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忘れ去られた庭園で人知れず滴る朝露のような人だった。
夏の日だった。自分自身と空気の境界が溶けてなくなってしまいそうなほど蒸し暑かった。息をするだけで肺がじんわりと汗ばむような熱気がそこかしこに満ちていた。
夏季休暇に入ったばかりだったが、そんな暑さでは宿題をする気にもなれず、私は縁側に座り込んで顔なじみの庭師の作業を眺めていた。
年老いた庭師だった。凡そ学校と名の付くものに通ったことがなく、学がなかったが、この庭師ほど美しく花を咲かせる者を私は終ぞ見たことがなかった。
周りの花々に養分を吸い取られて萎んだ蕾。どこからか降り立った害虫によって大部分を齧り取られてしまった茎。太陽に見放され、そっぽを向いた蔓。
どれほどの失敗作でも、庭師が節くれ立った指で撫で、深みのある瞳で見つめれば、途端に色鮮やかな花を咲かせるのだった。
果実も同様だった。ぼろぼろに朽ち果てた実が、庭師の献身によってたった一晩でその実から果汁を滴らせる様を私は見たことがあった。
幼い頃、この庭師は魔法使いで、庭は彼の魔法が満ちる楽園だと信じて疑わなかったものだ。
あの夏は石楠花と彼岸花が特に見事だった。
陽光が降り注ぎ、ぐつぐつと地面が煮立っている庭のそこかしこ。低木や苔に混じって、花が咲いていた。淡い桃色に色づく可憐な石楠花や、毒々しい赤の花弁を四方に広げる彼岸花は、私の眼を楽しませた。
風が花々と戯れ、私の頭上で風鈴が音を立てたときだった。
ああ、お前さん。
お前さんはまるで蜃気楼のように現れたのだ。
私から数歩離れたところに、お前さんは立っていた。背筋を緩やかに伸ばして、涼やかな視線を真っ直ぐに庭に注いで。
麻の無地の薄物から覗く手首や足首は、きゅっと引き締まっていて、皮膚の下には血の代わりに清廉な水が走っているようだった。お前さんが立っていたのは縁側の端で、肌を焦がすほどの日光に晒されているはずなのに、髪も鼻筋も首元も静かに冷え切っていた。
狐か、それとも鬼か。お前さんの足音にも気配にも、私はまるで気づかなかった。
お前さんは何かを呟いていた。全ては聞き取れなかったが、その薄い唇が父の名前を紡ぐのを私は見逃さなかった。
植物学者である父の許にかつての教え子の弟子が訪ねてくることを、私はつい数日前に母から聞いたばかりだった。
その教え子の弟子が、お前さんだった。
お前さんが庭を眺めている間、私は息を潜めていた。汗に濡れた前髪が目元に貼りつくのが、鬱陶しかったのをよく覚えている。
庭師だけは目もくれず作業を続けていたが、聞き覚えのない静かな声に呼びかけられて手を止めた。
「この庭は、全て貴方が手入れなさっているのですか」
これがお前さんの口調だったね。かっとすると下品な言葉も平気で口にする母の元で過ごしていた私にとって、その口調はどんな硝子よりも透き通って聞こえた。
お前さんの質問に、庭師は頷いた。皺と皺の間に汗が溜まっていた。滅多なことでは口を開かない人だった。
「植える花や植物の選定も、貴方がおやりに?」
「庭に植える花を決めるのは旦那さんだ」
ぶっきらぼうに答え、庭師は背を向けた。長年の肉体労働のために歪んだ背中が、拒絶を示していた。
お前さんは、色鮮やかな植物が咲き誇る庭に今一度目を走らせた。
最後に視線は、縁側に転がっていた一冊の本に向いた。私はそれを拾い上げ、胸に抱え込んだ。
近所に一軒しかない古本屋で手に入れたその本を、私は毎晩少しずつ読み進めていた。庭を眺めるのに飽きたら読もうと、縁側にも持ってきていたのだった。
本からそれを抱える私へと目を移したお前さんは、涼やかな目元を和らげた。
「江戸川乱歩を読むのですか」
七つも年下の私に対しても、お前さんは丁寧な口調を崩さなかった。
私は顔を上げた。顎をつんと上げ、なるべく落ち着いた声を出すように気にしながら「ええ」と言った。
名家出身の母の次女であるという意識が、大人びた言い方や振る舞いを私に要求していた。
小娘の滑稽な猿真似だ。お前さんは気を悪くした素振りを見せず、「そうですか」と頷いた。視線を落とすと、お前さんの細い睫毛が目元に影を作ることに私は気がついた。
「その歳で江戸川乱歩を読むなんて大したものですね」
静まり返った水面に石が投げ込まれた。
薄い唇で紡がれた言葉は、毒のように私を蝕んだ。




