もしも・・・。
しおりが記憶を取り戻したことに安心したのか、俺はいつの間にか泣いてしまっていた。
どうもしおりが絡むと、冷静でいられなくなるらしい。
目の前が涙でかすむ。
「ちょっと待ってね」
俺が指で涙を拭っていると、しおりがスカートのポケットからハンカチを取り出した。
「はい、ハンカチ。男の人って、滅多に泣かないものだと思っていたわ」
しおりからハンカチを受け取って目元を押さえた。
柔らかいガーゼのハンカチはふんわりと花の甘い香りがする。
「まあ、泣く事もあるさ…ありがとう。後で洗って返すよ」
確かに普段は滅多に泣かないのだが。
彼女の前では、感情を抑えきれないらしい。
自分でも驚くほどに。
「上原くん。やっと見つけたよ」
安良坂とゆかりが、遅れて下から昇ってきた。
お前たち、俺としおりが二人きりになると危ないって言ってなかったか?
その割には付いて来なかったけど。
「安良坂、どうしたんだ?来るのが遅かったな」
「お花摘みに行ってたのよ」
「ああ、成程な」
暑いから水分を取ると、トイレに行きたくなるものな。
何かあったのかと、少し心配していたのだがひと安心した。
「ゆう、えっと…もしかして、わたしの為にみんなで夜空を飛んでいたのかしら?」
しおりが、おずおずと訊いてくる。
「まあ、そうだな。元はと言えばしおりが「空を飛びたい」って言っていたからだ」
「わたし、そんな事言ってたの?」
過去の自分の発言に驚いている。
記憶が無いから余計に驚くのだろうか。
「言ってた。しおりって記憶を無くしてもしおりなんだなーと思った」
「な、なによそれ…」
しおりの顔が少し赤くなった。
「お兄、あれ…もしかして黒田さんって、記憶戻ってるの?」
「そうなの?」
「「わあっ!」」
ゆかりと安良坂が、歓声を上げた。
俺たちは手を取り合う。
「黒田さん。良かったね」
「一時はどうなる事かと思ったよ…良かったね。上原くん」
ゆかりは目に涙をためていた。
泣き虫だなぁ。ゆかりは。
俺も他人の事言えないが。
*
俺たちはビルの屋上から、月を見ていた。
「それにしても月が大きくてキレイじゃないか」
夜空は月の光で、明るく輝いていて…俺はしばらく月に見惚れていた。
「お兄、まさか「あのセリフ」を言ってないでしょうね…」
「あのセリフって…何だ?」
「はぁ…やっぱり知らなかったのね。ゆかりちゃんの予想通りよ。そのお陰で、記憶を取り戻したのだけどね」
「なになに?何の事?ゆかりさん。ぼくにも解るように説明して?」
「「ええーっ!愛の告白だって?」」
俺と安良坂は叫んでいた。
「月がキレイだな」と言うと、愛の告白になるらしい。
所説あるらしいが、夏目漱石の言葉だとか。
そんな事は全く知らなかった。
道理でしおりが照れていたわけだ。
そういえば…。
「最初にしおりに出会った時、俺…言ってなかったか?」
一緒に空を飛んだ時、本当に月がキレイで言った記憶があった。
素直な感想だったのだけど。
「言ったわよ。よく憶えているもの。あの時は驚いたわ。多分、意味を分かってないだろうなとは思ったけどね」
思い出して顔が熱くなった。
会って間もない人に言うセリフじゃない。
「誤解させて悪かった…今更だが」
穴があったら入りたいとはこの事だ。
「もう気にしていないわよ。ゆう、『ずっと一緒に月を見てくれる?』」
「え?ああ…」
俺はしおりとしばらく月を眺めていた。
後になって、しおりの返事がOKだったという事を知る事になるのだけど。
この時の俺は知る由も無かった。
*** 黒田しおり視点
わたしは事故にあってから、しばらく記憶を失っていたらしい。
その頃の事を憶えていないので、聞いた事を信じるしかないのだけど。
今は学校の教室にいて、わたしの隣にはゆうが座っている。
わたしは彼にじっと見つめられていた。
「ゆう?」
「ああ、ごめん…何でもない」
彼の頬が赤くなって、わたしから目を反らす。
そういえば訊きたいことがあったのよね。
「ゆう、えっと…記憶が無くなった頃の授業、憶えていないのよね。少し教えてほしいのだけど」
「ああ、何だそんな事か」
彼はノートを開いて、指で指し示した。
「多分、ここら辺からだと思うが。しおりは自分でノートを取っていたから自分のを見れば分かるんじゃないかな」
自分のノートを見るとわたしの字でキレイに書き込まれていた。
良かった。
見直せば何とか分かるかもしれない。
「そうね。ありがとう」
昼休み…わたしは、安良坂くんに最近のゆうの事を訊いてみた。
彼はちょうど、トイレに行くと言って教室から居なくなっていた。
少し、彼の様子が気になっていたから。
「あーもしかして、記憶喪失の間…上原くんは黒田さんと少し距離を置いていたからね。友達として接していたから色々と我慢していたんじゃないかな」
記憶を失っていた頃は、わたしと友達として付き合っていたのね。
「友達…ね」
友達だったら、恋人同士がする事も出来ないものね。
恋人に会えないみたいな感覚だったのかしら?
わたしは目の前にいるのに。
わたしが逆の立場だったらどうだっただろう?
彼が記憶を失ってわたしを忘れてしまったら…。
想像しただけでズキンと胸が痛くなった。




