第13話(最終話) 両手いっぱいの花束を私たちに(引っ越し)
「やっぱり広いねえ」
先輩がリビングで背伸びをした。
「荷物が入ればすぐに狭くなるすよ」
「それはそう」
私たちは不動産屋から鍵をもらって新居にいた。最初から不動産屋には鍵を二つもらっていたので合鍵を作るというイベントは発生しなかった。
「あと二時間だっけ」
引っ越しの作業は来週だがその前に新しく買った家具や家電が家にやってくる。まずは寝室に置かれるダブルベッドだ。これは配送業者に組み立ててもらうことになっている。女性二人の力では無理そうだったからだ。生活をしていく上でこういう手の届かなさというのは何度も味わっていくのだろう。様々な方法でこれを乗り越えていく。二人でできることは二人で、できないことは誰かの手を借りて、まさに生活、という感じだ。
「それで、それなあに?」
「ああ、これは」
振り返った先輩が私の持っていた大きめの紙袋を今さら指したので取り出して床に置いた。「トイレットペーパーす。入居初日にもっとも必要なものといえばこれす」
「なるほど用意がいい。さすが私が見込んだかわいい恋人」
「まあ、そうすね」
「もう少し喜んだり恥ずかしがったりしてよ」
「何を今さら」
「ふふん」
「なんで先輩の方が嬉しそうなんすか」
先輩がニコニコしている。
「うーん、いやねえ。おや、まだ何かあるね」
「そうす。あとは……」
「あ、いいじゃん」
袋の底にあったものを出して先輩に見せる。鉢植えのように見えるラウンドブーケだ。赤いシンビジウムと白いアネモネ、ちょうどトイレットペーパーを買った道すがらに花屋を見かけたからだ。花はすでにパッケージされたものを選んだだけなので花言葉とかは知らない。あえて検索しないことにした。私が良いと思っただけなので、誰かが決めた意味にこそ意味はないはずだ。
「うんうん、こういう彩りが大事なんだよね」
「私もそう思ったので。テーブルが届いたら置きましょう」
「うん、任せたよお花大臣」
「また変なことを……」
私たちはベッドに腰を掛けていた。業者は私たちを見て意外そうな顔をするでもなく淡々と作業をしていた。これが彼らの仕事なのだから当たり前だろうけど、こうした僅かな緊張はそう簡単になくならない。いい加減覚悟というものを私も決めるべきだろうとは思う。先輩に言ったら悲しむかもしれないな。
「夜にテーブルすね」
「夕飯どうしようか、食べに行く?」
「荷物が来る時間が読めないすね、何か出前でも取りますか?」
「それは、つまり、引っ越しそばを?」
「ああ、全然気に掛けてなかったすね、そうすね、そばの出前がアプリにあればそうしましょう」
「わーい。じゃあ、それまでは」
先輩が私に向き、肩を掴んでベッドに倒した。
「あの、先輩、準備などなどが」
「いいから」
「よくありません」
「わかったよ」
そのまま先輩が私の胸に顔を埋めた。何もわかってない。
「私のこと、ずっと好きでいられる?」
先輩が囁く。それに私は誠実に返す。
「絶対ってことはないと思うすね。これから何が起こるかわからないので」
少しの無音。
「こういうときは自信がなくても『絶対』って言うものだと思うけど、でも君のさ、そういうところ、いいと思うよ。君はずっとそのままでいてもいいよ」
「それもわからないすね、もしかしたら、もっと先輩にべったりするかもしれませんよ」
「そういう変化なら嬉しいから挑戦してみて」
「要検討するす。先輩は?」
「私は一生好きだよ、たとえ君が煙になっても、私は君のことを考えてる」
「それは嬉しいですね」
「ねえ」
「なんすか先輩」
「私、もうすぐ卒業するけど」
「そうすね」
「そうなったらもう『先輩』ではなくない?」
「先輩は、その、概念的なもので、そもそも年齢的にはずっと先輩では」
「そういう意味じゃなくてさ」
言いたいことはわかるけど。
「これまでも名前で呼んでいないということはないと思いますが」
特にこういう場面では。
「でも、先輩はもう終わりってこと。これからは完全に対等な二人になろう」
「そうすね、先輩が私のことをかわいい後輩扱いしなければ」
「なかなか言うじゃない。それは、うーん、難しい。頑張る」
「お願いします。先輩、ああ、いえ、違いますね」
一呼吸置く。
「――」
私は先輩の名前を呼ぶ。
「愛してますよ、少なくとも今のところは」
彼女が笑った。
「一言多い」
私はキーボードを叩く手を止めて、脇にあったマグカップを手に取り冷めかけたコーヒーを流し込んだ。
私と『先輩』の話はひとまずここまで。ここはいくつか時が過ぎた、どこかの場所。懐かしい思い出を書いていて、私も長い時間が経っておぼろげだった記憶が蘇り、むずかゆい気持ちになったり、胸が暖かくなったりしていた。これをどこかに公開する気もしないし、誰かに読んでほしいとも思わないけど、私たちの生活の記録として残しておくことにはきっと意味があるだろう。
もうここに『先輩』はいない。
ディスプレイの横に吊られているカレンダーを見た。日付にバツが並んで、明日にマルがつけられている。そろそろ私も寝る準備をしないといけないな、明日の朝に目の下にクマを作っていたら怒られる。
あれからも本当に色々な、笑い話や、心底ムカついた話もあって、それもいつか語ることはあるかもしれない。気が変わって本の一冊にでもしてやろうとなるかもしれない。
ただ、まあ、それは別の話。
背もたれに背中を預けてあくびをしたところでドアが開いた。そこにはパジャマを着た元先輩、明日からはこの関係性をなんと呼んでいいのか未だ決めかねている人が腰に手を置いて立っていた。
「あのねえ」
「なんすか」
「式の前日に夜更かしする人がいる?」




