名前を呼ぶ
マユラが道を案内してくれ地上に出た。何時かは詳しく分からないが夜である。マユラの横に居た小さな男の子。兄によく似たソハルはぎこちなく僕らに手を振った。
リズが笑って手を振り返す。
「それでは皆様、お気をつけて」
深くお辞儀をするマユラに手を振り、落人の籠を後にした。
「ボンベ残量はどれくらい余ってる?」
「ギリ帰れる位ですね。急ぎましょう」
キキョウ達が通ってきた道のりを辿って帰る。そこら辺に鎌持ちの虫の死骸が転がっている。嵐のあとだろうか。
「地下にはまだ群酸種が居る可能性があります。ご注意を」
「…群酸種?」
聞きなれない単語に思わず聞き返す。キキョウとシライシがこちらを見る。
「…ベェさん。名前覚えてないんですか?あのちっこい虫ですよ」
少し考えて思い出す。
「あぁ、あれか。殺せるやつの名前なんていちいち覚えてないわ」
呆れた顔をしてキキョウがため息を吐く。お前の師匠はこんなのだぞ、とかリンを見る。
「さすがです。師匠」
師匠という言葉にシライシがニヤつく。
電車の待機ポイントには、虫やケラ喰いと遭遇する事なくたどり着いた。運がいい。
途中、羽音や気配を感じた気がしたが、タネは反応しなかった。疲れが溜まっているのかもしれない。
帰り途中に霧雨が降り出し、ポイント周辺にある駅に入ることにした。
駅のホームの屋根の下、みなで腰を下ろす。
ボンベの残量がほとんどない。本来ならここでの待ちぼうけすら、命に関わる問題なのだが。
キキョウが背負っていたギギの死骸を下ろした。まだ冷たく、周辺の空気を浄化している。みなガスマスクを外して腰を下ろした。
大きく息を吐いて、パラパラと落ちる雫を見つめる。
「いやぁ…疲れましたね」
「そうだな」
それ以上話すことも無く、ただ静かに電車を待つ。
凹んで曲がり、掠れた看板に"相原"と書かれている。
この駅の名前だろうか。気にしたこともなかった。
駅の構内は、過去に回収員が荷物を置いたりした痕がある。ガスボンベも探せばありそうだが、今ここにはギギがある。
せっかくだ。頂いた命の恩恵を有難く使わせてもらおう。
「そういや気になってたんですけど、古参の皆さんはなんで揃って花の名前なんですか?」
シライシが静寂に耐えかねて口を開く。キキョウは返事をしない。
「付けてもらった名前だから、かな」
「誰に?」
キキョウが一瞬ピクリとする。決して嫌な思い出などでは無い。だからこそ、皆この事は口には出さない。
「僕らを拾ってくれた人」
**
『えー、名前って大事なものだよ?教えて欲しいな』
そう彼女は不貞腐れる。
"名前なんて意味が無い"彼女以外の僕らの共通認識だ。
ただそれぞれひとりぼっちで生きてきた奴らが、1人の女性の夢に付いてきた。どうせやりたい事も無い。最後くらい、この真っ直ぐに前を見つめる彼女の可愛い夢を、見届けてみるのも悪くない。そう思ったのだ。
『じゃあさじゃあさ。あたし達の新しい名前を付けようよ!』
『新しい名前?』
メガネの男が仏頂面でそう聞き返す。彼女はそんな彼に笑顔で答える。
『そう!新しい名前、付けようよ!呼びやすいし、そのほうがいいでしょ?』
『…まぁ』
嬉しそうに意気込んだ彼女は、先ずは横にいた僕と目を合わせる。
『じゃあ君から…そうだね…』
元の名前も、親から貰った大事なものとか、そういう気持ちも理解はしている。
でも僕は、目の前の彼女に付けられる名前に少しワクワクしていた。
『じゃあ…君は"ベゴニア"』
横にいたガリガリの男が吹き出して笑う。
**
「…まぁ僕は、ベゴニアって花は見た事ないけどな」
黙って聞いてたシライシが少ししんみりとしている。話している時にキキョウが少し離れてタバコを吸い始めた。
「ベェさんの、元の名前は?」
「…さぁ。どこに置いてきたっけな」
忘れたつもりは無いけれど、思い出すことも無い。この駅の名前も、きっとこれからも呼ぶことはない。それと同じ。
霧雨が止んできたと同じくらいに、東の空が白くなる。
朝焼けに照らされた雫が光を反射し、駅のホームに最後の星空を作り出す。
座ったまま寝てしまったシライシやカリンを起こさないように、リズが隣に座る。
「…ベゴニアの花、いつか見れるといいですね」
「リズは見たことある?」
「はい。小さい頃に1度」
リズは、こんな形でこんな色で、と手振りで説明しようとしてから回る。
「見つけた時は、"これがベゴニアの花だ"って教えてくれ」
「…はい!」
涙をこらえて無理して笑ってたこの前のリズと違う。明るい年相応の笑顔が朝日に照らされる。
遠くの方から線路が揺れる音が聞こえる。立ち上がって伸びをする。
カリンとシライシを起こして電車の来る方角を見つめる。
「ベェ、お腹すいた」
「そうだな。帰って"ハナ"にご飯でも食いに行こう」
「名前」
パンデミックにより社会が崩壊した後、人々は「古い名前」を捨て始めた。
それは、それに背負わされた想いや重みが、ただ生き延びる事が最優先のこの世界ではどうしても足枷になる。
まるでキャラエディットのように、軽やかに、新しい名前を付ける。
それは「生まれ直し」であり、これからの世界を生きるという意思表示でもある。
"それ"を背負って歩くには、今の人間は弱いのだ。
その中でも、過去を背負ったまま前を向いて歩ける「シライシ」や「カワイ」等の人間も確かに居る。




