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第六章 白き魔女 2

「ごほん」

 直後、わざとらしい咳払いと、

「お兄様?」

 じっとりとした咎めるような声が届く。

「何だ、二人とも」

「何だ、ではありません。ノエルは嫁入り前の女性ですよ。寝間着姿の無防備なところに近づき、簡単に触れるような真似はいけません!」

 妹に指摘されて、初めてジークベルトは自分の距離が近すぎること、そしてノエルの顎をとらえたままの自分の手に気付いたようだ。

「そ、そうか、……すまん」

「い、いえ……大丈夫です。私の方こそ、お見苦しい姿を……」

 慌ててジークベルトが手を離し、身を引く。

 ノエル自身、今自分が寝間着姿である事、そして普段と違い髪を降ろしたままである事に気付き、そっと肩に羽織っていたガウンの裾を引き寄せると頬を染め、ぎこちなく視線を外した。

「とにかく、ゆっくり休め。その青い顔色と、やせ細った身体がせめて元に戻るまで仕事は禁じる」

「えっ、でも……」

「でもも何もない。言いつけを破るようなら、無理矢理にでも寝台に押し込むぞ。判ったか」

 反論することさえ許さないような強い口調に、ノエルは戸惑った。

 この様子だと、本当にノエルがふらふらと動き回っている姿を目撃されると、言葉どおりに寝台に縛り付けられてしまいそうだ。

 正直、何もせずに休むというのはあまり経験がなくて、却って困ってしまうのだが……同じくらい自分の身を心配してくれているのだと思うと、何とも面映ゆい気もした。

 躊躇いながらもおずおずと頷けば、ようやく彼も満足したようだ。

 もう一度、きちんと休むことを命じてから、そのままキースやレミシアーナと共に立ち去るジークベルトの背を見送った。

 本当に、真っ直ぐな人だ。

 言葉こそ素っ気ない物言いをすることがあるし、怒りを買えば恐怖で震えてしまうけれど……それを差し置いても、温かな優しい人だと思う。

 一人の人として、尊敬できる。

 では貴族として、騎士としてはどうだろう。

 実直な騎士か、それとも甘い公爵か、はたまた騙されやすい愚か者か。

 多分評価する人によってその感想は違うのだと思う。

 ノエルも、彼の側にいると落ち着かないながらも、同時にとても安堵する、矛盾した気分を味わっている。

 無意識の内に指先が自分の顎の辺りに触れていた。その場所が先程彼に触れられた場所だということに、ノエルは気付いてはいない。

 それから改めて食事を済ませ、ベッドに横たわった。

 公爵家に戻る事ができて素直にホッとしたが、自分が禁じられていた力を使ってしまった事実は変わりない。

 どんなに念には念を入れて隠そうとしても、本当に大丈夫だろうかと思う不安が消せない。

 今更自分の行いをなかった事にもできず、ノエルは払う事の出来ない不安と恐怖を抱えたまま目を閉じた。

 目を閉じれば、再び先程のジークベルトの姿を思い出す。

 大きな秘密を抱えた罪悪感と、彼に告げる事の出来ない葛藤が苦しい。

 到底休めるような気分ではなかったけれど、心は揺れていても身体はまだ疲れていたようで、いつしか再び眠りに引き込まれていく。

 そして、夢を見た。

 くすくすと笑う声が聞こえる、これまでに繰り返し何度も耳にしているあの声だ。

 夢の中でノエルは薔薇色の美しいローブを身に纏い、その袖や裾をふわりふわりと揺らめかせながら歩いていた。

 そのローブは以前、セトを救った後で着替えた際にレミシアーナから与えられた、あの時の衣装だ。

 生地や刺繍、ベルト飾りなどのどこをとってもこれまで触れたことのないような美しいローブは、到底普段使いなどできるわけもなく大切に衣装箱の奥にしまっておいたもののはずだった。

 どうして今自分はそのローブを身につけているのだろう。

 疑問には思ったが、不思議には思わなかったのはこれが夢だと感じていたからだ。

 夢と現実は違うもの。現実ではできないことが、夢ではできる。

 普段男物の服で身を包んでいても、ノエルだって……そう、レミシアーナが言ったように若い娘であることには変わりない。

 綺麗な衣装にも、煌びやかな装飾品にも小さくない憧れはある。

 ただそれが、自分には分不相応だとそう思っているだけで。

 夢の中ならば、そんなことを考える必要などない。

 滑らかな肌をすべる生地の感覚さえ現実の物のようで、長い袖に口付けるように引き寄せながら、ああそうかと納得した。

 そうか。自分には勿体ない、恐れ多いと思っていても、同じ心でずっと、もう一度このローブのような美しい衣装で、我が身を飾ってみたかったのだ。

 この美しい衣装で身を飾れば、いつもの地味で冴えない自分よりも、少しだけ自信が持てる気がする。

 少しは年頃の娘らしく見えるだろうか。

 踊るような足取りで、前へ前へと歩み出る。

 皆が寝静まった夜更け、たった一人廊下を渡り、表に続く扉を押し開け……ちょうど今夜は満月だったのだろうか。

 どこも欠けることのない丸い月が、黄金色に輝いて見えた。

 まるで現実のもののように鮮やかに夜空に浮かぶ月を見上げ、澄んだ空気を胸一杯に吸い込みながら、いつしかノエルはその月の下で踊り出していた。

 舞踏など習ったことはない。

 地面を踏むステップもでたらめで、洗練さの欠片もない。

 けれど夢の中のノエルは、何故かとても楽しい気分だった。眠る直前まで不安と恐怖で心が縛られていたなど、嘘のようだ。

 まるで全く違う別の人間にでもなったかのように、楽しくて楽しくて、そして嬉しくて……ずっと狭いところに押し込められて身動きがとれなかった身体が、やっと手足を思いきり伸ばせる広々とした場所へ出ることができた時のような、強い開放感に包まれていた。

 踊る、踊る。くるくると踊る。

 自由になった身体の感覚を楽しむように。まだ少し強ばってぎこちない身体を慣らすように。

 楽しげに踊りながら、ノエルの足は更に先へ、屋敷の敷地の外へ向かう。

 迷いのない足取りに、さすがに夢でも躊躇いが生まれた。

 駄目だ、許可なく外へ出るなど。

 これ以上は駄目だとそう思うのに、ふわりふわりとローブの袖を、裾を、そして下ろしたままの長い金色の髪を風に揺らめかせ、ノエルの身体は自分の意志に反して動き続ける。

 駄目、戻らなくては。

 駄目、本当に?

 戻りましょう、もう戻りましょう?


『嫌よ、やっと自由になったのに』


 直後、頭に直接響くように聞こえた声に、ぎゅっと心臓が絞られるような感覚を覚えた長後、夢の風景が暗転する。

 ハッと目を見開いたとき、既に部屋には朝の日差しが差し込んでいた。

「夢……」

 しばらく何度も目を瞬いて、それからゆっくり身体を起こし、自分の身を見下ろす。

 身に付けているものはシンプルな寝間着で、あの薔薇色のローブではない。

 当たり前だ、あれは夢なのだから。

 だけどやけに現実味に溢れた生々しい夢だった。

 肌に触れる生地の感覚も、地面を踏む足の感覚も、そして身体を撫でていく風の感覚も全てはっきりと感じていた。

 普段見るような、目が覚めると曖昧になってしまうような夢とは随分と違う。

 それに起こした身体も、たっぷり眠ったはずなのにずしりと重い。

 特に両足が、一晩中踊った後のように強ばり、じんわりとした筋肉の痛みも感じるほどだった。

 踊る夢を見て、眠っている身体も自然とそのつもりになってしまったのか。

 首を傾げながらも夢は夢、そう思っていた。

 しかし、その日を境にそれから毎夜のように同じ夢を見るようになった。

 夜にローブ姿で部屋を抜け出し、外へ出る。

 始めは屋敷の周辺だったものが、繰り返すうちどんどん屋敷を離れ、しまいには門番の目を盗むように城下町へ出て、夜の街を歩き出す。

 これは本当に夢かと繰り返し思う程、目にしたもの、耳にしたもの全てが現実のようで、目覚めた後の疲労感までもがいやに生々しい。

 それでもまだノエルは、これが夢だと思っていた……いや、正しくは思おうとしていた。

 まさかこれが現実の事とは思えなかったし、夢の中ではあちらこちらへ出歩いていても、必ず朝に目を覚ます場所は自分の部屋の寝台の上……寝姿のままだったからだ。

 だけど彼女はまだ知らない。

 気付いていない。

 衣装箱にしまい込まれていたはずのあのローブが、たった一度しか袖を通していないはずの衣装が、まるで何度も身に付けたもののように薄汚れ、サンダルも土埃で汚れていることに。

 この時の彼女は、まだ本当に何も気付いてはいなかった……

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