第四章 噂の始まり 8
「あの、もしかしてお怪我を?」
問えば、途端にジークベルトは渋面……いや、どことなくばつの悪そうな顔をしてみせる。ぷっと隣でキースが噴き出すように笑ったのはその時だ。
「そうそう。怪我しているんだよ、ジークは。今日ちょっとしたことがあってね」
「……別に、大したことはない」
「そう? 結構な擦り傷と大きな痣ができているじゃないか、折角ノエルがここにいるんだから手当てしてもらいなよ」
いいよね、と視線だけでキースに問われ、反射的にノエルはもちろんと大きく頷いた。
キースが笑っているので、怪我の状態もその理由もさほど深刻なものではないとは思うが、怪我をしていると気付いてしまってはやっぱり気になる。
「ご迷惑でなければ、見せていただけますか……?」
怪我をしている側が見てくれと言ってくるのならばともかく、治療をする側が見せて欲しいと頼むと言うのも少しおかしな感じだが、ノエルの申し出にジークベルトは少しばかり沈黙すると……じっと見つめてくる彼女の眼差しから気持ち視線を逸らし、渋々といった様子で襟元を開いた。
自分で見せてくれと言ったくせに、目に入った逞しい首筋と胸元に、どうしてかじんわりと頬が熱くなった。
男性の裸体など、治療でこれまでに何度も目にしてきた。たかが少し襟元を緩められた程度で慌てるようなことはないはずなのに、まともに見ていられない。
思わず視線を彷徨わせるように外してしまいそうになったが、その寸前で晒された彼の肌が紫色に変色している様に気付いた。
ハッとして改めて見直してみると、その紫色の痣は結構な範囲に広がっている。
他にもあちこちに擦り傷があるところからして、まるでどこか坂や石段からでも転げ落ちたかのような傷だ。
「これはどうなさったのですか?」
答えたのはキースの方だ。
「ご覧の通りコケたんだよ。グラハム卿と別れた後、騎士団の訓練場からの帰りに、階段から、それはもう見事な勢いで」
「キース、余計なことを言うな!」
「事実はちゃんと説明しないとだろう? どうして転んだのか、ほら、理由を話してごらんよ」
これは完全にキースが遊んでいる。ジークベルトは今度は明らかにふて腐れていると判る表情で、殆ど投げやりに答えた。
「……ないと思った階段の段差が、あったんだ」
「……ああ」
つい納得するような声を漏らしてしまった。
「ちょっと考え事をしていた。気付かなかったんだ、仕方ないだろう!」
そして今度は怒鳴るような声を上げてくる。しかしそれもふて腐れた様子を目にしてしまえば、その延長にしか見えない。
「いやあ、本当に見事なコケっぷりだったよね。唯一の幸いは、アルベーニ公爵であり将軍ともあろう人が、突然無様に階段から転がり落ちる姿を、俺以外の誰にも見られずに済んだことかなあ」
「煩い、黙れ!」
当然だが、からかわれればからかわれるだけ、ジークベルトの機嫌は悪くなっていく。
低い声で命じられればノエルなどはそれだけで震え上がるというのに、キースのニヤニヤ笑いは収まらない。
そんなキースをじろりと睨んで、ジークベルトはそのまま広げた自分の襟を直そうとした。傷や打撲をそのままにして。
「あっ、お待ち下さい。打ち身に良く効く湿布薬を持っていますので、すぐお持ちします」
「構わん。この程度のことで」
確かに騎士として生きるジークベルトにはこの程度の傷やあざなど日常茶飯事なのかもしれない。しかし目にしてしまったノエルは、とてもではないが放っておけそうにない。
「それは、あの、でも……薬を使った方が癒えるのも早いですし、その……」
本人が良いと言うのなら無理強いなど当然できるわけがないのだが、そわそわとして落ち着かない気分になってしまう。
そんなノエルに笑いながら助け船を出してくれたのはキースだ。
「心配して手当てしてくれるというのだから、素直に受けておけば良いだろう? ノエルの立場じゃ、見てしまったら見なかったことにはできないだろうし」
つい、うんうんと何度も頷いてしまった。
その仕草はジークベルトの目にも入ったようだ。
「大げさで心配性な医師見習い殿だな。……まあいい、おまえがそれで気が済むなら好きにすると良い」
「はい! あの、すぐに戻ってきます!」
彼の気が変わらない内にと、慌てて頷いていったんジークベルトの書斎を飛び出すと、自分の部屋へ戻り、荷物の中から湿布薬と布、それに水を手にして、再び書斎へと舞い戻る。
「お待たせしました!」
「早いな」
少し前まではキースにからかわれて不機嫌そうだったのに、息を切らせて駆け戻ってきたノエルの姿に、呆れ半分感心半分で彼が笑った。
不機嫌な表情をしている時はその雰囲気がどっしりと重くて、なかなか近づき難い印象がするジークベルトだが、こんな風に笑うと途端に愛敬を感じる。
そのギャップか、あるいは他に理由があるのか、じんわりと熱くなる気がする頬にあえて気付かないフリをして彼の元へ歩み寄った。
今度は先程よりも大きく襟元を広げて首筋から肩までの肌を露わにしてもらう。
濡れた布を痣の上に押し当てて少し冷やしてやっている間に擦り傷に傷薬を塗り、湿布薬を別の乾いた適当な大きさに切った布に塗り広げて、痣に押し当てるように貼り付けた。
つん、と漂う特有の鼻をつく匂いに彼が眉を顰める。
けれど体温で温められた湿布薬から、すっとする心地良い感覚を感じとったのか、うっすらと目を細めている。
「これはいいな。気持ち良い。効きそうな気がする」
「そうですか?」
「ああ」
短く答えて、彼の視線が背後に立つノエルを振り返った。間近でぶつかる視線に、再び何となく落ち着かない気分になって顎を引く。
すると、そこで振り向いた彼が言った。
「この薬は量産できるのか? ある程度量が作れるなら、騎士団へ持っていこうと思うのだが」
なるほど、確かに騎士達は日頃から訓練だなんだと、打ち身や痣には事欠かない。常備薬としておいておけば、大いに役に立つだろう。
「少しお時間をいただけるなら、作る事は可能です……ただ、あの、材料が今手元にあるものでは少ししか作れなくて」
「この間摘んできたものでは駄目なのか?」
「種類が違うのです。また別の薬草を摘んでこないと」
「同じスミグの森にあるのか」
「たぶん、あると思います」
「なら、おまえの都合が良ければ明日もう一度行こう。薬草の特徴を教えてくれ」
「えっ、でもお怪我は……」
薬草摘みは単純な作業だが、立ったり屈んだり、ずっと同じ姿勢を保ったりと、想像する以上に身体に来る。そのことは前回の薬草摘みでジークベルトも承知しているはずだ。
だが。
「この程度、問題にもならん。騎士には日常茶飯事だ」
「階段から落ちるのは日常茶飯事じゃないと思うけど? この国の騎士がそんな間抜けばかりだと思われるのは心外だな」
「だからおまえは煩い! いちいち茶化すな! いいか、ノエル、明日だぞ。忘れるなよ。おまえの薬草講義はとてもためになるんだ」
怪我はやはり心配だったが、そう言われてしまうと否とは言えない。
ジークベルトが自ら誘ってくれることも嬉しかったし、自分が役に立つようでそれもまた嬉しいと感じてしまえば尚更だ。
二度三度と瞬きをした後で、そっと目を伏せると頷いた。
「……あの……はい。お願いします……」
気持ち、声が小さくなってしまった理由は何か。
頬が熱くなる理由も、身体の内側がむずむずとする理由も判らないまま、そっと己の胸元を押さえながら答える。
さり気ないその仕草にジークベルトは気付かない。気付かないまま、穏やかな眼差しでノエルを見つめている。
「……折角の誘いなのに、出かける理由が薬草摘みとか、色気がないなあ……」
ぽそっと呟いたキースの苦笑交じりの声は、幸いにして二人の耳には届かなかった。




