事案指定 第37号「定数村」(其の三)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
事案指定:第37号「定数村」
事象分類:事象未確定(概念的定数維持および証言均一化の疑い)
発生地域:西部山間部・夜刀村
剥き出しの土壁から隙間風が吹き込む、古い空き家の土間。
第七準備室から派遣された『内偵要員』は、泥だらけの長靴を脱ぎ捨てると、
ひび割れた洗面台の蛇口を捻った。氷のように冷たい山水で顔を洗い、
手についた泥と草の匂いを無造作に拭き取る。
今年の四月。本庁・情報統制局がわずか数時間で構築した
『天涯孤独で多重債務者』という完璧なダミー戸籍をまとい、
彼は県の移住支援制度を利用してこの夜刀村へ転入した。
それから七ヶ月。彼は毎日、村の誰よりも早く起きて畑の草を刈り、青年団の寄り合いに顔を出し、
誰からも愛される真面目な移住者の若者として、村の日常という泥の中に完全に首まで浸かっていた。
要員は冷え切った六畳間に上がり、ふすまを閉めた。
部屋の隅の畳を一枚持ち上げ、床板の下に隠していた黒いジュラルミンケースを引き出す。
中には、発信源の偽装と強力な暗号化が施された旧式の通信機(電鍵)が収められている。
彼はあぐらをかき、無表情のまま、本庁へ向けた毎夜の定時報告を打ち始めた。
『四月一二日:転入完了。村主催の歓迎会に参加。住民の対応は極めて温和。特記事項なし』
『五月二八日:農業倉庫および公民館出納帳の目視確認。不審な支出や備品購入の痕跡なし』
『八月一五日:盆の集会。住民全員が参加するも、宗教的・土着的な祭祀の実施は確認できず。
対象地域は完全に平穏。事象の兆候なし』
春から夏、そして秋。
彼の送る報告書のログには、ただひたすらに「異常なし」の文字列だけが積み重なっていた。
村人たちはみな親切で、彼に野菜を分け与え、農機具の使い方を丁寧に教えた。
夜中に不気味な儀式が行われることもなければ、狂気に満ちた集会が開かれることもない。
ただ静かで、退屈で、過酷な農作業の日々だけが続いていた。
だが、その「完璧すぎる平穏」こそが、要員の肌にじっとりと張り付くような異常性を感じさせていた。四十年間、定数一五〇を維持し続けるための『バグ』が、この村のどこかに必ず存在している。
事態が動いたのは、十一月の上旬だった。
山頂に初雪が積もったその日。村では本格的な冬に備え、
全世帯へ向けた「越冬用備蓄物資」の分配作業が公民館で行われた。
要員は荷運びの手伝いとして、軍手をはめて作業に加わった。ストーブ用の灯油ポリタンク、消石灰、
そして非常用の食料が詰まった段ボール箱。それらが公民館の土間にうず高く積まれ、
村の役員たちが名簿を見ながら各世帯への仕分けを行っている。
要員は、無言で荷物を運びながら、その数を頭の中でカウントし始めた。
一、二、三。
村の現在の総人口は、春に移住してきた彼を含めてぴったり「一五〇人」。
独居老人から世帯持ちまで、名簿の総数は完全に一五〇で固定されている。
五十、五十一、五十二。
彼は汗を拭うふりをしながら、土間に整列させられた物資の山を視線でなぞる。
百四十七、百四十八、百四十九。
――百四十九。
要員は、荷台の前で足を止めた。
何度数え直しても、そこに用意された物資の総数は「百四十九人分」しかなかった。
しかし、仕分けをしている村の役員も、リストを読み上げている村長も、
誰一人として「一つ足りない」と声を上げる者はいない。彼らは極めて事務的に、
初めから百四十九人分の物資しか存在しないかのように、完璧な手つきで作業を終えた。
書類上の名簿には、確かに一五〇人分の名前がある。
だが、物理的な現実世界に用意された物資は一つだけ欠落している。
要員は、その「計算から完全に除外された1」が、誰を指しているのかを即座に理解した。
「おお、ご苦労だったね。若いのが手伝ってくれると本当に助かるよ」
作業の帰り際、公民館の軒先で、村長が世間話のトーンで要員に声をかけてきた。
その顔には、相変わらず人の良さそうなシワが深く刻まれている。
「ところで、来週の火曜の夜なんだけどね。あんたに、裏山の林道の見回りをお願いしたいんだ。
雪が降る前に崖崩れがないか見ておかないといけなくてね」
回覧板にも書かれず、村の行事予定表にも記載されない、口頭だけの無形指示。
「夜遅くて悪いんだけど、昔からの決まりでね。頼めるかな」
「ええ。わかりました」
要員は、顔色一つ変えずに頷いた。
夜。凍りつくような冷気で満ちた六畳間。
要員は暗闇の中で通信機を引き出し、定時報告のキーを叩いた。
『一一月二日:越冬用物資の分配作業に従事。村民定数一五〇に対し、
物理的準備数が一四九であることを確認。名簿等、書類上の不備は一切なし』
『同日:対象地域代表より、来週火曜夜間の単独巡回を口頭にて指示される』
彼はそこでキーを叩く手を止め、小さく息を吐いた。
書類には残らない、物理的な「1」の除外。そして、記録に残らない夜間の単独呼び出し。
アナログな観測の果てに、すべての事象が一点に収束した。
彼らは来週の火曜の夜、自分を林道から突き落とし(あるいは何らかの事象の贄とし)、
定数維持のための事務的な損壊処理を行う。
要員は感情の死んだ目でモニターを見つめ、本庁への最後のトス(要請)を打ち込んだ。
『上記状況証拠の符合により、当該時刻における当方の損壊(処理)プロセスの開始を確信』
『事象の活性化、および執行タイミング確定。来週火曜二三〇〇時、
事案制圧のためアルファ班(保安執行班)の展開を要請する』
エンターキーを静かに押し込むと、要員は速やかに通信機の電源を落とし、畳の下へ隠した。
自らの死が予定された来週の火曜日まで、
彼はまた、村の誰よりも早く起きて畑を耕す真面目な若者として、
完璧な日常を過ごさなければならない。
要員は泥にまみれた作業着のまま、無表情で薄い布団に入り、目を閉じた。




