伝えた、伝わった。
病室に入ると、冷房がきいた部屋のように冷えていて、涼夏は無意識に自分の腕をさすってしまった。
イジドールにエスコートしてもらい、小さな病室に置かれた、白いベッドの側にまで近づく。
「……エヴラールさん」
白いシーツに埋もれるように、エヴラールが綺麗な表情で眠っていた。
薄氷色の髪に血の気のない真っ白な肌は、まるで氷と雪を連想させる。
イジドールが枕元に近い椅子を引いて、涼夏を座らせた。
「あの、エヴラールさんが倒れたのって」
「魔力過剰症だよ。それも過去一番に重症のね」
もしやとは思っていたけれど確信の持てなかった涼夏に、イジドールははっきりと答えた。
やっぱり。
予想していた答えに、涼夏の胸がきゅっと痛んだ。
「……それって、私がエヴラールさんの魔力を吸わなかったから」
「そんなことはないと断言しよう。君のいるいないに限らず、起きる可能性は今までもあったことだ。君のせいではないよ」
イジドールはそう言うと、ベッドを挟んで涼夏の向かいの椅子に腰掛ける。ガスパルもいつの間にか病室の中へ戻ってきていて、近くの壁に寄りかかった。
三者が三様に、眠るエヴラールのベッドを中心にあつまれば、イジドールがおもむろに切り出す。
「さて、リョーカ嬢。君に来てもらったのは他でもない、彼の治療のためだ。やることは簡単、彼の魔力を吸いながら、彼に語りかけるだけ。できるかい?」
イジドールの言葉に涼夏はこっくりとうなずく。
するとガスパルが素朴な疑問を打ち明けた。
「イジドール様、なんでリョーカ嬢に? いつものようにあなたがするのでは駄目なんですか?」
「やってもいいけれど、今の私がやるには魔力の空きを作らないといけないからね。ここからそこに見える騎士団区画一帯を三回ほど焼け野原にしてもいいのなら、やるがね」
イジドールのそっけなくもとんでもない返事にガスパルは顔を引きつらせた。涼夏もそれを聞いて、イジドールがエヴラールの魔力を吸収するのは大変な事なのだと知る。
「普段はエヴラールが事前に先触れをくれていた。前日から私自身の魔力量を調整して、彼の魔力を吸収していたんだよ」
黒髪の持ち主であるイジドールはあらゆる魔力に適性がある代わりに、自身の作る魔力も膨大だ。だからエヴラールが蓄積する魔力を一度にまるっと吸収することは難しいから、ある程度減らしておく必要があるという。
「だけど彼女ならその点、大丈夫だろう。彼女が吸収できる魔力量は私より大きい。その上、彼女自身が使っている魔術で消費されていくから、多少エヴラールから多めに魔力を吸い上げたところで問題はないだろう」
イジドールが述べたことをなんとなく理解した涼夏は一つだけ思い至ることがなくて、首をかしげる。
「私自身の魔術ですか?」
「そうだ。君は常に言語理解の魔術を使っているだろう?」
涼夏は驚いて自分の口に手を当てた。
魔術を使っていた自覚がない素振りを見せる涼夏に、イジドールが苦笑する。
「君は魔術適性が非常に高いようだ。それならきっと、エヴラールのことも問題なく助けてやれるだろう」
イジドールなりの激励に、涼夏はこっくりとうなずいた。
大丈夫。魔力を吸うくらいなら、涼夏にもできる。
今まで何度もやってきたのだから、要領も分かってる。
涼夏がさっそくエヴラールに手を伸ばそうとすると、イジドールが「ただ」と言い出した。
「今回はただの魔力過剰症じゃない。過剰になった魔力がエヴラールの精神を凍結させてもいる」
「凍結?」
「は!? なんでそんなことになってんだ!?」
涼夏の不思議そうな声にかぶさるように、それまで傍観していたガスパルがぎょっとして声を荒らげた。
イジドールは肩をすくめると、ガスパルに答える。
「魔力の暴走だ。エヴラールは生来魔力を操作することはできないけれど、何か強い感情が無意識に魔力に形を持たせてしまったのかもしれない。魔術とも言えない力技だが、魔力量の多い子供が魔力を暴走させることと同じだ」
あ然としたガスパルに、涼夏は事態がより一層深刻なものであると理解した。
伸ばしかけた手を握りしめて、イジドールに問う。
「それは、このままだとどうなるんですか?」
「魔力を吸い取っただけでは目が覚めることはないだろう。だから魔力を吸い取りながら、凍結魔術の向こうにいるはずのエヴラールを呼び起こす必要がある。それも、エヴラール以上に強い感情でね」
イジドールの言うことはとても難しい。
それでもなんとかその意味をかみしめて、涼夏は顔をあげる。
「わかりました。やってみます」
「リョーカちゃん、大丈夫か? 難しいなら無理をしなくていい。慣れないことやって君が倒れたら、俺がエヴラールにどやされる」
「たぶん、大丈夫です。なんとかなりますよ」
涼夏はガスパルに笑いかけると、改めてエヴラールへと手を伸ばす。
シーツからはみ出したエヴラールの手を取れば、まるで氷のように冷え冷えとしていた。
冷えきったエヴラールの手を温めるように胸に抱き、涼夏は目をつむる。
まぶたの裏の暗い世界に、金色の粒子が散った。
涼夏が願えば、金色の粒子はどこからともなく現れた。
いつもはじんわりと増えていく金色の粒子たちが、今は涼夏が意識して求めているからか、黒い世界にぐんぐん増えてくる。
視界が金色に埋め尽くされようとしたところで、涼夏はその金色に意味を与えた。
それは道だ。
涼夏とエヴラールをつなぐ、契約術という縁に形を持たせてやる。
するりと遠くまで延びていくそれに、涼夏は微笑んだ。
涼夏はゆっくり目をまたたかせると、現実の世界へと戻ってくる。腰を浮かせて、昏々と眠るエヴラールの枕元に腰掛けた。
エヴラールの手は握ったまま、もう一度目を閉じて、エヴラールの額に自分の額をこつりと合わせた。
イジドールが感心したようにうなずく。
一人で納得しているイジドールに、ガスパルは尋ねた。
「イジドール様? 彼女は今、何してるんです?」
「そうだね。まず、今の一瞬でエヴラールの魔力をかなり吸い上げた。今は直接エヴラールとの精神をつなげているようだよ」
「危険はないのですか?」
「契約術に含まれる、契約者と被契約者が意思疎通をするための魔術の応用だ。エヴラールの精神が凍結されているから、それより高度なものになるだろうが……」
そう言葉を止めたイジドール。
その先に続く言葉が気になったガスパルだけれど、あえて聞くのはやめた。
なんとなく、涼夏ならやり遂げてみせるような気がしたから。
おでこをくっつけた涼夏は、まぶたの奥に映る金色をかき分けるようにして、言葉を響かせる。
『エヴラールさん、起きてください。みんな、心配してますよ』
金色の粒子はまるで壁が存在するかのように、ある一定の場所で堰き止められていることに気がつく。
そこが自分とエヴラールの境界線なのだと理解した涼夏は、その壁に寄り添うように言葉をかける。
『エヴラールさん。こちらですよ。そちらは暗いでしょう? 暗いところじゃなくて、明るいところへ来ませんか』
丁寧に言葉をつむいでいれば、やがて暗い世界にエヴラールの声が落ちてきた。
―――いやだ。そちらへは行きたくない。
『それは、どうしてですか? 怖いものでもあるの?』
聞こえてきたエヴラールの気持ちに、涼夏は優しく問いかけた。
エヴラールの声が、心なしか控えめなものになる。
―――君がいる。君のいる場所を、僕はもう奪いたくない。
『私のいる場所?』
エヴラールの意図することがよく分からなくて聞き返せば、悲しそうなエヴラールの心が降ってくる。
―――家族、友人、生活、夢、希望、世界。僕は君からそれらを取り上げてしまった。
悔やむような言葉に、涼夏は微笑む。
エヴラールはやっぱり優しい人。
エヴラールが挙げたもの一つ一つを指折り数えた涼夏は、ゆるりと首をふる。
『これは仕方がなかったことです。エヴラールさんがそうしてくれなければ、私は死んでいたかもしれない。エヴラールさんは、私を生かしてくれたんです』
―――だけど僕はそれらを喜んだ。君と一緒にいたくて、君が帰れないことを喜んだ、最低な人間だ。僕は君の隣にいる資格なんてない。僕はそちら側にいてはいけない。
そんなことはない。
涼夏はエヴラールにそばに居ることを望んでる。
むしろ涼夏の大切なものを奪ったというのなら、その全てをエヴラールが埋めてほしい。
エヴラールまで、涼夏の前から去ってしまうの?
……そんなの、許さない。
ふつふつと沸き起こる感情を抑えきれなくて、今にも消えていこうとするエヴラールの気配に、涼夏は心から叫んだ。
『それなら私がそちら側に行きます!』
遠ざかろうとしたエヴラールの気配が止まった。
涼夏は二人を隔てる見えない壁に向かって、叫んだ。
『私がエヴラールさんを追いかけます! 私が帰れなくなって喜んでくれるなんて上等です! 私こそ、私のエゴであなたを傷つけたのに! それなのに、そんな私と一緒にいたいって思ってくれるならっ……! 私はっ、あなたともう一度、手をつなぎたい……っ!』
黄金の粒子が涼夏の心に呼応して流動する。
まるで桜吹雪のように激しく舞い、涼夏とエヴラールを隔てる壁を壊そうとする。
―――やめてくれ、こちらへ来ないでくれ。僕は君を傷つけてしまう。
『いいえ、いいえ! 私がエヴラールさんと一緒にいたいんです! 私がこの世界で心から笑える場所があるのなら、それはあなたの隣なんです!』
首を切られて絶望した暗闇の中で聞こえた、涼やかな声。
何も見えないことにすくむ足を導くようにつないでくれた、大きくて節くれだった指先。
今度こそ死を覚悟した瞬間に見えた、凛とした立ち姿。
寂しいと泣いた自分を抱きしめてくれた、温かくてたくましい腕。
一つ一つ、涼夏は想いを形に変えていく。
そして、それを言葉に変えて、空気にのせて、世界に響かせて。
エヴラールに届ける。
金色に輝く涼夏の想いが波のようにおしよせると、それまでびくともしなかった見えない壁が壊れたかのように、届かなかった向こう側にまで流れていく。
「……私は、エヴラールさんと出会えてよかった。あなたがいたから、私は今生きているんです。ね、エヴラールさん。目を覚ましてください。私に笑いかけてください。それだけで私は、この世界で生きていこうと思えますから」
涼夏は目を開いた。
たくさんの色を集めて輝く黒曜石の瞳に、眠り続けるエヴラールを映す。
「好きです、エヴラールさん。一度はあなたの手を振り払った馬鹿な私だけど、まだ間に合うのなら、もう一度私と、手をつないでくれませんか」
涼夏はたくさんの思いをこめて、ささやいた。
静寂に包まれた病室で、涼夏はエヴラールの心を手繰りよせていく。
見守っていたガスパルは固唾を飲み込み、イジドールはじっとその様子を見つめていた。
そして、エヴラールは。
……わずかな力で握られた手に、涼夏の目が見開かれる。
「エヴラール、さん?」
「……りょう、か」
かすれた声とともに、エヴラールが力をこめて涼夏の手を握り返す。
涼夏の思いが伝わった。
エヴラールの霜のように美しい睫毛がふるりと震え、海色の瞳と黒曜の瞳が交わる。
ぼんやりと間近にある涼夏の顔を見ていたエヴラールは、おもむろに両手を持ち上げると、涼夏の手どころか、その華奢な身体ごと抱きしめてしまう。
涼夏はされるがまま、エヴラールの胸に体重を預けた。
「……ありがとう、涼夏。こんな……こんな、僕なんかに……」
エヴラールから泣きたいくらいに嬉しいという気持ちが伝わってくる。涼夏の身体を掻き抱いて、去来する自分の感情を抑えきれないまま涼夏の肩に顔を押しつけて震えるエヴラールを、涼夏は可愛いと思ってしまった。
「エヴラールさんが馬鹿なら、私も馬鹿です。……遠回りしてごめんなさい。私は、あなたを選んでいいですか?」
エヴラールの心が歓喜に震えたのを、涼夏はきちんと受け取った。
涼夏はそのことに、気恥ずかしいような、嬉しいような、でも、とても心から温かい気持ちが生まれる。
涼夏の思いはちゃんと伝わった。
そして、エヴラールの思いも。
「……愛してるんだ。他の誰でもない、君がいいんだ。たとえ暗闇だろうと前を向く君が、僕の隣で表情を変える君が、心を全部伝えてくれる君が、どうしようもないくらい愛しいんだ」
涼夏の背中に回っていたエヴラールの腕がふっと緩む。
涼夏がそうっと身を起こそうとすると、エヴラールがその頭の後ろをさらってしまう。
「好きだ、涼夏。どうか、僕を選んでほしい。君の世界の次でいい。この世界で、君の一番になれたなら」
期待と、ほんの少しの怯えを見せる美しい人が、涼夏におそるおそるお伺いを立ててくる。
涼夏の答えはもう決まってる。
涼夏は花が咲くように微笑んで、エヴラールに身を委ねた。
「私もです。私も、エヴラールさんのことが大好きです。この世界での一番は、あなたです」
瞳を閉じれば、甘い温度が唇に触れる。
優しい口づけからは、愛しいという感情があふれてきて。
涼夏もまた、同じくらいの愛しいをその吐息にまぜて、エヴラールへと返した。





