第1話 悪役令嬢でもよかった
デスクの上で、スマホが執拗に震え続けている。
ブブブッ、ブブブッ――。
「……もしもし」
「聡子、学生ローンの返済はどうなったの」
出た瞬間にそこか、と思う。
「今月は……こう、キャッシュフローに凪というか、波があって」
「毎回、津波のあとの干潮みたいなこと言ってるじゃない。仕事、ちゃんとやってるの?」
「やってるよ。脆弱性を見つけて、ネットで“鍵、開いてますよ”って知らせる側」
「それ、実質的に空き巣の下見と何が違うの?」
母の理解は今日も雑だった。
母から博士課程時代の話が出ると、さすがに口が止まる。
共同研究。成果の横取り。あのへんは、思い出すとまだ普通に痛い。
「で、その件を引きずって、研究室やめて、いまは帽子とマスクでコンビニ行ってるの?」
「ごはんは?」
「……後でコンビニ行く」
電話の向こうで、母が深く、重い溜息をついた。
その音だけで、だいたい言いたいことは伝わる。
「聡子。難しいことばっかり考えてると、簡単なことから壊れるの。ごはん食べる。ちゃんと寝る。外に出かける。それくらいはしなさい」
「じゃあ切るわよ。コンビニ弁当でもいいから、野菜の入ったやつを選びなさいね」
ツーツーという無機質な切断音。
「……野菜入り、ね」
昨日の冷めきったコーヒーに口をつけ、ひと口でやめた。
まずい。
モニタ画面の端には、見飽きた見出しが並んでいた。
『創始者アドレスの再注目。』
『S. Nakajoとは誰か。』
返済のことを考えると、モニタの端の暗号化フォルダにどうしても目が吸われる。
あれを開いて動かした瞬間、世界中の市場が面倒くさいことになる。
学生ローンの引き落としひとつで胃を痛めている人間には、だいぶ悪趣味な誘惑だった。
でも、自分でそこに手を突っ込む気にはなれない。
あれでよかったんだと、まだ思っていたい。ほんとに。
「……馬鹿みたい」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
ぐう。
腹の虫が鳴った。
顔を上げると、窓の外はもう暗闇に沈んでいる。
「うわ、もう出ないと。野菜……野菜を摂らねば」
「簡単なこと」を修復するため、よれよれのパーカーに腕を通した。
帽子を深く被り、マスクを装着して、ようやく立ち上がろうとした――その時。
ビー、ビー、ビー。
けたたましい警告音が、静かな部屋に鳴り響いた。
画面が真っ赤に点滅している。
【侵入を検知しました。自動封鎖を開始します】
【報復パッケージ送信済み】
「えっ」
慌てて椅子に戻る。
ここまで固めた環境に、無理やり触ろうとした相手がいる。
向こうは今、自分たちのシステムが壊れたことにも気づいたはず。
その瞬間、スマホが震えた。
非通知の着信のあと、一通のSMS。
『We know it's you.』
見た瞬間、体中の血が引いた。
バレた?
反射で部屋を見る。
モニタ。昨日のコーヒー。ルータのランプ。
いつものゴミみたいな部屋だ。なのに急に、全部が証拠品っぽく見える。
「……これ、まずいかも」
ぐう。
ほんと今じゃない。
財布と予備のスマホだけを掴み、私は部屋を飛び出した。
外に出ると、夜の空気は刺すように冷たい。
とにかく交番か、人の多い通りへ出ないと。
角を曲がろうとしたその時、一台の黒いSUVが静かに道を塞いだ。
こんな車、このあたりでは浮く。
目を逸らして通り過ぎようとした瞬間、助手席の窓が下がり、見覚えのない男の顔が覗いた。
「中条聡子さん――」
『We know it’s you.』
さっきの文字が脳裏に焼きついたまま、心臓が跳ねる。
踵を返して車道へ飛び出す。
後ろで、待ってくれ、と何か叫ぶ声がした。
その直後、クラクションが夜気を裂いた。
振り向くより先に、横合いから衝撃が来た。
腰の横をさらわれ、肺から空気がすべて押し出される。
視界が跳ね、頬が硬い路面に打ちつけられる。
遠くで誰かが叫んでいる。
「救急車を呼べ!」
にじむ視界の向こうで、さっきの男の顔が見えた。
思っていたよりずっと切迫していて、ひどく心配そうだった。
その直後、閉じたまぶたの裏で金色の文字列が爆速でスクロールした。
――本人署名を確認
――残高接続先をア**リ*世界へ切替
――通貨変換処理を開始します……
そのあと、ギリシャの女神像みたいな誰かが、場違いなくらい丁寧に頭を下げた気がした。
いや、なんで。
声が出たかどうかもわからないまま、足元が消えた。
次の瞬間、冷たい夜気が消える。
アスファルトのざらつきも消える。
目を開けると、そこは巨大な石造りの広間だった。
神殿っぽい。やたら広いし、やたら響く。
さっきまで車に撥ねられていたはずなのに、痛みがない。
それはそれで、別方向に怖い。
「……生きてる、よね」
声がやけに響いた。
正面に石板があった。
表面は妙にきれいで、そこだけ新しいみたいに見える。
その前に、薄い金色の見たことがない文字が浮いていた。
【初回接続を確認しました】
【現地残高を照会します】
【利用者識別:UID-0】
「なにこれ。……読めるんだけど」
そう思っている間にも、石の表面にまた一行、文字が増えた。
――初回使用可能残高:........0
私はそれを見て、力が抜けた。
「……え、少な」
◆
まず扉を探そう。
壁沿いを回ってようやく見つけた両開きの扉は、押しても引いてもびくともしなかった。
叩いても、呼んでも、返事はない。
頭に浮かんだのは『餓死』の二文字だった。
いや待って、それはだいぶ嫌だ。
うずくまっていた時、重い音がして扉が開いた。
――ごとり。
「……開いた」
その光に視界が滲んだ。
立ち上がるより先に足がもつれ、それでも四つん這いで扉へ向かう。
そこにいたのは、白い衣に鍵束を下げた老人だった。
「よかった……!」
私はそのまま、反射的に老人の足にしがみついた。
声がひっくり返る。
涙に混じって、鼻水まで出た。
「あ、開けてくれて、ありがとうございます……っ」
「ひっ、ひぃぃ!」
老人が、システムエラーみたいな悲鳴を上げた。
次の瞬間、私を見下ろす顔が激しく引きつる。
「ぬ、盗人だ! 記録石室に盗人が出たぞォ!」
「え」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃのまま、たぶん私はひどく情けない顔で固まった。
「誰か来い! 警備! 早く来い! 」
「いや、盗んでないです。閉じ込められてただけで……助けてもらえたのかと思って」
「おかしいぞこいつ!」
すぐにガシャンガシャンと鎧の音が近づいてきて、私は屈強な男たちに引き剥がされた。両脇を抱えられて運ばれていくあいだも、状況だけが順調に悪化していく。
引きずられながら「中世風の異世界かな」と考えていた時点で、たぶん私の正気はあまり当てにならない。
もう少し普通は取り乱す場面では。
通されたのは殺風景な取調室だった。
向かいに座った男が、水を出した。
一瞬だけ警戒したが、喉の渇きがもうそういう段階ではなかった。
そう判断して、一気に飲み干す。
死ぬほど美味しい。
「で、どうやって記録石室に入った」
「わからないです。気づいたら、あそこにいて……」
「……」
「共犯者は」
「共犯者はいません」
「……盗人の言い訳にしては、妙に堂々としているな」
「盗人じゃないです。閉じ込められてただけで……助かったと思ったんです」
警備の人たちが無言になった。
しばらくして、今度は金糸の入った衣を着た神官が現れた。
目が笑っていない。
彼は机の上に掌サイズの白い板と、小さな黒い石を置く。
「魂紋照合を行う」
指示されるまま白い板に手を置くと、淡い光と一緒に幾何学的な線が浮かび上がった。
「魂紋の照合。一致あり」
神官は金属板を見て眉をしかめた。
「本人登録なし」
警備兵が慌てて聞き返した。
「どういうことです?」
「魂紋は一致した。だが、本人登録がない以上、お前の身元はわからん」
どうやら私は、この世界のシステム上「存在しない登録ユーザー」らしい。
「どちらにせよ、大神殿への侵入は重罪だ。石室侵入は神殿規約で二十年の強制労働。もしくは五十万刻の罰納だ」
まるで交通違反の青切符みたいだ。
いや、ぜんぜん軽くないけど。
「魂紋は一致した。だが本人登録がない。お前はこの国の記録に存在しない」
「契約も取引もできん。よって、罰納も本来は通らぬ」
終わった。私の異世界人生。
悪役令嬢でもよかった。恋愛ゲームの世界に行きたかった。
せめて破滅は、もう少し華やかなものがよかった。
そう思って顔を上げた拍子に、指先が黒い石に触れた。
――かちり。
小気味よい音がした。
次の瞬間、部屋の中央に薄い光の文字がポップアップした。
【支払いを確認しました】
【金額:500,000 刻】
【決済完了】
「……え?」
顔を上げると、神官の顔からは血の気が失せ、警備兵は机に身を乗り出して文字を二度見、三度見している。
「できた……?」
でも、誰もその問いには答えられなかった。
理由はわからないけど、とりあえず私は今日中の終了は免れたらしい。
そう思った途端、ようやく息が戻った。
◆
「……それで。私はどうなるんですか。ここから出られないんですか?」
神官は分厚い書類から目を離さないまま答えた。
「罰納は済んだ。だから罪人ではない」
「それなら、出て行ってもいいですか?」
「本人台帳に記録がない以上、そうもいかん」
「魂紋は合ってたんでしょう?」
正直、魂紋が何なのかはまだよくわかってないけど、さっきから繰り返し出てくるから、こっちもその言葉を使うしかない。
神官がようやく顔を上げた。視線は冷たい。
「この国では、台帳に名があり、魂紋が一致して、ようやく本人と認められる。契約も取引もそれからだ」
「……つまり私は、私であることは確かでも、この社会の中にはいないってこと?」
「そういうことだ」
うん、この世界の人間じゃないのだから、理屈としては合ってる。
現金がなく電子決済しかない国で、身分証だけ置いてこられたようなものらしい。
だいぶ詰み方が現代的だ。
「だから、神殿としても記録を調べる必要がある。今日はここで過ごしてもらう」
「だが、明日には解放だ」
明日には出されるらしい。
保護というより、一晩だけ置いとく感じなのだろう。
「レティシア。案内してくれ」
私は小さく息をついて、案内役のあとを追った。
レティシアと呼ばれた小柄な女は、かわいい顔立ちなのに、近づくと面倒そうだった。
明るすぎない栗色の髪をきっちりまとめ、薄い琥珀色の目は、笑っていても相手を値踏みしているように見えた。
レティシアが立ち止まったのは、廊下の突き当たり、明らかに日当たりの悪そうな部屋の前だった。
「こちらが今夜お使いいただけるお部屋でございます」
「待って。ここまで来る間に、もっとちゃんとした客室をかなり通り過ぎた気がするんだけど」
「お客様は『正式な手続き』を経ていらっしゃいませんので。こちらで十分かと存じます」
この子、表情も言葉もきれいに整っている。
ただ、親切というより、きちんと仕事をしている感じが強い。
研究室にもいたな、こういう人。丁寧だけど、たぶん簡単には甘くならないタイプ。
私は、扉を開けた。……狭い。見たままの感想は――
「これ、客室というより、とりあえず閉じ込めておくための部屋に見えるんだけど……」
窓もなくて、妙にカビ臭い。
「一晩お休みになるだけでしたら、十分かと存じます」
その『十分』を決めているのが私じゃない時点で、なかなかつらい。
ぐう。
腹の虫が鳴った。
そこでようやく気づいた。
あの神官、食事と湯の話を一言もしていない。
「寝るだけ……? 食事と湯あみは、なし?」
「……」
その瞬間、むかつくというより、線がつながった。
あの神官、顔は覚えた。
人を人として見るのが、あまり得意ではなさそうだった。
「十分、ね。……私、その言い方あまり好きじゃないの。上の部屋、見せてもらえる?」
レティシアの笑顔がぴたりと止まった。
「ございますが……そちらは通常のお代を頂戴いたします。かなりの額になりますよ?」
「いいよ。見せてもらえる?」
レティシアは一度だけ、ちゃんとこっちを見た。
たぶん、払えるかと、手間をかける価値があるかを一度に見ている。
正しいけど、感じはよくない。
「かしこまりました。では、ほかのお部屋もご覧いただきます」
「うん、お願い」
廊下を戻って、いくつか部屋を見せられたあと、最上階の角部屋でレティシアが扉を開けた。
広い。天蓋付きのベッド、広い湯殿、そして街を一望できる窓。さっきの部屋より、ずっとましだった。
「……こちらは、最上級客室でございます」
「ここにするよ」
「ですから、お代が――」
レティシアが持つ勘定石に表示された金額を見る。
三千刻。
さっき罰納を払えた時点で、少しおかしいと思っていた。
だから、わざと最上級の部屋を選んだ。確認のため。
「たぶん払えるって。三千刻でしょ」
レティシアはまだ疑っている顔のまま、勘定石を差し出した。
私が指を触れると、少し間があって、淡い光が走った。
残高がゼロなわけじゃない。
ただ、まともな桁で見えていないだけらしい。
――よかった。読みは当たった。
レティシアの目がはっきり開いた。
「……っ。失礼いたしました、サトコ様! すぐに湯殿とお食事の用意を整えさせます!」
ついさっきまで、閉じ込めておく部屋で十分だと言われていた。
それが今は最上級客室だ。
なるほど。
この世界、まずは金で殴れば話を聞く。
だったら、話は早い。
1話を読んでいただき、ありがとうございました。




