第一章
ミーンミーン.....
それは、ひどく暑い夏の日だった。
様々な木々から蝉の声が聞こえ、照りつける太陽に文句を言いたくなるような昼下がり。
公園には、子供を連れた母親や夏休みであろう小学生達で賑わっていた。首筋の汗を薄い水色のタオルでふき取りながら、神田誠一は先程買ったお茶を喉をならして飲んでいく。
「あちぃ・・・・・」そう呟いた神田の声は蝉の声でかき消される。何でこんな暑い日にイベントなんてすんだよ。神田は深い溜息をついて、目を瞑った。
神田は1年前からとある警備会社に勤めている。
大学を卒業後、一度は就職をしたがわずか一年足らずで辞めてしまった。
新しく職を探している時に現在の警備会社を見つけ、幼い頃よりアクション映画が好きで習っている護身術を使えるかもしれないと軽い気持ちで正社員への面接を受けた。
この不景気の中で簡単に再就職が見つかるとは思っていなかったが、見事に合格した。
「世の中甘くないもんだよな。」神田は飲み干したペットボトルのお茶をゴミ箱に捨て、公園を後にした。
警備会社と言っても神田の仕事は契約会社への警備の派遣、今日のようなライブやイベントでの整備や不信人物がいないかとの会場の見回り。
神田が考えるような護身術での対応などはなかった。
「戻りました。」
神田が事務所の扉を開けるとひんやりとした空気が流れ込んだ。
「おう、お疲れ。」神田の上司である松本が自分のデスクから顔を出して手をヒラヒラとさせた。
「松本さん・・・」神田は自分のデスクへと戻り、パソコンを付ける。
「何だ。」「俺、警備会社ってもっとこう・・バトル的な「そりゃspだ。入社してから何度目だ。ここは警備会社だっつてんだろ。」ほらよ、と松本が神田に書類を渡す。
「お前みたいに護身術出来るやつらの集まりじゃねーんだ。ただの警備会社の警備員が良いとこなんじゃねーのか。」
神田チラリと松本を見て、礼を言って松本から書類を受け取る。
「ですよね・・・・」
仕事に不満があるわけではない。雑務も多いが自分の身体を使って働く今の仕事に慣れてきていた。
「ほら、早く報告書書いてしまえ。」
「はい。」神田は眉にかかった前髪を一度すくい上げてパソコンへと目を落とした。
「なぁ、俺さっきでんせつの佐藤さん見たんだよ。」「まじかよ!」神田が報告書を書いていると後ろのデスクからそんな声が聞こえた。
”でんせつの佐藤さん”神田が入社してから、たまに聞く名前だった。
一度、何故でんせつなのかと聞いたところ「でんせつはでんせつなんだから、何故と言われても・・・」との反応を受けた。「久しぶりに見たんだけどよ、本当に猫っぽいよな。」
実際に見たことはない。見た、という人も少ないようだ。たまに耳に入ってくる程度の”でんせつの佐藤さん”。”でんせつ”なんて呼ばれている程なんだからきっと凄い人に違いない!
初めて”でんせつの佐藤さん”を聞いた時はどんな凄い人で屈強な男だと思ったのだが、神田の耳に入ってくる話といえば、
「猫のよう。」
「煮干し食べてた。」
「小柄な女の子。」
「地下のでんせつの部屋からあまり出てこない。」
などで初めの印象からは掛け離れていった。
報告書が苦手な神田だが、この日は違っていた。いまだに慣れないパソコンに向き合い、肩をこわばらせながら必死に文字を打ち込んだ。
「どうした、神田。そんなに急いで。」松本が物珍しげに神田のデスクを除いた。
「今日は朝からイベントの警備にあたってたんんで、この報告書書いたら今日はもう上がっていいと言われたので、早めに切り上げて会いに行こうと思いまして。」「おっ!あれか?彼女か?」松本がニヤニヤとしながら、神田の肩を軽く叩く。
「いえ....」神田はくるりと椅子を回して松本を見る。
「でんせつの佐藤さんに会いに行こうと思いまして。」
松本は小さく「え」と言って、目をパチクリとさせた。