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事案指定 第68号「非在の抜け道」(其の一)

【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】

指定番号:事案指定 第68号

事案仮称:「非在の抜け道」

事象分類:局所空間拡張 / 未知生体構造擬態

発生地点:T都C区 オフィス街 雑居ビル間路地

初期観測:所轄署防犯カメラ映像精査中の監視手による事象検知


T都C区の夜は、乾いたアスファルトの熱気と、終わりなき喧騒に満ちていた。

だが、所轄署の地階にある薄暗い捜査本部だけは、

夜を忘れたかのような重苦しい沈黙に支配されていた。

換気扇が低い唸り声を上げているが、室内に充満した安タバコと湿った汗の匂いは一向に晴れない。


パイプ椅子が立ち並ぶ会議室の正面。ホワイトボードには、

過去三週間で忽然と姿を消した三人の会社員の顔写真が、時系列順に無造作に貼られている。

氏名、年齢、勤務先、そして最終目撃地点。共通項は、いずれも深夜の帰宅途中に、

オフィス街のビル間に挟まれた幅1.2メートルの極端に狭い路地へ足を踏み入れたきり、

消息を絶っているという点だけだった。


「クソっ……一体どこに消えたって言うんだ。神隠しじゃあるまいし」


机に山積みになった聞き込み調書と、空になった栄養ドリンクの瓶を前に、

中年のベテラン刑事がこめかみを抑えて吐き捨てた。

防犯カメラの映像は、網膜に焼き付くほど執拗に精査した。

三人とも、交差点のカメラには「路地へと吸い込まれるように入っていく背中」が鮮明に映っている。

しかし、その路地を抜けた先の裏通りに設置されたカメラには、

誰も、一人のこらず「出てきた人間」が映っていなかった。


周辺のビルには地下駐車場への直通扉も、マンホールもない。

窓にはすべて鉄格子が嵌まっており、完全な行き止まりだ。

機動隊の一個中隊まで動員して、路地の側溝からビルの屋上まで徹底的なしらみ潰しの捜索を行ったが、靴一つ、財布一つ見つからなかった。週刊誌が面白半分に書き立てるオカルトめいた見出しが、

所轄の焦燥感をさらに煽り立てる。捜査本部は連日の徹夜続きで疲弊しきっており、

ホワイトボードを見つめる刑事たちの目には淀んだ絶望感が漂っていた。


その片隅のパイプ椅子で、一人の若い刑事が、

冷めた缶コーヒーを片手に微動だにせずモニターを見つめていた。


彼の前にある端末の画面には、被害者たちが消えた現場の防犯カメラのコマ送り映像と、

区の建築局から引き出した該当区画の正確な測量図が、二つのウインドウで並べられている。

映像の中で、最後の失踪者が路地の暗がりへ消えていく。

男の視線は、被害者の表情や足取りといった人間的な要素を完全に素通りしていた。

彼が追っているのは、歩数、フレーム単位の秒数、そして図面上の実測距離だけだ。


成人の平均歩行速度、秒速1.2メートル。

図面上の路地の全長、15.0メートル。

対象がフレームアウトしてから、反対側のカメラに到達するまでの理論上の所要時間は約12.5秒。

しかし、映像の中の時間はすでに数時間が経過している。

通常の捜査員であれば「死角で車に乗せられた」あるいは「カメラのタイムコードが狂っている」と

考えるところだ。だが、男の脳裏にある基準は人間の心理捜査ではない。

彼は空間のデータ的整合性だけを追っていた。


――空間の許容誤差、超過。物理的質量データの欠損値、三件。

対象は物理空間の延長線上で削り取られている。


男は表情筋一つ動かさず、デスクの下で自分の私用端末に指を滑らせた。

使用しているのはチャットやメールアプリではない。警視庁のネットワーク階層すら迂回し、

全く別の巨大なサーバーへ直結する秘匿された暗号回線。

画面に英数字の羅列が高速で打ち込まれていく。


『事案の兆候を検知。C区・該当区画の路地空間における定数異常を確認。

人型生体データの消失を確認する』


送信ボタンを無音で叩くと同時に、男は残っていたコーヒーを飲み干し、

再び疲弊しきった刑事たちの輪へと、何食わぬ顔で視線を戻した。


翌朝。

捜査本部の重苦しい空気は、暴力的なまでの冷徹さによって一瞬にして粉砕された。


ガチャリ、と重い扉が開き、数名の男たちが無言で部屋へ踏み込んできた。

先頭に立つ男は、警視庁の制服とは微妙に裁断の異なる漆黒のスーツに身を包み、

冷ややかな眼光を部屋全体の頭上に走らせた。

胸元には、本庁の特命事項を示す銀色の徽章が光っている。

夜通し資料をめくっていた刑事たちが、怪訝な顔で一斉に顔を上げる。


「――なんだお前らは。ここは立ち入り禁止だぞ」


ベテラン刑事の一人が立ち上がり、不審な男たちを睨みつけた。

しかし、黒スーツの男は刑事の顔すら見ず、

手にしていた分厚いファイルを机の上に無造作に放り投げた。


「警視庁捜査一課だ。本件、これより当庁の特命専権事項に移行する」


「は? 何言ってるんだ! こっちは三週間も徹夜で――」


「これより本件に関する一切の捜査権を剥奪する。所轄の捜査本部はただちに解散。

全資料および押収物は速やかにこちらへ引き渡せ」


有無を言わせぬ、事務的で絶対的な圧力だった。

男が机に叩きつけたのは、最高幹部印と警視総監の承認サインが入った命令書だった。

そこに並ぶ文言は、所轄の捜査権を完全に踏みにじり、

事案を国家公安の特例措置として引き上げるという絶対の通達である。

反論しようと怒号を上げかけた刑事たちを無視し、男は冷たく告げた。


「これより当該路地一帯を国家安全上の特別保全区域に指定する。

職員以外の立ち入りを一切禁ずる。――以上だ。速やかに退去しろ」


黒スーツの男がわずかに顎を動かすと、後方に控えていた屈強な要員たちが一斉に動き出した。

彼らの動きに躊躇いはない。手慣れた手際で室内のホワイトボードから写真を剥ぎ取り、

机の上の調書やハードディスクを次々とプラスチック製のダンボール箱へ放り込んでいく。

所轄の刑事たちは、突然現れた巨大な理不尽と行政手続きの暴力の前に言葉を失い、

ただ歯噛みして立ち尽くすしかなかった。


数十分後。

朝の光が差し込むオフィス街の裏路地。問題の現場の入り口には、

一般人の目を完全に遮断するための頑丈な青い防音シートと、

通常とは異なる警察紋章が入った規制線が幾重にも張り巡らされていた。


黒スーツの男は、バリケードの外に締め出され、

不満げに遠巻きにこちらを睨みつけている所轄のパトカーの群れを、一瞥することなく背中で遮った。

彼はそのまま、ブルーシートの張られた暗い路地の入口へと身を翻す。


分厚いシートの奥に広がる薄闇の中では、窓を完全に黒く塗りつぶされた偽装車両が、

すでに静かに、そして重々しくエンジンの駆動音を響かせていた。

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