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第七章 言えない秘密 2

 一体どれくらいそのままでいただろう。

 頭上から聞こえてくる、時刻を知らせる鐘の音にハッとして、それから腕に抱えたローブへ視線を落とす。

 そうだ、これを早く洗ってしまわなくては。先程の鐘で多くの城の人々が起きてくる。のんびりしている場合ではない。

 辿り着いた井戸で水を汲み上げ、生地が傷まないように丁寧に洗濯を始める。

 しかしノエルの頭の中は、この汚れをどうやって上手く落とそうか、という事よりも先程のジークベルトの言葉が延々と繰り返されていた。


 ―――村へ帰すという話は撤回する。

 ―――帰らなくて良い。

 

 ――――……お前は、ノエルか。


 その一言が浮かんだ瞬間、突然ぐにゃりと視界が歪んだ。ぐらぐらと揺れて、上手く身体を支えていることが難しくなる。

 ばしゃん、と水音が響いた。いつの間にか傾いだ身体を支えるために、片手を洗濯物の入った木盥の中に突っ張り棒のように、突っ込んでしまったのだ。

 勢いよく水面を叩かれて、周囲に零れた水がノエルの身に纏う衣服までも濡らしている。 ほんの少量だが髪にも水滴が飛んでいて、ぽたりとしたたり落ちる水滴を、のろのろとぬぐい取ると、その指先で髪を払った。

 なぜ、ジークベルトは自分にあんな問いかけをしてきたのだろう。

 あんなに真摯に、村に帰れと告げてきた人が、たった一晩明けただけで意見を翻すなんて。

 何よりあの時の言葉が気になって仕方ない。

 考えれば考えるほど意味も理由も判らなくて、ただの言葉のあやなのかとすら思ってしまう。だとするならばあまり気にしすぎるのも良くない、忘れてしまった方がいい。

 でも……何だか、とても嫌な感じがする。

 それでなくとも自分が眠ったまま、ふらふらと出歩いている事実に不安を感じているのに。

 何か自分の知らないところで動き出しているような気がしてならなかった。

 この時抱えた不安は、後々までノエルの心に根を張り続けることになる。

 しかし幸いにしてずっと考え続けずに済んだのは、皮肉にもエセルバートの主催する御前試合が開催されたためだ。

 準備期間が非常に短く、会場の準備を整える事さえ危ぶまれた開催だったが、蓋を開けてみればそんな危惧など吹き飛ばすような、立派な会場が王城の中央広場に設営されており、城下町の目抜き通りから王城まで一直線に貫くように、様々な出店が建ち並んでいる。

 一種の祭りのように賑わう会場周辺は、さぞ多くの人々の笑顔があるのだろうと思っていたのだが……ジークベルトやキースに連れられて屋台や会場周辺を見回したノエルは、意外にもそこに佇む市民の表情が冴えない事に気がついた。

 無論、笑顔はあるのだ。楽しそうに笑いながら通りを駆け抜ける子ども達に、くすくすと笑いながら立ち話に興じる娘達、客寄せをする商売人達など、この都のみならず近隣の町や村からも人が押し寄せているのだろう。

 けれど……その沢山の笑顔の中に明らかに不満を抱えた様子の人々の姿もある。

 チラチラと気にした様子をみせるノエルに、彼らの不満の理由を教えてくれたのはキースだ。

「通常、こういった御前試合っていうのはどんなに短くても、半年は準備期間を用意して行われるものだけど、なにせ急に決まっただろう? 会場の設営や屋台の用意に、沢山の人々が無理矢理駆り出されたせいだと思うよ」

 本来の自分達が生業としている仕事を全部後回しに、最優先で用意するよう命令が発布され、十代後半から五十代までの広い年齢層の男達が駆り出されたそうだ。

 無論その間本来の仕事には手をつけられなくなるが、城から与えられた報酬は微々たる物で、とても補填できる金額ではなかったらしい。

 どうやら間に合わせるために、かなり無茶な真似もしたようだ。その指示はもちろん城からであり、王命であるけれど、話を聞く限りは第二王子エセルバートの意見である可能性が高い。

 準備が必要なのは会場の設営関係のみならず、参加を要請された騎士たちもそうだ。

 武具、馬、薬、それに己自身の腕や体調。全てを整えて臨むものなのだが、この準備期間ではそれもままならない。

 騎士たるもの、いついかなる時も出陣できるよう準備を済ませておくべき、というのは全くの正論ではあるのだが、試合と戦いとでは全くその質が違う。

 充分に準備を整える事の出来なかった騎士達の間からも、この度の少々強引な御前試合の開催については否定的な意見が流れているそうだ。

 しかし、そんな中にあっても、きちんと全ての準備を整えたのはジークベルトだ。

 騎士としてはもちろん、公爵家の威信にかけても、無様な姿など晒すわけにはいかない。今回の御前試合ではもちろん勝ちを狙っていく。

 名誉やプライドの他、こうなれば優勝者に対して与えられる、何でも願いを聞き入れて貰えるという褒美を使って、宮廷での公爵家の地位を立て直すことも可能なはずだ、とジークベルトは言った。

 会場には試合を行う騎士達の他、円形の闘技場を取り囲む様にして多くの観客席が用意されている。

 色々と問題の多い御前試合でも、いざ始まればその注目度は高い。

 そして……やはりいざ試合が始まれば、怪我人は後を絶たず、いつも医者を求める声が後を絶たない程だ。

 ノエル自身はジークベルトの庇護下という事もあり、他者の治療に当たらなくてはならない義務はない。

 しかし怪我人がいると思えばノエルの性格では放って置く事はできず、また時間が経つにつれて良い腕の医者がいると噂が広まったのか、間もなくジークベルトの元へもあちらこちらから援助の要請が入っては、無視することもできなかった。

 あちらが終わったらこちら、こちらが終わったらあちら。

 幸いにして今のところ命の危険があったり、身体に障害が残るような重傷を負った患者は出ていないものの、小さな傷や打撲で呻く者は山ほどいる。

 目が回るような忙しさだった。

「何もそんな、馬鹿正直に相手をしなくてもいいんだよ。本来怪我の治療は、自分達で行うべきことだ。手伝いは君の手が空いている時くらいでいいよ」

 見かねた様子のキースが、そんなことを言う。

「それにもうじきジークの試合も始まる。君は公爵家付きの薬師だろう」

「はい……」

 躊躇うようにノエルが後ろを見たのは、そこにまだ治療途中の患者と、その妻がいるからだ。ジークベルトの元へ戻るにしてもこの患者だけは終わらせていかなくてはならない。

「終わったらすぐ、そちらの天幕へ行きます。キース様は先にお戻りになってください」

「いいよ、待っているから早く終わらせなよ。君だけ残して行くと、また誰か押しかけてきて、別の患者のところに引っ張られて行きそうだからさ」

「それは……」

 残念ながら否定できなかった。この患者の治療を終わらせても、また別の患者が助けを求めてきたら、ノエルには断れない。

 無論大きな怪我や医者の手を必要とする患者ならば、そちらを優先しなくてはならないけれど、自分達でも充分手当てを行える傷や不調でも診察を求められては、キリがないのは確かだった。

 案の定、ノエルの治療が終わる頃、また数人の騎士の従者達が診察を求めてきたけれど、そのどれもが大したことの無い傷だと判断したキースが全てを断り、ようやくノエルは公爵家の天幕へと戻る事に成功する。

 天幕の中には、既に皮の胴着とホーズ姿のジークベルトが待機していた。鎧はこれから身につけるらしい。

 彼の隣には見た目にも重そうな黒光りする鎧が立てかけてある。

「連れてきたよ」

 キースが声を掛けるまでもなく、天幕に入ったその時にはもうジークベルトの瞳はノエルを直視している。

 試合前という事もあってか、どこか緊張感が漂う厳しい表情だ。

 だが……何となく居心地の悪い気分になるのは、今の彼の表情が厳しいという理由だけでは、きっとない。

 ノエルはまだ、どうしてジークベルトが自分の言葉を撤回したのか、その理由が判らないままだ。

 そして撤回したその時から、ジークベルトの自分への接し方が明らかに変わった。

 これまでの親しみやすい雰囲気から、どこか警戒されているような、監視されているような……何か自分が気に障る事をしてしまったのなら、その理由を教えて欲しいのに、彼は教えてはくれず、そして自分から聞く事もできない今の状況が少々息苦しい。

「あの……まだお時間があるようでしたら、お茶をご用意しましょうか」

 少しでもこの気まずい雰囲気を薄めたくて、半ば無理矢理に言葉を引っ張り出した。

 が、そのノエルの努力に対してジークベルトの反応は随分と素っ気ない。

「いや、いい。すぐに支度をして出る。……キース、手伝ってくれ」

「はいはい」

 鎧を全て一人で装着するのはかなりの時間と手間が掛かる。通常は一人、ないし二人の手伝いを得て身に付けるものだ。

 手際よく鎧を装着させながらも、この時キースが「やれやれ」と言わんばかりな眼差しでジークベルトとノエルの二人を見たのは、きっと気のせいではないだろう。

 自分達の様子がぎこちないことなど、見ればすぐに判る。まだ何があったのか、とノエルに聞いてこないだけ、キースにも気を使わせているようだ。

 ここにレミシアーナがいれば、また少し違う空気になったかもしれないけれど、そのレミシアーナは御前試合会場へは来ていない。

 大分吹っ切ったとは言え、ひょっとしたらエセルバートと顔を合わせるかも知れない場所には、まだ足を運ぶ気にはなれないらしく、彼女の気持ちを思えば当然のことと言えた。

 結局何も言えないまま、ノエルが手持ちぶさたでいる間に、ジークベルトの支度が調う。

 最後にノエルの胸の高さほどはありそうな長剣を腰に下げ、兜を抱えた。

 これだけの重装備を身に付ければノエルなど簡単に潰れてしまうだろうに、まるで重さなど感じさせない素振りで最後の点検をしているジークベルトの姿に、少しずつ心臓の鼓動が妙な鼓動を刻み始める。

 何故か胸の内側が、やけにざわざわする。

 まるで戦いを前にして、気分が高揚しているような感覚だった。ノエル自身には、そんなつもりは全くないというのに。

「あの……」

 せめて、どうかお気をつけてと告げたくて、どうにか口を開いたけれど。

 それより先に、

「ノエル」

 名を呼ばれる方が早くて、紡ごうとした言葉の代わりに「はい」と返すに留まった。

「いいか、キースの傍を離れるな。私の目の届かない場所へ行かないと、約束しろ」

「えっ……」

 それはどうしてだろう。

 無論、こんな不慣れな場所で一人で彷徨くつもりはないし、試合中はジークベルトが心配なのでキースと共に観戦に行くつもりだが、改めて言われると何か理由があるのだろうかと思ってしまう。

「返事は」

「……はい、承知しました」

 判らないまま、やっぱりその理由を聞けなくて、頷くしかない。

 何だろう。ジークベルトは何を気にしているのだろう。

 この時自分に向けられた彼の眼差しを受けて、気を悪くしていると言うよりは、彼に何かひどく気がかりなことがある、そんな気がした。

長くご無沙汰して済みません。のんびり更新再開したいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

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