第六章 白き魔女 1
それから五日ほどを、ノエルはナタリアの元で過ごす事になった。
娘の容態を確認しながら癒やしの力を使うため、つきっきりで側にいなければならなかったからだ。
死なせないように、けれど癒しすぎないように、そして周囲の人間に露見しないように。
幾つもの秘密と加減を抱えた治癒の力の行使はひどく繊細な上、伯爵やナタリアの夫、周囲の使用人たちの視線を浴びる中でひどく精神を摩耗する。
来る時は同行してくれたジークベルトやキースも、ずっと滞在するわけにもいかず、たった一人で常に見張るような人の視線に晒され、頼れる人も側にいない状況の中ではほんの少しも気を緩めることが出来ない。
度々ジークベルト達は様子を見に足を運んで来てくれたものの、顔を合わせる度にノエルの方が病人なのではと思えるくらい青ざめた顔色で、いつも心配させてしまう。
ようやく娘、ナタリアがどうにか命の危険から脱した頃には心身共に疲労から随分痩せてしまった。
そのせいだろう、ナタリアの容態が落ち着いたとみるやノエルを連れ帰ると宣言したのはジークベルトである。
「ノエル殿には引き続き我が家へ滞在して頂きたいのですが……」
当然ながらコルッサ伯爵は渋った。命の危険を脱したとは言え、もしノエルがいない間に何かあったらと心配するのは当然のことだ。
それと同時に、ノエルが余計なことをジークベルトの耳に入れるのを恐れたのだろう。
娘の命を救ったことで伯爵からは心からの感謝を告げられたが、いくら必死だったとは言え自分がノエルに脅迫まがいの事を言った自覚からか、その話が彼の耳に入ることを恐れているようだ。
もちろんそんなことをノエルは告げ口するつもりなどないし、言えるわけもない。
そうしたコルッサ伯爵の訴えを、はっきりと退けたのはジークベルト本人である。
「お気持ちは理解できますが、この者を休ませねばなりません。幸いご令嬢は危険な状態から脱したとのこと、後はつきっきりでなくとも何とかなりましょう。もちろん急なことがあればご連絡頂いて結構ですし、必要ある間は毎日こちらへ寄越します」
結局、不承不承ながらも了承した伯爵の元から彼に連れられて外に出た時、ノエルはそのまま地面に突っ伏してしまいそうになる。
咄嗟に地面に身体を打ち付けてしまうと覚悟してぎゅっと目を瞑ったが、それを寸前で支えたのはジークベルトだ。
彼の胸に飛び込むような格好になって慌てて身を引きながら、
「ご無礼を……!」
そう詫びたが、逆にジークベルトの方が申し訳なさそうな顔をしている。
仕方がないことだとは言え、ノエルに無理をさせてしまったことを彼なりに気に病んでいるようだった。
「……構わん、慣れない場所で一人留めおかれて、気が休まる暇もなかっただろう」
「そんなことは……」
「嘘をつけ、心穏やかに過ごしていたなら、それほど青い顔はしていないはずだし、やつれてもいないはずだ」
指摘されて、それほど自分は青白い、そしてやつれた姿をしているだろうかと、自分の両手で頬を押さえた。
けれどジークベルトの言うことは事実だ。極度の緊張感を強いられ、ホッと気が緩んだ拍子に思わず目の奥が熱くなってしまう。
精一杯自分に出来ることをしたつもりだが、本当にそれで良かったのか、大丈夫だったのか不安は常について回る。
それに本来ならもっと楽に回復できたはずの娘にも、不自然に見えないよう加減しながら、自分の都合で余計な苦しみを与えてしまった罪悪感も拭い去ることができない。
一体どうすることが正しかったのか、今もノエルには判らない。
自分が何かするたびに、それが間違えた方向へいってしまいそうで……医療を学んだのは純粋に父の役に、そして人の役に立ちたかったから。
……もっと素直に人の役に立てる喜びを味わう事が出来ればよかったのに。
「大丈夫か。手を貸せ」
自らジークベルトの馬、ノワールに乗り上がろうとするが、どうしても手に力が入らない。苦労しているノエルに彼の手が差し伸べられる。
申し訳ないと思ったが、このままでは埒が明かないのは目に見えている。
素直にその手を取れば、ぐいと引っ張り上げられ……腰を落ち着けた場所は彼の鞍の後ろではなく、前だった。
「えっ……」
横座りし、ジークベルトの胸にもたれかかる格好になっている。
まるで姫君に対するような扱いに、狼狽え、慌てて降りようとしたが、腰に回った彼の手に思いの他強く抑えられていて、それを許さない。
「自分で掴まっている事もできないだろう。良いからそのまま大人しくしていろ。眠ってしまっても構わない、きちんと部屋まで運んでやる」
「そんな……」
「ジークが良いと言っているんだから、そのまま甘えちゃいなよ。自覚がないみたいだけど、君、本当に今にも倒れそうな顔色をしているよ?」
うっと、言葉に詰まってしまった。
疲労は極限に達していて、こんな有様ではきっと後ろに乗せて貰っても、自分の手でしがみついている事も出来ずにあっさりと振動に負け、馬から転がり落ちてしまうのは目に見えている。
それでもさすがにこれはどうか……迷っている間にもジークベルトが馬を走らせ始めるので、それ以上問答している暇もない。
最初の内は彼の腕の中で小さく縮こまるように身を竦めていた。
しかし一定のリズムで身体を揺すられ、自分より少し高い体温に包まれていると、自然と瞼が重くなってくる。
本当に、疲れた。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
気疲れとか精神的負担とか寝不足とか、色々と理由は思いつくけれど、多分それだけではなくて……癒やしの力を使う事も、きっと身体が疲弊している理由の一つなのだろうと思う。
今ほど激しいものではなくとも、セトの時も似たような疲労を覚えた。力を使えば使うほど、ノエルの身体は疲弊していくようだ。
回復するためにはゆっくりと休まねばならない。
気が緩んだせいもあってか、すぐにノエルは眠りの世界に誘われていく。
次に目を覚ました時ノエルの身はアルベーニ公爵邸の自室で、寝台に横になっていた。
目を開けると、すぐ側にレミシアーナの姿があって、心配そうにこちらを見つめていた眼差しと目が合うと、途端に彼女の眦がむくれたようにつり上がっていく。
「全くおまえと来たら、五日も私の側を離れた上に、こんなによれよれになって帰ってくるなんて、こんな有様では文句を言う事も出来ないじゃないの」
「……申し訳ありません」
「どうしておまえが謝るの。お兄様の命令に従ったのだから、おまえに責任はないでしょう」
「はあ……」
一体レミシアーナは自分に文句を言いたいのだろうか、それとも労りたいのだろうか。
多分どっちも正しくて、そしてとても心配させてしまったことだけは確かなようだ。
つん、と顔を背けながらも、チラリとこちらを見る彼女の眼差しにはありありと気遣う、心配げなものが浮かんでいるのが判る。
少しだけ意地っ張りで、それ以上に素直で優しい姫君だと思った。
「……とにかく、ゆっくり休みなさい。今すぐに食事を用意させるわ。一週間でそんなに痩せてしまうなんて、侯爵家ではきちんと食事も与えられなかったの?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
ただ過度なプレッシャーと緊張から、食事がまともに喉を通っていかなかっただけだ。
伯爵やその家族は何度も食事を勧めてくれたのに、少しでも油断したらどうなることかと思うと、とてもではないがゆっくり食事もしていられなかった。
それから間もなくしてすぐに食事が運ばれてくる。胃に優しい、野菜を柔らかく煮込んだ温かなスープだった。
「ほら、ちゃんとお食べなさい。そんな痩せた身体では殿方に振り向いて貰えないわよ」
ゆっくりと口に運ぼうとした時にそんなことを言われて、思わずむせそうになる。
「私は別にそんな」
「何を言うの。おまえも年頃の娘に変わりはないでしょう。きっと近いうち、嫁ぐ事になるわ。仕事も男装も良いけれど、おまえはもう少し自分に構った方が良いわよ」
レミシアーナの方が年下のはずなのに、まるで年上のように諭されて、なんと返せば良いのか判らなかった。
ジークベルトとキースが連れ立って部屋にやってきたのはその時だ。
「そうだねえ、ノエルはもう少し着飾った方が良いよ。折角良い素材をしているのに、勿体ない。そう思うだろう、ジーク」
「私にその手の話を振るな、気の利いた言葉など言えない。それより調子はどうだ」
寝台から降りようとするノエルを手で制して、そのままジークベルトがずかずかと大股で歩み寄ってくる。そうして傍らまでやってくると、身を屈めるようにノエルの顔を覗き込んだ。
思いがけず間近に彼の顔が近づいて、びっくりして目を丸くすると、更に彼の手が伸びて俯きそうになるノエルの顎を捕らえ、顔を上向かせられた。
「ああ、顔色は随分良くなったな。だがまだ少し青白い。レミスの言うとおり、きちんと食べろ」
「は、はい……」
「それと……今回は断りにくい状況だったとはいえ無理をさせて済まなかった。だが、おまえはやはり素晴らしい腕前をしているな。まさかあの令嬢を助けられるとは思わなかった」
「それは……」
ノエルの目が伏せられる。
今はジークベルトの感嘆の言葉が、少し胸に痛い。
褒められているのに表情を曇らせるノエルの反応に、ジークベルトの方は怪訝そうに眉根を絞ると、伏せたノエルの目を追うように更に顔を覗き込もうとした。




