12月29日
「このあとシュウちゃんは、どうするの?」
ぼくとミズキは、この“夢”のホスト役はシュウジだとにらんでいる。シュウジが安心して12月30日を迎える心構えさえできれば、ぼくたちはこの“夢”から解放されるのだと、そう信じて行動してきた。
「明日もあるからな。ひさしぶりにゆっくり眠って、30日に備えるよ」
ぼくは肩をすくめてみせた。
ミズキは……、両目にあふれんばかりの涙をためている。
「せっかくふたりと知り合えたのに……」
「また会いに来てよ」
「31年もあるのよ」
「そうか、目が覚めたら2016年か」
ぼくが目を覚ました時、ミズキは51歳に、シュウジは42歳になっている。17歳のぼくからしたら、はるかに年上の大人だ。それまでのあいだ、彼らはどんな時間を過ごして、どんな大人になっているんだろう。いま目の前にいる、ぼくと同年代のようなふたりが! 僕だけが損をしているような、あるいは得をしているような、不思議な気持ちだ。
「3人で記念撮影、いいかな?」
「いいぞ。でもデータが残らないんじゃないのか?」
「それでもいいよ。2016年に、もう一度、同じアングルで撮ろうよ」
スマホのカメラ機能で、ぼくは3人の写ったスリーショットを撮影した。ぼくたちが守った、会議棟がバックに映っている。場内に閉会を告げるアナウンスが流れた。
「じゃあ、そろそろ俺は撤収作業に行くよ」
「じゃあね、シュウちゃん」
「ああ。2016年に、またな」
「コミケは卒業するんじゃなかったの?」
「好きなものといつかは別れなきゃいけない世界なんておかしい、って誰かさんに教えてもらったからな」
シュウジと別れたぼくとミズキは、国際展示場駅へと向かっていた。
ふたりとも、何も言葉を発さない。
「ちょっと、電話してきていいかな?」
「うん……。どうぞ」
ぼくは公衆電話のボックスに入り、10円硬貨を何枚か連続して投入した。
トゥルルルル
呼び出し音が何度か鳴った後、ガチャリと音がして、男性が通話に出た。
「はい、もしもし駒沢ですが」
18年前の父親と、受話器越しにぼくは再び向き合っていた。現実の世界では、すでに亡くなっている父親。病室で日に日に衰弱していく父親に対して、思春期を迎えたばかりのぼくは、なにひとつ優しい言葉をかけることができなかった。
「もしもし? もしもーし?」
「…………あ、あのっ」
ひと呼吸分の、沈黙。
「……いまから言うことは信じてくれなくても結構です」
「……はあ」
「…………これからあなたには、息子が生まれます」
18年前の父親は、このいたずら電話のような会話に、しかし耳を傾けてくれている。
「中学に入るころには反抗期を迎えて、表向きは会話が少なくなりますが、それでも貴方のことはとても大切に思っているし、尊敬しています」
「…………」
「それから、5歳のときにあなたの大切にしている本にマジックペンで落書きしてしまいますが、どうかあまり叱らないようにお願いします」
「……そうか。検査のときには逆子でまだ性別はわからなかったんだが、私には息子が生まれるのか」
「……はい」
ぼくは泣きそうになるのを懸命にこらえて、返事をしていた。
「男の子が生まれたら、ノアという名前にしようと思っているんだ。どうかな?」
「いいと……思います。ぼくは……その名前、大好きです」
「そうか。ありがとう」
受話器を置いて外に出ると、ミズキがぼくにほほえみかけてくれた。
ぼくは、手の甲で涙をぬぐっていた。
「もうやり残したことは、ないのね?」
「……うん」
「じゃあ、いよいよお別れね」
「そうだ、1995年に」
「待って!」
ミズキは、ぼくの“予言”をさえぎった。
彼女がこのまま地元の兵庫県にUターン就職すると、1995年に阪神淡路大震災に遭遇する可能性がある。せめてそのことだけは告げておかないと。メモなどの類は、元の時代に持って帰れない公算が高い。いま口頭で、伝えなきゃ。
「未来のことは、知りたくない」
「いや、でも」
「それでも、よ。私は33歳になってシュウジさんと再会して、51歳になってノアと再会するの」
「しかし」
「いいの。歴史に正解なんて、ないのよ。それより私、次会うときは51歳よ。すっかりオバさんよ? あなた、気づかないんじゃない?」
「そんなこと! ちゃんとわかるよ!」
彼女はこの数日(厳密には同じ日だけど)のあいだに、とても大人になったような気がする。一方のぼくは、自分の情けない部分をたくさん直視して、自分がまだまだ子供だってことを痛感させられた。
ま、た、ね
ミズキの口がそう動くと、電車は大きく揺れて、ぼくは膝の骨がすっかり抜け落ちてしまったかのように、膝から崩れ落ちるような感覚を味わっていた。
どこまでも、どこまでも落ちていくかのように。
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「そろそろ動き出しますよ」
起こしてくれたのは、隣に座っていた男だった。
目を覚ましたぼくは、はじめ自分がどこにいるのかわからなかった。
夢。長い夢を見ていた。
馬鹿な夢を見たものだ。18年も前のコミケにタイムスリップするなんて。
反射的にジーンズの後ろポケットに手を回すと、キンキンに冷えたスマホと財布が指先に触れる。眠っていた姿勢のせいか、それとも師走の寒さのせいなのか、両脚が痺れていて感覚が鈍い。ぼくは立ち上がり、大きく伸びをした。吸い込んだ空気に潮の香りが混じる。
スマホの電源を入れると日付と時刻が表示された。
9:25 12月29日木曜日
バッテリー残量、56%。
ディスプレイ左上には、wifiのマークが表示されている。ぼくはあわててカメラロールを確認してみたけれど、そこには3人で撮った写真は残っていなかった。
とても長い夢を見ていたようだ。
ぼくはバックパックを拾い上げ、スマホ用の携帯充電バッテリーを取り出す。結束バンドで結んだケーブルにスマホを接続し、そのままバックパックの中に放り込んだ。
「あ、あの」
隣の男が、すまなそうにぼくに話しかけていた。
「以前、どこかでお会いしませんでした?」
黒いダウンジャケットに、胸にウサギのワンポイント。
牛山健二だ。
まさか、まだ1998年に? いや、wifiが入るんだから、そんなはずはない。
それに“いつも”ぼくを起こしてくれた牛山よりは、だいぶ恰幅もよくなっているし、頭には白髪も目立つようになっている。ということは……、まさか18年もの歳月を経て、ぼくは再びコミケ会場で牛山健二と隣り合わせているらしい。なんてことだ。
「いえ、ぼくはコミケに参加するのは初めてなんです」
「そ、そうでしたか。すいません、いきなり話しかけたりして」
「いいんです。きょうは、どこかお目当てはあるんですか?」
「と、とりあえず企業ブースを見た後は、知り合いのサークルに挨拶をする感じかなぁ」
「へぇ。どんなサークルなんですか?」
「えっとね、エヴァの老舗サークル。考察とか、そういう評論系の。でも今年はみんな『シン・ゴジラ』の話でもちきりだろうけど」
「……アスカより綾波?」
「そ、そうです! ぁ、ぃゃ、アスカも可愛いなっ、とは思うんですけど……」
待機列が少しずつ歩を進めていく時間、ぼくは牛山健二との18年越しの会話を楽しんでいた。
列が西2ホールへと吸い込まれていく出入り口付近で、不意にぼくを呼び止める声がした。
「ノア!」
ぼくは待機列を離れ、声の主を探した。
「ああ、ノア! 本当にノアなのね」
妙齢の女性が、声を震わせながらぼくに話しかけてきた。
「わからないかしら。私、すっかりオバサンだものね」
「何言ってるの。全然変わってないよ、ミズキ」
泣きじゃくる彼女の隣には、体躯のがっしりとした中年男性が立っている。
「シュウちゃん?」
「ああ。懐かしいな、その呼び方。本当に久しぶりだな」
「ぼくはいま目覚めたばかりだけどね」
ぼくからすれば数時間ぶり、しかしミズキからすれば31年ぶり、シュウジからすれば18年ぶりだ。シュウジとミズキは、ぼくの手を取って、それこそ親子や親戚でもあるかのように、再会を喜び合った。
「ふたりとも、あれからどうしてたの?」
「私ね、結局地元には帰らずに、東京で看護師になったのよ」
「そう、そうだったの」
「趣味をやめることなんかない、ってノアが言ってくれたから。こっちで就職して、コミケにも参加して、それで1998年にシュウジさんと再会したの」
「夢みたいな話だよ」
ンン、っとシュウジがひとつせき払いした。
「ま、まあ。あの犯人を捕まえたあたりで、だいたい予想はついていたんだけどな。次の日、つまり1998年の12月30日に、33歳になったミズキが訪ねてきてくれて、それでノアの推論を聞かせてくれたんだ」
「へぇー」
「まぁ、その……、巻き込んで悪かったな」
「ただの推論だよ。あれが事実とは限らないしね。いい経験をさせてもらったと思っているし。それより……、“ミズキ”って?」
「ああ、うん。その、まあ、1998年に再会したあと、結婚したわけなんだ」
「なんかふたりで立っているのを見たときに、雰囲気からして、そうじゃないかと思ったんだ」
「相変わらず鋭いな」
「ご結婚おめでとう。リアルタイムじゃ言えなかったけど」
「ありがとう。それより、このあとセンター試験か?」
「あああ、思い出させないでくれよ」
「理系の科目なら教えられるからな。いつでも頼ってくれ」
ぼくとシュウジのやりとりを、ミズキは真ん丸な目を三日月のように細めてニッコリと微笑みながら眺めていた。
「ねえ、3人で写真を撮る約束でしょ。会議棟の前まで移動しましょうよ」
お互いのスマホを出して連絡先を交換し合っていると、ミズキとシュウジの背中を後ろからたたく少女が立っていた。
「パパ、ママ。こんなところにいたの? 探している人がいるって言ってたけど、見つかったの?」
その少女の長くてまっすぐな黒い髪は、肩のあたりで軽く内向きにパーマがかかっている。頬にやわらかみのある輪郭、ゆるいアーチ形の眉の下には、丸くて大きな垂れ目。上唇を少しだけ突き出すのがクセらしい。ぼくが出会ったころの、ミズキそっくりの少女。コスプレはしていないけれど。
「ええ、会えたわよ。パパとママの恩人の、ノアよ。ねえノア、これが私たちの娘のハルカ」
「お母さんそっくりだろ」
「それな」
「本当、変わらないわねノア。その『それな』って言い方も」
ハルカと呼ばれた少女は、いぶかしそうな表情でぼくを観察している。
「あなた、私と同い年くらいなのに、ずいぶんパパとママと親しいのね。ね、どういう関係なの?」
「話せば長くなるけど」
ぼくがシュウジとミズキのほうを見ると、シュウジは肩をすくませていた。
「とりあえず一緒にコミケを見て回らない?」
「いいわね!」
ぼくにとって“はじめての”コミケが、幕を開ける。
終。




