第五章 密やかに笑う声 1
王都へ戻ってきて、かれこれ一ヶ月近く過ぎただろうか。
こちらの事情を知りながら、半ば無理矢理王都へと召集したくせに、王から特別な声を掛けられることもなく、ただ時間だけが過ぎる日々が続く。
これまで王にアルベーニ公爵として目通りが許されたのは、帰参の挨拶の際と、近々行われる予定の第二王子エセルバートの婚約式に参加するよう命じられた時のみ。
後は毎週二度行われる御前会議で姿を目にするだけだ。
こんなことになる以前は、王都にいる際はもっと頻繁に呼び出しを受け、王や王妃共に頼りにされる機会が多かっただけに、やはり避けられている……否、疎まれているのだろうかとそんな気分になってしまう。
王からそのような扱いを受けるのであれば、いっそのこと将軍位を返上して領地へ戻り、領主として私兵を束ね、自治領の統括と外敵からの防衛に力を注いだ方が良いのではないかと思う考えは、これまでに幾度もジークベルトの頭を過ぎった。
しかしアルベーニ公爵家は代々、騎士の頂点に立つ大将軍としての役職と、国に三つある騎士団のうちの王宮騎士団を束ねる団長としての役目を担ってきた。
納得できない王の不興を理由に、自分の代で返上して領地に引きこもってしまう行為は先祖に、そしてこれから先の子孫達に申し訳が立たない。
キースに、一体何を考えていて石階段から転げ落ちたのだと言われたが、決まっている。これまでのこと、現在のこと、そしてこれから先のことを思いあぐねていたのだ。
自分達兄妹は何を理由に、こんな扱いを受けねばならないのか。
そうされる心当たりがあればまだしも、全く心当たりなどないばかりか、あまりにも理不尽な仕打ちに振り回されるばかりだ。
生まれついてのしがらみと、王太子、イグニスからの格別な配慮がなければとっくに事態はもっと悪化し、王都に背を向けていただろう。
問題はこれから先だが、どうかもうしばらく耐えてくれと訴える王太子の、先の見えない言葉に従うべきか、あるいは他に手段を講じるべきかと考えていた時に、ジークベルトの元に書状が届いた。
北の国アスベルから献上された、この国には存在しない珍しい獣の肉を使った料理を振る舞う宴を開くので、そちらに参加するようにとの命令だった。
宮廷では時折こうした宴が開かれる。
理由は何でも良いのだ。だが、北の国アスベルから献上された、と言う部分にいささか引っかかった。
アスベルとは数代前から国境沿いの争いを繰り返している関係で、これまでにも何度か大きな戦いになっている対戦国である。
七年前、ジークベルトが初陣した時の敵国もアスベルだ。
長く続いた戦いで疲弊した国を立て直すため両国の間では二年前に停戦条約が結ばれ、それからは関係は一見落ち着いているように思えるけれど、ジークベルトはいずれ再びアスベルが条約を破棄する時がくるだろうと考えている。
なぜならばアスベルは国土こそ我が国より広いが、その多くが雪と氷に覆われた山岳地帯だ。つまり農耕に適した土地が少なく、麦やその他穀物などは他国から購入するか、奪うかしなければ、とても国民の胃袋をまかなうことができない。
その点アスベルより南に位置するこの国は豊かな穀倉地帯が広がっている。
毎年収穫期になると、黄金色の麦の穂が頭を垂れ、風に揺らされる様は黄金の海のようである。
アスベルはその土地が欲しいのだ。豊かな土地を手に入れる誘惑に、かの国が耐えられるとは思えない。
そんなアスベルからの献上品である。捧げ物と共に国王の命を止める暗殺者を寄越してきてもおかしくはないと思っていたが、どうやらあちらもまだ今はそのような事件を起こすつもりはないらしい。
捧げられた獣は、両側頭部から大きく立派な角を枝のように生やした獣だった。
見た目は鹿に似ているが、鹿より体格も角も大きい。北の寒い土地に生息する獣だと聞くが、アスベルでもこれほど立派な体格のものは珍しいそうだ。
そしてそれ以上に目を引いたのは、焦げ茶色の体毛が多い中で献上された個体は白い毛皮を持っている。美しい神の使いのようにさえ見えるくらいだ。
しかしそんな美しい毛並みも立派な体格も、殺されて皮を剥がれ、肉にされてしまえば全く意味がない。
唯一その面影を残す角の生えた獣の生首を広間の中央に飾り、振る舞われる料理の匂いもかき消すように漂ってくる血の生臭さに、ジークベルトは自分の眉間にきつく皺が寄るのを堪えるのが精一杯だった。
どうやら獣はこの直前に屠殺されたばかりのようだ。
剥製ならばまだしも、まだ深紅の血が滴る生首を見世物のように飾るなど、悪趣味としか思えない。そもそも獣の肉はある程度熟成期間を置いたほうが良いとされている……それを思えば尚更、生臭い血の匂いを漂わせる必要などないはずだ。
つまりはこの哀れな獣の姿を見せびらかすことそのものが目的なのだろうと思わせた。
獣を殺し食らう、その行いを責めるつもりなど到底ないけれど、ジークベルトの知る以前の王であれば、少なくともこのような真似はしなかっただろう。
己の腹を満たしてくれる獣の命に対して、それ相応の敬意は払ったはずだった。
それを……こんな見世物にされては、尊い命を奪われた獣も報われないだろう。
難しい顔をしているジークベルトの隣で、キースが気忙しげな視線を向けてくる。内心はどうであれ、このような宴の席ではもう少し朗らかに笑えと言いたいのだ。
判っているが、どうにも真っ直ぐすぎる気質のジークベルトには、この不快感を隠して微笑んで見せる等と言う芸当は大分難しい。
そんなことを考えていた時だ。
「ご存じですか。今夜の宴を計画なさったのは、エセルバート殿下とか」
右隣から、突然そんな言葉を掛けられた。
目を向けた先にいるのはコルッサ伯爵である。優しげな笑顔と、ふくよかな体格が目印の、穏やかな人格の貴族だ。
笑み一つ浮かべることのできないジークベルトよりよほど社交上手だ。少なくともあからさまな態度は見せないし、さり気なく生首から視線を外して、目の前の料理の方に集中しているように見える。
しかし彼の言葉には、確かにジークベルトと同様にこの血なまぐささに辟易しているようだ。
「……エセルバート殿下ですか」
その名を耳にすると、ことが起こった時から数ヶ月が過ぎた今でも苦い思いが胸の内を過ぎる。
それ以来、冷遇……とまでは言わないまでも、王や王妃まで重用していたはずの公爵家によそよそしくなった事を思えば尚更だ。
そのエセルバートは、宴の上座で機嫌良く笑っていた。彼の隣に寄り添うように同席しているのは、一人の黒髪の美女だ。
深紅のローブに身を包みながらも、格別柔らかな生地が彼女の身体の線を浮き彫りにし、実に艶めかしく見える。
胸の膨らみも腰の張りも並の女性より豊かで、女性の色気と言う言葉をそのまま形にしたような人物だとそう思った。
キースには散々朴念仁だと言われているジークベルトですら彼女の色気には一瞬と言えど目を奪われるのだから、他の貴族の男達はより反応が顕著だ。
王子の寵姫にあからさまに邪な目を向けるわけにもいかないので、露骨なほどじっと凝視する者は少ないが……それでもチラチラと、ひっきりなしに誰かしらの視線が彼女に向いている。
しかしそうした男達の視線を前に、彼女も、そして王子自身も気を悪くした様子はない。むしろどこか誇らしげなようにも見えた。
恐らく彼女の美貌と色気に、他の男達が戸惑う様を楽しんでいるのだろう。
それを思うと、またジークベルトの心が曇る。以前のエセルバートは、そんな意地の悪い……言ってしまえば傲慢な言動などしない人物だったはずなのに、と。
そして、そんな王子達の近くの席を陣取っているのは、彼女の後見となったカッサンドラ侯爵とその一派である。
王子が機嫌が良いならば、侯爵の機嫌もうなぎ登りだ。
自分の席がジークベルトよりも王子に近い事がそれほど誇らしいのか、ご自慢の脂を染みこませて固めた口ひげを、何度も何度も指先で扱きながら、くるくると毛先を丸めている。
そしてチラチラとこちらへ優越感に満ちた視線を向けてくるのだ。
別段ジークベルトは喧嘩っ早い方ではない……と自負しているつもりだが、それでもこのあからさまな態度をとられれば不愉快だ。
自分に物申したい事があるのであれば直接直訴してくるか、決闘でも申し込んでくれば良いものを。
そうなれば遠慮なく叩き伏せてやるのに……でも侯爵も自分の剣の腕がジークベルトに叶わないことは承知しているので、なかなかこちらの思うようにはいかないだろう。
確かに王子の寵姫は美しく、目を引くが、ジークベルトからすればただそれだけだ。
身内の欲目と言ってしまえばそれまでだが決して彼女に妹の全てが劣っているわけではないし、以前の明るく溌剌としたレミシアーナはこの女性とは違う魅力があると思う。
それにジークベルトはこれほど「女」という性を強調する女性はあまり得手ではない。
それくらいならば、よっぽど……
「……アルベーニ卿?」
「……いえ、何でもありません」
突然頭を左右に強く振る仕草を見せたジークベルトに、コルッサ伯爵が怪訝そうな声を洩らす。
その伯爵に取り繕う言葉を返しながら、この時ジークベルトは自分の頭に浮かんだ人の姿に、軽い動揺と戸惑いを抱かずにはいられなかった。




