数の暴力
あんな大口を叩いた後だが、僕は今、鎌持ちから全力で逃げている。
殺したのは二十ほど。まだ底は見えない。
「人間って、こういう時、逃げないんじゃないの?」
「馬鹿言え、そんな奴はパンデミックの時に滅んだ」
あくまで分断が目的なら、これでも十分だ。
もちろん全滅させない限りは戻れない。
予備ボンベのリミッターを外し、落として紐を引く。
破裂音と同時に、鎌持ちが何匹か爆散した。
だが、奥で蠢いていた次の群れがすぐに先頭へ立つ。
切りがない。
「こっちだ!」
割れた窓枠を飛び越え、大学跡の建物へ飛び込む。
後ろでガラスが粉々に砕け、甲殻の軋む音が廊下を満たす。
足音が重く響き、壁を擦る鎌の音が追いかけてくる。
ユユが、針のようなしっぽで次々と刺しながら走ってくる。
廊下を抜け、階段を駆け上がる。振動が背中に迫る。
「なんか案があるの!?」
「ない!」
そうは言いながらも、目的地は決めている。
あとは辿り着けるかどうか、そしてそこに“それ”があるかどうか。
理系棟の渡り廊下を駆け抜け、立て看板に目をやる。
「実験器具室」の文字を見つけ、心の中で舌打ち。
場所は分かった。
「ユユ!走って時間を稼げ!一周して戻ってこい!」
「…信じていいの!?」
「お前の目的は知らんが、今は僕を利用するつもりで走れ!」
器具室の扉を開けようとしたが、鍵がかかっている。
仕方なく隣の実験室へ転がり込み、ユユの足音が遠ざかるのを聞く。
鎌持ちの大群は、一直線にユユを追って行った。本当に僕には興味がないらしい。
「…全く散々だ」
このまま逃げることもできるが、背後から刺されるのはごめんだ。
斧で器具室の窓を割り、鍵を開ける。
予想通り、持ち運び用のバッテリーが鎮座していた。
家庭用より少し大きめ。電源ランプが点くことを確認し、廊下へ引きずり出す。
上階からドタバタと足音。時間はない。
さらに室内を漁る。電気ケトル、長い水道用ホース、実験用ホットプレート。
奥には、剥き出しの配線が覗く正体不明の機械。
全部抱えてバッテリーに接続。ケトルには水も入れておく。
廊下にホースを引き、水をぶちまける。
電流が通れば、奴らの多脚は逃げ場を失う。
階段からユユが飛び降りてくる。その後ろは、鎌持ちの黒い奔流だ。
壁を削り、天井を揺らし、もはや列を成す秩序すら失っている。
今はただ、ケラ喰いを殺すことだけに夢中らしい。
迫る地響きと共に、ユユが叫ぶ。
「どうすんの!?」
水浸しの床を避けて壁を蹴り、こちらに飛び込んでくるユユ。
その瞬間、先頭の鎌持ちが水面に脚を踏み入れる。
ホットプレートを放り込む。
ジュッという蒸気音の直後、バチリと火花が走り、先頭の虫が痙攣して止まる。
後続が衝突し、雪崩のように足が止まる。
続けざまに、沸騰した電気ケトルを投げ込む。
熱水が甲殻を伝い、さらにバチバチと火花を散らす。
押し出された虫が感電して、黒い塊ごと崩れた。
剥き出しの機械を投げ入れると、派手な火花が廊下を照らし、虫が数匹まとめて倒れる。
「これも持ってけ!」
最後にバッテリーを放り込む。
爆ぜる光と轟音。天井の蛍光灯が砕け、闇の中で一際大きな放電が走った。
「…これが、人間の兵器…」
「違うぞ」
一匹の虫に火がつき、炎は次々と隣の虫へと移る。
火災報知器は沈黙し、煙と焦げた臭いだけが広がっていく。
「離れよう。残党は後で殺す」
「…分かった」
感電が収まった頃には、虫の半数以上が黒焦げになっていた。
奥から新たな影が現れる。まだ生き残りはいる。
斧を抜く。
「狭い場所だ。しっぽの範囲攻撃が効く」
「巻き込まれても知らないよ」
「巻き込まれて死ぬなら、その程度だ」
「もっと、生への渇望とかないの?」
「死に方よりも、生き方だ。仲間の言葉だが、割と気に入ってる」
ユユが踏み込み、しっぽでなぎ払う。
その隙間を縫って僕はボンベを投げ込み、鎌を落とし続ける。
刃が甲殻を裂く感触が腕を伝う。傷を受けても、不思議と痛みは遠い。
「離れるぞ!」
振り返りざまにユユのしっぽを避ける。掠った右腕の先で、しっぽが虫の頭を叩き割る。
その直後、ボンベが破裂。鉄片が弾け、虫の群れと共に僕の背中も抉った。
足の痛みに膝が落ちる。
「ちょっと!」
ユユが駆け寄り、抱きかかえる。
「…助かる」
「あんたが死んだら、本当にコミュニティに行けなくなるじゃん!」
周囲を見渡せば、虫はもうほとんどいない。
最後の数匹もユユの一撃で沈黙した。
虫の騒音も消え、静寂が戻る。
「…行こうか」
「…休んでからの方がいいんじゃない?」
「…そんな暇は無い」
足を動かす。骨は無事だ。
カリンがまだ暴れていないことを祈る。




