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これまでの茜の人生において、人の少ないところへ逃げることは自分を守ることと同義だった。
親に連れられてテーマパークに行った時も。
電車に乗るなら人が少ない車両の方がいいとホームの端まで歩く時も。
家のリビングで流れるテレビの音が辛くて自室に戻る時も。
そうでないと心が過剰に反応してしまいそうになるから。
自分でもうまく表現できないのだけど、たくさんの人が存在することを感じること、響き渡る人の声や何かの音を耳で受け入れること、ヒトやモノや情報がものすごい速度で行き交う世界を目に入れること、それらは全て茜にとっての苦痛の原因になった。
自分が弱い人間だと釈明したいとは思わない。
ただ、たぶん他人に比べると心も感受性も敏感なのだろうとは思っている。
刺激を受け取ると胸のあたりが苦しくなってきて、それだけでひどく疲れてしまう。
だからそういう時は逃げることで自分を守ってきた。
例えば学校の昼休み。教室がクラスメイトの声とたくさんの音で溢れて、ヒトとモノがせわしなく行き交う空間になる。
喋り声が耳に入ってくる、大きな声で叫んだ内容が聞こえてしまう、自分の周囲を行き交う気配にいちいち反応してびくっとしてしまう。
それは茜にとってキャパオーバーになりかねない環境で、そういう時は人の少ない裏庭のベンチに行ったり、校舎の端の方にある人が来なさそうな空き教室を使ったり。
そうやって逃げ込んだ場所で静かに過ごして、学校という空間で過ごす一日一日をやり過ごしていた。
唯一自分を追ってきそうな穂香は他の友達とご飯を食べているし、茜はそんな場所でひとり。
そんな風に人の少ない場所を好んで、それが自分自身を守るための時間になっていた。
でも、今日は違った。
小春と一緒に散歩をしてきたその日の夜、茜は布団の中で考えていた。
自分ひとりで、自分を守るために必要としていた時間に小春という存在が現れてきて、けれどそれでも辛い気持ちにもならず、苦しいと感じることもなかった。
むしろ彼女の言葉を通して今までとは違う楽しみや感情が自分の中に生まれた。
そしてその事実は今頃どうしているかも知れない幼馴染を思い出させる。
穂香と一緒でも自分は同じ気持ちになれていたのだろうか。
もし今日の相手が小春じゃなくて穂香だったら、どうだったろう。
この場所は女神の国。
それまで生きていた現実とは違う世界。穏やかで苦しみのない世界。
そんな世界にいて、そんな世界で暮らしている小春が相手だったからそう思えたのかもしれない。
でも、それじゃあ。元の世界で穂香が相手だったらこんな気持ちにはならなかった?
これまでだったらきっと無理だろうとすぐに思う茜だった。
だけど今の茜は、もしかしたら、と思うようになった。思えるようになった。
(わたしは、怖がり過ぎていたのかもしれない)
そんな風に思いながら、同じ部屋で眠っている小春の方を見やる。
暗い部屋だから顔は見えないけれど、そこにいる彼女の存在を感じる。
この少女は自分に今までになかった気持ちと経験を与えてくれた。
(また今度、一緒に行ってみようかな。わたしから誘ってもいいのかな)
そこまで考えて、眠気と少しの疲労で茜は眠りに落ちた。
また明日と言うように思考はそこで途切れる。
ただ、それから数時間後。
部屋中に響いた悲鳴で茜の意識は現実へと引き戻されることになった。
―――
「いやああぁぁっ――ー!!!」
「………!!」
悲鳴が聞こえて目覚める。この国に来てから一度も経験したことのない恐怖感を無意識に覚える。
それが小春の発したものであることを理解した茜はすぐにそちらへ駆け寄った。
布団から起き上がって小さく身体を丸めたまま怯えている小春に近づく。
辺りを見渡せば決して誰かが侵入してきたわけでもなく、部屋にも異変が起きたわけではないようだ。
だから、大丈夫だということを伝えたくて小春にそっと話しかける。
「小春さん、落ち着いてください。大丈夫ですよ」
「いやぁっ、もう来ないでっ……叩かないでっ……!」
「小春さん、わたしですっ。茜ですっ」
「ううっ……あ、茜さんっ……?」
すっかり怯え切った小春はゆっくりと顔を上げて茜を捉える。
灯りは付いていなかったけど、小春は確かに茜のことを視認した。
その表情は夜の闇の中でもわかるほど辛そうに青褪めていて、顔はくしゃくしゃと表現していいほどに涙を流して崩れていた。
茜はどうすればよいかわからなくて、ただじっとそこで小春と向かい合っていた。
そうしていれば、やがて小春から茜に抱き着いてその胸に顔を埋めてくる。
「小春さん……」
「茜さん……しばらく、ぎゅって、させてください」
「わかりました、小春さんの気が済むまで」
そして胸の中でしゃくるように泣き声を漏らして、茜の背中に回した腕を離そうとしなかった。
茜は不意に小春の髪に触れて、そっと頭を撫でてやる。
小春はそれを嫌がらず、むしろ抱き着く腕の力を増してもっと撫でてほしいと訴えるくらい。
それから小春が自ら茜から離れたのはたっぷり30分が過ぎた後だった。
外はまだ暗い夜の途中で、陽は差し込みそうにない部屋の中で二人は向き合う。
「茜さん……先程は、お恥ずかしいところをお見せしました」
「それは、いいんです。小春さんが大丈夫なら」
「……今は大丈夫です。茜さんがいてくれたので」
小春の表情には申し訳なさと恥ずかしさと居心地の悪さが混じっていた。
「あの、茜さん。わたくし、時々こんな風になってしまうかもしれないのですが……その時は、また抱きしめてくれますか」
「わたしでよければ、いくらでもします」
「……嬉しいです、茜さん」
じゃあもう一回と言わんばかりに茜に抱き着いてきた小春。
今度は肩に顎を載せるように、同じ高さで抱き合う。
「茜さんには、説明しておいたほうがよいと思うのです……わたくしがここに来る前のことです」
「小春さんも元居た世界から来たんですね」
「ええ。その頃、両親から暴力を受けていまして。今でもこうして突然その時のことが蘇ってきて、怖くて叫んでしまうことがあるのです。茜さんが聞いた悲鳴も、それです」
その話を聞いた時、茜の胸によぎったのは小春の傍にいたいという気持ちだった。
どうしてこんな気持ちになったのか。
これまでの暮らしで知ってきた彼女の優しくて穏やかなところが好き、そんなに辛い人生を送ってきたことへの同情、この子は報われなければいけないという不思議な義務感。
色々な感情が混じり合って、今の茜はこの子の近くで過ごしたいと思う。
自分もこの子と一緒の過ごしていることが幸せだと思う。
だけど、どうしてもその陰にちらつくのは彼女と同じ顔をした幼馴染のこと。
それだけが茜の穏やかな暮らしに影を落とす。
わたしが小春のことを好ましく思うのは、一緒にいたいと思うのは、好きな人と瓜二つだから?
それだけじゃないと思う。でもそれが一切ないと否定することができない。
誰にも見えない葛藤を抱えながら、茜は小春の背中を抱いたまま夜を明かした。