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断片その一(5)

 蛇口を捻れば水が出る。

 予想を裏切らないと言うか何と言うか、それだけの事にフェルアラッツさんは、見事な迄に狼狽えてくれた。ちょっと面白かった。

 ちょっと面白かったが、繰り返されるそういった反応は、彼の話を裏付けているかのようだとも思う。だってまるで地球の裏側、電気もない辺境から来た少数民族みたいな反応するんだもん。

 まだ半信半疑。でもそれって、半分は信じてしまっているって事だ。別世界ねえ。誰が言ったのやら、めちゃくちゃ非現実的だな。まあ私が言ったんだけどな。


「あ」

 水は愚かお湯が出ると知って言葉を失くしていた彼を暫く眺めていたが、飽きて、じゃない一人にしてあげようと思って、風呂場を出ようとした時、後ろからの声に足を止めた。

 振り返ると、水道口の前にしゃがみ込んでいた彼が、弱ったように眉を下げていた。歯切れ悪く、あー、とか、その、とか漏らす。

「貴女の、名前、なんだが」

「あ、言ってませんでしたっけ」

 こくりと頷かれる。今更自己紹介とは、なんだか大分順序がおかしい。


「美穂です。花流美穂(カリュウミホ)。フェルアラッツさんと違って、後が名前です」

 家に泊めて、朝食を共にして、それから自己紹介だなんて、妙な心地だ。照れくさいような、擽ったいような。必要以上に頷きながら言った私を見上げ、彼は何故かほっとしたように笑んだ。

「ミホ殿……、うむ、良い名だ」

「……………………」

 喉まで出かかった。出かかったけども飲み込んだ、否、まだ喉元で往生際悪くじたばたしている。

 どのって。

 美穂殿って。

 一瞬誰を呼んだのかと思った。いや私しか居ないから私なんだけど、こう、一回じゃ認識できなかったと言うか。自分の名前だと思えなかったと言うか。いやいや殿って。武士か。え、なにこれツッコミ待ち? 武士かっていうツッコミ待ってんの? 別世界ジョーク?

「ああそれと、私の事はフェルと呼んでくれ」

 ええええすんごい普通に会話進めたぞおい。寧ろちょっと嬉しそうだぞおい。て言うか今突っ込む部分増えたよね? お前が呼び方云々言うんかい! って、私これ言うべき? え、天然?

「………………」

「?」

 駄目だ判らない……!

 見つめてみたが、ん? という顔をされただけだ。真面目な印象からすると天然ぽいが……しかしひょっとするとひょっとするかもしれない。ここはひとつ、探る感じでいくか。


「えっとー、じゃー、フェルさん?」

「ああ、そっちの方が馴染み深い」

 天然だったか。彼の表情が少し柔らぎ、安堵を表している。その気持ちは、何だか判る気がした。

 私も、まだ右も左も判らぬ頃、電話で母に名前で呼ばれる度、ほっとした。初めて同僚に呼ばれた時、認められたような気になった。不安定な足場が、しっかりしたような。今の己を、確立できたような。そういう、安堵。

「そう、呼ばれてたんですか?」

「親しい者にはな」

「……………」

「?」

 息を吸い込んだら、言える言葉がないのに気が付いた。口を開いたままの私を、フェルアラッツさんもとい、フェルさんが不思議そうに見上げている。

 親しい者――家族とか? そんな質問は、安易にしていい筈がなかった。

 なんて言えばいいのか。長い名前だからかなんて、密かに思っていたのがちょっと恥ずかしい。結局、誤魔化すように、へらりと笑った。

「もう使い方は判りますよね。着替えとバスタオル、用意しておきます」

 バスタオルが何か判らないかも、なんてそんな事微塵も思わず、さっさと浴室の扉を閉めた。ありがとう、扉向こうの声に眉が寄った。

 訊くべき、なのかもしれない。家族の事、友人知人、対人関係。そこに解決の糸口がないとは言い切れない。でも――

 シャワーの湯が床を叩いている。

 私は買ったばかりの着替えを取りに、部屋へ戻った。



◆◇◆



「どうでしたー? サイズ合いま……」

 服のタグを切っていたところに、ガラリと引き戸が開く音がして、声を掛けながら、チョキン、切った後に振り向いて。

「サイズ?」

 言葉を失った。


「何か、変だろうか?」

「……………………」

 口を半分開いたまま、ふるりふるりと首を左右に振る。部屋に入った所で止まったフェルさんは、落ち着かない様子で服の裾を引っ張ったり、足踏みしたり。

 どうしよう。着る物が違うと、また雰囲気が変わると言うか。顔立ちは綺麗な方だと、私の見立てはそうだった。それは、そう、男前さんに違いない。

「フェル、さん、て………」

「え?」

 でも私は見解を少し改めなければ。長身は、足の長さ故か。黒いチノパンを履いた彼の、腰の高さが半端じゃない。カーキ色のTシャツから逞しくしなやかな腕が伸びている。すっごい、スタイルいい、んですけど、この人。

「足なっが!」

「はっ? え?」

「凄いですね。モデル並みの体型してますよ。うわー足ながー。腰たかー。あ、私の隣に立たないでくださいね」

「えっ」

 びくりと震えた彼に、あは、と笑う。

「嘘です。とっても似合ってますよ」

「…………そう、そうか」

 照れたのか、彼は湿ったままの頭を無造作に弄る。

「お昼にしましょうか」

「ん、……うん、そうだな」

 彼の小さな微笑み。うん、すまなそうな顔されるより、こっちの方がいい。


 向かい合って座ってから、ビニールの袋をがさがさ言わせ出したサンドイッチは、あっという間にテーブルを埋め尽くした。ちょっと、買い過ぎたかもしれない。それを見たフェルさんが漏らした。

「これは……」

 何故か真剣な表情で、そのまま私に視線を移す。


「あ、これも、見たことありません?」

「いや……、」

 彼が小さく頭を振る。それから躊躇うように目を逸らした。

「今朝のものより、見慣れたものだ。正直、今朝のは……その、名称も良く判らなかった」

 忘れてって言ったのに!

 気まずさから私の視線も逸れる。

「すみません……」

「あっ、いや違うんだ、そういう意味ではなく! あの、麦のような白い物、私は見たことが無くてだな」

 麦のような白い物?

「お米、のことですか?」

「オコメ? と言うのか」

「え、お米見たこと無いんですか」

 頷かれる。まじすか。


「でも、普通に食べてましたよね」

「実は、少々怖かった。しかし貴女は口に入れていたからな」

「え、先に食べたのフェルさんですよ」

「いや調理場で」

「調理場で?」

 えー、と小さく漏らしながら記憶を巻き戻す。

 あ、そう言えば私チンした後ご飯一つまみしたっけ。って、えっ、見られてた!? う、うわ、別に大したことじゃないんだろうけど……なんでかちょっと恥ずかしい。だからそれを誤魔化すように笑った。


「私は、どっちかて言うとあっちが主食です。フェルさんはパンが主食なんですか?」

「と言うか、麦が主食だ」

「じゃあ、今度から朝はパンにしましょうか」

 軽く言ってから、結構良い提案だと思った。フェルさんは三食パンの方がいいのかもしれないが、私だってお米を食べたい。ならこれくらいがフェアだろう。

 けれどフェルさんは、黙り込んでしまった。戸惑ったように、視線がうろついている。


「フェルさん?」

「貴女は……裕福、なのか?」

「は?」

 また予想外の言葉が飛び出してきて、反応出来なかった。ぽかんとする私に、フェルさんは困ったように眉を下げた。

「最初は、家の規模を見る限り、一般的階級民なのかと思ったのだが……あの貯蔵庫や、たったひと手間で湯を出せる装置など、かなりの技術力が此処にはある。それに……」

 フェルさんはテーブルの上に視線を巡らせる。


「いかほど散財したのか。こんな量、祝いの席でもなかろうに」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 どうもおかしい。


「裕福って、私が? 金持ちってことですか?」

 そうだと言わんばかりに頷かれ、慌てて首と手を横に振る。

「いやいやいやいや、全然、金持ちなんてそんな、私は普通の暮らししかしてませんよ」

「……そう、なのか?」

「はい。確かに、これはちょっと買い過ぎかなーと思いましたけど、でも、そんな大してお金かかってないし」

「大してかかってない? これで?」

「はい」

 昨夜から、これは繰り返し行われている。私にとっての当たり前が、彼の当たり前でない。彼の当たり前が、私には通じない。

 二人でサンドイッチをお互いを見比べて。


「どうして、そう思ったか、訊いても?」

 フェルさんは難しい顔をしている。

「私の国は土地柄、あまり作物が育たない。だから穀物はとても貴重なんだ」

 ああ、と声を出さず頷いた。なるほど、それなら納得がいく。価値が違うのだ。恐らく。このサンドイッチ一枚の価値が。


「大丈夫ですよ。そういう心配はしなくても大丈夫です」

 物が豊富だと、誰かが何処かで言っていた。今の時代は、物が溢れていると。

 私にはそれが当たり前だ。では、当たり前ではない場合って、どんなだろう。


「貴女が、ではないんだな」

「え?」

 ふと、彼が瞳を伏せた。何が、訊きたかったそれは、小さな微笑みと共に返ってきた。

「この国は、豊かなのだな」

 落ち着き払った声。

 そっと上がった口角。

 伏せた睫毛に遮られた瞳。

 彼を見ていても、彼が何を思っているのかは、判らなかった。

 土地に恵まれていないと言っていたから、羨ましいのか。比べて劣ることが、悲しいのか。国を思い出したら、淋しくなったのか。

 彼がそれらを感じさせないから余計に……――


「いただきます」

 ぱん、と私が手を合わせた音に、フェルさんが視線を上げた。それに構わずビッとサンドイッチを開封する。噛り付く。うん、んまい。もう一度口に、今度はくわえたまま、箱詰めのサンドイッチを開けて。

「ん」

「え」

「ん!」

 フェルさんに向かって差し出す。小さく狼狽した彼に、再度ずずいと近付けると、戸惑いがちに受け取った。


「食べましょう」

 言って、私は食事を再開した。黙々と。呆れたのかなんなのか、暫く私を見つめていたフェルさんだったが、一つ手に取り、あぐ、と噛り付いた。

 その様子をこっそり眺める。あ、穏やかフェイス。

 咀嚼していた彼が、ほっとしたように表情を和らげた。それからは、勢いよく頬張っては、サンドイッチが消えていく。うむ、良い食べっぷりだ。美味しかったのだろうと思ったら、何故だかちょっとだけ、嬉しくなった。


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