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前編

 小説の中で一度は目にしたシーンだと今の状況から現実逃避するような気持ちでその場で立っていた。平凡な主人公が突如呼び出され、目の前には権力を持つ人物が待ち構えている。そんな展開をまさか自分が体験することになるとは。

 「あなたが新しく入って来た人ね」

 田宮玲士は視線の先で書類仕事をしている女性が最初に言った言葉がそれだった。玲士と話しているにも関わらず目の前の女性は手を止めずにちらりとこちらを見るだけだ。

 その視線はとても冷たく鋭い。怒っているわけではないのだろうが、無表情でこちらを見てくる為威圧されているような気持ちになってしまう。

 「あなたがどんな気持ちでここに来たのか私はわからないし、知りたいとも思っていないわ。でも正直なところ長続きしないと私は考えています」

 話しながら進めていた作業が終わったのだろう。紙束を目の前で揃えた後、クリップで留めて脇に置いたらようやく彼女は顔を上げてこちらを見た。

 長い黒髪が揺れて彼女の顔がようやくはっきりと見ることができ、端正な顔立ちにきりっとした目つき、まるでモデルのようだと思わずにはいられない。

 「まぁ、理由はどうあれ私達の力になってくれることはありがたいと思っているわ」

 彼女は一旦背もたれに体を預け、数秒目を閉じたまま動かなかった。再び目を開けこちらを見る彼女は相変わらず無表情のままだ。今から何を言われるのかなんとなく想像ができる。これも小説の中ではお約束の展開だ。

 そして彼女は口にする。お約束通りのセリフを。

 「ようこそ。生徒会へ」



 きっかけは夏季休暇が明けた八月の終わりだった。

 昼食を終えた午後の授業。満腹感と空調によって快適な状態になっている教室内で教師の声を聞きながら眠ることが玲士の最近の楽しみだ。

 今日も満腹感はあり、快晴なうえに教室内も冷房のおかげで快適だ。しかし、今日に限って玲士はいつものようにのんびりと眠ることはできなかった。眠気は吹き飛び、目の前の事実に冷や汗が止まらない。その答えは目の前にある。

 玲士の視線の先、黒板には何人かのクラスメイトの名前が書かれており、その中には玲士の名前も書かれている。

 玲士の名前の下には得票数を示す「正」の文字がいくつも並んでいる。他のクラスメイトの名前の下にも同じように得票数を示す文字が書かれているが、玲士が圧倒的に多い。

 これが意味することは一つしかない。——つまり、これは。

 「はい。それでは多数決の結果、田宮君が今回生徒会役員として推薦されることになりました」

 担任の女性教師が結果を読み上げ「拍手」と言いながら自分も拍手をする。それにつられてクラスメイト全員の拍手が教室内に響き渡り、騒がしくなる。

 その顔には安堵の表情が浮かんでいて、誰一人残念がる様子は見られない。

 「ちょっと待ってくれ!どうして俺なんだよ⁉」

 玲士は焦って声を上げながら立ち上がった。このままだと周りの雰囲気に流されて決まってしまう。それだけは何とか避けたい。

 「でもね田宮君。立候補が出なかった以上推薦で決めるのは当たり前だし、みんなの意見だから……」

 「推薦だとしても明らかに票の偏りがおかしいだろ!なんでこんな票が集中するんだよ」

 担任の言葉に玲士は言葉を遮って黒板を指さした。咄嗟のことで教師に対して敬語を使うことも忘れてしまっている。

 立候補を受け付けているにも関わらず推薦で選んでいる理由は至極簡単。誰もやりたくないからだ。

 自分がやりたくないから他者に押し付けたい。自分が選ばれなければいいので押し付けたい相手はそれぞれバラバラだ。個人的に嫌っている相手を選ぶか適当に思い浮かんだ人物を選ぶ。

 大半は後者になるが、その場合はある程度票がばらけるはず。にも関わらず玲士が指摘している黒板にはクラスメイトの約八割が玲士に投票したことになっている。

 どう考えても不自然過ぎる。明らかに意図して玲士が選ばれるように動いたとしか考えられない。

 「いや~。俺達も悪気があってやったわけじゃないんだよ。今回は玲士が適任かなって思ったんだよ」

 玲士の斜め後ろの席から声がする。もはや意図して動いたことを隠すこともしていない発言に玲士は説明しろとばかりに振り返った。

 視線の先には友人の森川隼が申し訳なさそうに玲士を見ているが、クラスの投票結果は撤回する気は無いらしい。

 「なんで俺が適任なんだよ?」

 「だってあの生徒会だぞ?その補佐なんて並大抵の奴じゃ務まらねぇよ」

 「別に俺じゃなくても生徒会長がだいたいはやってくれるだろ。俺である必要は無いじゃないか」


 私立蒼西高校。全校生徒数二千人を超えるこの高校は名門校というわけではないが、部活動の多さや大学受験へのサポート体制・他府県からの生徒受け入れのために学生寮を設けるなど様々な面で生徒を支援してくれることもあり人気の学校だ。

 受験者数は少しずつ増えてきており、毎年狭き門を通るために全国から受験者がやって来る。

そんな蒼西高校にはあらゆる意味で有名な生徒がいる。

 蒼西高校三年、白峰瑞希。玲士の一年先輩にあたる彼女は二年の時に生徒会に入った。

 成績は常に上位をキープし、日々の授業態度も模範的。才色兼備な彼女は男子からも人気が高い。そんな文句の付け所のない彼女が生徒会に入ってきた時、当時の生徒会は快く歓迎したらしい。

 生徒数が多くなると小さな雑務を処理するだけでも膨大だ。生徒会メンバーは多いに越したことは無い。

 実際生徒会に入った瑞希の業務処理速度は速かった。瞬く間に仕事内容を覚え、誰よりも先に仕事を終わらせるその姿に生徒会の誰もが感心した。

 しかし、それはあくまでも生徒会内での話で瑞希もそれほど有名なわけではなかった。そんな彼女が存在感を出し始めたのは生徒会に入って半年が過ぎた頃だった。



 生徒会の全ての作業を頭に叩き込んでいた瑞希は誰からも頼れる存在になっていたが、その頃から生徒会の仕事に対して意見を言うようになっていた。「部費の割り振りが適切ではない」「何故一部の部活だけ優遇されているのか」「空き教室を有効活用する提案」など内容は幅広い。

 特に一部の者が優遇されているような部分に関しては特に力を入れており、優遇制度を撤廃し平等に部活動を支援していきたいと何度も当時の生徒会長に改善の要求をしていたらしい。

 しかし、ある意味習慣化していたルールを変えるとなると簡単にはいかない。所属している部員の数と出費の割合や空き教室の管理や維持するためのルール作り。何より優遇されている者からの反発。

 ただでさえ膨大な作業に苦労しているのに、これ以上仕事を増やしたいと思う生徒会メンバーは誰もいなかった。

 それでも何度も改善を求める彼女に生徒会メンバーは皆して瑞希に苦言を呈した。


 ——余計なことはするなと


 最初こそ反論していた彼女だったが、諦めたのかある時から瑞希は改善の要望を出すことはしなくなった。静かに割り当てられた仕事をするようになり、ひとまずは落ち着いたと生徒会メンバーは判断したらしい。

そしてその日はやって来た。



 ある日の昼食時間。学園長は一人学園長室で妻が作ってくれたお弁当を開けて昼食にしようとしていた。

 とりあえず最初は好物の春巻きを食べようと口を開いた瞬間、瑞希が蹴り破るような勢いで扉を開け放って学園長室内に単身突撃してきたのだ。

 あまりにも突然すぎて箸から春巻きを落としてしまう学園長を瑞希は気にも留めず、彼女は抱えていた紙束を見せつけるように豪華な装飾の施されたテーブルに音を立てながら置いた。

 瑞希が持ってきたのは部費の不平等さや優遇されている部活動の実態、今の時代にはそぐわない慣習などの一覧が事細かに記されていた。

 瑞希が目立った行動をしなくなったのは諦めたわけではなく、そう見えていたのは学園長に直談判するための準備をしていたからなのであった。

 当然生徒会メンバーは寝耳に水で事態を知ると慌てて瑞希を連れ出そうと駆け付けたが、それまで提示された資料と瑞希と言葉を交わしていた学園長から逆に学園長室から追い出される事態となってしまった。

 その後二人の長い協議は続き、瑞希が責任持って動くのであれば認めるとまさかの許可が出てしまった。勿論瑞希以外の生徒会メンバーは大反対したが、一度許可を出された彼女は止まることは無く次々と改革を進めるようになった。一方で仕事の多さに耐えきれなくなったメンバーは次々と辞めていき、現在の生徒会メンバーは瑞希一人と助っ人が二人いるだけとなっている。



 勿論生徒会メンバーの募集はかけており、生徒会に入った者は何人かはいたが純粋に生徒会の仕事を手伝うという理由ではなく、瑞希とお近づきになりたいとか付き合いたいなどの理由ばかりで真面目な理由は誰一人おらず、瑞希もまともに取り合わなかったので短期間の内に次々と生徒会に入っては辞めていくを繰り返す光景が見られた。その為今は生徒会に入ろうとするのはよほどの物好きだと思われ、新しく入ろうとする生徒は誰もいない。

 助っ人を除けば実質一人しかいない生徒会だが、彼女自身の処理能力の高さのおかげで一人でも生徒会の活動には支障は出ていない。

 そんな瑞希でも一人で対応できない時期がある。それが十月の半ばに開催される文化祭だ。全クラスの出し物を管理やスペースの確保や割り振りなど生徒数が多い分、やるべきことも膨大だ。

 そのために文化祭までの補佐要員として強制的に生徒会に入らされる。募集しても誰も参加しないことは分かりきっているので、生徒会長がクラスを指定するので、指定されたクラスは必ず誰かを選ばなければならない。選ばれたクラスに拒否権は無く、文化祭が終わるまではたとえ脱落者が出ても代わりをクラスの中から選ばなくてはならない。

 今回は運悪く玲士のクラスが選ばれてしまったわけだ。

 「玲士ならまとめたりするの得意だろ?それに期間は文化祭が終わるまでだから頼むよ」

 「隼はどうなんだよ。別に俺じゃなくても隼でもいいんじゃないか?」

 「俺は部活があるから参加できねぇよ。玲士は帰宅部だから放課後参加できるだろ?」

 どうせなら隼も巻き込んでやろうと考えていた玲士だったが正当な理由で反論されると何も言い返せない。

 実際、部活動に入っているメンバーでも選ばれた場合には生徒会の方が優先されることになる。だから隼の拒否する理由にはあまり効力が無いのはわかってはいるのだが、帰宅部の玲士が相手に部活動を一時的にとはいえ参加するなとは言えない。

 「田宮君お願い。これが決まらないと授業を始めることができないの。必ず今日には決めるようにって言われているから、あとは田宮君が頷いてくれたら終われるの」

 「あとからそれを言うのは卑怯ですよ」

 担任が縋るような眼差しで見ており、周りも頷いてくれと言わんばかりにこちらを見ている。そもそも教師が生徒会長に従っていること自体が既におかしい。

 仕組まれた結果で釈然としないが、いつまでもごねているわけにもいかない。玲士は深く溜息をついた。

 「わかりました。一応行ってみますが、もし耐え切れなくなって辞めたいと言った時は説得など無しで誰か代わりを選んでくださいね」

 「もちろんよ!その時は遠慮なく言ってちょうだい」

 玲士は担任に確認を取ると、相手もようやく決まると安心したのかすぐに頷いた。玲士の言葉にクラスメイトはぎょっとなり慌てて意見を口にしようとしたが、その前に担任が認めてしまったために言い出せなくなってしまった。

 玲士は内心ほそく笑んだ。これで言質は取れた。あとは少しでも不満が出たらとっとと辞めてしまって他の誰かに擦り付けよう。

 とりあえずは生徒会に行ってみるしかない。

 「生徒会には私から伝えておくから、田宮君は放課後に生徒会室に顔を出してくださいね」

 「わかりました」

 さて、生徒会はいったいどんな所なのだろうか……



 そして時間は放課後の生徒会に顔を出した今に至る。

 「まず初めに自己紹介をしましょうか。知っていると思うけど私が生徒会長の白峰瑞希よ。そして二人は助っ人として手伝ってもらっている臨時メンバーね」

 この生徒会室には現在四人いる。一人は瑞希で一人は玲士、残りは男子と女子が一人ずつ生徒会室の中央に設置されている大きめのテーブルの席に着いて玲士を見ている。

 最初に反応したのは女子の方だ。ショートヘアの髪を揺らしながら手を振り元気よくアピールしている。

 「は~い!まずは私から言うわね。私は笹苗梨恵。瑞希と同じ三年よ。よろしくね後輩くん。ちなみに瑞希と宮っちとは幼馴染みたいな感じだから、お互いのことはよく知っているからね」

 「よ、よろしくお願いします」

 何やら変な呼ばれ方をしたが、とりあえず玲士は挨拶を返した。隣にいる男子から「誰が宮っちだ」と突っ込まれているが梨恵は笑うだけで訂正しない。性格は瑞希と正反対なぐらいに明るい。梨恵が言い終わると次はもう一人の男子が口を開いた

 「宮川真司だ。二人とは同学年になる。毎日は参加できないがよろしく」

 「はじめまして。田宮玲士です。文化祭が終わるまでですけど、よろしくお願いします」

 真司は静かに挨拶を終えるとパソコン業務に戻ってしまった。あまりお喋りな方ではなさそうだ。

 「それじゃあ、お互いの挨拶も済んだことだし作業に戻るわよ」

 「えっ⁉今からですか?」

 当たり前のように作業に戻ろうとする三人に玲士は驚いた。今日はてっきり顔合わせだけだと思っていたのに、まさかそのあと作業を再開するとは。

 瑞希は振り返りながら玲士を一瞥し、

 「文化祭まであと一か月と少ししかないのよ?今から動かないと間に合うわけないでしょう。用事があるなら今日はもう帰ってもいいわよ」

 本当に瑞希は玲士に対して期待もしていないのだろう。引き留めることもせず玲士を突き放す言葉は冷たい。

 おそらくこのまま帰っても瑞希は何も言わないのだろう。

 「帰りません。とりあえず俺にできることを教えてください」

 望んで生徒会に入ったわけではないが、だからと言ってやるべきことを初めから放り出す気はない。見切りをつけるまでは真剣に取り組むとは決めている。

 瑞希は玲士の言葉に特に反応は示さず黙ったままだ。席に着いた瑞希は手近な書類の束を手に取り玲士に突き出した。

 「夏季休暇前の各部活動の支出報告書よ。提出していない部があるか確認して、提出していない部は後でまとめて報告してちょうだい。提出している部は数字に間違いがないかチェックして問題が無かったら宮川君に渡してくれたらいいわ」

 「これ全部ですか⁉」

 玲士は紙束を受け取りながら顔を引き攣らせた。蒼西高校の部活動は運動系と文化系を合わせると膨大なものになる。これは「学生は学生らしいことを楽しむべきだ」と部活動を推奨している学園長の方針の影響がある。最低限の人数が集まれば部として認められ、少ないながらも部費が支給されることになっている。その全ての支出内容をチェックするとなると膨大な作業量になる。

 「当たり前でしょ。部費は無尽蔵なわけじゃないのよ?必要なところに必要な分だけ支給するのが常識よ。でないと無駄遣いに繋がってしまうわ」

 「す、すみません」

 瑞希のあまりの剣幕に慌てて玲士は謝った。どうやら瑞希の怒りに触れたのかもしれない。委縮する玲士に梨恵はフォローするように会話に割り込んだ。

 「もう~。瑞希は本気になりすぎ。今日来た後輩くんが細かい所までわかるわけ無いじゃない。後輩くんは知らないと思うけど、瑞希が部費の管理をしていなかった頃は大変だったらしいわよ」

 「大変だった、ですか?」

 部費を管理することの何が大変なのだろう。適切に扱っていれば問題は起こらないと思うが、あいにく帰宅部の玲士は部費のことに関しては無知に近い。

 そんな玲士に梨恵はざっくりとだがこれまでの経緯を話してくれた。



 実績のある部は他の部よりも少し多めに部費を支給されていたのだが、ある時部費が少ないと要望を出してきたことがあったらしい。当時の生徒会は使用用途の調査を一切せず、相手の言葉だけを信じて来年分の部費を増やしたらしい。

 それに味をしめて毎年申請する部が増え続け、活動実績に合わない高級な道具を買いだすことに繋がってしまったらしい。

 部費の使い道は道具だけではなく、様々な名目で何度も部員が集まって食費に使うことが多くなっており、瑞希が改革に乗り出したときは部員だけでなく顧問の教師からも反発を受けたそうだ。

 反発理由も深い理由はなく単純だった。卒業した先輩の代から続いている伝統なのだと。その伝統を無くすなんてとんでもない。これには瑞希も堪忍袋の緒が切れたらしい。

 後日、反発する部と部員・顧問を広い多目的教室一か所に集めて瑞希は反対意見を全て一蹴した。活動実績が無いのに部費ばかり求めて何を言っているんだと。「そんな伝統なんて潰れてしまえばいい」「文句があるなら部費に見合うだけの活動をしてみたらどうか」と言って全員を黙らせたそうだ。

 梨恵の説明に玲士は内心瑞希の覚悟を改めて思い知らされた。下手をすれば部の大半を敵に回すような行動だが瑞希は恐れずに立ち向かったらしい。その結果が今の様々な部の支援に繋がっているのだろう。

 「わかりました。しっかりと確認していくのでわからないことがあったら聞きますね」

 「おっ!後輩くんやる気だね。まぁ無理しない程度で進めてちょうだい」

 玲士の反応に梨恵は笑ってはいたが、瑞希と真司は何の反応も示さない。玲士はそんな二人を横目に渡された紙束を持って席に着いた。



 窓の外が夕焼けに染まった頃、ようやく玲士の仕事が終わった。

 「会長終わりました」

 「お疲れ様。今日はもう十分だから帰ってもらって大丈夫よ。基本的に生徒会は文化祭が終わるまで毎日開けるつもりだから明日も必ず来てちょうだい」

 玲士は体をひねったり腕を回したりして固まった体を伸ばしていた。時計を見ればすでに時間は六時を過ぎている。実に三時間以上椅子に座って書類とにらめっこしていたことになる。その間に休憩は一度も無かった。各々が勝手に飲み物を買いに行ったりするだけでそれ以外はずっと作業し続けるだけだった。

 これが毎日続くとなると辛い。そう考えると昨年から助っ人がいるとはいえ一人でこなしていた瑞希の処理能力は異常なレベルだ。

 とりあえずこの作業環境は何とかしたい所ではあるが入ってすぐの玲士の声は聞いてはもらえないだろう。とりあえずしばらく様子を見てから動こうと決めた玲士は、「お疲れさまでした」と言って生徒会室をあとにした。



 その日の夜、玲士は自宅でのんびりと文庫を片手にリラックスした時間を楽しんでいた。

 キリのいい所まで読み終えた玲士はベッドの上でゴロゴロと何もしない時間を過ごす。

 一人暮らしをしていると、こうして時間を好きに使えるのが一番嬉しい。誰にも干渉されずに本を読めるのはなんと素晴らしい事か。

 そんなことを考えていた玲士だったが、突然スマホから呼び出し音が鳴った。ベッドから体を起こし、画面に表示された相手の名前を確認した玲士は「うわっ」と露骨に嫌な顔をした。面倒な相手だと分かり今から気が重い。

 このまま無視しようかと考えもしたが、緊急の連絡だった場合は困る。気乗りしないまま玲士は画面の通話ボタンを押した。

 「息子よーーーーー‼元気にしているかーーー‼」

 「……」

 黙って通話終了ボタンを押す。真面目に考えていたさっきまでの自分が馬鹿らしくなる。今日はもう疲れたから早めに寝よう。行動しそうになった玲士の耳にまた呼び出し音が聞こえ始め、仕方なくもう一度通話ボタンを押して相手の声に耳を傾ける。またふざけるようなら今度こそ電源を切ってしまおう。

 「酷いぞ息子よ。父さんからの電話を一方的に切るなんて、いつからお前はそんな親不孝者になったんだ」

 「やかましい!いきなり大声で叫ぶ奴に気を使う必要なんて欠片も無い。しかも息子なんて今まで俺のことをそう呼んだことは無いだろう」

 「はっはっはっ!親子のスキンシップだよ。新鮮でいいだろう玲士?」

 玲士の言葉に相手は気にした様子もなく笑うばかりだ。その様子に玲士はやはり電源を切っておけばよかったと今更ながら後悔した。

 田宮祐司。玲士の父親であり現在は小説家としてある程度成功している人物だ。普段は落ち着きのある人物なのだが、時折こうしてテンションがおかしくなり騒がしく、そして面倒くさい人物になってしまうのが大きな欠点だ。

 そしてこうして騒がしくしているということは何か理由があるはずだ。

 「で?わざわざ連絡を寄越すぐらいなんだから、何か進展があったのか?」

 「そう!少し詰まりかけていたストーリーにようやく活路が見出せそうな気がするんだ。そこで玲士に感想を聞いておきたかったんだよ」

 祐司は興奮が抑えきれないのか早口で捲し立てるが、できればもう少し落ち着いてほしい。玲士は壁に掛けられた時計をちらりと見て、

 「そんなに長々と話せないぞ。要点だけ短く教えて欲しい」

 「わかっているよ。ジャンルは恋愛小説で、内容は簡単に言うとお互いに愛し合っている主人公と他国のそこそこ身分の高いお嬢さんが苦難を乗り越えて結ばれるって話だな」

 「ふむふむ」

 割とまともなストーリーだ。鉄板と言えば鉄板ネタにはなるのだが、苦難を乗り越えて結ばれる恋愛小説はいまだに人気が高い。かくいう玲士も一時期は恋愛小説にはまって何冊も読み漁っていた記憶がある。

 「二人の愛は順調に育まれていたのだが、そこで立ち塞がるのが娘のご両親。娘の父親は身分の低い主人公と娘が付き合うのは大反対で、付き合いたければ私が提示する試練に乗り越えてみよと言うんだよ」

 「それって王道展開過ぎないか?その類の内容は俺もいくつか読んだことがあるぞ。いつもの展開だと読者が飽きるだろ?」

 玲士は懸念を口にした。お決まりのストーリーは人気もあるが同時に似た作品との差別化ができないデメリットも存在する。あまりにも似すぎていると読者は先の展開が想像できてしまって面白味がない。

 しかしその懸念は想定したのだろう。電話の向こうで祐司が「もちろんそれは理解しているよ」と自信ありげに言う。

 「展開はおなじみだけど、その代わりに試練の方を少し捻ってみた。父親が代々受け継がれてきた婚約指輪を片手に収まるぐらいの小さな箱に入れるんだ。そしてそれを河に流して暫くしたら主人公が追いかけるといった内容だね。無事に指輪を持ち帰ってきたら二人の交際を認めるといった展開だよ。ちなみに流れが速いからのんびりしていると見失っちゃうし、下手をしたら行き先が海になってしまうおまけ付き。……どうだ?素晴らしいだろ」

 「却下だよ!なんだよその難易度トップクラスの試練は⁉行先不明で下手をしたら海って交際認めるつもり絶対ないだろ」

 自信ありげに説明する祐司に玲士は思わず突っ込んだ。設定はとりあえず良しとしよう。問題は試練の内容だ。本流を流れ続けるだけならいいが、枝分かれした支流に入り込んでしまうと追跡はあまりにも困難だ。そもそも娘の交際を阻止するために由緒ある品物を河に流すなんてどう考えても普通じゃない。

 主人公が見失ったら大切な指輪が紛失することにも問題がある。

 「え~。いいじゃないか。一応主人公は海の上で指輪を見つけるんだよ。そんな主人公を追って娘さんも家を飛び出すけど、海の上で無事二人は再会できるんだよ。そして身分に囚われない生活がしたいと言って、二人はそのまま彼女の家には戻らず国を離れるって結末にするんだよ。いい話じゃないか」

 ……見つけるんだ主人公。しかも海に運ばれた指輪を。その執念凄くないか?

 「結末は悪くないと思う。だから試練内容だけ考え直したらマシにはなるんじゃないか?今のままだと少し無理がある」

 とりあえずは聞いた限りの感想はこんな所だろう。あとは祐司の頑張り次第だ。

 「そっか~。まぁいいや。とりあえずはまた考えてみるよ。この作品を書き上げたら次回作の構想の既にあるんだよ。古い資料によると私達の世界には鬼や妖怪の類は実在したらしいんだ。そして人の姿に近い種族は今も人として私達の生活に紛れ込んで暮らしているらしくてね……」

 自信のあった展開が認めてもらえなくて祐司は残念そうな声になったが、すぐさま元の調子に戻って思いついたことや知ったことを早口で玲士に説明する。この気持ちの切り替えの早さが祐司の強みなのかもしれない。

 「そういえば玲士、そっちの生活はどうだ?何か変化があったなら教えて欲しいな」

 「特に変わりはないよ。どうしてそんなに知りたがるんだ?」

 「ん?だって青春小説の貴重な資料になるじゃないか」

 「言わないよ!あったとしても資料にされてたまるか!」

 誰が好き好んで学生生活の思い出を話すというのか。しかも小説の材料にされるなんて絶対にごめんだ。

 それでも両親には伝えるべきこともある。

 「まぁ、今までと違うと言えば生徒会に入ったぐらいだな」

 「……何?」

 電話の向こうから聞こえる祐司の態度が一気に変わった。さっきまでの友人とだらだら過ごすような緩み切った声でから一変して真剣さが伝わってくる。

 「玲士、お前が生徒会に入ったのか?自分の意思で?」

 「俺が自分から入ったわけじゃないよ。文化祭が終わるまでの助っ人要員で入っているだけだ。終わったら辞めるつもりだよ」

 祐司は「そうか」と言って黙り込んでしまった。祐司が何を考えているのかわかっている為玲士からは何も言えない。今は祐司からの言葉を待つだけだ。

 「なら、父さんからは何も言うべきではないな。玲士が思うように行動してくれたらいいよ。」

 「そうするつもりだ。……じゃあ、もう切るぞ」

 「そうだな。——ああ玲士!最後に行っておくことがある」

 時計をちらりと見ていた玲士だったが祐司の呼び止めに動きが止まった。

 「もし素敵な出会いがあったら、状況を詳しく——」

 最後まで言い切る前に玲士は通話を切った。最初から最後まで祐司は自分らしさを貫いていた。



 一週間が経ち玲士はほぼ毎日生徒会に顔を出しているが、仕事が一向に減らない。捌いても捌いても減らないのはもちろんだが、昨日から少しずつ文化祭の仕事が混じり始めて本格的に文化祭に向けて準備を進めている。

 今日の仕事は各クラスから提出されている出し物の申請内容のチェックだ。出し物は大きく分けて二種類に分かれており、演劇やミュージカルなどの舞台を使った出し物と教室や中庭で出し物をするどちらかになる。基本的にはどのクラスもオーソドックスな内容にはなるのだが、中には駄目元で突拍子のないことをやりたがるクラスも存在しているらしい。

 「『世界の歴史的な刀剣を本格的に作って展示する』ですか……。これって求めてるクオリティによっては刃物扱いになるから危なくないですか?」

 「確かにそうだな。本人達はその気が無くても銃刀法違反で引っかかる可能性があるから却下だな。他者を傷付けるものはアウトとして突き返した方が良いな」

 「こっちなんて数人だけでもいいから屋上からの低高度パラシュートパフォーマンスをしたいだって。どう考えても認められるわけ無いでしょ」

 「そんなこと申請しているクラスあるんですか⁉」

 玲士は申請内容を確認しては「許可」「不許可」のスタンプを休まず押していき、不許可の場合は理由をわざわざ書き添えて決められたトレーに分けていく。

 申請内容に感想を混ぜながら目を通していくが、なかなかに酷い内容が多い。我が校の学生はここまでアホな事を考えているのかと思うと頭が痛くなる。突き返されると分かっていながら申請を出す方も出す方だ。真面目に考えれば突き返される可能性は低くなるというのに……。

 こんなくだらないことを真面目に検討しなければならないこっちの身にもなって欲しいものだ。

 次の申請用紙を手に取った玲士は書かれている内容に戸惑った。書かれている内容はまともそうに見えるが、専門知識が無いため判断できない。

 「あの、このクラスのやりたいことがいまいちわからないんですけど、誰かわかる方いますか?」

 「ん?後輩くんどんなネタを引いたの」

 「ネタって芸人じゃないんですから。……えっとですね『自己反応性物質を使用した科学の体験』って書いてありますね」

 「……ごめん。もう少しわかりやすく教えてくれない?」

 梨恵の反応はもっともだ。実際に用紙を手にした玲士ですら書かれている内容を理解できない。何かしらの化学反応を実演するとはなんとなくわかるのだが、専門用語の内容がいまいちわからない。どうしたものかと悩んでいた玲士だったが、助けはすぐに来た。

 「田宮君その申請用紙ちょっと見せてくれないかしら?」

 「ええ。構いませんよ」

 瑞希に用紙を手渡した玲士はとりあえず彼女の判断を待つことにした。隣では真司がパソコンで調べ始めている。じっと申請用紙に目を通していた瑞希は溜息をつきながら背もたれに体を預けた。

 「……これは明らかに許可してはいけない気がするわね」

 そんな瑞希の言葉に真司も同意する。

 「ああ。これは不許可一択だ。どう考えても素人が手を出していい代物じゃない」

 明らかに真司の言葉には不穏な単語が混じっている。素人が手を出してはいけない物質とは、いったい何を使うつもりだったんだ。

 「宮川先輩、それってどういう意味ですか?」

 「そのままの意味だ。詳しい説明は省くが、自己反応性物質とはその字のごとく、こちらが手を加えなくても化学反応を起こし、自然発火や爆発を起こす物質の事だ。勝手に反応を続けるから手順を間違えれば消火は困難になるし、最悪は被害が拡大する可能性がある」

 「……爆弾でも作るつもりですか?」

 玲士は呆れ果てて怒ることもできない。そもそもそんな物質を一般生徒が入手できるとは思えないが、そんな危険な物を人でごった返す文化祭で使うなんてとんでもない。

 瑞希は手元にあるスタンプを手に取り、用紙の真ん中に遠慮なく押し付けた。当然内容は不許可だ。

 「恐ろしいことを考えるクラスもあるんですね」

 「慣れたから平気よ」

 しみじみと呟いた玲士に淡々と返事を返した瑞希にはなんだか同情する気持ちが芽生えたのは気のせいではないはずだ。



 作業を再開してどれくらい経っただろうか、ようやく紙束をある程度消化した梨恵は大きく伸びをした。

 「う~ん。ようやくここまで終わったよ~」

 「あっ。それじゃあ一旦休憩にしませんか?」

 いい機会だと思い玲士は部屋の隅にある戸棚に近づき中から一口サイズのチョコレートが入ったプラスチックボトルを持ってきた。

 「あれ?ここにそんなお菓子なんてあったっけ?」

 「少し前に休憩用に買っておいたものですよ。なかなか言い出せなくて今日になっちゃいました。飲み物も用意するのでちょっと待っていてください」

 深く考えずに買っておいた紅茶のティーバッグで人数分淹れてそれぞれのテーブルに置いていく。チョコレートは人数分の小皿が無かったのでボトルをテーブルの中央に置いただけだ。

 「わ~!ありがとう後輩くん。ずっと頭を使ってばかりだったから甘いものが食べたかったんだよ」

 最初にボトルに手を伸ばしたのは梨恵で、いくつもボトルから取り出していくと自分の手の届く範囲に小さな山を作っている。一つを口に放り込んだ梨恵は「糖分が染み込む~」と言いながらリラックスしている。真司も「すまんな」と短く礼を言った後、ボトルから数個だけ取り出している。

 そんな中、瑞希だけがチョコレートにも紅茶にも手を付けずじっとボトルを見続けている。

 「どうしましたか会長?もしかしてチョコは苦手でしたか?」

 「いえ。そうではないけど、これは田宮君が用意したものなのかしら?」

 「えっ。まぁそうですね」

 三人の好みがわからなかった玲士はどれを買うべきか悩みはしたが、甘いものがいいだろうと思ってチョコレートを選んだ。今日辺りには要望を聞いて種類を増やすつもりだ。

 すると瑞希はおもむろに自分の鞄から財布を取り出し「いくらかしら?」と言ってきた。

 これには玲士も慌てた。別に費用を補填してもらいたかったわけではない。

 「別に大した金額じゃないですよ。今回は俺が勝手に買ってきただけですから気にしないでください」

 「そんなわけにはいかないわ。たとえ大した金額でないにしても必要経費は払うべきだわ」

 頑として聞き入れようとしない瑞希の態度に困り果てていた玲士だったが、隣から声が上がった。

 「瑞希。それならこれから今日みたいに休憩タイムを入れようよ。それでその時に後輩くんが買ってきたお菓子を食べるの。今日は後輩くんの気持ちに感謝しておいて、次から払えばいいじゃない。経費は生徒会予算を使えば文句は無いでしょう?」

 「でもいくら生徒会に予算が割り当てられていると言っても、お菓子に使うなんてそんな無駄遣いは……」

「どうせそんなに買い直すような物じゃ無いんだからいいんじゃないか?ちなみに予算全体から見ればこの程度は些細な出費だ」

 なお瑞希が言い募ろうとしたが、真司からも援護が来て瑞希は苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。梨恵だけでなく真司までもが玲士の意見に賛同したために反論ができなくなったのだ。

 「わかったわ。休憩時間は作るようにするからその代わり高価なものは駄目よ」

 「はい。分かりました。とりあえず、また買ってくると思いますけど先輩たちは何か希望はありますか?」

 諦めたように肩を落とす瑞希だったが、セリフが完全に母親だ。せっかくだから指摘しようと思った玲士だったが、以前の激怒する瑞希の顔が思い浮かんだので心の中に留めておいた。——口は禍の元である。

 「私はチョコレートがいいな~。一口サイズのアーモンド入りのやつ」

 「……俺はクッキーの方が良いな。あまり甘すぎる菓子は好きじゃない」

 なんだかんだで二人とも菓子は食べたいようで、希望を聞けば以外にもそれぞれの好みを言ってくれる。瑞希だけがずっと黙っていたのでもしかして真剣にお菓子を選んでいるのではと思っていたのだが、瑞希からの返事は

 「特に希望は無いわ。でも、できれば飲み物のバリエーションは増やしてほしいわね」

 「わかりました。俺の方でいくつか選んでおきますね」

 彼女の希望を聞けただけでも十分だ。無表情のまま答える瑞希に玲士は笑顔で頷いた。



 九月も半ばに入ろうとしている生徒会。そんな部屋の中に大声が響き渡った。

「終わらねー‼なんでこんなに仕事が減らないんだよ。どう考えてもおかしいだろ⁉」

 玲士は思わず思っていたことをとうとう口にした。文化祭が近づいてきているから関係書類が多くなるのはわかるし納得はできる。それには納得できるが文化祭とは関係ない仕事がいつまで経っても減らないのだ。今日は先のことを考えて文化祭関係の作業は後回しにしている。

 「仕方ないでしょう。私達しかいないのだから一日の処理数には限りがあるわ。喋っている暇があるのなら手を動かしなさい」

 「いやいや、どう考えても生徒会とは無関係の内容もありますよね⁉これも生徒会で処理するんですか?」

 今のこの部屋には玲士と瑞希しかいない。梨恵と真司はあくまでも助っ人要員なので、毎日顔を出せるわけではない。よって二人きりになる日が必ずあり、すでに何度も経験している。

 玲士は横に除けておいた一枚の紙を手に取った。紙には要望書と書かれており、その下に生徒会への意見が書き込まれている。

 この要望書も瑞希が始めた試みであり、校内の敷地内に数か所設置されている。日々勉学に励む中でどうしても不満に思っていることや叶えて欲しいことが出てくると考えて、気軽に意見を言える場を設けたらしい。

 要望書の中には学生からの純粋な声もあるが、中には悪戯や相談する相手を間違えているような内容も紛れている。

 「『学生寮の廊下の蛍光灯が切れているから何とかしてください』って、これは絶対生徒会じゃなくて寮の管理人に言うべきことですよね。これも俺達が動くんですか?」

 「当然よ。もしかしたら管理人が気づいていないのかもしれないわ。こんな小さなことでも受験勉強している生徒にとっては集中の妨げに繋がるかもしれないわ」

 当然のように瑞希は答えているが、玲士にとっては不必要な業務のように感じる。そんなことまで気にしていたら生徒会がすべての面倒を見なければならない。

 「他の人に任せたりしないんですか?」

 「任せられるのなら任せるわ。でも私にできることなら私が処理するわ」

 ここまで来るとワーカーホリックだ。あまりにも瑞希に負担がかかり過ぎているが当の瑞希が譲る気がないとこちらもフォローに入れない。何より玲士はまだ生徒会に入って日が浅く知識も浅いままだ。瑞希の代わりはまだ務まらない。

 それよりも玲士は気になっていることがある。

 「会長って大学受験大丈夫なんですか?放課後はずっと生徒会の仕事しているのは流石に心配になるんですけど」

 玲士が知る限り瑞希はほぼ毎日生徒会に顔を出している。梨恵や真司はたまにしか顔を出していないが、それはおそらく受験勉強の為だろう。そうなると同じ受験生という立場である瑞希がずっと生徒会に時間を割かれているのは気になってしょうがない。大学には進学せずに就職するならば話は別だが……。

 「私は大丈夫よ。受験勉強は家でしているし、難関校を狙うわけじゃないから」

 「えっ?そうなんですか?てっきり会長は国立の名門校に進学するものだと思っていましたよ」

 常に成績上位をキープしている瑞希ならば努力すれば一流大学も狙えるはずだ。それなのに行く気はないと言い切っている瑞希の答えには驚きだ。

 「私は特待枠で近くの大学に行くつもりよ。一流の大学に行くことが私の将来に必ずしも繋がるわけではないわ。大切なのは私がその大学へ行くことでメリットがちゃんとあるのかどうかよ。目的が無いのに行くことは無駄でしかないわ。さぁ、話は終わりよ。まだまだやるべきことは残っているわ」

 瑞希はそう言って話を切り上げてしまったため。玲士もそれ以上は何も言わず、仕事に戻った。



 校内にチャイムが鳴り響いたことで玲士は顔を上げた。時刻は六時。放課後の終わりを知らせるチャイムだ。

 「会長、時間ですしそろそろ終わりにしましょう」

 玲士は大きく伸びをしながら瑞希に話しかけた。瑞希は顔を上げずに手を動かし続けている。

 「お疲れ様。ここは私が閉めておくから帰ってもいいわよ」

 「……会長は帰らないんですか?」

 玲士は気になって尋ねた。瑞希の言い方だとまだ残るつもりに聞こえる。

 「私はまだ残るわ。これだけでも今日中に終わらせたいから田宮君は気にしなくてもいいわ」

 「そうは言っても俺は気にするんですけど」

 瑞希が残ると言っている中玲士一人だけ変えるのはなんだか気が引ける。それでも瑞希は途中で帰る選択はしないようにも見える。

 玲士は瑞希の近くにある紙束と時計を交互に見ながらしばらく考えた。しばらく思案した玲士は荷物をそのままに部屋の隅にある戸棚へ近づいて紅茶と菓子を用意し始めた。

 「どうぞ」

 瑞希に紅茶の入ったカップを渡して玲士も自分の分を用意して席に戻った。その様子を見ていた瑞希は困惑したように玲士を見ている。おそらく玲士は帰ると思っていたのだろう。

 「何をしているの?」

 「俺も残りますよ。会長一人を残して帰れません」

 「田宮君が残る必要は無いわ。私の仕事だから気にしないで。わざわざ手伝ってもらう必要は無いわ」

 残ると言った玲士に瑞希は憮然とした面持ちとなり、冷たく突き放してくる。そう言われた玲士だったがここまできて「はいそうですか」と言って帰れない。

 「会長は気にしないでください。別に会長を手伝うつもりはありません。俺の仕事を減らそうと思っているんですよ。会長が終わるまでは付き合うんで一旦休憩しましょうよ」

 玲士は涼しい顔で瑞希の視線を受け流す。あくまでも玲士が残るのは自分の為だ。自分の仕事をするだけなのだから瑞希の手伝いをするわけではない。

 お菓子を食べながらさりげなく瑞希のそばにあった紙束を引き寄せて作業を再開する。

 玲士をじっと睨んでいた瑞希だったが、やがて玲士から視線を外し用意されたカップを持ち上げ何も言わずに口を付けた。



 「こほっ、こほっ」

 翌日の夕方、いつものように生徒会室で作業をしていると、咳き込む声が聞こえた。

 顔を上げると瑞希が口に手を当て咳き込んでいた。

 「会長風邪ですか?」

 「……風邪気味だけど、こほっ。たいしたことじゃないわ」

 「いや、咳き込みながらそう言われても説得力無いですよ」

 瑞希の返事に玲士は苦笑した。

 玲士が生徒会に顔を出していた時から瑞希が時折咳き込んでいたのは知っている。

 最初はたいしたことないと思っていたが、ずっと咳き込んでいるとどうしても気になってしまう。

 「今日はもう帰った方がいいんじゃないですか?」

 玲士は心配しながら言う。流石にこのまま無茶をして風邪が悪化しても困る。

 「私は大丈夫よ。うつるのが気になるなら田宮君はもう帰っていいわよ。あとは私がやっておくから」

 「なんで健康な俺が帰らされるんですか?帰るべきなのは会長でしょう」

 これまでの付き合いから予想はしていたが、予想していた返事に思わず突っ込む。

 「笹苗先輩と宮川先輩は明日手伝ってくれるんでしょう?明日に今ある分回せばいいじゃないですか」

 明日は土曜で学校は休みだが、部活動で校内は開放されるから生徒会室も使用できる。

 文化祭が近づいてきており、生徒会には各クラスの修正された企画書が続々と届いてきている。

 蒼西高校全クラスが文化祭の出し物をするとなると、必ずどこかで使用したい場所が重なるクラスが出てしまう。

 その際の場所の割り振りを生徒会が行うのだが、できる限り偏りが出ないように調整が必要なので、できる限り早めに動き始めないといけない。

 そのため、明日は今日来ていない二人も加わって作業することになっている。

 「明日に回せばその分明日の負担が大きくなるでしょう?」

 「別にサボっているわけじゃないですし、風邪気味だって説明すれば皆さん納得してくれますよ」

 「それでも休むほどではないわ」

 聞く耳を持たない瑞希の様子に玲士はこれ以上説得しようとすると意地でも残りそうだと感じた。

 「わかりました」

 短く溜息をついた玲士は作業を止めて立ち上がった。

 玲士はそのまま戸棚まで歩いてく。後ろから「田宮君?」と瑞希が声をかけてくるが、「そのまま座っといてください」と戸棚から目的の物を取り出しながら返事をする。

 部屋の隅にある小型のポットまで持って行き、封を切ったティーバッグをカップに入れた。

 用意した二人分のカップにお湯を注ぎ、それを持って瑞希の所に戻る。

 「どうぞ。今回はレモンティーにしてみました」

 瑞希に淹れたてのカップを渡して席に戻る玲士。

 席に着いたところで瑞希がカップを受け取った姿勢のまま目を丸くしてこちらを見ているのに気がついた。

 「どうしました?個人的にレモンティーが好きだったのでこれにしたんですけど」

 「いえ。田宮君は帰らないのかしら?」

 「風邪気味な会長を残して帰れませんよ。俺も手伝います」

 不思議がっている瑞希を横目に見ながら玲士は笑顔で答えながら処理が終わっていない紙束を引き寄せた。数日前にも同じようなことがあったはずだが今回は瑞希が風邪気味なので流石に一人残して帰るわけにはいかない。

 カップに手を伸ばし紅茶を口にする。ほのかなレモンの味が口の中に広がり、飲んだ後はほぅと口から吐息が漏れる。

 「二人でやった方が早く終わらせますからね」

 そう言いながら仕分けを始めようとした玲士だったが「ただし」と一旦言葉を区切り、

 「進めるのは今日終わらせないといけない最低限の量だけです。それ以上は明日にしてもらいますからね」

 一応瑞希に釘を刺しておくそうしないと今日も遅くまで残ってしまうだろう。

 できればもう帰ってほしいが、こちらもある程度妥協するべきだ。早く終わらせれば瑞希の為にもなる。

 瑞希は何か言いたそうにしていたが、口には出さず「仕方ないわね」とだけ呟き、レモンティーを一口飲んだ後手元の紙束に手を伸ばした。



 「……来ないね」

 梨恵の呟きが隣から聞こえ、玲士は扉に視線を向けた。

 翌朝、生徒会室に集まったメンバーは互いに顔を見合わせていた。部屋には玲士を含めて梨恵と真司の三人がいるが、本来この場にいるはずの瑞希がいない。

 時間に遅れることがない瑞希を三人は珍しいと思っていたが、すぐに来るだろうと思い瑞希がいない中三人は作業を始めた。

 しかし、いつまで経っても瑞希が扉を開けて入って来ない。

 時間は十一時を過ぎ、すでに予定の時間から一時間が経過しようとしている。

 さすがに何の連絡もないことに三人は心配し始めていた。

 「先輩達にはメールは来てないんですか?」

 「来てないわね。瑞季が何の連絡もしてこないなんて今まで無かったんじゃない?」

 梨恵がスマホを操作しながら答える。

 真司もポケットからスマホを取り出すが、すぐに「来てないな」と短く答えた。

 「もしかして集まるのは実は明日でした~。とか?」

 「いやいや。流石に三人も聞き間違えることはないでしょう。俺は昨日会長と集まるのは今日みたいなことを話しましたし」

 梨恵の意見を玲士はすぐに否定した。瑞希以外の三人全員が間違える可能性は低いだろう。

 毎日生徒会に顔を出していない梨恵と真司が間違ってしまうのは、確率は低いがあり得るかもしれない。しかし玲士は昨日瑞希と会話したばかりだ。その時のことははっきりと覚えている。

 明日のために二人で残ったこと。そのためにレモンティーを用意したこと。レモンティーを用意する前に帰る帰らないの問答を繰り返し……

 「あっ」

 思わず漏れた声に梨恵がこちらを見る。

 「どうしたの?」

 「昨日のことですけど、会長ちょっと風邪気味だったんですよ。本人はたいしたことないって言っていたんですけど」

 そうだ。昨日瑞希は風邪気味だった。だから明日にしようと会話をしたのだった。

 もしかして風邪が悪化したのだろうか。

 「そうなの?ちょっと待って一回電話してみる」

 そう言って梨恵は電話をかけ始めた。その様子を見守りながら玲士は隣の真司に話しかけた。

 「会長って以前にもこんなことがあったんですか?」

 「いや。少なくとも俺の知っている限りでは今まで無かったことだな。瑞希は昨日それほど体調が悪かったのか?」

 「そんなことは無かったと思います。咳き込んではいましたけど、そこまで酷いわけではなかったです」

 真司の言葉に答えながら昨日の瑞希を思い浮かべる。

 じっくり見ていたわけではなかったが、顔色は悪くはなかったはず。帰る際もそれほど変化はなかった。

 変化があるとすれば玲士と一緒に学校を出て別れた後だろうか。

 「宮川先輩。会長の家ってここから遠いんですか?」

 ふと玲士は瑞希の住んでいる場所が気になった。家が近いから遅くまで生徒会室に残っていると勝手に思い込んでいたが、本人から聞いてないし玲士から聞いたわけでもない。

 生徒の中には電車やバスなど公共機関を利用して通学している者も多い。中には学生寮には引っ越さず片道一時間以上かけて通学している生徒もいると聞いている。

 もしかして多少とはいえ残る選択は間違いだったのだろうか。

 「心配するな」

 どうすればよかったのか、いろいろと考え始めた玲士に一言声がかけられた。

 ハッとして顔を上げると真司は顔を上げず、手元の書類にサインをし続けている。

 「あいつは一人暮らしだが家はここから十分もかからない所にある。仮に帰る途中で風邪が悪化したのだとしても、お前が責任を感じる必要はない」

 「宮川先輩……」

 「逆に俺達の方が……」

 真司がさらに言葉を続けようとしたところで「何を言ってるの!」と梨恵の強く責めるような声が生徒会室に響き、話は中断された。

 驚いて梨恵の方を見ると、眉を寄せ怒った表情になっている。

 「だから無理しなくてもいいって。まだ先でしょ。……なんでよ。……だから私達でも問題無いでしょ?……だからぁ。」

 梨恵の言葉に少しずつ苛立ちが混じってきている。内容はわからないが、瑞希が何か無茶をしようとしていることはわかった。

 「だから瑞希はおとなしく……ちょっと!瑞希!」

 最後はもはや怒声に近い。梨恵は「もう!」と言いながらスマホを耳から離した。

 普段は笑顔を絶やさない梨恵が今は怒りの感情一色に染まっている。

 「瑞希がどうかしたのか?」

 普段見せない表情を見てしまいなかなか声をかけれずにいた玲士に代わって真司が梨恵に声をかけた。玲士と話していた時とは違い、手を止め梨恵の方を見ている。

 「瑞希ったら風邪で動けなくなっているみたいだけど『たいしたことはない。すぐに行くから』ってずっと言い続けているのよ。私達で何とかなるからって言っても聞かないし、最後は通話を切られたわ」

 二人のやり取りを聞いて玲士は呆れて何も言えなかった。瑞希らしいといえば瑞希らしいが、流石に無理し過ぎだ。

 「……一時間以上経った今でも動けないのに、あいつは何時間後に顔を出す気なんだ?」

 真司も同じ気持ちなのだろう。さすがに呆れ果てている。

 「どうするんですか?もう一度電話で説得しますか?」

 玲士は心配しながら梨恵を見た。呆れてはいるがこのまま放っておくわけにはいかない。

 梨恵は首を横に振り玲士の案を否定した。

 「瑞希のことだからどうせ着信無視するに決まっているわ。向こうがそのつもりなら、こっちにも考えがあるわ」

 瑞希なら確かにあり得る。鞄に入れていたとかマナーモードにしていたとか適当な理由を付けそうだ。だがどうやって瑞希を止めるつもりなのだろう。

 そう思っていると梨恵がこちらを見ているのに気がついた。こちらを見ながらニヤリと笑っているのはいったい何故だろう。正直言って嫌な予感しかしない。

 「後輩くん。先輩からの命令です。今から言うことを実行しなさい」

 「格好よく言いたいのでしょうけど、俺が可能な範囲でお願いします」

 びしっとこちらに指をさしてくる梨恵に無駄とは思うが一応要望は言っておく。

 「大丈夫、簡単なことよ。今から瑞希の家に行って瑞希を止めればいいの。ほら、簡単でしょ?」

 「どう考えても簡単じゃないでしょ!」

 一体何を言っているのだろうこの人は。俺があの会長を止める?実行する前から結果が見えている。

 「そもそもなんで俺なんですか?この場合適任なのは笹苗先輩でしょう」

 いくら同じ生徒会メンバーでも瑞希との付き合いは二人に比べれば短い。見舞い目的でも家に行くならば同性の梨恵の方が適任である。

 それにそれほど親しくも無い玲士が部屋に入るのは瑞希が嫌がるだろう。

 「私が行っても構わないけど、その場合ここの仕事を全部宮っちに任せちゃうことになるけど、後輩くんはそれでもいいの?」

 「それは……確かに良くはありませんけど……」

 生徒会の仕事はある程度こなせるようにはなっているが、最終判断はまだ瑞希や梨恵達に頼っている。

 瑞希がいない中、さらに梨恵が抜けるとなると必然的に真司がすべて判断していかなければならない。

 さすがに玲士も一人にすべてを負担させたくはない。

 「でも、男の俺が行くのはまずいでしょ。」

 「別に初対面の人が行くわけじゃないんだから問題ないわよ」

 玲士が懸念していたことを特に気にした素振りを見せない梨恵。

 初対面じゃなくても問題あると思ってしまうのは自分だけなのだろうか。それとも玲士が気にし過ぎているだけなのだろうか。言われても流石にまだ行くのは気が引けてしまう。

 「それに瑞希の家には宮っちも行ったことあるんだから、後輩くんが初めてなわけじゃないよ」

 「そうなんですか?」

 確認のために真司を見ると少し間があった後に無言で頷いた。真司が行ったことがあるなら確かに行くことに問題はない。

 玲士は溜息をついた。結局は梨恵の指示通り行くしかなさそうだ。

 「わかりました。でも会長の家は何処なんですか。当然ですけれど俺は知りませんよ?」

 「安心しなさい。正門を出たら左に曲がって大通りに沿って真っ直ぐ進めば見えてくるから。詳しい場所はスマホに送るわ。だから早く行って来なさい。あっ、これ瑞希の合鍵ね」

 そう言いながら鍵を玲士に握らせる。

 なんと大雑把な説明なんだ。梨恵らしい説明を聞きながら玲士は荷物を鞄に戻す。

 「それじゃあ行って来ますね。ちゃんと詳しい住所送ってくださいよ」

 荷物をまとめ扉に手をかけたところで振り返る。

 真司は黙々と作業を再開している。梨恵はソファーに寝ころび「頑張ってね~」とこちらに向けてスマホを持った手を振っている。

 ……住所を送った後ちゃんと真司を手伝ってくれるはず。そう信じたい。そんなことを考えながら玲士は扉を閉めた。



 「どういうつもりだ」

 二人きりになった生徒会室。そんな中、真司はじろりとソファーに寝転んでいる友人を睨んだ。

 そんな視線をものともせず梨恵はソファーでだらけている。

 「なにが~?」

 「確かに俺は瑞希の家に行ったことはある。だが、それは入学前に引越しの手伝いでお前と一緒に行っただけだ。その時以外では行ったことはないぞ」

 「まぁ、そうだよね~」

 梨恵はスマホを操作しながら相槌を打つ。

 「でも嘘は言ってないでしょ?だから何の問題も無いわ」

 「田宮に何かさせるつもりなのか?」

 梨恵は確かに嘘は言っていない。それでもわざわざこんな回りくどいことをするには何か理由があるはず。いったい梨恵は何を考えているのだろうと真司は梨恵の答えを待った。

 「後輩くんに何かして欲しいとは思ってないよ。もし瑞希が恥ずかしい思いでもしたら、それはそれで私達を心配させた罰にはなるわ」

 ニヤニヤと笑っている梨恵を横目に真司は小さく溜息をついた。つまるところ梨恵は瑞希にそんな展開が起こることを期待しているのだろう。

「瑞希のことをあいつに任せるなら、梨恵はこっちに来て手伝え。」

 真司の言葉に「りょうか~い」と返事をしながら梨恵はスマホの送信ボタンをタッチした。



 正門を出たところでスマホが震えた。

 確認してみると梨恵から瑞希の家の地図が送られていた。大通りに面したマンションのようで、真司の言った通り確かに真っ直ぐ進めば見えてくるだろう。

 スマホでおおよその位置を確認した後、玲士は瑞希の家に向かって歩き始めた。



 「ここか」

 玲士は目の前の建物を見上げた。

 マンション「コンジェラシオン」。七階建てのごく一般的なマンションだ。

 スマホの地図を片手にここまで来たが、辿り着くのは正直何の問題もなかった。

 梨恵が言っていたように大通りに面しているのでマンション名さえわかればすぐに目的地だと分かった。

 「さて、行くか」

 スマホをポケットにしまい玲士はマンションの入り口に向かって歩き始めた。

 左手には近くのコンビニで買ってきたゼリーやプリン、スポーツドリンクなどが入っている。

 瑞希の風邪がどの程度まで悪化しているのかよくわからなかったから、とりあえずてきとうに買っただけだ。

 エレベーターに乗り込み目的階である四階を押してエレベーターが上昇し始める。

 四階に着いた玲士はまっすぐ廊下を進んで行く。部屋に近づくにつれて徐々に緊張し始めているのが分かる。左手に持った袋を持つ手が汗ばんでくる。そもそも誰かの家に行ったことがこれまで一度も無かった玲士にとって初めて訪れるのが女子の家。それもあの瑞希の家なのだから緊張もする。

 玲士は歩きながら瑞希のことを考えていた。生徒会室で梨恵から聞いた時は動けないほどに悪化していたらしいが、今はどうだろうか。

 電話で話していたようにまだ動こうとしていたら止めないといけないが、意地でも自分の意思を曲げようとしない瑞希を説得できる自分の姿が想像できない。

 答えの出ないことを考えながら歩いていると、目的の部屋がもう目の前まで迫っていた。

 木目調のデザインな扉には四〇八と部屋番号のプレートが取り付けられ、住人である「白峰」の文字がある。

 表札の名前を確認した玲士はインターホンを押した。呼び出し音が鳴りそのあと静かになるが、インターホンから返事はない。

 念のためもう一度インターホンを押して呼び出してみるが、さっきと同じで返事は返ってこない。

 「寝ているのかな?」

 もしかしたら諦めて今は寝ているのかもしれない。そうならこれ以上インターホンを鳴らすのは迷惑だろう。ただ瑞希が寝ているのを直接見たわけではないので確証が無い。

 流石に梨恵から様子を見てこいと言われて合鍵まで持たされているからには、確認をしないといけないだろう。

 上着のポケットに入れてあった鍵を取り出し、掌の上でそれを見た。玲士は一度深呼吸をして合鍵を鍵穴に差し込んだ。

 「お邪魔します。会長、田宮です」

 扉を開けて中に声をかけてみるが、返事はない。

 玄関から細い廊下が続いており、その先にあるリビングに繋がっている扉は閉められている。

 玲士は廊下を進み、一旦扉の前で立ち止まった。

 「会長。田宮です。笹苗先輩達に頼まれて様子を見に来ました。大丈夫ですか?」

 扉をノックして声をかける。物語の主人公ならそのまま入ってラッキースケベな展開が発生するのだろうが、玲士はその可能性を潰しておく。

 自分は物語の主人公になりたいわけでもないし、ましてやテンプレのような展開など—若干気にはなるが——望んではいない。

 相変わらず返事がないので「入らせてもらいます」と声をかけてから玲士は目の前の扉を開けた。

 扉の先は九畳ほどの部屋が広がっており隅にはベッド、中央にはカーペットが敷いてありそこで瑞希が座り込んでいた。目の前のテーブルに突っ伏した状態で。

挿絵(By みてみん)

 「会長⁉」

 玲士は持っていた袋や鞄を放り出し慌てて瑞希に駆け寄った。

 「会長、大丈夫ですか?」

 肩を揺すり瑞希に声をかけながら玲士は表情をうかがった。

 目を閉じたまま苦しげな表情で荒い呼吸を繰り返している瑞希は見ているだけでも辛そうだ。

 「んぅ。田宮君?」

 片目をわずかに開けこちらを見た瑞希は小さな声でようやく返事をしてくれた。

 「そうです。俺ですよ会長。っていうかどうしてこんな所にいるんですか!寝ていなきゃダメじゃないですか!」

 瑞希は淡い青色のパジャマを着ているが、その上には何も羽織らない状態でいた。体調を崩しているのにこんな場所で座り込んでいるのは悪化するだけだ。

 「決まっているでしょう。学校に行くために用意をしていたところよ。……今は少し、休んでいただけ」

 「こんな状態で行けるわけないじゃないですか!」

 思わず玲士は口調が強くなった。いったい何を言っているんだろうかこの人は。あまりにも自分のことを顧みなさすぎる。

 「とにかくベッドに行きましょう。立てますか?」

 手を引きベッドまで連れて行こうとしたが、瑞希は座り込んだまま動かない。

 熱もあるのだろう。握った手を通して瑞希の熱い体温がよくわかる。

 「私……は大丈夫……よ。気に……しなくても……いい」

 瑞希の言葉が途切れ始め、玲士が握っている手も振りほどこうとはしない。

 これは本当にまずいかもしれない。

 「会長、失礼しますね」

 もう無理矢理連れて行くしかない。玲士は座り込んだままの瑞希に手を伸ばし抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこ状態で運ぶことになる。

 抱き上げた瑞希は玲士の腕の中で抵抗もせずされるがままとなっている。相当辛いのだろう。

 腕の中に瑞希がいて密着している部分からより体温が感じられる。これまで女子を抱き上げた経験が無かったので、自分の鼓動が早くなっているのが分かるが頭を振って考えを振り払った。——今はそんなことを考えている場合ではない。

 瑞希をゆっくりベッドに下ろし掛布団をかける。

 玲士は放り出したままの自分の荷物に近寄り、鞄を開けた。鞄の中を漁り中から少し大きめのタオルを取り出しキッチンへ向かった。キッチンでタオルを濡らしてきた玲士は瑞希の元へと戻り、タオルを額に乗せておく。

 流石にここまで悪化しているとは思わなかったので冷却シートは買ってはいなかった。薬の類はすぐには用意できないが、マンションの近くにはコンビニがあったはず。玲士は急いで玄関に向かって歩き出した。



 「うっ」

 ベッドにもたれかけるように座っていた玲士は後ろから聞こえてきた瑞希の声に気がつき振り返った。

 瑞希はうっすら瞼を開けて天井を見上げている。

 「会長起きましたか?」

 玲士はベッドの端から覗き込んだ。天井を見ていた瑞希の視線がこちらに向いた。

 訪れた時よりも心なしか表情が和らいでいるように見えるのは気のせいだろうか。

 「田宮君?私は……」

 「会長があまりにも辛そうだったんで、ベッドまで運びました。体調はどうですか?」

 「……少しはましになっているわ。今は何時かわかる?」

 右手を額に当て布団の中で身じろぎしている瑞希を横目で見ながら玲士はスマホを取り出した。

 「今は……十二時半を過ぎたところですね。額のシートは俺が勝手に貼らせてもらいました」

 玲士が瑞希の家に着いてから一時間程度しか経っていない。

 瑞希から「そう」と声が聞こえた後、もぞもぞと動き始めたので、玲士が視線を戻すと、なんと瑞希が起き上がろうとしていた。

 「ちょっと⁉何をしているんですか!」

 慌てて玲士はもたれていた体を起こした。

 「まだこの時間からでも遅くないわ。着替えて学校へ行くのよ」

 「いくら何でも無茶ですよ。おとなしく休んでください!」

 「大丈夫。さっきよりも怠さはましになっているから心配しなくてもいいわ」

 そう言いながら起き上がろうとしているが力が入らないのだろう。瑞希は上半身すら起こせずにいる。

 「いいから、休んでください!」

 そう言いながら玲士は起き上がろうとしている瑞希の両肩をつかみ、ベッドに押し戻した。瑞希はあっさりと押し戻されベッドに沈みこんだ。

 押し込まれた瑞希は驚いた顔をしている。

 「今の会長が優先すべきなのはおとなしく休むことです!これ以上無理するなら俺がこのまま会長を押さえつけていますよ?」

 玲士は瑞希の両肩を押さえたまま動こうとはしない。瑞希の顔が間近にあり、吸い込まれそうな綺麗な瞳に自分の顔が映っている。これ以上は無理矢理にでもおとなしくしてもらうしかない。

 「強引なのね田宮君は」

 「これぐらい出来ないと会長の補佐はできませんよ」

 ベッドに抑え込まれている瑞希は起き上がろうと抵抗していたが、しばらくすると全身から力が抜け起き上がろうとしなくなった。瑞希の体がさらにベッドに沈みこんでいく。

 大人しくなったのを確認してから玲士はゆっくり瑞希から手をどかして様子を見た。やっぱりまだ調子が悪いのだろう。全身から力が抜けると徐々に瞼が下がっていき、最後は穏やかな寝息が聞こえてきた。

 調子を崩しているとは思えない穏やかな寝顔だ。

 その寝顔から視線を外せないでいると、瑞希がわずかに身じろぎした。その動きでハッと我に返った玲士は起こさないようにゆっくりと布団をかけ直し、瑞希から視線を外してベッドから離れた。

 一旦リビングから廊下へと移動した玲士はスマホを取り出して相手を呼び出す。

 「はいは~い。後輩くんどうだった~?」

 相手は梨恵だ。静かな廊下で聞く梨恵の声はいつもより大きく聞こえる。

 「連絡するのが遅くなってすみません。一応会長をベッドで寝かせはしました」

 玲士は少し声を抑えてこれまでのことを話した。

 「そっか~。そんなことがあったんだね。お疲れ様」

 玲士からの報告を聞いた梨恵はいつも通りのんびりとした口調だったが、その声には安心したような安堵の響きが含まれている。

 「じゃあ後輩くんはこれからどうする?こっちに戻ってくる?」

 「いえ。俺はこのまま会長が起きるまでいようと思います。会長の様子も気になりますし、また無茶されても困るので」

 今はおとなしく寝ているが、直前まで起き上がろうとしていたから心配だ。このまま残って様子を見ておいた方がいいだろう。

 「そっか。助かるよ、ありがとう。後輩くんが良ければ私の方からお願いしようかなって思ってたんだ」

 「大丈夫ですよ。会長には俺から行く必要はないと伝えておきますね」

 玲士が通話を切ろうとしたところでスマホから「ちょっと待って」と梨恵の声が聞こえた。

 切ろうと下げていた手を戻して再び耳にスマホに耳を近づける玲士。何か伝え忘れがあったのだろうか。

 「そのまま瑞希の家にいるなら伝えないといけないことがあったわ」

 さっきまでののんびりとした口調から真剣なものに変わっており、玲士も自然と気持ちを切り替えた。

 あの梨恵が真剣になるほどだ。部屋の主が眠っている女子の部屋に居続けるのだから、自分の行動は注意しなければならない。

 もちろんおかしなことをするつもりは微塵も無いが、意図せず瑞希の嫌がる結果に繋がるかもしれない。友人の梨恵ならばその辺り、ある程度は知っているかもしれない。

 玲士は聞き逃すまいとこれから聞こえてくる梨恵の言葉に集中する。

 梨恵が「あのね」と前置きしたあと、

 「今の瑞希は弱っているからね。間違っても襲っちゃだめだぞ」

 「……」

 真剣に聞こうとしていた自分が馬鹿らしく感じる。

 「どうしたの後輩くん?もしかしてそのつもりだった?」

 「何を言っているんですか!そんなこと言われるまでもなくしませんよ!」

 からかい交じりの声が聞こえてきて、スマホの向こうで梨恵がニヤニヤしているのが想像できる。玲士は大声にならないよう注意しながら通話口に向かって言い返した。

 スマホから梨恵の笑い声が聞こえてくる。……もう切ってしまってもいいのでは?

 もうこのまま通話を切ろうかなと思っていると「ごめんごめん」と梨恵の声が聞こえてきた。

 「まぁ実際のところ瑞希のこと見ていてくれるなら、私からはこれ以上何も言うことはないわ。強いて言うなら瑞希が起きたら『月曜までおとなしく寝てなさい』って伝えといてくれる」

 「それならかまいませんよ」

 スマホから「じゃあね~」と聞こえた後、通話が終了し玲士はポケットにスマホを入れ瑞希の元に戻った。



 どれくらい時間が経っただろうか。カーテンから差し込む光に赤みが混じり始めたころベッドで瑞希が身じろぎした。

 玲士はさっきまで読んでいた文庫に栞を挟み振り返った。

 「会長、調子はどうですか?」

 玲士は顔だけ瑞希の方に向けて聞いた。

 「……だいぶ楽になったわ。どれくらい寝ていたのかしら?」

 昼に目覚めた時と同じように右手を動かし、額に乗せたままで瑞希は答えた。

 「……今は五時過ぎですね。言っておきますけど、もう生徒会の仕事は終わっているので今から行っても開いていませんからね。笹苗先輩からは『月曜までおとなしく寝てなさい』とのことです」

 時間を聞いてきたのに答えながら玲士は瑞希に伝えるべきことを先に伝えた。

 瑞希が寝ている間に玲士のスマホに梨恵からメールが届いていた。

 「もう生徒会は閉めるから、来ても入れないよ~。瑞希が起きたら伝えといてちょうだいね~」とわざわざ正門が閉められているところの写真まで添付してあった。

 玲士は梨恵からのメールを見やすいように瑞希の目の前にかざす。

 瑞希は「そう」と呟くだけで、起き上がりもせず手を額に乗せたままでいる。

 天井を見続けている瑞希は玲士がいつも学校で見ている頼れる印象とは違い、弱弱しく別人のように見える。

 「会長食欲はどうですか?」

 しんみりした空気を切り替えようと玲士は立ち上がった。

 買ってきたゼリーなどは瑞希が寝ている間に冷蔵庫に入れておいた。

 勝手に冷蔵庫を開けるのは気が引けたが、常温のまま置いておかずに玲士の判断で最終的には入れた。事後報告の形になってしまったことを謝ったが、瑞希は気にした様子も無かった。

 冷蔵庫に向かおうとした玲士の背後から「田宮君」と小さな声で呼ばれた。

 「どうしましたか?」

 玲士は冷蔵庫に向かおうとした足を止め、振り返った。

 瑞希はベッドから体を起こさず、顔だけ動かしてこちらを見ている。

 玲士はベッドの側まで戻り、会話しやすいようその場に座った。

 「……して、……るの。」

 「え?」

 「どうして田宮君はそこまでして私に関わろうとするの。今回のことは私の体調管理ができていなかったせいで、田宮君が責任を感じる必要は無いはずよ」

 小さな声で呟かれた言葉に玲士は最初何を言っているのかわからなかった。

 寝たままの状態でこちらを見てくる瑞希の目は真剣で、本気で知りたいという思いが伝わってくる。

 「体調を崩してしまった先輩を心配するのはおかしいですか?」

 玲士は苦笑しながら答えた。

 「心配してくれるのは嬉しいわ。けど、それなら用事だけ済まして帰ればいいだけでしょう。こうしてずっと残っているのは何故?」

 瑞希は納得しておらず、さらに言葉を重ねる。玲士の表情からはぐらかされているのだと感じたのだろう。

 「会長が心配だったのは本当ですよ。それに昨日、一緒に残ろうとせずに帰ってもらうよう努力していればと後悔している部分もあります」

 玲士は心の中で思っていたことを正直に話した。

 そう。瑞希が眠っている間、玲士はそのことが頭から離れなかった。

 どうしてあの時、一緒に残ろうと決めてしまったのか。どうして無理にでも帰そうとしなかったのか。

 ただの風邪がここまで悪化するとは勿論思っていなかったし、結果論からの後悔であるのも分かっている。それでも別の選択肢があったのではないかと思ってしまう。

 玲士がこの部屋で最初に見た瑞希の苦しそうな表情でより強く後悔が玲士の中にはあった。あんな苦しそうにしている瑞希を玲士は見たかったわけではない。

 「それは、それこそ私の管理不足でしょう」

 瑞希の口調が強くなる。

 「そうですね。確かに俺が関わるほどのことでもないかもしれません。」

 「それでも」と玲士は付け加え、

 「あんな苦しそうな会長を放っとけるわけないじゃないですか」

 思い浮かぶのはテーブルに突っ伏したまま動くことができなくなっている瑞希の苦しそうな表情。

 瑞希は目を丸くし、何も言わない。少しキザっぽいセリフだっただろうか。

 少し気恥しくなり玲士はゼリーを取りに冷蔵庫へ向かった。

 さすがに朝から何も食べていなかったので食欲はあるようだ。玲士が買ってきたスポーツドリンクを傍らにゼリーを少しずつ口にしている。

 瑞希が食べている間、玲士は彼女から視線を外している。食べる姿をじっと見られているのは流石に食べづらいだろう。

 「私の両親は昔から家を空けることが多かったの」

 「えっ?」

 不意に話し始めた瑞希に玲士は、意図が分からず振り返る。

 「二人とも会社の責任ある役職に就いていたから自然と帰りが遅くなっていたの」

 食べかけのゼリーに視線を落としたまま話す瑞希を玲士は黙って聞く。

 「自然と家に一人でいることが多くてね、誰にも頼れないからどうしても一人で何とかしなければならなかったの」

 「生徒会の仕事を一人で抱え込むのはそれが影響しているんですか?」

 玲士が言ったことに黙って頷く瑞希を見て、玲士は内心納得した。

 小さい頃から誰かに頼ることはせず一人で何とかしてきたらからこそ、今も同じように行動しているのだろう。だからこそ周りにどう頼っていいのかわからない。

 「さっきも言いましたが、会長は一人じゃありませんよ」

 玲士は笑みを浮かべながら瑞希に話しかける。

 「今は笹苗先輩や宮川先輩もいますし、俺もいます。一人で抱え込まずに相談してくれてもいいですし、頼ってください」

 玲士は思っていることを伝えた。確かに瑞希は幼い頃は一人で背負うことしかできなかったのかもしれない。

 しかし、今の生徒会は瑞希一人ではない。相談できる相手もいれば助けてくれる人もいる。これまで頼ることができなかった分頼ってほしいと思う。

 「それじゃあ、そろそろ俺は帰りますね」

 学校も閉まって、瑞希も顔色も訪れた時よりも良くなっているように感じた玲士は帰ろうと立ち上がった。さすがに今から外出しようとは思わないはずだし、不必要に長居しすぎるのも良くないだろう。

 帰ろうとする玲士に瑞希は「そう」と返しただけだ。

 「田宮君」

 廊下への扉に手をかけたところで背後から呼ばれた。

 「なんです……か……」

 振り返りながら出た言葉は最後まで言い切れたかどうかわからない。

 玲士は視線の先の光景から目を離せないでいた。

 視線の先には瑞希がいる。瑞希はベッドの上で体を起こし、振り返ってこちらを見ている。

 「ありがとう」

 瑞希のお礼に玲士は何も反応することはできなかった。玲士はその場で棒立ちになっている。

 「田宮君?」

 「す、すみません。会長はおとなしく休んでくださいね。今度は生徒会で会いましょう」

 いつまでも動かない玲士に瑞希は訝しげな表情になった。

 ようやく我に返った玲士は早口で退室を伝え、早足で玄関の扉を開けてマンションの廊下に出た。

 背後で玄関の扉が閉まった後、玲士は扉にもたれかかった。

 鼓動が早くなっているのが分かる。どうして鼓動が早くなっているのか理由は分かりきっていた。さっきまでの光景がまだ鮮明に思い出せる。

 「不意打ち過ぎるだろ」

 そう言わずにはいられなかった。

 「ありがとう」そう言った瑞希は玲士がおもわず見惚れてしまうほど優しげな表情で笑っていたのだから。



 週明け、玲士はいつも通り夕方生徒会に顔を出していた。

 梨恵と真司は参加していないので今日も瑞希と二人きりだ。玲士はちらりと瑞希を見る。

 瑞希は黙々と作業をこなしている。その様子に玲士は先週に見たあの笑顔は見間違いだったのかと思ってしまう。

 大丈夫だと信じていても瑞希の体調を心配していた玲士だったが、本人は放課後いつも通りに生徒会に顔を出した。

 「一昨日は心配させてしまったわね。私はもう大丈夫よ」

 生徒会室に入って来た瑞希は開口一番それだけ伝えた後、いつも通り自分の席について作業を始めてしまった。

 体調を崩す前と変わらない状態。それでも以前と変わったところもある。

 「田宮君。演劇を予定しているクラスの演目はすべて揃っているかしら?」

 「えーっと。……そうですね。今日最後のクラスが提出してきたので、内容を許可すればすべて揃いますね」

 玲士は「演劇」とテープが貼られたファイルを手に取りリストを確認する。

 そして書類ケースに手を伸ばし、「許可待ち」の棚から演劇を申請しているクラスの活動計画書を取り出して瑞希に渡した。

 瑞希は玲士から書類を受け取り、書かれている内容をじっくり読みこんでいる。

 「これなら問題無いわね。あとはスケジュールの調整ね……」

 瑞希は書類を玲士に返し、持っていたペンでこめかみ辺りをぐりぐりしている。

 各クラスの出し物の中で一番スケジュール調整に苦労するのが演劇で使用する大ホールである。

 スペースの割り振りをする屋外とは違い、演劇ができる大ホールは一つだけだ。

 その大ホールでの演劇は文化祭期間毎日行われる。

 毎日の演目内容に偏りが出ないようにできる限りジャンルを分散し、調整しないといけない。演目ジャンルごとに仕分け、それぞれの日に割り振ったうえで一日のスケジュールを決める。

 小規模な学校なら大した問題ではないが、生憎とこの学校の文化祭は他校よりも規模が大きい。

 一人で考えるにしてもある程度時間は必要になるだろう。

 「それなら、俺がとりあえず考えてみますよ。会長は後でそれを確認してもらってもいいですか?」

 「それは私が……いえ。それなら、頼んでもいいかしら?」

 「わかりました」

 瑞希は一瞬手を止めたが、玲士の提案を受け入れてくれた。

 そう。玲士が瑞希の仕事を引き受けようとしても瑞希はそれを拒まなくなった。誰かに任せることを頑なに拒んでいた以前と比べると良い傾向である。

 まだ多少他人に任せることに抵抗を感じているようだが、じきに慣れてくれるだろう。

 瑞希から頼られる。そのことに嬉しさを感じながら、玲士は演劇のスケジュールを組み始めた。



 「今日こそ私達のクラスの出し物を決めるわよ‼」

 数日後、教室でクラス委員である佐嶋の声が響いた。

 佐嶋の背後の黒板には「文化祭出し物」と大きく目的が書かれている。

 目的は書かれてはいるが、その先に続いているはずの案が無い。

 「文化祭までそろそろ一か月を切ろうとしているから、決まるまで全員帰さないわよ」

 佐嶋の宣言にクラスから不満の声が上がるが、佐嶋は取り合わない。

 「あ~、委員長。俺、生徒会が、」

 「生徒会は後回し!田宮君も決まるまではどこにも行かせないわよ」

 「……あ、はい」

 この空間から逃れようとゆっくり手を上げた玲士だが、佐嶋にぴしゃりと言われてしまい、上げた手を下すしかなかった。こうなると決まるまで教室に残るしかない。

 自分のクラスの出し物についてだが、玲士は生徒会の見回りがあるためにそれほどクラスの出し物には参加できない。その為参加しない出し物に関してあまり積極的には参加していない。クラスメイトが騒いでいるのを玲士は頬をつきながら眺めていた。

 「やっぱりここはメイドカフェ一択だろう!それなら俺達は喜んで協力するぞ!」

 「嫌よ!なんで私達がそんな恥ずかしい格好をしなくちゃいけないの!」

 「俺達は裏方で調理係をやるからいいだろ」

 「それなら私達が調理係やるからあんた達が代わりにやりなさいよ」

 「俺達がメイド服着たらただの変態じゃねぇか!」

 男子と女子の派閥に分かれて話し合いが白熱し始めたが、内容がなんともアホらしい。

 しかし、どうやらカフェにすることには異論はないようだ。

 (カフェか。それならよっぽど変なことにならない限りは申請通りそうだな)

 玲士の頭の中ではその先、生徒会の処理について考えていた。騒がしい教室の中で玲士はぼんやりと考えていると、

 「あ~。皆ちょっといいか」

 「なんだよ隼。お前はメイド反対派か?」

 隼がおもむろに手を上げクラスの皆が注目する。指摘する部分はそこなのかと玲士は心の中で突っ込みを入れる。

 「男子はメイドカフェがやりたいが、女子はそれが嫌だ。でもカフェをやること自体は構わないんだよな?」

 「あぁ」

 「そういうことね」

 隼の話を静かに聞くクラスメイト。さっきまでの白熱具合が嘘のようだ。この切り替えの早さはこのクラスの強みでもある。騒ぐ時は騒いで話を聞く際はすぐに静かになる。口にすると単純なように聞こえるが、実際はそう簡単なことではないだろう。

 そんな中、隼の話は続く。

 「それならメイドカフェみたいな派手なやつじゃなくて、おとなしめの喫茶店みたいなのにしないか?」

 「おとなしめ?」

 「あぁ。相手と積極的に関わるようなカフェじゃなくて、主人の後ろに静かに控えているタイプ。あるだろ?昔のヨーロッパ辺りでそんな職種みたいなの」

 隼の言葉にあちこちから「ああ~」と納得の声が漏れる。玲士はその辺りの職種に詳しくはないが、本でそんな存在は確かにいた。

 玲士が知っているのは王族や貴族などの位の高い人物に付き従っているイメージだ。確かにその役職に携わっている人は目立たないながらも主人のサポートをしっかりとこなしている。これも一種のメイド業務に近いだろう。

 従者のような立場なら男性でもその職種に携わっている者はいたはずだ。確かに隼の提案なら男女で役割を分ける必要は無くなる。

 「カフェね。いい案じゃない」

 佐嶋はそう言いながら黒板にカフェと書いていく。

 (そこは構わないんだな)

 話し合いには積極的に参加せずに一歩引いた形で話を聞いていた玲士は気づいていた。メイドカフェが提案された時、佐嶋はその提案を聞き流し黒板に書こうとすらしなかった。意見を求めながらも行動しなかったのは佐嶋自身内心嫌だったのだろう。

 「カフェならメニューはどうするの?あまり凝ったのは作るのに時間がかかるわよ?」

 「別に無理して作らなくてもいいんじゃないか?単純に休憩できる場所でも問題ないだろ」

 隼の発言に玲士は目を丸くした。

 「隼、それだと軽い応対だけで何もすることがないぞ。そんなんでいいのか?」

 隼の案だとわざわざクラスでやるメリットが無い。おそらくクラスのメンバーはただ休憩しに来た人を眺めるだけの時間が多くなってしまうことになるだろう。

 クラスでわざわざせずとも使わない部屋を適当に休憩スペースにしておけばそれで十分だと思う。

 そんな玲士の言葉を隼は首を横に振って否定した。

 「甘いな玲士。いくら文化祭を数日かけてやるとはいえ、各クラスを回るだけでも大変だ。そんな中でゆっくりと休憩できる場所は貴重だぞ」

 「飲み物だけなら別にクラスでやることないだろ」

 「流石に飲み物だけじゃ味気ないから、ちょっとした菓子ぐらいは用意してもいいだろう。メンバーは前半と後半に分ければ他のクラスも見に行けるだろ」

 玲士の疑問に苦も無く答えていく隼。思っていた以上に真面目に考えていた隼を玲士は意外に感じた。

 なぜ隼はここまで真剣に考えるのだろうか。

 「飲み物はできる限り種類があった方がいいよな。定番はとりあえず揃えておくか」

 「お菓子は手が汚れるのは避けた方がいいわよ。ポテチとかは論外ね」

 「ウエットティッシュ用意しとけばいいんじゃないか?わざわざ外す必要ないだろ」

 玲士の疑問をよそにクラスメイトは内容の議論を交わしていた。隼の提案が行き詰まりかけていた議論に突破口を作ったようだ。

 カフェ以外の案は出ていないが、もうカフェにすることは自然と決まっているようだ。

 「言っておくが派手なことをしない分、衣装はしっかりとこだわらないとあの生徒会長を納得させられないからな。そこは協力してくれよ」

 「へ~い」「りょうか~い」と返事が返ってきた。

 「やっぱり布選びが重要よね」

 「デザインは任せて!今回の文化祭でぴったりな衣装の資料は私持っているわ」

 「……ようやくありのままの姿で学校に行けるのね!」

 「ちょっと⁉何か勘違いしている人がいるわよ⁉」

 変にこだわりを持っている一部のメンバーを中心に騒がしくなっているのを見届けると隼はそれ以上何も言わず机に突っ伏した。

 「おい隼。どうしたんだ」

 「ん?何がだ」

 クラスメイトが話し合っている中、玲士は隼に話しかけた。

 隼は突っ伏したままの状態のまま顔だけ玲士に向けた。

 「お前、文化祭なんてこれまで積極的に参加しようとはしなかっただろ。なんで今年はそんなやる気なんだ?」

 隼は文化祭にそれほどこだわりは無かったはずだ。実際この二年は裏方で作業しかしていなかった。

 「別にやる気があるわけじゃないぞ。これなら長時間頑張る必要がないからな」

 隼は特に気にした様子もなく話した後、少し声を抑え、

 「それに女子にメイド服着てもらおうと思ったらこれぐらいはしないとな」

 「……」

 ニヤリとする隼に玲士は何も言えなかった。結局のところは目の前の友人も他の男子と同じく、メイド服を推していたようだった。



 「お礼、ですか?」

 玲士は手を止め困惑した表情で相手を見ていた。文化祭に向けて本格的に忙しくなってきた。

 すでにクラスの出し物はすべて決まっており、生徒会はスケジュールの調整と文化祭のパンフレット作製に追われていた。

 いつも通り二人だけの生徒会室。そんな中瑞希は言ったのだった。お礼は何が欲しいのかと。

 「そう。この前私の看病をしてくれたでしょう。そのお礼をしたいのだけれど、何がいいのか私にはわからなかったわ。だから田宮君に聞くことにしたの」

 瑞希も手を止め、真っ直ぐこちらを見ている。

 「いやいや。俺は大したことはしてませんから、気にしなくてもいいですよ」

 玲士は慌てながら目の前で手を振った。お礼をされるようなことはしていない。

 「それだと私の気が済まないわ。田宮君には受け取ってもらわないといけないの」

 目を閉じながら言う瑞希に玲士はどうしたものかと悩んだ。

 瑞希は絶対にお礼を返すまで納得はしないだろう。しかし玲士は見返りが欲しくて瑞希の側にいたわけではない。流石に何かをもらうのは抵抗がある。何かいい案はないだろうか。

 顔をしかめ、うんうんと悩んでいる玲士に救いの手を差し伸べたのは提案した瑞希であった。

 「田宮君の好きな料理は何かしら」

 「えっ?好きな料理ですか?」

 「そうよ。田宮君の食べたいものを今度作ってきてあげるわ。それならいいでしょう」

 瑞希の提案を少し考え、玲士は受け入れることにした。それならお礼として受け取っても何ら問題はないだろう。

 材料費の単語が口から出かかったが、出さずに飲み込んだ。

 ここは瑞希の厚意に甘えよう。そうなると作ってもらうのはいったい何がいいだろうか。頭の中でいくつかの料理が浮かぶが、どれもしっくりこない。

 しばらく頭の中で料理が浮かんでは消してを繰り返し、玲士の口から出た料理は、

 「肉じゃが、ですかね」

 「肉じゃが?」

 瑞希は目を丸くしている。何かおかしいことを言っただろうか

 「どうかしましたか」

 「いえ。意外だと思ってね。田宮君は肉じゃがは作れないのかしら?」

 瑞希は顎に手をやりながら聞いてくる。

 「作ることはできますよ。でも、俺が好きなのは味がよく染み込んだ肉じゃがなんですよ」

 「時間をかければ染み込むでしょう?」

 瑞希がますます理解できない表情になる。瑞希の言うことはごもっともだ。

 「俺って作ったらすぐ食べちゃうんで、あんまり煮込むのに時間かけたりしないんですよ。昔、時間かけたことはあるんですけど、具材が崩れちゃったんですよね」

 玲士は笑いながら右手で頭をかいた。

 一人暮らしの玲士はそこまで料理にこだわりを持たない。最低限美味しくできれば満足するからそれ以上は求めない。

 具材が崩れてしまったのは玲士のミスだが、それ以降は肉じゃがを極めようと挑戦していない。

 それでも食べたいとは思っていた。今回瑞希が料理を作ってくれるならいい機会だ。

 瑞希は黙って玲士の言葉を聞いていた。

 「あっ、別にそこまでこだわってもらわなくてもいいですからね。肉じゃがが好きなのは本当ですから」

 玲士は一応瑞希にそれだけは伝えておいた。瑞希のことだから変にこだわりそうな気がしそうだ。

 「わかったわ。今度作って来るからその時は連絡するわね」

 「楽しみにしていますね」

 瑞希の手作り料理。それを食べられることが嬉しいし、楽しみだ。家族以外で料理を作ってもらえるのは玲士にとっては初めてだ。

 「ちなみに肉料理とか答えていたらどうしていたんですか?」

 「料理の内容にもよるけど、牛肉なら黒毛和牛を、」

 「そこまでしないでください‼言っておきますけど、肉じゃがにも使わないでくださいね⁉」

 ただのお礼になんてものを使おうとしているんだこの人は。せっかくの手料理なのに、気を使ってしまって味が分からなくなってしまうではないか。ちなみに玲士の質問はあくまで料理の種類を聞いたつもりだったのだが、予想外な返事が返ってきたことには驚いたが聞いておいて良かったと心から思った。出来る限り常識の範囲で収まる料理になることを玲士は本気で願った。



 瑞希の手料理のイベントは以外にも早くやってきた。

 三日後。昼休憩の時間、玲士は生徒会にいた。

 今日は梨恵や真司が参加しており、久しぶりに生徒会室が賑やかになっていた。

 「後輩くん~目の前にある仕事が減らないんだけど~」

 「……そうですね」

 「私、こんなに今手を動かしているのに減らないなんておかしくない?こっそり私の仕事増やしているでしょ?」

 「……増えてはいません。あと言っておきますが減ってもいませんからね」

 果たしてこの問答は必要なのだろうか。玲士は内心そう思いながらも梨恵の会話に付き合う。

 「なんでよ?」

 「お弁当を食べるだけで仕事が減るなら、今頃大半は終わっているからですよ」

 玲士はジト目で梨恵を見る。梨恵は確かに手を動かしているが、それは手元にある弁当を食べる為である。そんなことで仕事が減るなら隼や他のクラスメイトを引きずってでも連れて来ている。

 「後輩くんは食べないの?もしかして買い忘れた?」

 梨恵は玲士の手元を見て言う。玲士の手元には小さなおにぎりがあるだけで他は何もない。普段の玲士はもう少し昼食のバリエーションがあるが今日は違う。

 「いえ、俺は今日、」

 そう言ったところで生徒会室の扉が開き瑞希が入ってきた。

 「あれ?瑞希今日はお弁当の量がいつもより多いわね」

 梨恵は付き合いが長いからか一目見ただけで普段と違う部分に気がついた。今日の瑞希はいつものお弁当に加え、タッパーを持ってきている。

 「ええ。でも私が全部食べるわけじゃないわ」

 「えっ?じゃあ誰の?」

 梨恵の疑問に瑞希は答えずに部屋の隅にある電子レンジにタッパーを入れて中身を温め、温めたそれを玲士の前に置いた。

 「はいどうぞ。約束の肉じゃがよ」

 「わざわざありがとうございます。それじゃあ、いただきますね」

 普段と変わらない淡々とした口調の瑞希にお礼を言いながら玲士は置かれたタッパーの中に入っている料理に目を向けた。瑞希の肉じゃがはじゃがいもが多めになっており、他の具材は少なめとなっている。それでもインゲンやニンジンなどが入っており色鮮やかだ。

肉じゃがと言っても人によって作り方には個人差が出てくる。具材の種類を多くする人もいれば最低限の具材しか入れない人もいる。

 じゃがいもを口にした玲士は目も見開いた。美味しい。濃過ぎず薄過ぎない絶妙な味付けだ。ジャガイモも煮崩れしていなく、中までしっかりと味が染み込んでいる。まさかここまで本格的な肉じゃがを作って来てくれるとは驚きはあるが、嬉しさの方が勝る。

 まさか玲士が口にした「味がよく染み込んだ」という部分をしっかりと守ってくれているとは。

 「とても美味しいですよ」

 「そうか。それはよかった」

 月並みな事しか言えないことに申し訳ないと思いつつも玲士は思ったことを素直に口にした。瑞希はほっとしたように表情をほころばせ、少し目を細めた。普段見せない瑞希の表情に玲士はドキッとした。

 「そ、そういえば作るのに時間かかったんじゃないですか?味がしっかり染み込んでいてびっくりしたんですけど」

 「それほど手間はかかっていないわよ。いつも私が作っているのと変わらないわよ」

 「そうなんですか⁉こんな美味しいのを作れるなんて羨ましいですね」

 なんと、瑞希はいつもこのレベルの料理を作っているのか。純粋にその料理スキルが羨ましい。このレベルで普段から料理をするということは意外にも瑞希は料理に関してこだわるタイプなのだろうか。

 「ん?」

 瑞希の手料理をゆっくりと味わいながら食べていたが、玲士はそこで視線が集まっているのに気がついた。


 玲士の感想を待っていた瑞希だけでなく梨恵や真司も食べるのを中断してこちらを見ている。二人の顔にははっきりと驚きの感情が出ている。いったい何を驚いているのだろうか。

 「どうかしましたか?」

 「い、いや、何でもないわ。気にしないで」

 梨恵に聞いてみても、結局何を驚いているのかわからなかったがとりあえず玲士は再び肉じゃがを食べ始めた。



 「ごちそうさまでした」

 「お粗末様。タッパーは持って帰るから置いておいてちょうだい」

 瑞希はすでに食べ終えており弁当の代わりに書類を広げている。

 「流石にこのまま返すわけにはいけませんよ。ちょっと洗ってきますので席を外しますね」

 玲士はタッパーを持って生徒会室の隣にある給湯室へ向かった。

 給湯室にあるシンクでタッパーを洗っている玲士は、突然背後から誰かから腕を回された。

 「うわっ!って笹苗先輩じゃないですか」

 思わずシンクに突っ込みそうになった体を何とか元に戻して振り返ってみると、腕を回していたのは梨恵だった。腕を回しているので梨恵の顔がすぐ横にある。

 「ちょっと!さっきのは一体どういうことよ!」

 「さっきのってどのことですか?」

 「そんなの決まっているでしょう。なんで瑞希が後輩くんに肉じゃがを作ってくるのよ。どう考えてもおかしいでしょう」

 給湯室は生徒会室に近いため梨恵は玲士だけに聞こえるように声を落として問い詰めてきた。

 あぁ。そういえば肉じゃがの件は瑞希と二人きりの生徒会で話していた。

 何も知らない二人からすれば瑞希が突然玲士に昼食を作ってきたみたいに見えるのか。確かに梨恵の立場になると困惑するのは当然だ。

 「それはですね、お礼ですよ」

 「お礼?」

 「俺が会長の家に行った日があったでしょう?その時、会長の看病をしたのでそのお礼をしたいと言われたんですよ。俺は大したことはしていないので気にしなくてもいいと言ったんですけど、会長が納得してくれなかったので今度手料理を振舞ってくれることで納得してもらったんですよ」

 「なるほどね~。でも、まさか瑞希が誰かに料理を作るなんて思わなかったわ」

 梨恵からの拘束が解かれて自由になったことで、玲士は中断していたタッパー洗いを再開した。梨恵の言葉には心底驚いたような響きが含まれている。

 「なんでそんなに驚いているんですか。笹苗先輩達は昔から一緒なんですから、食べたことあるでしょう」

 「無いわよ」

 「えっ?」

 玲士は動かしていた手を止め、困惑して梨恵を見た。手料理を作ってもらう機会が無かったのだろうか。

 「瑞希は誰かに料理を作ったことは一度も無いわよ。それこそ、私が頼んでも作ってくれなかったんだから。だから私は驚いているの」

 「頼んでも作ってくれなかったんですか?」

 「そうよ。昔作って欲しいと言ったことはあるけど、瑞希は絶対作ってくれなかったわ。むしろ食べられるのを避けてたぐらいだしね」

 梨恵の言葉に玲士は引っ掛かりを感じた。あれだけ美味しい料理を作れるのに何故瑞希は作ることも食べられるのも避けるのだろうか。友人である梨恵が頼んでも作らないなんてよっぽどの理由があるはずだ。

 そんな瑞希が玲士のために手料理を作ってくれた。これまでと今回では何かが違ったのだろう。

 「まぁなんにしても、瑞希がわざわざ手料理を作って食べたのは私が知る限り後輩くんが初めてということよ。羨ましいわね~」

 「……」

 梨恵の言葉に玲士は何も言えなかった。瑞希が最初に手料理を作ってくれたのが自分。そのことがなんだか嬉しく感じてしまった。



 「会長ありがとうございました」

 「わざわざありがとう。どう?これで良かったのかしら」

 「もちろんですよ。文句の付け所のない最高の肉じゃがでした」

 タッパーを瑞希に返した玲士は思っていたことを素直に口にした。瑞希はまんざらでもない様子で、

 「それほどたいしたことはしてないわよ。田宮君ならいずれ作れるわよ」

 「俺だとこんな美味しく作れないですよ。また食べたいって思っちゃうんですから」

 「それならまた……っ!」

 瑞希は途中でハッとしたように言葉を切り、口元に手をやった。どうしたのだろうかと玲士は怪訝な表情になったが、瑞希自身困惑したような表情をしている。瑞希が何に困惑しているのかわからない。

 「会長?どうかしましたか?」

 「……いえ。なんでもないわ気にしないで」

 気になって聞いてみるが何かは言ってくれず瑞希は手元の書類に視線を落としてしまった。

 瑞希は一体何を言おうとしていたのだろう。釈然としないまま昼食の時間は過ぎていった。



 玲士に手料理を振舞った日の夜、瑞希は湯船に浸かりながら一人物思いにふけっていた。

 (私はどうしてあんなことを)

 それは昼食時、自分自身が口にした言葉だ。

 田宮君が私の料理をまた食べたいと言った時、自然と口にしそうになったのだ。「また作ってあげようか」と。

 看病してくれたお礼だから、今回限り。そう思っていても考えてしまう。また作ってあげられないかと。特に意識したわけではなかったはずなのに気がついた時には途中まで喋っていた。幸いにも周りには言いかけていた内容には気がついていない。

 (一体何でこんなことを考えてしまうのかしら)

 瑞希自身何故そう思ってしまうのかがわからない。今まで誰かに料理を作ってあげたいと思わなかったし、お願いされても作ってあげようとは思わなかった。それなのに今日は違った。美味しそうに私が作った料理を美味しそうに食べる彼を見ているとそう思わずにはいられなかった。

 料理を作っている時もそうだ。普段ならそれほどまで出来栄えを気にしたりはしていないのに、今回に限っては何度も味見をして納得できるまで妥協しなかった。あまりにも味見をし過ぎて朝食を抜いてもしまうぐらいになったのには自分自身驚いていた。

 そしてこれまであまり実感できなかったある感情。


——料理を作るのはこんなにも楽しいことだったんだ。


 それでもどうして今回はこんなにも料理することが楽しいと感じたのだろうか。これまで毎日作っているがこんな気持ちになるのは初めてだ。

 もしかしたら料理に注文が付いていたからなのかもしれない。ただの肉じゃがじゃなくて今回作ったのは「味の染み込んだ肉じゃが」だ。それでも田宮君は特にこだわらなくてもいいと言ってくれていたのに何故か私は細かい所まで拘った。どうしてそうしようと思ったのか今も分からない。

 「あ~、もう!」

 これ以上考えても仕方ない。瑞希は考えを振り払うように湯船から立ち上がった。



 文化祭まで残り一週間。間近に迫って来ると学校の敷地内いたる所で準備を進めているクラスが多くなった。

 現在、玲士は中身の詰まったビニール袋を抱えて廊下を歩いている。

 玲士も自分のクラスの手伝いはしているが、生徒会の仕事が優先されるのであまり参加できていない。

 衣装に関しては女子メンバーが率先して動いているので、玲士は装飾や小物を運ぶだけである。

 「これで良しっと。あとは流石に当日まで待つしかないか」

 教室の隅に抱えていた荷物を降ろし、ようやく一息ついた。テーブルは邪魔になるから空き教室に運ぶだけにしてある。

 さて、やることがなくなって手持無沙汰になってしまった。どうしようか。

 「生徒会に行ってみるか」

 もしかしたら瑞希がいるかもしれない。また一人で作業しているなら手伝おう。

 そう思って廊下を歩いていると、視界にあるものが入り、玲士は足をそちらに向けて歩き出した。



 「やっと終わったわ」

 「いや~。流石に私もあそこまで拘るとは思ってなかったわよ」

 隣を歩く瑞希の声に疲れが混じっているのに梨恵は同意しながら一緒に歩いていた。

 瑞希がクラスの出し物に参加しないことは事前に知らせていた。それでも、せっかく作るのだから協力してほしいと言われれば断ることはできなく、さっきまでずっと付き合わされていた。梨恵は瑞希の付き添いだ。

 「いくら何でもこだわり過ぎでしょう。彼女達の目の色が変わっていたわよ?」

 「私の時はあそこまでの熱は無かったわよ。試作品で瑞希がぴったりだったから、やる気が出たんでしょうね?」

 「ほとんど参加できない私にこだわっても仕方ないでしょう」

 「まぁ、いいんじゃない?最後だからやりたいことをやらせたらいいじゃない」

 笑いながら話していると不意に瑞希が足を止めた。何かあったのかと瑞希の顔を横から覗き込んでも梨恵のことは気にせず、真っ直ぐ前を見ている。

 「あれって後輩くんじゃない?」

 「……」

 瑞希の視線の先を見ると後輩くんが女子生徒数人と一緒にいた。荷物を抱えている後輩くんの周りに女子生徒が集まっているように見える。瑞希は何も答えずじっと後輩くんを見ている。

 「先輩ありがとうございます。うちの男子達まったく手伝ってくれなくて困ってたんですよ」

 「気にしないでいいよ。特にやることもなかったからね。これぐらいお安い御用さ」

 どうやら後輩くんは別のクラスの荷物を運んでいるみたいだ。女子生徒と話しながら長机を抱えている。

 後輩くんは私達に背を向けて前を歩いているからこちらには気がついていない。

 「先輩って文化祭中は自分のクラスから離れられないんですか?」

 「そんなことはないよ。生徒会の仕事で見回りもしないといけないから、うろうろしていることが多いよ。逆に自分のクラスにほとんど関わることは無いんじゃないかな」

 「なら私達のクラスに来てください。お礼にうちのクラスで飲み物をサービスしますよ」

 「君たちは1―6だったね。必ず行くと約束はできないけれど、できる限り行くようにはするね」

 「「「是非来てください」」」

 女子に囲まれている後輩くんは楽しそうに話をしている。こうして離れて見るとまるでハーレム状態だ。

 「後輩くんモテモテだね~。……って瑞希⁉」

 隣の瑞希に話しかけていたはずなのに、隣を見ればそこにいるはずの瑞希がいなくなっており、瑞希は踵返して歩いてきた道を戻り始めていた。

 「ちょっと、どうしたの?」

 「なんでもない」

 「何でもないなんて無いでしょ。どこ行くのよ」

 「……生徒会よ」

 堅い声でそう答えた瑞希はずんずんと歩いていくのを梨恵は付いて行くしかなかった。



 生徒会に着いてから瑞希は黙々とテーブルで雑務をこなしている。一緒に廊下を歩いていた時のリラックスした雰囲気は無くなっており、生徒会室の中は若干ピリピリとした空気になっている。原因はなんとなくわかるけど、一応そうなのか確かめてみよう。

 「後輩くんって結構人気あるみたいだよ」

 「……唐突に何を言い出すの」

 梨恵の言葉に瑞希はぴくっと反応して手が止まった。これはもしかして……

 「彼って元々相手のことをいきなり拒絶したりせずに一旦は受け入れるような包容力みたいなのあるじゃない?それだけでも女子からの評判は良かったんだけど、生徒会に入ってから学年とかクラス関係なく関わっているから頼もしく思われているみたいよ」

 実際、後輩くんの良い評判はよく聞く。普段表情を変えることもなく淡々と冷静に仕事をしている瑞希とは違って後輩くんは相手の立場になってできる限り相手の希望に沿えるように努めている。実は友人経由で、後輩くんのことを紹介して欲しいと言われたこともあるのは瑞希には秘密にしてある。

 「……そうなの。でもまだ一人で任せるのはできないわね」

 ……そうくるか。わかっていたことではあるけど、変に遠回しに言っても聞けなさそうね。

 回りくどいことはせずに梨恵はストレートに聞くことにした。

 「瑞希ってさ、後輩くんのことをどう思っているの?」

 「……どうとは?」

 「いや。言葉通りそのままの意味なんだけど?」

 瑞希の言葉に梨恵は呆れた。冗談のような返答だが、瑞希自身は本気で分かっていないから手に負えない。

 瑞希は顔を上げしばらく思案顔になった。

 「そうね。さっきも言ったけど、一人だとまだできることは少ないけれど、細かい所に気を配れているからまずまずといったところかしらね」

 瑞希からの言葉に梨恵は内心溜息をついた。この子は生徒会のことでしか感想は言えないのだろうか。

 実際、後輩くんとは生徒会でしか関わることが無いが、それでも他に思うことはあるだろう。悪い評価ではないのは嬉しいが、それだけなわけがない。

 「瑞希、本当にそれだけなの?」

 「それだけ?。それ以外に何があるのかしら。それぐらいしか私は言えることは無いわよ」

 さも当然というような瑞希だが、梨恵からすればそれだけではないと言える。

 廊下で後輩くんが女子生徒に囲まれながら楽しそうに笑っているのを見つけた時、何故瑞希は来た道を戻ったのか。普段の瑞希なら引き返すことはせずそのまま歩いていたはずだ。

 後輩くんから離れるように歩き始めた瑞希からは不機嫌な感情があからさまにわかるほどだった。瑞希は後輩くんが女子生徒と笑い合っていたことに嫉妬めいたものを感じていたはずだ。

 (誤魔化されているのかしら。いえ、瑞希の場合、嫉妬だと分かっていないのかしら)

 いっそのこと瑞希に話してしまおうかと思ったが、梨恵は伝えようとはせず心の中に留めた。本人が自分の気持ちを理解していないなら、梨恵から伝えても何の意味もなさないだろう。それでも、何か言ってやりたかった。

 「瑞希はさ、もう少し自分の気持ちに正直になろうよ」

 「何のことかわからないけど、私はいつも正直に生きているわ」

 瑞希は相変わらず真面目に返してくるだけで、それ以上何も言わなかった。

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