続ける。

 「もちろん何も感じていないわけではありません。こうしている今も心の奥底から怒りが湧き上がってきます」

 怒り。その言葉に瑞希はビクッと体が震えた。気を緩めてしまっていた心に再び恐怖が襲ってくる。怯えた表情の瑞希を見ながら祐司は静かに首を横に振る。

 「私が怒りを向けているのは貴女や玲士を辛い目に遭わせ、感じなくてもいい罪の意識で白峰さんを苦しめている車の運転手です。貴女じゃない」

 「あっ……」

 その言葉に瑞希は俯いて耐える。心の奥底からこみ上げてくるものがあり目頭が熱くなって視界がぼやけてきた。

 そんな瑞希に静恵が近づいてきて震える肩にそっと手を置いた。

 「辛かったでしょう?でもあなたが一人で抱える必要なんて無いんです。だからもう少し自分自身に優しくなってください。玲士もきっとそう言うでしょう」


 ——会長は一人じゃないです。そんな風に抱え込まないでください


 いつの日か彼に言われた言葉が近くで聞こえたような気がした。

 「うぅ。ふ、うううううぅ」

 もう限界だった。目から大粒の涙が溢れ、零れ落ちたものが床を濡らしていく。食いしばった口からはまるで獣のような声が漏れてくる。

 泣きたいのは私じゃなくて二人のはずなのに、恨み言の一つでも言いたいはずなのに私のことを気遣ってくれる。その言葉の一つ一つが優しくてとても温かい。その温かさが私の心に染み渡っていく。

 それは心の奥底に追いやり蓋をしていた感情を呼び起こすには十分過ぎた。瑞希は心の奥に溜め込んでいたものをすべて吐き出すように声をあげて泣いた。



 「落ち着きましたか?」

 「はい。情けない姿を見せてしまいました」

 目元を赤くしながら瑞希は椅子に座り二人と向き合っていた。泣いている間二人は何も言わなかった。何も言わずにただ傍に居続けていた。

 子供のように大声で泣いたのは一体いつぶりだろう。まだ心の奥底には自責の念が残っているが、泣いたことで少し気持ちの余裕ができたのは事実だ。

 「事故のことは一旦置いておきましょう。それよりも私はどうしても白峰さんに聞きたいことがあるんですよ。勿論答えたくないことなら答えてくれなくても構いません」

 「は、はい。私に答えられることなら答えますが、何をお聞きになりたいんですか?」

 祐司の顔には興味津々だという感情が見え隠れしており、隣の静恵も同様だ。いったい何を聞かれるのだろうと不安が残る。

 「私達が聞きたいのは、先程白峰さんは玲士に誘われて今日二人で出掛けていたということでしたが、本当に玲士が自分から貴女を誘ったのですか?」

 一体何を聞かれるのだろうと身構えていた瑞希は呆気にとられた。予想外な質問に瑞希はどう答えるのが適切なのか一瞬判断に迷った。この質問にはこちらが気づいていない隠れた意図があるのだろうか。

 質問をそのままの意味で受け取るなら「はい」と答えるだけで済む話だけど、それでいいのだろうか。

 「あ~。やっぱりプライベートな質問でしたね。すみません、さっきの質問は忘れてください」

 「い、いいえ!そんなことありません!確かに私は玲士さんから今日一緒に出掛けようと誘われました」

 申し訳なさそうに祐司が撤回しようとしたので瑞希は慌てて質問に答えた。どうやら隠れた意図は無かったらしい。その程度なら隠すようなことでもない。

 瑞希の言葉に二人は顔を見合わせ「本当だったんだな」「やっぱり改めて聞いても信じられないわね」と思い思いの感想を言っているが、瑞希はその二人の感想に違和感を覚えた。

 二人の言葉はまるで玲士がこれまで誰も誘ったことが無いように聞こえる。いくらなんでもあの玲士がこれまで誰も誘ったことが無いなんて信じられない。

 「あの、それってどういう意味ですか?お二人の話だとまるで田宮君が誰も誘ったことが無いように聞こえますが……」

 二人は瑞希の言葉でハッとしたような表情になり、慌てたように謝ってきた。

 「すみませんこちらだけで話を進めてしまって。そうですね。白峰さんの仰る通り、私達が知る限り玲士が自分から誰かを誘うなんてことはこれまで一度もありませんでした」

 瑞希は驚きのあまり何も言えなかった。記憶の中の彼は誰に対しても優しく接し、周りを引っ張っていくような印象を持っている。

 そんな玲士が今まで誰も誘ったことが無い……?

 「そのことを話すには私達のことも一緒に話す必要がありますね。少し長くなってしまうかもしれませんが聞いてもらえますか?」

 祐司の言葉に瑞希はしっかりと頷いた。瑞希の知らない一面の玲士が知れるいい機会だ。頷いたのを確認した後、祐司はゆっくりと私に語り始めた。



 小説家である祐司と彼の専属担当であった静恵は玲士が生まれた際に自然に囲まれた静かな土地に引っ越した。都会の喧騒から離れた場所で静かに執筆活動と子育てを両立したいというのが引っ越した理由だった。

 玲士は二人の愛情をたっぷりと受け、優しい性格のまますくすくと成長していった。幼稚園児まで成長した玲士が最初に興味を示したのが、自宅にあった膨大な数の書籍だった。

 小説家という職業柄、多くの資料を持つ必要がある部分とは別に二人とも読書家な為に多くの小説が自宅の棚にぎっしりと並べられていた。自宅の壁一面に並べられた書籍を常日頃から見ていた玲士が興味を持つのは自然なことだった。

 二人はお互いに時間が空いたら玲士に絵本を読み聞かせ、玲士も喜んで二人の話に耳を傾けていた。成長するにつれて二人が読み聞かせるだけでなく玲士が自分で絵本を選んで読むことが多くなってきた。

 小学生になった後も玲士の読書熱は冷めることは無く、小学校の図書室に通い詰め読んだ本の感想を夕食の時に話す姿を見るのが二人にとって幸せな時間だった。

 時折家族で書店へ足を運び、玲士が興味を持ちそうな本を進めたり玲士が望んだ本を買い与えたりして本を読む楽しさを伝え続けていた。

 しかし、二人は気がついていなかった。玲士の中に小さな歪みが生まれていたことを。それが後に大きな後悔を生んでしまう結果に繋がってしまうことを。



 瑞希は祐司からそこまで聞いたところで内心首を傾げていた。

 ここまで聞いた内容からは特におかしなところは見受けられない。玲士の読書好きは両親の影響が大きかったのだという感想しか出てこない。そこから玲士が誰も誘わないという結果に繋がるのかが分からなかった。

 「今までの話を聞く限り何も心配することはありませんでしたよね。玲士さんが変わらず本を読むことを楽しんでいることは嬉しいことだと思いますけど……」

 子供の興味は変わりやすい。新しいものに満ち溢れた外の世界は子供にとって興味を引くものばかりだと思う。その中で飽きることなく本を読む玲士の姿は喜ばしいことだ。押し付けの価値観は時に反感を生んでしまい、本そのものを嫌いになってしまう可能性があるからだ。

 「ええ、そうですね。少なくとも当時の私達も白峰さんと同じ感想を持っていました。もし玲士が本に対して苦手意識を持ってしまったら、本に囲まれた家は玲士にとって苦痛にしかなりませんでしたから」

 瑞希の言葉に祐司は自虐めいた笑みを浮かべた。いったい何がまずかったのだろう。

 「玲士が中学に進学してしばらく経った時にあることに気がついてしまったんですよ。別に会話が少なくなったとか喧嘩をしたわけではありません。むしろ夕食の時に話が盛り上がって騒がしくなったぐらいですよ」

 「……いったい何があったんですか?」

 瑞希は真剣な面持ちで尋ねた。ここからが瑞希の知らない玲士の一面を知るきっかけがあるのだろう。祐司は一拍間を空け後悔を滲ませるように言った、

 「気づいたのは本当にたまたまでした。そういえば玲士から友達のことや学校での出来事など物語以外で楽しいことを最後に聞いたのはいつだったのか、と」

 「っ⁉」

 祐司の言葉を聞いた瞬間、瑞希は寒気のようなものが体を駆け巡った。確かに中学生まで成長していながらその話題が口にされないのはあまりにも不自然過ぎる。

 祐司と静恵もようやくその時になって彼の不自然さに気がついたらしい。もしかしたら自分達の知らないところで息子がいじめを受けているのではないか。逸る気持ちを抑えながらその日の夕食時、いつもと同じように読んだ本の感想を楽しそうに話す玲士に意を決して聞いてみた。——何か我慢していることは無いか、と。

 「幸いにも玲士はいじめを受けているわけではないと聞いて。二人して安堵したのは覚えています。学校にもそれとなく探りを入れてもらったのですが、いじめも無ければ交友関係にも特に変わったところは無かったそうです」


 瑞希は黙って祐司の言葉を聞いていた。ここまで聞かされると続きが気になってしまう。玲士の一体何が変わってしまったのかと。



 玲士の不自然さに気がついてから二人は本人に気がつかれないように探りを入れていた。しかし、いくら玲士の周りに聞いても本人にそれとなく聞いてもおかしなところはどこにもない。そうなると疑問が残る。何故玲士の口から友達の話が出ないのかと。

 玲士の周辺におかしなところは何もない。ならば原因は本人の中にあるのかもしれない。

 そしてとうとう二人は本人に直接聞くことにした。真剣な面持ちの二人とは対照的に当の本人は何を言われるのかわからずきょとんとしていた。

 祐司は言葉を慎重に選びながら玲士に気になったことを聞いた。

 

 ——何故友達のことを話さないのか

 ——何故楽しかった出来事が本の物語ばかりなのか


 玲士は「う~ん」と唸りながらこれまでのことを思い出すかのように天井を見上げた。二人にとっては長く感じた時間が過ぎていき、考えがまとまったのか玲士はようやく口を開いた。


 「だってみんなのことを見ていて何が楽しいのさ?そんなことより本を読む方がよっぽど楽しいよ」


 その言葉を聞いた二人は愕然とするしかなかった。友達と一緒に他愛もない話をしたり一緒に遊んだりすることは息子の中ではどうでもいいことに成り下がり、楽しい事とは物語の中に存在していて楽しいことを求めて本を読むようになっていたのだ。

 二人は必死になって友人の素晴らしさや一緒に遊ぶことの楽しさを伝えたが、物語の内容には劣ると言って聞くことは無かった。



 「結局私達はどうすることもできずにずるずると時間だけが過ぎてしまいました。高校進学の際に一人暮らしさせるようにしたのは多少改善していましたが、そんな現状に変化を付けさせる意図もあります。それでも気づいたのが遅かった為に玲士は他人との関わり方が分からず、上辺だけの関係止まりになってしまいました。まさか良かれと思って気にも留めずに読ませていた本が原因でこんなことになってしまうとは……」

 祐司の懺悔ともとれる内容を聞かされていた瑞希は何も言えなかった。まさか彼の過去にそんなことがあったなんて信じられなかったし、衝撃的過ぎた。

 本を読むこと自体には何の罪もない。むしろ本を読むことは良い効果がある。若者の活字離れが増えてきている中、本を読むことで日常生活では知りえなかった知識を得られることができ、読み慣れていない漢字も前後の文章から推測して読むことが可能となってくる。しかしあくまでもこれは物語。普通なら物語と現実の区別がはっきりと出来て日常への悪影響は発生しない。


 ——あくまでも普通ならば、の話だ。


 玲士の場合は現実と物語の天秤が物語側に傾き過ぎてしまって、現実の中で様々なことを学んでいくことの重要性が理解できていなかった。

 楽しいことは全て本の中にあり、物語のように日々の生活で大きく変化が出ない友人との交流は彼にとって価値が無いのだ。

 だから価値の低い友人の話が自宅で話題に上がらなかったのだろう。

 他人との交流が疎遠になるとそれはそれで問題もある。幼い頃から他人と関わることによって社交性を学び今後の人付き合いに役立つことになる。それが無いならどう相手と接していいのかもわからないし、距離の縮め方も分からなくなる。だから最低限の関りしか持たないと悪循環に陥ってしまう。

 玲士の場合は興味のない現実と言う要因も重なって上辺だけでの付き合いに拍車がかかったのだろう。

 「ある程度改善はしましたが、玲士が他人に深く興味を示すことは無かったので私達も半ば諦めていました。そんな中、玲士が生徒会に入ったと知った時は驚きました。今まで興味を示さなかった玲士が何かの部活に入るなんてこれまで無かったですから」

 嬉しそうに話す祐司と同じように笑顔な静恵を見ると本当に嬉しかったのだと分かる。

 そんな二人を見ると、玲士が生贄のように生徒会に入れさせられたとはとても言えない。内心気まずくなって思わず視線を逸らしてしまった。

 「そしてまさか玲士が誰かを誘うなんてこれまでの玲士を知っていると余計に信じられなかったのですよ」

 「そ、そうだったんですか」

 そう言いながらも瑞希は別のことを考えていた。

 (田宮君の初めては私だったんだ)

 口にするといろいろと誤解が生まれそうだが今は気にしない。誘う最初の相手が自分だったことで嬉しさがこみ上げて来そうになるが、真面目な話なので表情には出さないようにする。



 それからも彼との関わりを聞こうとした二人だったが、部屋に看護師が入って来て玲士の詳しい容態を説明するということで部屋から出て行ってしまった。再び二人きりとなった病室で瑞希は玲士の顔を覗き込んだ。頭に包帯を巻き、眠り続けている彼は目覚める気配はない。それでも彼の両親と話をした後では彼の見え方が少し変わった。

 拒絶するという気持ちは無い。ただ一つ気になることがある。それは瑞希自身も分からないし、彼の両親に聞いても答えはわからないから彼自身に聞くしかない。瑞希は改めて彼の右手を両手で包み込んだ。

 「ねぇ田宮君教えてちょうだい。どうしてあなたは私に興味を持ったのかしら。ただの気まぐれ?それとも何か理由があるのかしら」

 彼に語り掛けても返事は無い。返事は無いけどいつか返事が聞きたい。そう思うには十分な内容だった。



 「私達は一旦帰ります」

 二人が病室に戻ってきて最初に言った言葉がそれだった。あれだけ急いで病院に駆け付けたのにもう帰るとは解せない。どうしてそんなすぐに帰ろうとするのだろう。

 「もう帰られるのですか⁉」

 「ええ。担当医の話を聞いたら脳に後遺症が残るようなダメージがあるわけでもないようですし、目覚めるのを待つだけのようです。確かに心配ではありますけど私達は玲士が目覚めると信じているんですよ」

 「玲士の着替えも取りに行かないといけないですしね~。それに白峰さんのような美人さんに見守ってもらえるならきっと玲士もすぐに起きますよ」

 「ええ⁉」

 静恵の言葉に瑞希は面食らってどう返していいのかわからない。そんな瑞希をよそに二人は荷物をまとめている。

 上着を羽織った二人はそのまま扉に向かって歩き始めた。扉まで歩いた静恵だったが、一旦立ち止まって踵返して「白峰さん」と言ってこちらに戻ってきた。

 「な、何でしょうか」

 静恵は目の前まで歩み寄ってきて真剣な顔で瑞希の顔を見た。

 「もう一度言いますが、貴女が責任を感じる必要は無いんです。だから絶対に自分を傷付けるようなことはしないでくださいね」

 びくりと瑞希の体が震えた。その姿に静恵は何も言わずにしばらく見つめ続けた後、不意に表情を和らげ「玲士のこと、よろしくお願いしますね」と言い残し今度こそ病室から出て行き、瑞希は何も返事ができず病室に取り残された。



 そして現在、瑞希は毎日病室を訪れている。二人は気にするなと言っていたが、それでも瑞希自身が納得していない。だから面会時間が始まってから終わるまでの時間ギリギリまで玲士の側に居続けている。目が覚めたら誰よりも最初に彼と話をしたい。そして謝りたいのだ。ごめんなさいと。

 そして謝りたいから目覚めて欲しいと願う一方で別の事でも瑞希は彼が目覚めるのを待っている。ベッドサイドの小さなテーブルの上に紙袋が置かれている。所々に汚れが付いていているが中身は無事だ。

 それはあの日、玲士が瑞希のために選んでくれた服が入っている。最後に渡すと言ってそのまま彼が持ち続けていたものだ。まだ彼から手渡されていない。せっかく選んでくれたのだから渡すまでが彼の仕事だ。

 だから今日も待ち続ける。彼のぬくもりを両手に感じながら、今日こそ目覚めると信じて。



 吸い込まれそうなほどの暗闇が見渡す限りどこまでも広がっている。そんな中一人ぽつんと突っ立っていた。足元が僅かに見えるだけでどちらに進むべきなのかもわからない。

 そもそも何故この場所にいるのかも思考に靄がかかったようにうまく纏まらない。そもそも私は誰なのだろう。名前も思い出せない。

 だから歩き続ける。今歩いている方向が正しいのかも、どこまで歩けばいいのかもわからない。ただ立ち止まることだけはしたくなかった。



 一体どれだけ歩き続けただろうか。相変わらず周りは暗闇が広がっているばかりで変化が無い。ただ、心なしか手足の感覚が無くなってきたように感じる。

歩く方向を変えようかと考え始めたところでようやく周りの変化に気がついた。見えるものに変化はない。ただし何処からか音が聞こえてくる。音を頼りに聞こえてくる方向に向かって歩き出した。

 方向は合っているのだろう。徐々に音がはっきり聞こえてくるようになり、音の正体がわかってきた。

 泣き声だ。女性の泣き声がこの先から聞こえてくる。自然と歩みが早くなり、最後は前に何があるのかもわからないにも関わらず駆けだした。

 しばらく走っているとようやく音の発生源に辿り着いた。少し離れた所に一人の女性がいる。ぼんやりと見える程度だが、こちらに背を向けて座り込んでいるのがわかる。

 女性はこちらのことを気にも留めていないのか、それとも気がついていないのか振り向こうとはしない。ただその場でずっと泣き続けている。そんな彼女の後ろ姿を見ていると何故か胸が苦しくなる。彼女のことは知らないはずなのにどうしても放っておけない気持ちになる。

 だから彼女に近づく。彼女に泣き止んで欲しいから。彼女には涙よりも笑顔の方が似合うのだから。


 ——あぁ。思い出した。俺は彼女を知っている。他人に興味を持たなかった俺が初めて関わりたいと思った最初の人物。彼女の笑顔を見るのが嬉しくそばに居たいと思った相手。

 だから俺は近付きながら手を差し出す。「大丈夫」「笑って欲しい」と言う為に。

 彼女の肩に触れる直前で俺の目の前は真っ白に染まった。



 ゆっくりと目を開けた玲士が最初に見たのは見覚えのない天井だった。いったいここはどこだろうか。少なくとも玲士がこの部屋に入った記憶は無い。

 記憶を掘り起こしていた玲士はようやく思い出した。勇気を振り絞って彼女に思いを伝えようとしたこと。そんな彼女の背後から迫ってくる車。灰色の空の片隅に映る必死な表情の彼女。

 (あれからどうなった!会長は?無事なのか?)

 慌てて起き上がろうとした玲士だったが、体を起こそうとしたところで頭部に鋭い痛みが走った。

 思わず顔をしかめ一旦起き上がるのを諦めベッドに沈みこんだ。どうやら頭に怪我をしているらしい。さっきは慌てて起き上がろうとしたから気がつかなかったが、体も少し重く感じる。

 それでも気を失った後どうなったか玲士は知りたかった。最後に見た瑞希は無事なように見えたが、見えたのは顔だけで怪我の具合は見えなかった。

 見た所ここは病院のようなので医師や看護師なら彼女の怪我も知っているだろう。改めてゆっくり起き上がろうとした玲士はふとその動きを止めた。右手に違和感がある。違和感があると言っても感覚が無いというわけではなく、いつもより右手が温かく感じる。何かがベッドの上にあるのか重みもある。

 ゆっくりと頭を動かし右手のある辺りに目を向けると違和感の正体が分かった。瑞希が眠っている。それも玲士の右手を握りしめたまま玲士に掛けられた布団の上で突っ伏すように眠っている。深い眠りに入っているのか、さっきまで玲士が体を動かしたことにも気がつかずに眠り続けている。

 それでも瑞希は大きな怪我をしていないと分かっただけでも十分だ。良かった。本当に良かった。

 天井を見ながら安堵していると眠っていた瑞希に変化があった。突然跳ね起きた瑞希はベッドから体を起こしたが様子がおかしい。呼吸は荒くその顔は恐怖で表情が引き攣っている。余程恐ろしい夢だったのだろう。

 周りに意識が向かないのか目覚めている玲士には気がついていない。声をかけようにも恐怖に染まった瑞希に声をかけるのはなんだか躊躇われる。

 どうしたものかと悩んでいた玲士だったが不意にこちらに視線を向けた瑞希とばっちり目が合った。

 「……田宮、君?」

 「はい。おはようございます会長」

 信じられないといった風に目を見開いてこちらを見つめている瑞希に、玲士はできる限り普段通りに笑いかけた。

 「田宮君!大丈夫なの⁉怪我は⁉どこか違和感のある場所はあるかしら⁉」

 「ちょっ⁉会長ちょっと落ち着いてください!」

 瑞希は弾かれた様に玲士に近寄り必死の形相でこちらの容態を聞いてくるが、あまりの必死さに玲士は驚くばかりだ。

 「車に撥ねられたのよ⁉落ち着いてなんかいられるわけないじゃない!どうなの、大丈夫なの⁉」

 「はい。俺は大丈夫ですよ。だから会長も落ち着いてください」

 瑞希を落ち着かせるようにできるだけゆっくりと話す。迫るように身を乗り出していた瑞希はその言葉を聞くと玲士から体を離し、力が抜けたように椅子に座り込んだ。

 そしてそんな瑞希の目から大粒の涙が溢れ出して玲士は焦った。

 「か、会長⁉」

 「よ、良かった。田宮君が無事で。わ、わた……し田宮君がめ、目覚めないかもと思って……し、心配で……」

 右手で涙を拭いながら話す瑞希の姿に玲士は心が痛んだ。笑って欲しいと思っていたのに泣かせてしまうことになり随分と心配をかけてしまった。

 「心配かけてすみません。俺はこの通り大丈夫ですから泣かないでください。会長には泣いてほしくないです」

 「それならあんなことは二度としないで!私が泣かないように努力しなさい」

 「また無茶な要望ですね」

 瑞希は怒ったように玲士に文句を言う。瑞希はああ言っているが玲士はこれについては約束できかねた。きっと同じような状況になったらきっと今回と同じ行動をするだろう。目の前で瑞希が傷つくのは見たくない。

 「あの時、私を安全な方に突き飛ばすだけでよかったでしょう。どうして庇うようなことをしたのよ」

 「あの時はそれしか選択肢が無かったんですよ。車がどっちに向かうかわからなかったので」

 瑞希の背後から迫って来ていた車はかなりの速度が出ており、縁石に乗り上げてバウンドしていた影響からなのかどっちに向かうかが判断できなかった。下手に突き飛ばした先に車が向かってきたら目も当てられない結果になってしまう。

 それでも何もしないわけにはいかないので最終的に玲士がとった方法は自分の身で庇うことだった。



 ずっと寝たままの状態で話すわけにもいかないので瑞希に支えられながら玲士は体を起こした。背後の壁を背もたれにしてようやく瑞希と同じ目線で話せる。

 体を起こした玲士だったが瑞希が何か言いたそうにしている。しかし言い出せないのか目の前でそわそわと落ち着かない。

 「あ、あの田宮君。私は貴方に謝らないといけないわ」

 「謝る、ですか?会長が俺に?」

 頷く瑞希に玲士は首を傾げた。瑞希から謝ってもらうことなど玲士には思いつかない。

 「私が毎週放課後に一緒に食べに行こうと言い出さなければ田宮君が怪我をすることは無かったわ。全部私が……」

 「ちょっと待ってください会長。それは違います」

 瑞希が何を謝ろうとしているのか分かった玲士は、瑞希の言葉を遮った。それに関しては瑞希が謝る必要は無いはずだ。

 それでも瑞希もそう簡単には引き下がらない。

 「違わないわ。私が毎週行こうと言い出さなければ田宮君は事故に遭わなかったはずだもの。それなら言い出した私に責任はあるわ」

 しかし、玲士も引き下がるつもりはない。

 「あの事故は偶然巻き込まれたものだったでしょう。それに今回はこれまでと違って放課後の時間帯じゃないですし、気にするものではありません」

 それでも瑞希は「でも」と言い募ろうとしている。これは相当責任を感じている。おそらく玲士が意識を失うほどの怪我を負ってしまったのも大きく影響しているのだろう。

 しかし、今回の事故は本当に偶然巻き込まれたようなもので瑞希が責任を感じる必要などどこにも無い。

 だから玲士は事故以外のことに焦点を当てた。

 「会長は俺と一緒に服を選びに行ったのを後悔しているのですか?俺と一緒にタルトを食べたのも無かった方が良いと?」

 「そんなことは無いわ!一緒に行けたのは良かったと思っているし後悔も無いわ!」

 「……ならいいじゃないですか。後悔が無いならあの日の行動は無駄じゃないと言えます」

 鋭い目つきでこちらを睨んでくる瑞希に若干圧されそうになった玲士だったが、ここで負けてはいけない。

 負けてしまえば瑞希はこれから先、誰とも関わらなくなってしまう。誰かを傷付けてしまうからと怯えてしまい、これまで以上に孤独になってしまう。そんなことを玲士は望んでいない。

 二人で一緒に過ごした時間に関して後悔が無いと言っているのだから瑞希自身は一人になりたいわけではないのだろう。一緒に過ごしてよかったと思っていることは玲士にとっても嬉しく思う。

 玲士の説得に瑞希はまだ何か言いたそうだったが、それ以上は何も言いださなかった。言ってしまうと先程の「後悔は無い」という言葉を否定することに繋がってしまう。だから瑞希は何も言えない。



 それからは事故で気を失った後のことを瑞希から順に聞かされていた。まさか事故からすでに三日も経過しているとは思わなかったため玲士は驚きを隠せなかった。一方で目覚めた時の体の重さにも納得した。三日も眠っていたら体が重くなるのは当たり前だ。

 そして玲士の両親とも会っていたことに関しても驚いた。どんな内容を話したのか詳しくは教えてくれなかったが、まさか昏睡状態の息子を瑞希に任せて二人とも帰ってしまうとは思わなかった。なんと自由過ぎる二人なんだ。

 今日までの出来事を聞き終えた玲士は瑞希の様子を観察した。瑞希は玲士が目覚めた時のような焦りは既に無く、いつも通りのリラックスした状態になっている。

 (今言うべきか?でもこの場で言うのは仕方ないとはいえ思っていたのと違うしなぁ)

 しかし、怪我の程度はわかっていない為いつ退院するかわからない。ならば言うのは早めの方が良い。瑞希にとってはあれから三日経過しているが、玲士からすると事故からまだ一時間も経過していないことになる。

 だからあの時の気持ちもその決意も色褪せていない。

 だからその決意を改めて口にしようと思ったところで、玲士より先に瑞希が先に口を開いた。

 「ねぇ、田宮君に聞きたいことがあるのだけどいいかしら?」

 「聞きたいことですか?」

 「ええ、田宮君のご両親から聞いたわ。田宮君があまり他人と関わろうとしていないって」

 「ちょっ⁉そんなことを話したんですか⁉」

 瑞希の言葉に玲士は流石に慌てた。これはあくまでも玲士個人の問題であり、他人に話すようなことではないし、両親の行動は許されるものではない。それを知られることで変に同情されたり距離を開けられることを玲士は望んでいない。

 しかも今回の相手は瑞希だ。

 「ごめんなさい。田宮君からすると知られたくないことだというのは理解しているわ。それでも私は田宮君にどうしても聞きたいことがあったの」

 瑞希が申し訳なさそうに謝っているのを見て玲士は一旦両親に対する怒りをひっこめた。正直、知られてほしくないことだったがそんな玲士の過去を知ってでも瑞希が玲士に聞きたいことの方が気になった。

 「田宮君はどうして私と関わろうとするの?こんな私にわざわざ関わろうとするのは何か理由があるのかしら」

 「理由、ですか……」

 弱弱しく聞いてくる瑞希に玲士は瑞希の言葉にどう答えたものかと考えた。当時の玲士は自覚していなかったが、今は瑞希に対しての気持ちははっきりしている。だからこそ玲士は瑞希からの問いに答えるために口を開いた。

 「会長。あの日、事故が起きる前に俺が何か言いかけていたのは覚えていますか?」

 「田宮君が?そういえば何か言おうとしていたわね。何を言おうとしていたのかしら?」

 あの日と同じで瑞希は玲士が何を言おうとしているのかわからないようだ。けれどそれでいい。あの日言うつもりだったことを今言うのだから。

 「会長。俺は会長のことが好きです」

 「…………えっ?」

 返事までに随分と間があった。言われたことが予想外過ぎたのか呆気に取られている。

 「俺に見せてくれる笑顔やケーキを食べる時の幸せそうな表情、責任感のある姿もひっくるめて会長のことが好きです。勿論生徒会長としてではなく、一人の女性として俺は会長のことが好きです。

 好きだから少しでも会長と長く一緒にいたいんですよ」

 言い終えた玲士を瑞希は先程と同じ表情で見続けていた。しかし、次の瞬間玲士にもわかるほどに一気に顔が赤くなった。その姿は普段の瑞希からは想像できないため何だか可愛らしく見える。

 瑞希は「ちょ、ちょっと待って」と言って玲士から顔を背けた。顔を背けた瑞希はブツブツと何か呟いており、「どうしよう、どうすればいいの」と辛うじては聞こえたがそれ以外は何を言っているのか聞き取れない。

 瑞希は玲士の顔をまともに見ることができないのか右手を玲士の方に突き出し、

 「だ、駄目よ!私なんかが田宮君の、その……か、彼女にふさわしいとは思えないわ!田宮君にはもっとお似合いの人がいるはずよ」

 瑞希から拒絶されたのはショックだったが、玲士は表情には出さずできるだけ平静を装った。今はまだ決めつけるのは早計過ぎる。

 「ちなみにどうして会長がふさわしくないと思うのですか?」

 「だってほら、私は不愛想だし……」

 「会長は俺と一緒の時よく笑っているじゃないですか」

 「ええっと、彼女らしいことなんて私知らないし、できるとは思えないから……」

 「俺だって誰かと付き合ったことが無いのでどうすればいいのかわからないですよ。だから会長と一緒です」

 「うっ。……そうだわ。私は料理が得意だから!」

 「そこはむしろアピールできるポイントですよね?」

 目の前であたふたとしている瑞希は理由の内容をしっかり理解していないのだろう。最初はしっかりとした理由があったが、次第に内容に統一性が無くなってきて拒絶とは正反対のことを言い出すまでになっている。

 それでも玲士は瑞希の言葉をそのままの意味で受け取らない。瑞希の言葉には彼女の気持ちが入っていない。言葉だけのハリボテだ。

 それに、と玲士は思う。彼女はずっと自分の気持ちを表現し続けている。本人は気づいていないのかそれとも無自覚なのかわからないが、行動で今も示している。

 瑞希は必死に考えを巡らせているのかこちらが呼び掛けても反応しない。だったら——

 「白峰さん」

 効果ははっきりとあった。ずっと考えに没頭していた瑞希だったが、こちらが優しく名前を呼ぶと、すぐさま反応してこちらに振り向いた。その顔には信じられないといった感情が出ている。実際玲士自身も名前を呼ぶことは初めてなので、違和感があったし恥ずかしさでなんだかむず痒い。

 それでも変に考えを巡らせている彼女に言っておかないといけない。

 「俺にふさわしいとかふさわしくないなんて関係ないんです。俺はただ単に会長が俺のことをどう思っているか聞きたいんです。だから自分の気持ちに正直になってみてください。——この左手のように」

 「っ⁉」

 玲士の視線の先と言っていることが理解できたようだ。瑞希が行動を起こす前に玲士は自分の右手をぎゅっと握りしめた。当然玲士の右手に握っているものは離れることができなくなる。

 「……田宮君、放してくれないかしら」

 「これまで放さなかったのは会長でしょ?俺はずっと握っていたわけじゃなかったので抜け出したいなら抜け出せたはずです」

 「そ、それはそうだけど……」

 瑞希は視線をさまよわせ、どう言い訳をしたものか考えている。

 そう。瑞希の左手はずっと玲士の右手を握りしめたままだった。目覚めてから指摘するまでの間、涙を拭ったり玲士の告白を聞いてしどろもどろになった時も左手はずっと玲士の右手をしっかりと握りしめたまま離さなかった。

 それこそが彼女の偽りのない本心ではないだろうか。

 「……初めは何とも思っていなかったわ」

 しばらく見守っていた玲士だったが、不意に瑞希が口を開いた。

 「嫌々で生徒会に来たのはわかっていたから、これまで入ってきた人達と同じように途中で嫌気がさして出て行くと思っていたの。……でも田宮君は残ってくれた」

 「はい」

 「これまでずっと一人が当たり前だったのに、いつの日からか田宮君に頼るのが当たり前にだと思うようになって、一緒にいるのが楽しく感じられるようになったの」

 「はい」

 瑞希は思ったことを口にしている間、玲士は相槌を返すだけ。今は瑞希の言いたいことを言わせよう。

 「正直に言うと文化祭が終わった後も残ってくれると言ってくれた時は本当に嬉しかったわ。それまでの時間がとても楽しかったのに、また何もない日の戻っちゃうなんて私には考えられなかった。出来れば残って欲しいと言いたかったけど、田宮君に無理は言えないと思っていたから結局は言い出せなかった。

 週末の事もそう。田宮君と一緒にいたら何かを見つけられると思ったの。私がこれまで見向きもしなかった何かに。……でも、」

 瑞希はそこで一旦声を詰まらせた。肩が震え握っている左手にも自然と力がこもっている。

 「あの日、田宮君が眠り続けてしまってから私は怖くなったの。もう二度と田宮君と一緒にいられないかもしれないって。もう二度と田宮君の声を聞けなくなるかもしれないって。そんなこと考えたくもなかったし、胸が苦しくなったわ」

 それに関しては玲士も同じ気持ちだ。逆の立場になってもし、いきなり瑞希のそばにいられなくなったり、話をすることができなくなるなんて今は考えられない。これからもずっと心地よい時間を作っていきたいと考えてしまう。

 実際瑞希はその可能性を捨てきれなかったのだろう。そう考えると瑞希にはとても申し訳ないことをしてしまった。

 「だから今日田宮君が起きてくれたのは本当に嬉しかった。また声が聞ける、話ができるのだと今も実感できるから。

 そして、さっきの……えっと、わ、私を好きだって言ってくれたことは本当に驚いたわ。田宮君が私のことをそんな風に思っていてくれたなんて。そ、その嬉しいわ。言われてからなんだか胸の辺りがぽかぽかと温かいような気がするの」

 右手を胸に当て瑞希がそわそわしている。先程まで悲しそうに肩を震わせ落ち込んでいたが、今は「好き」の単語が出てきた辺りから顔が真っ赤になっている。

 玲士も同様でなんだか体が熱く感じてしまう。改めて自分は瑞希に告白したのだと実感させられる。

 「だから私も田宮君のことが好き——なんだと思う。この気持ちが単なる好きなのか恋愛としての好きなのか私自身がまだうまく確証が持てないの。……そんな中途半端な私でも田宮君はいいのかしら?」

 「もちろんですよ。今は自信が無くても、これから理解していけばいいんです。そして俺も会長が自分の気持ちに自信が持てるように努力します」

 これは玲士自身の努力も必要だ。ただ相手を待つのではなくこちらも相手から好きになってもらえるようにならなくてはならない。お互いの歩み寄りが本当の恋愛に繋がるのだから。

 「さっきも言ったけれど私は恋愛について何もわからないわ。彼女らしくどう振舞っていいのかもわからないし、これまでと何も変わらないかもしれない」

 「無理に変わる必要なんて無いんです。俺は会長の今の姿を見て好きになったんですから」

 「もしかしたら嫉妬深いかもしれないわよ?文化祭で田宮君が他の女子と仲良く話しているのを見た時、どうしようもなく不愉快な気持ちになったの。もしかしたら私のわがままで田宮君が嫌な気持ちになるかもしれないわよ」

 「会長からヤキモチを焼かれるなんて嬉しいです。そんな一面を見られることに嫌なんて言いませんよ。むしろヤキモチ焼いている会長を見てみたいです」

 ヤキモチを焼いて少し膨れっ面になっている瑞希は想像するととても可愛らしく思える。いったいなそれのどこに不満があるのだろう。それだけ瑞希が玲士のことを気にかけている証拠だ。

 だから玲士は改めて言おう。自分の気持ちを、そしてこれからのために。

 「白峰さん。俺は貴女のことが好きです。俺の彼女になってくれませんか」

 「……はい。私も田宮君のことが好きです。田宮君の彼女にしてください」

 幸せそうな瑞希の目からは一筋の涙が零れた。しかし、その涙は悲しみではなく嬉しさの涙だ。

 恋人同士となった今、二人はどちらからともなく笑い合った。ようやく自分の気持ちを素直に伝い合うことができた。これほどに嬉しいことは無い。



そんな二人に病室の扉をノックする音が聞こえた。

 「失礼しま~す。白峰さん、田宮さんの具合はどんな感じ……です……か」

 「うん?」

 入ってきたのはどうやら看護師の女性だった。ただ、女性は玲士の顔を見るなりその場で立ち止まり、玲士の顔を凝視している。そして徐々にだが、後ろに下がり始めているのは何故だろう。

 「す、すぐに戻ってきます!だからどうかそのままでいてください。いいですね⁉」

 そう言って看護師の女性は入って来た時以上の速さで慌ただしく部屋から飛び出して行った。廊下の方から「安西先生!安西先生はどこですかー‼」と女性の声が聞こえてくる。……病院では静かにしなさい。

 「そういえば、田宮君が起きたらすぐに知らせるようにって言われていたのを忘れていたわ」

 「えっ⁉」

 たった今思い出したといったような瑞希の言葉に玲士は硬直した。それは一番忘れてはいけないような気がする。

 看護師が驚くのも無理はない。部屋に入ると眠っていると思っていた人物が目覚めた上に会話をしているのだから。

 「でも構わないわ。田宮君とたくさん話ができる時間が作れたから、それに比べたら些細なことよ。おかげで田宮君の彼女になれたのだから」

 特に気にした様子もない瑞希はよっぽど彼女になれたことが嬉しいのだろう。嬉しそうな瑞希の笑顔を見ると看護師の女性には申し訳ないが、玲士も後回しでも良かったと思えてしまう。

 「それじゃあ、一緒に先生を待ちましょうか会長」

 「……嫌」

 「え?」

 突然瑞希はプイっと玲士から顔を逸らしてしまった。なんだか機嫌が悪くなっている気がする。

 「どうしたんですか会長?」

 「呼び方」

 「呼び方ですか?」

 「こ、恋人同士になったのだから会長なんて呼び方は嫌よ。私のことは名前で呼んでちょうだい」

 顔を赤くし、顔を背けたまま名前を読んで欲しいと瑞希に言われた玲士は反省した。いつまでも会長と呼んでいたらこれまでと何も変わらない。二人の関係に変化があったのだから呼び方も変えていくべきだ。

 「すみません。これからよろしくお願いします。——瑞希」

 瑞希のことを名前で呼ぶのはどうも気恥ずかしいがこれは慣れていくしかない。

 玲士の呼び方に満足したのか、瑞希は背けていた顔を戻し満面の笑みを浮かべた。

 「ええ。私もよろしくね。玲士!」


 部屋の外で複数の足音がこちらに向かって近づいてくるのが聞こえる。走っているのか音が近づいてくるのが早い。探していた安西先生なのかもしれないがもう少し静かに来たらいいのに……。

 「どうやら騒がしくなりそうですね」

 「ふふっ。みんなどんな反応をするのかしらね」

 二人は繋いだ手をお互いきゅっと握った。大切な人と一緒なんだ。一緒にいればどんなことも乗り越えられるだろう。そう思いながら二人が待ち続ける病室のドアが勢いよく開かれた。



 月日はあっという間に過ぎ去っていき、蒼西高校の敷地のあちこちには人が集まり賑わっていた。

 「会長卒業おめでとうございます」

 「ありがとう。あれから長かったようで短かったような感じだわ」

 玲士から花束を受け取った瑞希は照れくさそうにこちらを見ている。

 今日は蒼西高校の卒業式で瑞希は卒業する。梨恵や真司も瑞希の近くでクラスメイトと写真を撮ったり話したりして楽しんでいる。

 そういう玲士や瑞希の周りにも何人もの生徒が集まっていた。冷たい印象を持たれていた瑞希だったが、どうやら秘かに人気があったらしく祝いの言葉を伝えるためにこうして集まったわけだ。

 ちなみに玲士は瑞希のことを学内では変わらず「会長」と呼んでいる。これまでの呼び方に慣れ過ぎてなかなか抜けきれないこともあるが、瑞希も学内では生徒会長としての一面が出るので玲士のことを「田宮君」と呼んでいる。しかし二人きりの時や学外では積極的に名前で呼び合っている。その為未だに周りは二人が付き合っていることを知らない。

 「それよりも田宮君は体の方はもう大丈夫なのかしら」

 「ええ。もうすっかり元気ですよ」

 玲士はアピールするように腕を回したり体を捻ったりした。



 病院で二人が恋人同士になった日から今日までかなり慌ただしい日々が続いた。

 あれから玲士は駆け付けた医師や看護師によって様々な検査を受けさせられた。玲士が目覚めたことをすぐに伝えなかった瑞希が怒られるのではないかと心配していたが杞憂だったようで、医師は玲士が目覚めたことを喜んでくれた。

 目覚めたことで隼やクラスメイト達が続々と見舞いに訪れ毎日病室が騒がしくなった。見舞いにはあの洋菓子店の男性もタルトを片手に来てくれて、「無事でよかった」と玲士の無事を喜んでくれた。

 入院生活の中で一番騒がしくなったのは両親が来た時だった。瑞希と一緒に病室で話している姿を見た静恵は開口一番、

「あらあら~。とうとう結ばれたのね!おめでとう~」

 と、まだ何も言っていないのに勝手に納得されてしまった。それからは二人から「きっかけはやっぱり生徒会に入った事なのか」とか「玲士のどこが好きなのか」など玲士の容態は後回しで勝手に盛り上がり、祐司に関しては「参考に二人はどんな風に恋人になったのか教えてくれ」と言い出し、瑞希も律義に答えようとするから恥ずかしさのあまり必死に止めようと苦労した。

 車に撥ねられ三日も意識を失っていたこともあり、退院は年明けになると瑞希に伝えた時は「玲士の面倒は私が見る」と言い出したが玲士はその提案ははっきりと拒否した。入院と言っても怪我はそれほど大したことは無い。受験もラストスパートになる中でこちらに時間を割くのは嬉しいが、疎かにしないで欲しいと時間をかけて説得し、瑞希は渋々ながらも納得してくれた。

 それでも頻繁に会いに来てくれる分には瑞希の望むままにしておいた。特に病室で何かをするわけでもないが、時間の許す限り玲士の隣に座ってぴったりと寄り添うのが彼女の日常になるほどだ。

 無事に退院し瑞希の受験も見事合格した際には合格祝いであの洋菓子店に行ったりもした。事故を思い出すことを心配していたが、既に瑞希の中で折り合いをつけて納得していたから内心ほっとした。



 「なら、安心して任せることができそうね。頑張ってよね、新しい生徒会長」

 「正直不安なところはありますけどね。それでも会長と学園長が負担を軽くなるように動いてくれたのはありがたいですよ」

 瑞希という存在がいたことでこれまでの生徒会は維持できていたが、その瑞希がいなくなると後を任される玲士の負担は相当なものになるのは目に見えていた。そんな中最初に動いたのは瑞希だった。

 学園長の部屋に赴き、どうにか生徒会の負担を減らせないかと直接相談しに行ったそうだ。元々瑞希の方から生徒会の仕事を増やしたことなので何を今更と言われると思っていたが、以外にも学園長は瑞希の提案を快く承諾してくれた。

 学園長はどうやら瑞希が生徒会長になった時からすでに卒業後のことを見据えていたようで、職員の仕事に余裕が生まれた分、これまで抱えていた問題を秘かに解決していき生徒会の仕事の一部を引き受ける土台作りを進めていたらしい。

瑞希の卒業後は再び職員に仕事の一部を割り振らせると職員会議で発言した際は当然反発があったようだ。「彼女が自分から私達の仕事を奪っていったのだろう」「卒業したら私達にお願いするなんて自分勝手すぎる」「私達にもやるべきことはあるのだからそんな余裕はない」などが主な理由だったらしい。

 様々な反発の意見を静かに聞いていた学園長は途中で口を挟まず最後まで聞く姿勢のままだったらしい。意見が出尽くしたところで学園長は静かに、しかし明らかに怒りを滲ませながら口を開いたらしい。——何を偉そうに言っているんだ?と。

 「あなたたちの意見は理解しています。理解していますが、そもそも彼女が私達の仕事を引き受けたのは古い慣習や間違った認識のせいで本来の運用ができていなかったことが原因でしょう。私達がするべきことを彼女がすべて解決してくれたことに感謝するべきであり、責める資格なんてどこにあるというのですか?皆さんはやるべきことがあると言いますが、私が知る限りでは皆さんいつもよりだいぶ早く帰宅されているのにそれでも余裕が無いと?職員全員で割り振れば一人の負担は相当軽いと思うのですが、それでも余裕が無いのなら私にその仕事を回しなさい。私も彼女に面倒ごとを押し付けてしまった責任があるので喜んで仕事を引き受けましょう」

 学園長のこの発言にはさすがに誰も反論できなかったようで、そのまま瑞希が引き受けていた作業の一部が職員に移行されることになった。勿論以前のように一部の者が優遇されることが無いように管理体制も見直されたらしい。

知らないところで助けられていた瑞希と玲士はただただ感謝するしかなかった。

 負担が減ったことで生徒会には何人かメンバーが入って来ている。今は玲士が新メンバーに仕事内容を教えているような状態だ。


 長かった卒業式も終わりが近づき正門前には多くの学生が集まっている。正門を出たところに卒業生が、内側には玲士達在校生が見送るような形が自然と出来ていた。

 そして卒業生の最後の一人として瑞希が最後まで残っていた。代表として玲士がみんなより少し前に出て見送る形になる。

 「私がとうとう最後になるのね」

 瑞希は玲士の背後にある校舎を見上げてしみじみと呟いた。彼女にとってこれまでの高校生活はどんなものだったのだろう。

 「寂しいですか?」

 「確かに寂しいわね。それでも楽しかったと思っているわ。私にとってそれだけ思い出のある場所に違いは無いんだから」

 「それなら笑って卒業できますね」

 瑞希にとっては生徒会の仕事がすべてなのではと思っていた。でも今の言葉を聞くと生徒会以外でもきっと素晴らしい思い出が瑞希の心の中に大切に残っているのだろう。それを聞くと玲士も自分の事のように嬉しい。

 「ほら、向こうで笹苗先輩や宮川先輩たちが待っていますよ。会長は早く皆さんの所に行ってください」

 玲士に促されてようやく瑞希は正門に向かって歩き出した。玲士の後ろからは「ありがとうございました~」と卒業を祝う言葉が聞こえてくる。

 「会長が卒業してしまう……」

 「俺達の女神がいなくなったら残りの高校生活をどう過ごしていけばいいんだ」

 「俺、絶対会長と同じ大学を目指してやるんだ!」

 「止めとけ。お前の成績じゃどう頑張っても行けないぞ」

 何やら背後から聞き捨てならない言葉が聞こえる。聞く限り瑞希の隠れファンは案外多いのかもしれない。出来ることなら後ろの男子達に言ってやりたい気持ちになってしまう。


 ——瑞希と俺は付き合っていているのだと。


 別に隠しているわけではないのだが、瑞希が付き合っていると公言していないため玲士が勝手に言うのは憚られる。ここは大人しくしているしかない。



 瑞希が正門を抜け、あと少しで卒業生達の輪の中に入ろうとしていたところで不意に歩みが止まった。卒業生達も玲士達もどうしたのかと不思議そうに瑞希を見ている。

 その場の全員の視線が集まっている瑞希は花束などが入った紙袋を足元に置いて、玲士の方を振り返り大声を出した。

 「田宮君ちょっと来てくれないかしらー」

 「どうしたんです?」

 「いいから。ちょっと来てちょうだい」

 その場から動く気が無いのか瑞希は手招きしたままだ。とりあえず玲士は小走りに瑞希の所まで駆け寄った。

 「どうしたんですか?」

 「これから一年私がいない中、玲士が他の子に気持ちが移らないか心配になってしまったの。どうしたらいいかしら」

 「そんなことあるわけないじゃないですか!信じてくださいよ」

 玲士だけに聞こえるように声を落として話す瑞希に、玲士も同じように声を抑えて言い返した。二人だけの会話なのでお互い相手の呼び方が名前に変わっている。いったい何事かと思えばまさかの内容に玲士は力が抜けそうになった。今ここで言うことでもないだろうに。

 「わからないじゃない。玲士って意外にも人気あるみたいだし、優しくされたらコロッと気が変わっちゃうかもしれないじゃない。一年後には私と同じ大学に来るつもりだけど私は心配だわ」

 瑞希の大学には一年後玲士も受験することになっている。これはただ瑞希の傍に居たいというだけで決めたわけではなく、玲士の将来も考えたうえでの判断だ。

 瑞希は経営を学ぶ為だが玲士は文系の道を選び、将来はそれに関係する仕事を選びたいと思っているが詳しい職種までは決まっていない。仕事に関しては大学でゆっくり考えていけばいいだろう。ただ、トップクラスの名門校ではなくてもそこそこの成績は必要になるので、この一年は受験勉強に集中しないといけないだろう。

 もちろん瑞希と学内で会えない分、休日は一緒に過ごすつもりだ。

 「どうしたら信じてもらえるんですか?」

 言葉だけでは信じてもらえないとなるとどうするべきか玲士には思いつかない。

 「あら簡単よ。みんなにわかりやすいように示せばいいのよ」

 「みんなに宣言でもするんですか?」

 瑞希なら生徒全員に指をさしながら「玲士は私の彼氏なんだから手を出さないでね」と言い出す姿が容易に想像できる。玲士は特に気にしないが瑞希の隠れファンから恨まれそうなのが少し怖い。だからと言って瑞希と別れるつもりは毛頭無いが。

 「そういえば、玲士には生徒会長になってもらったのにお礼をしていなかったわね」

 「?。確かにそうですけど別にお礼目当てで生徒会長になったわけじゃないですよ」

 「わかっているわ。でもせっかくだから受け取ってもらうわ」

 唐突に話題が変わったことに玲士は戸惑ったが瑞希は何をするつもりだろう。

 お礼を受け取ろうとしたが何を受け取るのかわからなくて玲士は周りをきょろきょろと見渡した。何を話しているのか気になるようで全員が聞き耳を立てているが、内容が聞き取れず興味津々だ。

 「お礼って一体何ですか?」

 そう言った玲士は気になって瑞希に尋ねた。言い出した瑞希は微笑んだままじっと玲士を見ているが何かを取り出したりする気配が無い。

 「これがお礼よ」

 そう言って瑞希がふわりと近寄って来たのに玲士は反応しきれなかった。玲士の首に瑞希の両手が回され彼女の顔が近づいてくる。

 「⁉」

 気がつけば瑞希が行動した後だった。玲士はその行動に何も言えない。——言うことができなかった。

 玲士の視界いっぱいに瑞希の顔があり、唇には柔らかいものが触れているのが分かる。その様子に辺りからは様々な声が上がったが玲士は目の前のことで頭がいっぱいだ。思考が停止し、幸せ過ぎて脳が溶けていきそうだ。

 どれだけの時間そうしていたのかわからない。それでも決して短いとは言えない時間が過ぎた後ようやく瑞希が顔を離した。ただ唇を合わせていただけ。それでも玲士にとってはファーストキスであったし、まだ唇には柔らかな感触が残っている。

 「み、瑞希。これって」

 「ふふっ。お礼にしては十分過ぎたかしら?もちろんこれから頑張ってもらうのだからその励ましもあるわ」

 思わず口を開いたがうまく言葉が出てこない。瑞希はイタズラが成功したように嬉しそうだが、今の瑞希はいつも以上に色っぽく見えて思わず見惚れてしまう。

 それでも瑞希の行動は予想外過ぎた。てっきり宣言程度だろうと思ったがまさかみんなが見守る中で堂々とキスをするなんて誰が予想できるだろう。

 そして瑞希は「それに」と言葉を続け、

 「玲士が誰かに取られちゃうかもって思ったら我慢ができなくなっちゃったわ。心配しなくてもここは学外よ。なら私達がどうしようと恋人同士のスキンシップなんだから問題ないわ」

 まさかそのためにわざわざ学外である正門の外にまで呼び出したのか。瑞希の開き直りともとれる発言に玲士は何も言えない。

 近くでは梨恵が「デレた⁉あのツンな瑞希がとうとうデレたわよ宮っち‼」と言いながら隣にいる真司の肩を容赦なくバンバンと叩いている。

 いつも瑞希には驚かされてばかりだ。だから、と玲士は思った。今回はこちらも瑞希を驚かせてあげようと。

 そう思った玲士は瑞希を抱きしめた。抱きしめるのはあの事故の日以来だ。瑞希は小さく「ひゃっ⁉」と聞いたこともないような声を上げて固まってしまった。抱きしめた瞬間周りが一段と騒がしくなったような気がする。

 「来年必ず瑞希と同じ大学に行くと約束します。だから信じて待っていてください」

 瑞希の耳元に囁きかけるように玲士が言うと固まっていた瑞希から力が抜け、玲士の首に回されていた両腕に力が入った気がする。

 「待っているわ。玲士が私を追いかけてくるのを待っているから」

 抱き合っていた二人はどちらからともなく離れた。いつまでもこうしているわけにもいかない。お互いこれからすべきことがあるのだから。

 「それじゃあね」と言って瑞希は梨恵や真司の待つ卒業生の輪の中に歩いて行った。瑞希はあっという間に卒業生達に囲まれて瑞希に質問が浴びせられている。

 玲士も学内に向けて歩き出した。これから卒業式の後片付けがあるから指示を出さないといけないし、みんなに説明しないといけない。戻って来る玲士には様々な視線が投げかけられている。説明しろという反応は共通だが、男子勢の中にはそれに加えて血涙を流しそうなぐらい恨めしそうに見ている者もいる。

 (これは説明が大変そうだな)

 そう思いながら玲士は学生達の輪の中に入っていった。



 時間は瞬く間に過ぎ去り何度も季節が移り変わっていった。そんな中、玲士は建物の中でふとこれまでの自分を振り返っていた。

 準備が終わるまでの間、特にすることもないので玲士は扉の近くで待ち続ける。

 (思えば今日までいろいろと大変なことがあったな)

 苦しいこともあれば心が折れそうになったことも何度もあった。それでも玲士が今日まで頑張ってこられたのはひとえに大きな目標があったからだ。

 「どうしたの玲士?」

 隣から自分を呼ぶ声が聞こえてきて玲士は現実に引き戻された。そして声をかけた人物に笑いかけた。

 「なんでもないよ瑞希。今日までいろんなことがあったなって思ったのと、ようやく今日を迎えられて良かったと思っていたところだよ」

 「そうね。私もこの日が迎えられて本当に嬉しいわ」

 大人になった瑞希はさらに美しい女性へと成長し、さらに魅力的になった。瑞希の幸せそうな笑顔に思わず目を細めてしまう。——そして彼女の着ている衣装にも。

 「改めて今日の瑞希は綺麗だよ。ドレスもよく似合っている」

 「ありがとう。そう言ってもらえると私もこのドレスを選んでよかったって思うわ」

 そう言いながら瑞希は自分のドレス——純白のウエディングドレスを見て微笑んだ。

挿絵(By みてみん)


 今日は瑞希との結婚式。結婚するにあたって玲士は実現に向けて必死に努力した。

 大学受験は見事瑞希のいる大学に合格し同じ大学に通うことができた。大学へ足を踏み入れると瑞希はやはり大学内でも人気になっており、男子からのアプローチが絶えなかった。

 瑞希はこれまではっきりと拒否し続けていたが、諦めきれない一部の男子はその後もアプローチを続けていた。そんな彼らの状況が変化したのは当然玲士が入学してからだ。

 休日に会ってはいるが、学内でも玲士と一緒にいられるようになってから瑞希はそれまで我慢していた反動からなのかべったりと玲士に甘えるようになり、それを見た男子は次々と現実に打ちのめされて再起するのに時間がかかるといった事態になったのは見ものだった。



 大学卒業後は玲士と瑞希はそれぞれ就職に成功し、玲士の就職が決まってから瑞希と同棲し始めた。同棲してからすぐに結婚すると決めたわけではなく、生活がしっかりと安定するまでは待とうと玲士は決めていたのである。

 数年が経ち瑞希に結婚を申し込もうと先に帰宅した玲士がリビングで決意した矢先、瑞希が勢いよく扉を開け放って帰宅してきた。玲士は手に持っていた湯飲みを落としかけたが、本当に驚いたのはその後に言い放った瑞希の言葉だった。


 「玲士!私、玲士と結婚したいわ‼」


 雰囲気も場所もあったものではない。完全に玲士の決意を吹き飛ばすには十分な内容だった。落ち込んでしまってしばらく何も言えなかった玲士だったが、出会った時から彼女は変わっていない。決めたことは行動に移す。そんな瑞希を好きになったのだから。だからこそ玲士の口から出てきたのはプロポーズの機会を失ってしまったことに対する不満ではなく、「結婚指輪を見に行こうか」だった。



 それからは二人で結婚の準備を進めていたのだが、瑞希の結婚に対する熱意は凄まじいものがあった。玲士も瑞希との結婚は楽しみだったし素晴らしいものにしたいと意気込んでいたが、瑞希の熱意には正直負けてしまったと思う。

 式場の外観から結婚式でのプログラム内容など細かに瑞希は注文を出し、決めるのには大分苦労した。ウエディングドレスは何着も試着を繰り返し、二人が納得するまで妥協はしなかった。

 そんな努力の甲斐あって今二人は幸せな日を迎えることができた。そんな二人にスタッフが外の準備が終わったと伝えてくれた。

 「それじゃあ行こうか」

 「ええ」

 手を繋ぎながら二人は同時に目の前の扉を開け放った。扉を開けると教会の外で二人が出てくるのを待ちわびていた参列者達がいた。


 「「結婚おめでとう~‼」」


 次々に祝福の言葉が贈られ二人は囲まれながらも一人一人にお礼を言っていく。

 参列者の中には隼や梨恵・真司などの高校時代の知り合いも混ざっている。梨恵に関しては目元に涙を浮かべて、まるで自分の事のように嬉しがっている。

 梨恵と瑞希は高校卒業後別々の大学に進んでしまったがそれからも頻繁に会っているようで、玲士もよく会っている。


 「玲士」

 不意に瑞希から呼ばれた玲士は振り向いた。瑞希は玲士の方は見ておらず、二人の周りに集まっている友人達を眩しそうに目を細めて見ている。

 「私、今本当に幸せだわ。ずっと一人なのだと思っていた私がこんなにも多くの人から祝福されて、玲士と結婚できるなんてまるで夢みたいだわ」

 出会った時の瑞希は誰かに頼ることを知らないままだった。他者とは最低限の関りしか持たず、すべて自分で解決しようとしていた不器用な彼女。そんな彼女がこれほどの人に祝福されるようになったのは確かに信じられないだろう。

 それでもそれはあくまでも瑞希が関わろうとしなかっただけだ。瑞希の人柄はわざわざ言わなくても周りは理解してくれる。きっかけがあれば瑞希が困った時には力を貸してくれ、嬉しいことがあればこうして祝福してくれるのだ。

 玲士も今この光景が夢のようだと感じている。楽しいことは全て物語の中にしかないと信じ、他者との関わりを避けていた自分がまさか愛する人と出会い結婚するなんて瑞希と出会うまでは思いもしなかった。

 そして瑞希は一つ勘違いをしている。

 「瑞希。幸せなのは今日だけじゃないよ。これからもずっと続いていくんだよ。二人でたくさん幸せな思い出を作っていこう」

 「っ。そうね。これから玲士と一緒に作っていけるものね。私、もっと知りたいわ!これからどんな幸せが待っているのか」

 瑞希の言葉に玲士は黙って繋いでいた手に少し力を込めた。瑞希は玲士の方を見て嬉し涙を浮かべた。

 「これからもよろしくね。玲士!」

 「俺の方こそよろしく。瑞希」



 玲士が言い終えたタイミングで背後の教会から鐘が鳴り響いた。その鐘の音は二人を祝福するではなく瑞希の今の気持ちを表しているように感じる。

 ——今の私はとても幸せなのだと。

 しかし、幸せは今日で終わるわけではない。これからも二人で一緒に幸せな時間を作っていくのだ。そしてその度に幸せの鐘の音が鳴り響くことになるだろう。

 だから俺は心の中で決意する。



 僕は君のココロに幸せの鐘を鳴らそう——いつまでもずっと。

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