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あまごい  作者: 白石ひな
2/17

二つ目の傘


 「はぁ……」


 私は紺色の折り畳み傘を見ながら、ため息をついた。彼に押し付けられるように渡されて結局使ってしまったこれは、罪悪感と感謝の気持ちを表すかのようにしっかり乾かして丁寧に畳んだが、いまだに私の手元にあった。


 これ、どうしよう。


 実はこの傘、ここ数日間鞄に忍ばせてあった。彼に会ったらすぐに渡せるようにと思ってはいたのだが彼のことは名前も具体的な年齢も何もかも知らないし、彼を見つける手掛かりはなかった。彼から借りたこの傘は、異様な存在感を示してやまない。


 もしかしたらこれ、要らないかもしれないけど。


 安物だとか、遠慮するなとか。初対面の私にそんなことを言いながらこの傘を渡してきた彼は、よほどのお人好しか、この傘が要らなかったのか。彼の意図はさっぱり読めなかった。


 返したい気持ちはもちろんあるんだけど……かさ張るしなあ。


 私はその傘を手にとって鞄にいれるかどうか迷ってから、慎重に机の上に置く。明日は体育もあるし持ち物がたくさんあるからなどと心の中で言い訳をしてみたけれど、べったりとこびりついた罪悪感がぬぐえるわけではなかった。





 また、やってしまったと、電車に揺られながら真っ青になる。電車に叩きつけるように降る雨は、この間と同じくらい酷い。


 「どうしよう」


 最寄り駅まではあと少し。どちらにせよ、降りないわけにはいかない。できることなら車で迎えに来てもらいたいところだったが、生憎家には誰もいないからそれは無理な話だ。


 ため息をつきたくなる。そんな私の耳には、車掌さんの独特の声で駅名が告げられるのが聞こえてきて、椅子から腰を上げる。それからすぐにドアが開く。雪崩のように人が降りていって、私もそれに混ざっていく。


 今日こそ、傘買おう。


 そんな、変な決意をして改札を出た。コンビニは目と鼻の先だけれど、残念なことに雨の中を横切らなければならない。私は意を決して、雨に身をさらそうとした。しかしそれを阻むように伸びてきた手がまた、私の腕をつかんだ。


 「君、この前の子だよね?」


 私はビックリして見上げる。腕をつかまれた瞬間に、もしかしてとは思ったものの、そこにいたのはやはり、この前の彼だった。


 「あの、」


 彼は私がここに留まる意思があるのを見ると、腕を離した。私は彼の顔を見ながら、あの傘の入っていない分そこまで重さがない鞄をぎゅっと握りしめる。


 「傘。ありがとうございました。実は今日、持ってきてなくて……。すみません」


 申し訳無さすぎて、顔が見れない。昨日までは傘、入れていたのにどうして今日に限って置いてきてしまったのだろうと自分を責めた。


 彼は私の懺悔を目の前から動かずにしっかりと聞いていたが、身長の高い彼を見上げるのは少し、辛い。それに顔を見るのも、辛い。だから上手い焦点の置き方が分からずにいた。


 「いや、別にいいんだけど、さ」


 彼は私のことをじっくりと見ているようで少しだけ居心地が悪い。私は思わず体を固めた。そんな私を気遣ったのか彼は少し考えるようなしぐさをしてから、ゆっくりと口を開く。


 「また傘、ないの?」


 「えっ!? いや、その……」


 少しだけ身を屈めて、彼は私の視界に侵入してくる。やはり私は上手く彼を見ることができずに、口ごもっていた。


 「ないんだね?」


 なんでこんなこと、見ず知らずの人に言われてるんだろう。


 なんて、疑問に思いながら、小さく肯定の意を示した。彼はそれを見て、ため息なのかわからぬ息を吐いてから、一瞬躊躇したような間を作って、声をあげる。


 「もし何だったら、傘、入る?」


 「へっ?」


 思わずビックリして声を漏らす。上手く見れなかったはずの彼の顔は、気が付いたら視界に入っていた。


 「あの、全然! 変な者じゃないんで……まぁ、よかったら」


 彼は照れているのか、私から視線をはずす。


 どうしようかなんて、考えない。普通は。これで傘に入れてもらうなんて、不用心にもほどがある。一回傘を貸してもらっただけの、名前も、何もかも知らない男の人の傘なんて。


 だけど。だけど気が付いたら、


 「すみません……お願いします」


 そう、言っていた。





 会話は、なかった。


 緊張していたとかそういうこともあると思うけど、何より、何を話したらいいのか。はたまた、何か話していいのかすら、わからなかった。


 そんな中、どんどんと私の家が近づいてくる。


 傘に入ってすぐ、少しだけの会話で、私と彼と、家の方面が同じだということは、わかった。それ以外何も話してないから、あとは何もわからないけれど。だから一応、迷惑ではないらしい。と、言っていた。本当にそう思っているのか、表情からは判断できなくて。だけど私はなぜか、彼に甘えてしまっていた。


 「あの、もうすぐなので……」


 「え、そうなの」


 ありがとうございました。そういうよりも先に、彼が声をあげて、それを阻止する。


 「家、知られたくないでしょ。傘は返さなくていいから」


 「え」


 「じゃあ」


 またも、彼は颯爽と走り去っていく。駅を出たときよりは幾分かましにはなっていたけれど、それでも小雨というには強すぎる雨の中、彼の背中が消えていく。


 また、やってしまった。お礼も言えていない。


 隣に彼がいたことの証のように、濡れた右肩が冷たい。


 名前も知らない彼。私の手元に二つ目の傘を置いていった彼。

 罪悪感と共に、何かよくわからない想いが心のうちに広がっていく気がした。



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