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第五章 密やかに笑う声 2

 どうして今ここで、ノエルの姿が浮かぶのだ。

 確かに彼女は王子の寵姫、ベロニカの色気とは相対した、清楚な雰囲気の大人しい娘だ。

 普段の男装した姿のおかげもあってか、ジークベルトのように女性の扱いが不得手な人間にとっては、彼女の方が遥かに付き合いやすいし、気を使わずに済む。

 しかしだからといってここでノエルの姿を思い浮かべる必要などないだろう。

 これでは彼女をベロニカと女性として比べている……つまりはノエルを女性として意識しているようではないか。

 そこまで考えて、またハッとする。

「……違う! 違うぞ、私は決してそんな……!!」

「……は? いかがなさいましたか、アルベーニ卿。何か私が失礼を?」

 突然声を上げたジークベルトの反応に驚いたように目を丸くするコルッサ伯爵に、再び慌てて取り繕わねばならなくなった。

「い、いえ、違います。少々考え事に気を取られてしまいまして……大変失礼しました」

 逆隣からキースがまた呆れたような眼差しを向けてくるのが、振り返らずとも判る。

 頭を抱えたくなった。本当に自分は何を考えているのだ。

 恩人であるグローヴァから預かった大切な娘だ、そんな娘に邪な目を向けるなどあってはならない事である。

 そう、自分と妹の我が儘で親元から連れ出したのだ。

 グローヴァの元へ帰すまで、自分には彼女に責任がある、だから気になるのだ。

 そう繰り返し言い聞かせていると。

「そう言えば、アルベーニ卿はノエルという名のひどく腕の立つ薬師の娘をお抱えになっておられるそうですな」

 突然、今自分が考えていた娘の名を口にされて、心底驚いた。何故コルッサ伯爵が彼女の事を知っているのだろう。

「……体その話をどちらから?」

 あまりにもジークベルトが驚いた様子をみせたことで、コルッサ伯爵は逆に少し恐縮したように肩を竦めたが、それでもこの話題を終わりにするつもりはないらしい。

「何でもグラハム卿のご息女を、見事にお救いになったと。それがまだ年若い娘だと聞いて、身体に悩みを抱える貴族の奥方やご令嬢を持つ貴族達の間で、広く広まっておりますよ」

 グラハムの事だ、悪意あって言いふらしたことではなく、本当に感謝する気持ちをそのまま人に口にしたのだろう。

 彼の娘のイリーナの体調が急激に良くなったわけではないが、今まで何をしても不調そうだった娘が少しずつでも元気を取り戻す姿を目にすれば、多分娘を愛する親なら誰だってそう思う。

 ジークベルトとてノエルに助けられた側の人間だ。その存在はもっと重用されるべきと感じてもいる。

 だが、コルッサ伯爵の話を聞く限り、どうにも少し噂が一人歩きをしているようだ。

「実は、私の娘も先日子を産んでからずっと体調を崩しておりまして……なかなか寝台から身体を起こすことができずにいるのです」

 先程はさりげない形で声を掛けてきた伯爵だったが、そんな話をされると、どうやら会話を切り出す機会を窺っていたようだ。

 そうなれば、彼が自分に何を求めているのかを想像するのは容易い。

「それはご心配ですね」

「はい……大変不躾とは思うのですが、アルベーニ卿のご慈悲にお縋りしたく……」

 その後続いた言葉は想像した通り、ノエルの診察を望むものだ。

 興味や好奇心からの申し出ならば断る事もできるが、真実身内を案じて、救いを求めてくる人の言葉を、さすがにジークベルトも簡単に退けることは難しい。

 それでもコルッサ伯爵にも先日グラハムに話したように、ノエルは正式な医師ではないこと、自分が抱えているわけではないので命令はできないこと等を繰り返し説明する。

 最後にノエルも万能ではないのだと遠回しに断りを入れ、一度はコルッサ伯爵も引いて見せたが、あの様子では諦めてはいないようだ。

 娘の事を思う親の気持ちを考えれば、無理もないことだが……どうしたものかとキースと相談を交わすことにした。

 その際のキースの考えは、次の通りだ。

「グラハム卿の頼みを聞いておいて、伯爵の頼みは駄目とは言えないだろう? とりあえず、ノエルに聞いてみたらどうかな」

 確かにそうだ。そうなのだが。

「だが……そんなことをしていてはキリがなくなるぞ」

 仮にコルッサ伯爵の願いを聞き入れ、ノエルに打診したとする。

 それで伯爵の娘を彼女が無事に救ったら、またその噂を聞きつけた別の貴族が救いを求めてくる……次第にその数は膨らみ、やがてノエルの手に負える数を超えるのは目に見えていた。

 それにもし彼女の手に負えない事があればあったで、それで貴族達が納得すれば良いが、中にはノエルの実力不足だと責める者も出てくるだろう。

 そうした中であの繊細な娘が潰されてしまうかもしれないと思えば、到底ジークベルトに安請け合いはできない。

 このような噂が流れるきっかけを自分が作ってしまったのだと思えば尚更に。

「私はノエルに無理強いはできない」

「でもジーク、君もこの先の自分のことを考えてはいるだろう? アルベーニ公爵家は今微妙な立場に立たされている。レミスの婚約が破棄され、王や王妃から明らかに避けられるようになってから、その公爵家の威光にも陰りが囁かれていることは知っているはずだ」

「……それは……」

 否定できない耳の痛い指摘に、ぐうっと黙り込んだ。

「完全に他の貴族から斜陽と判断される前に、君は公爵家を守る為に他の貴族達と強い繋がりを作っておかなくてはならない。そういう意味で、彼らの願いを叶えるのは公爵家にとって少なからず助けになる。違うかい?」

 彼らにとって身内をノエルが救えば、それはジークベルトが救ったことになる。

 大切な身内を救われた貴族達は、公爵家に恩を感じるだろう。中には、恩を忘れず公爵家に報いようとする者達も出てくるかもしれない。

 その数が増えれば、王や王妃とていかにこちらが目障りに感じても、今以上に退けることは難しくなる。

「……だが、私はそんなつもりでノエルを王都へ連れてきたわけではない」

「判っているよ、君がグローヴァ医師に深い恩義を感じていることは。俺だって同じだ、ノエルにも彼女の父親にも心から感謝しているし、最初から利用しようなんて考えていない。だけど、ジークが守るべき人は彼らだけではないだろう」

 それは言われるまでもない。

 家、家族、領民に抱えている騎士達。その全てにジークベルトは責任がある。

 家の力の衰退は即、周囲の野心ある者達に噛みつかれ食い殺される原因となるだろう。

 ノエルの村もジークベルトの領地の一つだ。他人事では済まされない。

 だが……判っていても、すぐに頷くことができずに黙り込むジークベルトに、キースは囁くように告げた。

「ジークが頼みづらいというのなら、俺がノエルに頼んでも良いよ」

 きっとキースの頼みでも、ノエルは耳を傾けてくれるだろう。それは容易く想像が付く、だが。

「……いや、駄目だ。彼女は私の恩人の娘だ。そして彼女自身が既に恩人でもある。恩人を自分の都合の良いように利用するなど、恩を仇で返すような真似は私にはできない」

 ここで小さくキースが溜息をついたのは、良く言えば真っ直ぐ、悪く言えば融通の利かない石頭と言えるジークベルトの発言についてだろう。

 キースが彼なりに公爵家のことを心配してくれているのは良く判る。その気持ちを有り難いとも思う。

 けれどやはりジークベルトには、自分が納得できないことを人に押し付けることは出来ない。

 亡くなった両親も、いつも自分達に言って聞かせていた。

 曲がったことはするな、たとえ一時苦渋を噛み締めようとも、正しい行いを続けていればいつか必ずその正しさが報われる時がくると。

 自分が正しいと思った道を進め。

 他の誰でもなく自分自身に恥じる生き方はするな、とも。

 ジークベルトはそんな両親の言葉を信じているし、また自らもやはりそれが正しいと思うのだ。

「近いうちノエルはグローヴァ殿の元へ帰す。ノエルの力に頼らずとも、私は私自身の力で家を、そして領地を守ってみせる」

「……それができれば、一番の理想だけどね」

 ジークベルトの決意表明とも言える言葉に対し、キースの返答は厳しい。しかし今は彼のそんな言葉も仕方がないだろう。

 現時点においてアルベーニ公爵家は王太子の慈悲に期待せねばならない立場だ。

 しかし、王に避けられはじめて早数ヶ月、レミシアーナの不名誉も回復できないままただ手をこまねいているわけにもいかない。

 周囲の国々でもきな臭い噂話も聞こえてくるし、アスベルの動向も気になる。

 騎士である以上、戦場で手柄を立てるのが一番だが、万が一のことがあった場合には自領地だけででも存続できるような体勢を整えていかねばならない。

 そんな危機感は今は亡き父の代から抱き続けている。

 少しずつその基盤となるものは作り上げてきてはいるが、形になるにはまだ時間がかかるだろう。

 必ず報いるからと約束してくれた王太子が実権を握るその時まで、ジークベルトは自分の代で家を潰す事はできない。

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