アウリス(前半)
倉庫から出る。夜の胞子は霧のように流れ、月明かりを細く裂いては乱反射させる。
空気そのものが白く濁って見える中、ガスマスク越しの呼吸音が、やけに大きく胸に響く。
それを押し潰すように、ひぐらしの声が近づいてきた。
耳の奥を突き刺すような甲高い鳴き声だ。距離の概念を無視して、真横から聞こえるような錯覚を覚える。
「…なんか、声でかいですよね?」
「そうだな。でかい」
姿は見えない。しかし、確実にこちらに近づいている。
ジニアが杖を取り出し、エコーを放つ。周囲の生き物の数が、光る数字となって浮かぶ。
「10体…」
僕、シライシ、カリン、タネ、ジニア、ミナト、ルンク、ヴィン、ユユ。
あと一体、どこかにいる。
「待て…数が増えてる」
ジニアの杖についたカウンターが、脈打つように跳ね上がる。
二十、三十…それに合わせて羽音が重なり、耳を塞ぎたくなるほどのうねりになる。
地面に重い風が落ちた。胞子と砂が混ざり合い、目を刺すような痛みが走る。
その風とともに、月明かりが一瞬、完全に消えた。何か大きな影が頭上を横切ったのだろう。
なのに、姿は見えない。ただ、耳元で飛行機がかすめたような圧迫感だけが残った。
虫の羽音が、壁の外で波のように膨らんでいく。
その波の先頭で、ひぐらしの声が、建物の壁をなぞるように回っている。
「…何か、居るのか?」
次の瞬間、外壁を辿って鎌持ちの群れが押し寄せた。
全ての個体が同じ角度で首を傾け、同じ歩幅で進んでくる。その異様な統一感が、虫というより兵隊の行進に見える。
「おい、隠れるぞ」
倉庫はボロいので、キャンパスの方に走る。
校舎内に入ろうとした時、無数の鎌持ちが倉庫を破壊した。
「ゲェ…あんな数居たのかよ…」
「見とれてる場合じゃない。ヴィンを引っ張ってきてくれ」
「もちろんだ!おいヴィン!指が落ちる前に逃げるぞ!」
建物の中でも、ひぐらしの声は止まない。というか、建物の周りをぐるぐるしている。
その声に付いてくるように、鎌持ちが無数の行進をしている。
「ここまで色々あったけど…こんなやばいのは初めてた」
そう言いながらも、ルンクは笑っている。
「楽しそうだな」
「当たり前だ。じゃなきゃ、初めからこんな所に来ちゃいないよ」
「…それは、ヒマワリを探すためか?」
ヒマワリと言う言葉に、一瞬ジニアが反応する。
「それもあるけど…面白いじゃんか」
面白い。確か、あいつもそんな事を言っていたな。
「ジニア、これじゃ袋小路だ」
「あぁ、分かってる。いっそ、決死の覚悟で飛び出して逃げるしか無いかもしれん」
「…あれは、何を狙ってると思う?」
その問に、ユユが答える。
「…多分、タネ。ケラ喰いだ」
「…詳しいんだな」
「あんたも、あの芋虫を見ただろ。最近、ケラ喰いを狙う虫たちだ。ただの虫じゃない」
「あのひぐらしの鳴き声が、ケラ喰いを殺すために鎌持ちを連れていると?」
小さく頷くユユ。何か言いかけたが、虫の羽音とひぐらしの声に掻き消される。
「なら、やることはひとつだ。タネとユユを置いていく」
ジニアが冷たく言う。真っ先にシライシが反論する。
「そんなのダメです!タネちゃんは置いて行けません!」
「何処にいるか分からない本体と、無数の虫相手に倒す手段を決めてから反論してくれ」
「…!」
ひぐらしの声が、集中力を削ぐ。今も建物の上空をぐるぐる回っている。
「…見えなくたって、殴れば当たるんだろ?」
ルンクが口に出した。そちらに全員向く。
「さっき、月明かりを遮ったよな?なら実体は確かにある。空を飛んでる奴なんて、翅に穴が空いたらただの的だ」
「この虫の大群の中、ひぐらしの位置を特定して撃ち抜けと?」
「…なら、虫の大群は僕が殺そう」
鎌持ちが窓にぶつかる。硝子にヒビが入る。
「…師匠」
「行けるのか?」
「さぁね。ユユを借りる。タネを連れてここを突破し、打開案はジニアに任せるよ」
「……分かった」
「待ってくださいよ!それなら俺も残ります!」
「シライシ、悪いが…それは気が乗らないな」
シライシの前に拳を出す。いつもそうだ。こういう時、僕とシライシはジャンケンで決める。
「…ベェさん。ジャンケン弱いじゃないですか。勝ちますよ」
「どうかな?」
じゃんけんぽん。1発だ。勝ったのは僕。
「覚えてるか?虫の大群に勝つなら3割。まぁユユがやってくれれば、もう少し上がるな」
「…当ててくださいよ?」
「初めから、外すつもりでやってない」
「ギャンブラーはみんなそう言うんです」
ミナトから予備の空気ボンベを貰う。それと切れたアンカーワイヤーを、ミナトの物と交換してもらった。
「ジニアが、貴方なら大丈夫だと言っていました。ご無事を」
「カリンの事、よろしくな」
「もちろんです。預かるだけですからね」
「これ以上はフラグになるからやめようか」
ジニアに目配せをし、僕とユユは反対方向に歩く。
「…逃げてもいいんでしょ?」
「もちろん。ただ、信頼を勝ち取るチャンスでもある」
「…めんどくさいね、人間って」
「そうかもしれんな」
ひぐらしが鳴いている。こんなに不愉快なのは初めてだ。
「行くか」
扉を開けて、外に出る。カリンが持っていた誘導の煙具を放り投げて、近くの虫の鎌を素早く落とす。
殺すのは後だ。まずは片っ端から無力化させる。
次の一体。次の一体。振りかぶる攻撃を避ける。横にいた鎌持ちの鎌が腕をかすめる。それも落とす。
背中に鎌が空を切る。振り向きざまに鎌を落とす。
ひぐらしの声が、遠くなっていく。ジニアの方だろうか。
ユユがしっぽを振り回し、まとめて虫を殺す。危うく巻き込まれそうになるのを、頭を伏せて避ける。
「避けないと殺しちゃうかも」
「その勢いで構わないよ」
30所じゃない。ピンクの煙が上がる中、もうひぐらしの声は聞こえない。
斧を構え直し、息を吐く。




